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2017.03.25 Saturday

N.T.ライト著上沼昌雄訳 『クリスチャンであるとは』 その46

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    今日も、たらたらと、『クリスチャンであるとは』を読んで思ったことを書いてみたい。本当は『シンプリー・ジーザス』も出版されているので、そちらのご紹介もしたいのはやまやまだし、『シンプリー・ジーザス』はめちゃくちゃ面白いので、ぜひご紹介したいところである。近日中にまず全貌についての記事を書いて、同書をご紹介したいと思っている。

     

    それでは、気を取り直して、今日も『クリスチャンであるとは』のなかの、聖書についての部分について、ライトさんの記述からご紹介してみたい。

     

    古典学文献の中での聖書テキストの特殊性

    もともと、一介の技術屋にすぎないので、古典学の知識はほとんどない。日本人だが、日本の古典文学は高校生時代の鬼門であったし、西洋古典も大学生になって日本語で拾い読みして、読んだ程度の知識しかないが、ここでライトさんが書いておられることについて少し思いを巡らせてみたい。

    強調すべきことは、新約聖書本文に関する証拠は、どの古代文書の証拠とも全く異なるという点である。ギリシャの有名な著作家であるプラトン、ソポクレス、そしてホメロスの文書でさえも、ほんの一握りの写本が知られているに過ぎない。
    (中略)
    それに引き換え新約聖書に含まれる書のある部分、またはまるまるすべてについては、文字通り何百という初期の写本が残っている。それらを研究することは比較にならないほど聖書本文の信頼性を高める。すなわち、写本にある僅かなことばの違いから、原典がどうだったかを極めることが可能なのだ。(『クリスチャンであるとは』 pp.252-253)

     

    聖書の写本は多いし、古代人(初期キリスト教時代)のキリスト者の手紙の中にも、新約聖書の記述が部分的に引用されているものが大量に残っているという意味で、そこからだけでも、もともとの記述をある程度推測可能であるのが、聖書記述である、ということらしい。要するに、プログラムなんかでも、コードの断片から、その昔のプログラマが書いた元のコードを再現してみることを時にしてほしい、ご依頼などがあり、そうすると、断片的なプリントアウトされたコードから、再現しなければいけないことがある。まぁ、ある程度、何をやっているのかがわかると再現できることは多い。とはいえ、こんな依頼が来た日には、ドキュメントを残してない元開発者を「責任者出てこい」と人生幸路師匠のように叫びながら、召喚したくなることが多い。まぁ、召喚したところで、大体最初のコードを書いた本人もうろ覚えなので、こんな依頼が来た日には、仕様を固めていただいて、一からコードを書き直させてください、とお願いすることにしている。

     

     

    大体、昔のコードをそのまま動かそうなんて、そもそも、非常にめんどくさすぎる。そういえば、昨年末、10年以上前にミーちゃんはーちゃんが作成したコードのプリントアウトを学生が持ってきた。そのプログラムのリストは、同僚が、自己理解で、コメントをむちゃくちゃに書き替えた形跡のあるマクロ言語で書いたプログラムコードであった。そのコードのリストを、ある学生が持ってきて、「書いてある通り打ち込んだけど動かないんです」(昔の雑誌マイコンベーシック時代とかの世界ではないけど)と、苦情をつけてきたので、ロジック説明して、「自分でコード書いたら?」とご忠告申し上げたけど、結局、そのコードをそのまま流用した模様である。「半角、全角気をつけてね、カンマとコメント、そしてコメント行には注意しようね」と知恵をつけたら、それでうまくいったみたいである。

     

    プログラムコードが乗っていた時代のマイコンベーシックマガジン
    (昔は雑誌に書いてあるコードを必死で打ち込んだものだった)
    画像は、http://soratobucan.blog60.fc2.com/blog-date-20090329.htmlから 

     

    結局、そのマクロ言語によるプログラムが動かない原因は、半角スペースを使うべきところに全角スペースを同僚が入れてしまったために動かなかったという、ウソのような本当の話であった。プログラムコードの、半角全角スペースの違いは、言語形態によっては致命傷なのである。

     

    余談に行ったので、本論に戻すと、現代のデジタル時代でも、先にも述べた10年前のプログラムのように、プログラムなどのものは流用されるときに、全角、半角、カンマとピリオドなどのミスによって混乱で動かない状況が生じるのだが、デジタル技術、複製技術が限られる世界で、新約聖書に関しては、幾つかの誤りを含む複製から原本が復元できるということ自体、実際には驚くべきことだと、技術者としては思う。まぁ、それは自然言語の柔軟さ、というようなこともあるのだろうけれども。計算機はもともとが石頭なので、これぐらい許してくれよぉん、と思いながらも、その石頭に付き合っていることも多い。

     

    このあたりの新約聖書の古代写本にまつわることは、伊藤明夫先生の『新約聖書よもやま話』に面白おかしく(でも学問的な根拠をもって)、いろいろ書いてあるので、そちらを参考にしてほしい。

     

    聖書が成立する過程

    最近のことが、あまりに普通に当然と思っていて、古代のことどころか、明治のころのことぐらいでも分からなくなっている例はたくさんある。

     

    たとえば、つい現代人は、明治のころにも今の日本人が食べている白ご飯と同じような白ご飯を食べていると思っているかもしれないし、コメはコメだろうという人もいるが、そうではないのである。多くは、明治後半から昭和時代、ある場合は平成時代に開発されたのが現代のコメの品種なのである。サツマイモだって、品種改良が進んでいるのである。

     

    あるいは、明治のころから現在のような平かな漢字交じり文で日本語が書かれていたと思う人がいるかもしれないが、明治初年のころは、カタカナ漢字交じり文であったのであり、現代の基準は、ちょっと前の時代にすらあてはめられないのである。

     

     

    最近何となく聞かされることの多い教育勅語の最後の部分 (しかし、張り紙で修正してあるあたりが…)

    http://www.archives.go.jp/exhibition/digital/modean_state/contents/education/photo/saikasho/imgs/i_pop01.jpg より

     

    権威ある文書リストの確定を教会に迫ったのは、今日言われるように、社会的、政治的に受け入れ可能な神学を提示したいからではなかった。確定のための神学論争は、断続的にではあるが、激しい迫害を受けていた間になされた。(同書 p.253)

     

    ここで、重要だなぁ、と思うのは、生存に必死にならなければならないほどの、激しい迫害を受けていた時代に、正典論争がなされ、その中で、新約聖書27巻の書物の確定がなされたという、ライトさんが指摘しておられる事実である。聖書学では当たり前のことであるらしいけど。

     

    その意味で、命からがら状態で、逃げまわりながらも、必死で写本を残そうと努力し、たくさんのコピー(写本)を命からがら、自筆で手書きコピーしまくりんぐ、を当時の人々は、していたのである。今、街の本屋に行けば、聖書は、それも日本語化されたものがすぐに手に入るし、小学校や中学校の校門のところで聖書を配布すれば、その日のクラスのごみ箱が聖書であふれる世界に我々は住んでいる以上、当時のキリスト者たちの必死さは、なかなか理解できないように思う。そもそも論として、文字化される聖書テキストが羊皮紙という当時の超高級品に筆写されていく以上、聖書は、そんなカジュアルな感じで扱うようなものではなかったことだけは確かのようである。

     

    聖書翻訳について

    先にも少し触れたが、今では聖書といえば、翻訳聖書がまずイメージされるようになった。情報へのアクセスという意味では、印刷技術の進展と、その後に生まれた情報技術の進展で、玉石混交状態とはいえ、この社会の中にある情報量とそのエントロピーは爆発的に増加したし、検索エンジンの存在により、情報へのアクセシビリティは飛躍的に向上したのである。

     

     

    その意味では、インテリゲンちゃんにはつらい時代ではある。昔であれば、どの文書のどこに、どんな表現で書いてあるというのは、以前ならば、その本を読みこなし、その本にじっくり取り組んだ人しか知らない情報だったのが、今は適切に近い検索語をGoogle先生のサイトでぶち込めば、Google先生がBotと呼ばれるサイバー空間上をしらみつぶしに調べて回る電子空間上のロボットを駆使して、調べてくれる。その結果、今では「忘れられる権利」という語ができるほど、Bot君は頑張っているのである。

     

    教会史上、東方教会は聖書をギリシャ語で読み、西方教会はラテン語で読んできた。16世紀の宗教改革の偉大なスローガンの一つは、聖書はすべての国民に対し、自国の言語で提供されるべきだ、というものだった。それは今日、すべてのキリスト教世界で一般的に認めらている原則である。この聖書翻訳のうねりは、十六世紀、とくにドイツの宗教改革者マルティン・ルターと、イギリスのウィリアム・ティンデルがもたらした。そして1611年、英語圏で、欽定訳(「キング・ジェームス版」)聖書が採用されたことで、その流れは十七世紀の終わりまでに落ち着いた。(同書 p.254)

     

    翻訳されて、自分の身近な言語で読めるのは、ありがたいといえばありがたいが、ただ、それは聖書理解にバイアスが生じかねない、という側面をも持つのではないだろうか。古代語の意味を現代の別の言語による再現は、厳密な意味では、不可能であろう、と思う。現代の語であっても、単語、名詞ですら、人によって、地域によって、ある具体的な対象を指す語が違うからである。極端な例が、日本では出世魚であろう。なお、聖書には、出世魚は出てこない。

     

     

     

    出世魚の関西および関東での呼び方の違い

    画像は http://www.padi.co.jp/visitors/column/sakana_7.asp から

     

    アラビア語では、これは、鱗のある魚というごで翻訳するのがせいぜいだろうが、逆に、アラビア語では、ラクダを表す言葉には数種類あり、日本では、ラクダは雌雄ともにラクダという語しかなく、オスとかメスとか、おとなしい、といった形容詞をつける事はあっても、オスのラクダとかメスのラクダを、それぞれ一語で表す語などはないのである。

     

    言語の基本となる単語ですら、このような状況ならば、翻訳されたものとは、ある意味で近似でしかない、と言っても過言ではないかもしれない。ただ、近似だからと言って意味がないわけではない、

     

    近似であると思って、自分の理解の助けに翻訳聖書を使うのと、それは翻訳聖書でも額面通り、全く誤りを含まない神の言葉だ、神の言葉そのものだ、と思って翻訳聖書を用いるのとでは、かなり違うように思うのである。

     

    アメリカにいたとき、N.I.V. を使っていた教会で、そこのPastorがふざけて、「N.I.V.は、聖別された聖書翻訳であるから、みなさんも、ぜひこのバージョンの聖書をお使いいただいて・・・」といって、笑いを取っていたことを懐かしく思い出す。

     

    ところで、聖書の言葉と日本語との関係については、岩波書店から出ている鈴木範久先生の名著『聖書の日本語』という名著があり、翻訳聖書が持つ問題などにご関心がある向きには、そちらをご覧になるとよいだろう。一応、日本語の聖書翻訳については、入門レベルとして適切な書籍ではないか、と思う。

     

    あと、聖書翻訳者であるウィリアム・ティンダルに関しては、非常に煩雑で、読みづらいとさえいえるほどの翻訳者註のついた『ウィリアム・ティンデル』という訳書もあるし、福音派的な聖書理解の問題にも少し関係する『捏造された聖書』という誤訳に近い邦題の付けられた書籍もある。ライトさんの著作でいえば、新約聖書をどう読むのか、に関しては、このブログでも、ちょっと前まで紹介していた『新約聖書と神の民』なども、非常に面白い。

     

    ところで、「信仰の書」としての聖書という側面もあるので、すべての聖書について書いた本に書いてあることに、同意はできないし、無理に同意する必要はないとは思うが、このあたり、自分自身の聖書理解を少し引いた立場から、いわゆるメタレベルから、なんとなく見ておくと、それはそれで楽しめると思う。まぁ、そういうことを楽しめない方は、無理してまで楽しむ必要はないので、今のお考えで、よろしいかと思う。より具体的には、「聖書はまったくもって正しい」というご主張をあえて変える必要もないだろう。「正しい」とはどういう意味か、ということもいい加減にしたまま。あるいは、「聖書に何でも答えがある」というようなお考えもまた、それは、それでよろしいのではないか、と思う。ただ、ミーちゃんはーちゃんの生き方とは違うだけではある、ということだけは申し上げておく。

     

    どうせ、何が正しいのかは、人間が集合的に決めたところで(いわゆる”科学的な、間主観的な対話による手法”で議論したところで)、本当のところは絶対にわからないのであって、基本、科学の世界で、妥当である(あるいは正しい)としていることだって、当面の議論を進めるうえでの合意事項として、互いに承認しているにすぎない仮説とか公理とか、定理の域を出ないのだろうと思っている。これらのものは、想定する世界とその前提が変わると、割とあっさり変わるものなのであり、ある前提の世界では安定的であるとはいえ、別の世界では、その”真理”と呼ばれるものが成立しないということは非常に多い。あまりこの種の科学の世界のことがお得意とはいいかねるような文系の方々が思うほど、科学の世界では、安定的で、万代不易なるものではないように思うのである。

     

    次回へと続く

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

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