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2017.03.22 Wednesday

大阪ハリストス正教会での講演会に参加してきた(異様に長いので閲覧注意)

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    今日は大阪ハリストス正教会で行われた春季セミナーで、ワシリイ 杉村太郎司祭がお話になられた講演会 「救いとしてのテオシス」というご講演の記録と、神戸外国語大学の清水俊行先生の「『聖人伝』を読もう、祈ろう、生きよう」というご講演の速記録から起こしたポイントをまとめたものを書いたいと思う。本日は、結構むちゃくちゃ長めであるので、面倒な方はお読み飛ばしいただきたい。

     

     

    当日会場となった大阪ハリストス正教会のご聖堂


    当日、会場でタイプを打ちながら、採録したメモをもとにしているので、当記事に纏わる誤りや誤解はすべて、要約者のミーちゃんはーちゃんによるものである。

     

     

    テオシスって何?
    まず、ワシリイ杉村司祭のお話からまとめてみる。ギリシア語のテオシスは、

     

    θέωσις,(ギリシア語表記)
    Theosis Deification (英語表記)
    神化(神秘主義) 神成(日本語表記)

    とさまざまに表記されるが、一般に、「神化」という語が独り歩きしているように思われる。更に神秘主義と表記されることで、ややこしい問題が生まれかねない。テオシスがとてつもない修行をした結果、日常生活から遠い存在、無関係なものとして理解されている傾向があるように思われる。その意味で、これらの誤解は、「神化」という語が独り歩きした結果であろうと思われる。

     

    「神成」という表記は、正教会固有の用語であり、これもそのままの文字を見た場合、誤解を招きかねない概念を含みやすく、実際に誤って用いられることもある。


    まずは、聖書及び聖師父から理解を進めていくことが重要で、ある面、聖書全部がテオシスのためのものだとも言える。聖書を読むということが、そもそもテオシスの中に巻き込まれていくということである。

     

    確かに、聖書の中にテオシスという語はないが 聖イリネイが正教会的伝統で、はじめて、テオシスを用いている。

     

    テオシスとは何か
    共通するテオシスの側面についてふれてみると、神の教育的配慮と人間の成長であり、これらが一つのキーワードであるといえよう。


    聖書を通して、正教会の祈祷文を通して出会う神は、抽象的、概念的な神ではなくて、我々が行きている歴史的世界の中に介入してくる神であるといえるだろう。この世界に介入してくる神が、聖書を通して、祈祷文(祈り)を通して示される神だといえよう。

     

    要約者註 

    ここでの、天(神の世界)と地(人間の世界)の関係は、N.T.ライトさんの『クリスチャンであるとは』で言う、選択肢<三>であり、天(神の世界)と地(人間が活動する世界)が嚙み合っているということなのだと思う。あるいは、その幕が薄くなり、天と地が交わる世界で実現すること、といってもよいと思った。

     

    教育という側面でいえば、祈り(要約者註 祈祷文)と機密(要約者註 教会での礼拝行為 痛悔と赦し、聖餐、祈祷・・・)を通して、神の教育的配慮(要約者註 人間が神との関係を回復するため、本来の神と語り合う存在としての人間の姿を回復するための教育)があり、その一つの手がかりとしての教会の存在とそこでの機密(要約者註 儀式と儀式を通しての生き方の見直し)と聖書があるといえよう。

     

    神に触れ、神のいのちに触れることとテオシス
    テオシスとは、神と出会い、神の生命に触れていくという二番目のテーマに触れていきたい。この中で重要なのは、神の像(ぞう)と神の肖(しょう)である。人は、神の像と肖によって創造されたという理解である。

     

    要約者註 この辺が正教会らしい理解であると思っている。この二つのものをある程度関連付けながら、分けて考えておられるらしい。この辺、聖化では厳密に分けて考えていない場合が多いような印象が、ミーちゃんはーちゃんにあり、この辺がウェスレー派的な聖化と正教会の伝統のテオシスとは違う、という理解につながるのかなぁ、と思った

     

    神の像と肖

    神の像とは何か。まず、像とは、像はそれだけで、それ一つだけでは存在せず(要約者註 というか意味をなさず)、必ず像には、その像が指し示すものがある。像は、何かの像であり、神の像(かたち)に作られたということは、神を表すために創造された、ということであろう。その意味で、人は神との関係の中で作られ、神に関係した存在として作られた。

     

    神の肖に作られた、とういことは、神と似た存在として作られたということであるものの、神のような存在ではない。ここが重要なポイントである。似た存在というよりは、似たものと成るような存在として創造された(要約者註 ここが、テオシスの根拠となるポイントではないだろうか、と思う)


    創世記の初めにあるように、徐々に似たようなものとして成るように被造されている。似たものとなるということは、全知全能なる聖三者(要約者註  三位一体の神)となるのではなく、神の関係性や神の性質を表現するものに成長していく、ということではないだろうか。

     

    人間の教育と人間の成長
    人間に対する教育的配慮は、神の性質に似たものと成るためのものであり、重要なのは、祈祷文と機密ではなく、その教科書としてそれらがあるのではない。そうではなくて、祈祷文と機密が何を教えるのか、祈りや機密を通して、何に与っているのかが重要なのである。教育はある方向性を与えるものであり、神は人間に対して、祈祷と機密によって、教育を与えてくれる。

    要約者註

    この辺、プロテスタントの人は、人を教育するのは、聖書のみなのではないのか、とすぐテモテ書を引用したくなるだろう。しかし、ここでの祈祷は、聖書全体を関係づけた成文祈祷であるし、機密は、神がこの地でなした聖書に描かれている内容の身体性を持って表現・体験可能にしたものであるので、聖書そのものと個人的には、どう違うのか、と思う。かえって、聖書のテキストを意図してないとはいえ誤読して、聖書から離れた主張が聖書の主張であるとして、ご主張される方のご主張が披露されることが時に起こることを考えていくとき、説教中心のプロテスタントに固有に発生しがちな問題もあるのではないか、と思った。いわゆるプロテスタントの説教にあたるものが、祈祷と機密であり、更に聖伝ないし聖人伝だと思う。

     

    見ず知らずの教会に行って、自分とは全く関係ない人物であるものの、その教会やその牧師が信仰を持つうえで重要な働きをしたかもしれない過去の人の貢献を講壇から聞かされることは、20数年前にその場所にいた信者さんや、あるいは、その牧師だけが聖人と認めた人物の聖人伝を語っていることにはなっていないだろうか、と思う。現代に生きていると思われる方の教会での苦労話を長々と拝聴するということをあるプロテスタント派の教会で実体験したことがあるので、今になって思えば、その牧師さんは、近代の教会の聖人伝を、説教として語ったに過ぎなかったのだろうなぁ、と思う。

     

    聖書を通して、祈祷文を通して遭遇する神
    聖書を通して、また、教会の祈祷文を通して、どのような神と出会っているかということであるが、その神は、癒しを与え、回復を与える神である。祈祷文や連祷を通して出会う神は、『生ける神』であり、我々の信じる神は、概念ではなく、生ける神であり、生命(いのち)を与える神なのである。

     

    神成(テオシス)ということは、誰かに超人的能力を与え、超能力者にしたりすることでもないし、ある人にだけ秘密の知識を与えたり、人に栄誉を与えるようなことではなく、神は人間に生命(いのち)を与える神であり、旧約から、新約聖書まで、生きている神が人間に手を差し伸べて、生きている神の証左が人間を通しても描かれているのがこの世界であると思う。このテオシスはある特別な人が起こすのではなく、難行苦行により起きるものでもない。

     

    聖書の中にその言葉が記載され、祈祷文の中で言及されている神は、すべての人に、生命への道を与える神であり、イイスス・ハリストス(要約者註 イエス・キリストのハリストス正教会的表現)を通してこの地に介入した神である。

     

    キリストが伝えようとしたもの
    ハリストスが伝えたものは何だろうか。イイスス(要約者註 イエス)の誕生から、十字架、復活にいたるまで民衆や人々との出会いがあることがわかるが、ハリストス(要約者註 キリスト)が伝えようとしたのは、何だったろうか。それは、「あなた方に新しい掟を授けるといわれた」ということであり、その掟とは、

     

     神を愛すること、隣人を愛すること

     

    であった。その意味でハリストスは、愛を教えたといえるだろう。そのことを受け、正教会では、祈祷文と機密を通して、愛を育てていくようにされている。それが、祈祷文の中に込められているメッセージであり、また、機密を通して高められていく方向性は愛といえるのではないだろうか。祈祷文と機密を介した教育で、愛が必要とされる、ということをしめしている。

    要約者註
    繰り返して言いたいことだが、伝統教派、正教会、カトリック、聖公会では、祈祷文だけであると誤解しているプロテスタントの方が多いが、実はそうではない。これらの伝統教派の教会での礼拝は聖書を中心で運営されているのであり、聖書が読まれており、その解説を兼ねたかたちで、個人の魂や心や精神や思いを神に向けることが、プロテスタントでは説教で行われる代わりに、祈祷文によって行われている印象があるように思う。祈祷文も基本的には、聖書の文言を中心に編まれており、聖書がその中心にあることは記憶しておいた方がよいように思う。

     

    愛によって何が連想されるか。皆さんは恋愛や男女の愛情、親子の愛情などのことを思われるかもしれないが、聖書の神の愛、ハリストスの愛はちょっと違うものであり、本来の愛であり、全てのものを包み込む愛である。

     

    成長や教育という語の中には、人間が応答するという意味、あるいは側面が含まれているのであるが、神成(テオシス)とは、神の呼びかけに対する人間の応答の結果であるといえるだろう。

     

    創世記の中の神の呼びかけ
    「あなたはどこにいるのか」という神の呼びかけは、アダムとエバの時からあり、すでにその時から、神は人間に対して呼びかけておられたのである。その呼びかけに応答するかどうかが、人間が成長していく上での機微をもつものであり、生命の道につながっていくか行かないかの微妙なところになっている。


    人間は、神から与えられた自由意志に基づいて その応答をするかどうかを決めるのである。ちょうど、学校で、教員の指示に対して、どう行動するかは生徒の自由意志によることと類似している。神を愛し、人を愛するという事は、人間の自由意志に委ねられているのであるものの、神の側の人間への愛は、変わらないものである。


    時に、教会に行く力も出ないかもしれない。そういうことはある。相田みつをの「だってにんげんだもの」ではないが、致し方のない部分がある。しかし、神の愛は変わらないので、そのようなことがあっても安心していていいし、我々人間への配慮を持って生きて、神は変わることのない愛をもって存在しておられるのである。その意味で、神は我らを見放さず、常に呼びたもうお方である。

     

     

    相田みつを氏の「にんげんだもの」https://twitter.com/aida_mituwo_

     

     

    神化、神秘主義とθέωσιςは違うことを言っておきたい。神化とか、神秘主義という用語を、正教会の研究者は用いるが、これらの表現は忘れてほしい。神の愛に与っていることそのものをテオシスというのであり、神のこの人間が生きている世界での道行きに参加することがテオシスなのである。

     

    その意味で、

    聖書は、神からの愛のラブレターであり、
    祈祷は、人間側のラブレターのお返しの手紙のようである。

     

    神はここまでするほど愛しているということを人間が覚えたときの反応が、祈祷であり祈りなのである。

     

    聖書の神であるハリストスは、人間の現実の肉体、この体をもって、神の愛に触れることができ、それが私達の目に見える形として、神の愛が明らかにされたものがハリストスである。具体的に神の愛に触れることができる、ということを伝えているのが正教会であり、機密(痛悔や聖餐式など)に与ること、祈祷文を唱えること、これらの身体性を通しての出来事で伝えているのである。手に届くところにあるものや具体的なものを通して、神の愛に触れるということを正教会では重視しており、それがテオシスという言葉である。これが一番伝えたいところである。テオシスということは概念でもなく、リアリティであり、リアリティを以て生ける神の愛に答えていく人間の姿がテオシスそのものであるといえる。

    要約者註

    具体的なものを通して、神の愛に触れるという意味では、正教会を含む伝統教派では、そのような具体性を持つスタイルで神のいのちに触れていくという性質をかなり強く残しており、また、日常生活を生きる中で、神の計画、神の御思いに信徒がみずから関与していくという側面も強く残していることはたしかである。プロテスタントの場合、具体的な形ではなく、言葉を用いる説教で、それを伝えようとしているような印象がある。その意味で、領聖生活と正教会の方が呼ぶものと、このテオシスは、一体のものと考えることができるように思う。

     

    神の世界に与るという意味では、ある面、神秘であるとはいえる。確かに、神の力は地上的なものを遥かに超えており、その意味では神秘であるといえるものの、一種、忘我的なエクスタシーとかいったものとは違う。むしろ、着実に、人間が生きている世界での日常生活を通して、神から与えられていくものがテオシスである。また、教会と教会生活を通して神の愛に参与していくのがテオシスということである。

     

    ところで、小祈祷書などはなんのためのものかといえば、日常生活の中で神への愛、人への愛を忘れないためのものであるといえるだろう。祈祷書はいつでも触れることができるものであり、神の愛にいつでも祈祷書を通して触れることができるためのものが小祈祷書であり、神の愛に答えるためのものである。

     

    神が人となられたということは、2000年前に起こった出来事だけではない。今も、この神が人となられた、ということは変わらない。復活に、今も変わらず、我らに復活の生命に与るべく神が招いておられるのである。パスハ(復活祭)は私達が肌で感いるためにその祭儀を実施するのであり、1回限りのものではない。教会が毎年毎年復活祭をするのは、神の愛が永遠の生命への道が与えられることを心と体を使って覚え、それに応答するためのものである。これが正教会の祈祷(要約者注 おそらく、祈祷及び機密、中でも聖餐式)の世界が示しているものであり、単に2000年前の出来事を記憶しているだけのものではない。神は変わらずに人間を神の世界に招いていることと、それに人間が応答することが今も許されていることを覚えるために、実施しているものなのである。

     

    エヒィエ・アッシェル・エヒィエ
    少しややこしい話をしたい。用語自体は気にしないようにしてほしいのだが、この部分は、「在りて在るもの」と訳されているが、この部分は、正教会的な理解から解釈すると、「在ろうとして、在る者」であり、最初のエヒィエの部分は、未完了形を示しており、完成していない神の愛の姿が、この未完了形の中に集約されているように思われる。とはいえ、この未完了形は、神が不完全なものとは解されるべきではないことは、記憶されるべきことである。


    神は超越的な高みから、この世界を眺めているのではなく、地上に現われ、十字架にかかり、復活の生命を示したお方であり、その意味で、外に出ていくという側面を持っている。

     

    ケノーシスという語があり、自己無化とか脱自的存在と訳されたりするが、神はある面で、脱自存在であり、高みにいて眺めているお方ではない。むしろ、この地上世界に下られ、人となった神であり、そこまでのことをしてご自身の愛を示された神である。その意味で、働きを持たれた神であり、人間のために神が働いておられるような神なのである。働きというのは、人間に対する愛の業を行っておられる、という意味であり、あなた方に働く神であるとこの未完了形の表現を通して、そしてモイセイ(要約者註 モーセ)を通して語りかけているのではないだろうか。

     

    要約者註

    N.T.ライトsあん風に言えば、噛み合っている神であり、人間の世界と神の世界がインターロッキングしているという理解だろう。友人の大頭さんは、その大頭さんががぶり寄りして無理やり友達になったに近い岩渕まことさんに、インターロッキング音頭まで作成させ、歌唱させているが、岩渕さんご本人は大頭さんのがぶり寄りに巻き込まれておられるのだと思う。とは言え、恐らく、善意とその得のゆえに作曲と歌唱をなしておらえるものと拝見しているが、これはどう見てもやりすぎの様な気がしている。

     

    インターロッキング音頭(作曲 岩渕まこと 歌詞 大頭眞一)

     

     

    ここでの未完了形を通して、生ける神であること、我々が、神の命に与っていくこと、そして、神の愛に噛み合っていく、関与していくことを望んでおられることを示しているのではないだろうか。


    神の愛の姿が、エヒィエ・アシェル・エヒィエ の表現のなかにしめされており、すべての人に関与しようとしていることを、神はハリストスを通して示したし、聖神(要約者註 聖霊のこと)を与えることを通して、時代を超えて神の愛を示しておられるといえるだろう。これ以上に神の愛が示されているものはないから、聖書は尊いものである。

     

    多くの人は、捨てられないラブレターを持っているかもしれないが、それ以上のラブレターが聖書なのである。神が人間を愛しており、それは変わらないことが示されている。そのことを具体的な形で伝えているのが、祈祷文と機密であり、その二つが我々が神の愛に最大限応えられるための手がかりであり、すべての人に開かれている手がかりであり、その意味で、神秘主義とは言えないように思う。


    司祭になって一年目であるからいうけれども、一人ひとりが聖人になることができる可能性をお持ちなのであり、聖人になるのは、誰にでも平等に与えられた可能性があるという意味では、すべての人は同じである。

     

    質疑応答
    Q 聖書によって表現が違うことがあり、口語訳、新共同訳、文語訳などがあるし、最近では新翻訳聖書も出版されると聞いているが、これらの諸翻訳に対する正教会の立場は、どのようなものだろうか。


    A 基本的には、正教会の立場とすれば、正教会訳を読んでほしいと勧めたいけれども、聖書にどんなことが書かれているかと知る機会は必要であり、その意味で、自分にあった訳語の聖書。他の訳語を用いた聖書に触れることは否定され得ないと考える。但し、訳語の用いられ方によっては、聖書の主張についての誤解を与えかねないものもあるので、全部鵜呑みにしないほうがいいかもしれない。とはいえ、いきなり正教会翻訳だと、今ひとつわかりにくいかもしれないので、聖書全体として、どんなことが書かれたかをまず知るためにもこれらの別訳を用いることは、妥当であると思う。

     

    Q プロテスタントで言う聖化という語や、 カトリックで言う完徳との違いは何だろうか。

     

    A まず、完徳について言えば、徳という語は、祈祷書などにも使われていることばとして存在し、非常に難しい。正教会が徳という場合には、神の生命に触れる生活のことであり、聖神に触れる生活から生まれるものであり、神の生命に触れたものが示されていくもののことである。その意味で、諸聖人の生活は、正にこれである。その神の生命に触れ、聖神(聖霊)と共に過ごす生活を、皆さんにも示されるかたちで生きた人々が諸聖人である。カトリックが徳の中にどの程度の意味を含めているのかによるが、場合によっては、非常に近い意味を持つものかもしれない。

     

    一方聖化について言えば、イギリス国教会の神学者である、ジョン・ウェスレーが主張したものであり、彼は聖師父や正教会の教えが含まれたものに触れており、その正教会の教えの中には、テオシスも含まれている。しかしながら、一方で、片足をプロテスタントに立脚しているところもあり、その範囲での表現を用いないといけないこともあり、聖化という語を使っている。この両者には、微妙に違うところがあるので、あえて、同じようなものだという必要はないかもしれない。

     

    Q 今もいつも世々に、という正教会の応答があるが、それは、エヒィエ・アシェル・エヒィエ を表すのだろうか。

     

    A 正にそうだと人間が言える応答のことばとして、そうでもある、ともいえるが、しかし、今もいつも世々には、神の側についての人間側の表現であることは忘れてはならない。

     


    要約者感想
    前半部分の、テオシスとか、神のかたち(像と肖)とか、祈祷書の解説、聖人とのかかわりの部分は、正教会的であるが、そこを除けば、福音派での聖書に関する説教聞いている感じがした。しかし、神のかたちとか、祈祷書と祈祷書による神への応答は、正教会や他の伝統教派の根幹をなすものの一つであるようなので、それをプロテスタント教会のように除くわけにはいかないだろう。


    丁度半年くらい前、今、定期的に参加しているアングリカン・コミュニオンの教会に行き始めたころ、説教の中や礼拝の一部として聖人の伝承が用いられたことがあり、個人的には、全く知らない世界だったので非常に印象深かった。(コメディアンの聖人がいるとか、という世界のごく簡単な手ほどきを受けた。なお、名前は失念したがそのコメディアンの聖人は、奇妙奇天烈な格好をして外部から社会の批判をすると同時に、金を稼いでは貧しい人のために用いたという聖人であったらしい)、最近はなくなってしまった。あれはあれで、非常に印象深かったことを覚えている。

     

    最後の聖書は神からのラブレターという表現は、昔教会(キリスト集会)で説教をしていた頃、何度か昔説教でこの路線に乗った説教をしたことがあるので、非常に懐かしかった。そして、神と共に生きるということの中に含まれる、ということや、神に従うものになっていく、という側面なども過去説教を担当していたときには、言及していたのである。元いた教会では、成文祈祷がないため、聖書を読むことと説教がその代わりとしておいてあったんだなぁ、と思う。ただ、質疑応答の中にあったように、翻訳聖書のみを通して聖書を理解しようとする場合、表面的な聖書翻訳の表現にこだわるがあまり、必ずしも、聖書が表象しようとする内容が適切に理解されないこともあり、かなり一方的な解釈も生まれる可能性があることを考えると、一人で聖書を読むということや、一人で祈りの生活に入ることは、ブレーキのない暴走機関車のような状態になる可能性もあるように思う。「聖書のみ」とは、いいつつも、それぞれの教会的伝統に支えられて生きる部分があることと考えた場合、正教会には正教会なりの聖なる伝統があり、プロテスタント教会には、プロテスタント教会なりの伝統があり、それぞれが聖書理解や信仰理解と行動についての行き過ぎを防いできた、ということなのだろうなぁ、という感想を持った。その意味で、プロテスタント教会の一部には正教会とかの伝統教派は正教会の聖なる伝統は否定するけど、自分の教派の伝統には、かなり無批判な気がする。外に出て初めて見えてきたことだけど。

     

     

    つぎは、後半部分である。

     

     

     

    聖人伝を読もう、祈ろう、生きよう

    神戸市外国語大学 清水俊行さんのご講演

    本日は、聖人伝の一つとして、エジプトのマリアの聖人伝を基準に考えてみたい。この聖人伝は、大斎の中でも5週目の木曜日の早課で、司祭が聖人伝を読む習慣がある。


    (ここで、大斎(要約者による注記 おおものいみ、と読む)が始まるときの鐘の音や大鐘が、徹夜祷の始まる前に流れる鐘の音のビデオ上映)


    ユニゾン(単声)で流れている賛美歌が歌われ、ハリセイで知られている讃美歌が歌われる。大斎の5週6週はピークが来る。生神女のアカフィストの土曜日、エジプトのマリアの主日、ラザロの土曜日の礼拝など、様々な要素が盛り込まれている。

     

    エジプトのマリアとゾシマが描かれたイコン

    https://jp.pinterest.com/edaviswatson/st-mary-of-egypt/

     

    木曜日の早課で、聖体礼儀がない日のノボスパスク修道院で行われる儀式で、3時間超の儀式であるが、この中で、聖人伝を前半部分と後半部分に分けて、説教のように、会衆に対面する形で、この聖人伝が読み上げられる。

     

     

    諸聖略伝とは異なっていて、ユリウス暦の4月14日に読み上げられる長いバージョンの聖人伝である。この、エジプトのマリア伝は、大斎と結び付けられて異なる写本がたくさん残っているのである。

     

    砂漠の修道院で修行していたゾシマという司祭によって、このエジプトの聖女マリアの記録がされたことで、実在したことが示される。この聖人伝には、マリアの悔い改めの深さが表れており、極めて特殊な形態となっている。そして、この聖人伝は、正教会のエジプトのマリアへの敬意の大きさを示している。

     

    では、この聖人伝は、何を示しているのだろうか。彼女の敬虔さの大きさを真似ることはほぼ不可能である。なぜならば、我々は罪深いものであり、そのような状態にあるのに、いきなりこの聖伝にあるような祈祷生活だけを持ち込んでも、意味を成さない。


    この聖伝によれば、エジプトのマリアは最初聖堂に入れなかったとされているが、荒野で過ごすという勇気と大胆さをもっていた人物である。

     

    5000人超の聖人

    ところで、現在、ハリストス正教会には、5000人以上の聖人がいて、2000年頃に、聖人数は2000人ほど追加され、それ以前にも2800人ほどいた。その中には、カトリックも正教会も共通する聖人がいる。これらの聖人について、聖人伝が書かれるのである。

     

    中世の時代を生きた人たちは、聖人が実施したとされる不思議なことを疑問視せず、「合理的に説明できないから、信じられない」などといったことを言いたくなることについて、それほどの誘惑はなかったのであり、より素直な生き方ができていた、と言えるだろう。その意味で、聖書にかかれている内容である福音と後代に当たる中世の人々では、その人々の生き方が直結するような生き方をしていた、と言えるだろう。


    痛悔をして許されているはずなのに、エジプトのマリアは、ポティル(聖体を載せている器)にたどり着くことができない。近づくことができない程罪深いものであったということが記述されている。

     

     見えざる力が働く、ということがあるのかもしれない。実際に、このような場面に講演者の方は出あわれたことがあったらしい。なお、エジプトのマリアは、正教的に理解し、彼女の罪のゆえに、聖体に近づくことができない、ということを知っていたということだろう。

     

    エジプトのマリアの聖人伝の位置付け

    このエジプトのマリアの聖人伝は、神は万人に対して、エジプトのマリアのようなどんなに罪深い人にも、悔い改めの道を示されることを示している。この悔い改めにより、神の神秘に近づけることこそが恩寵であることを知っていた。エジプトのマリアの話のポイントは悔い改めなのだが、後に彼女は、導かれて荒野に入っていく。荒野の暮らしの中に入っていくだけの決意や決心をもっていたといえるだろう。

     

    長いエジプトのマリアの聖人伝のバージョンでは、虫と戦ったり、地を転げ回ったりの伝承を含むものも在り、様々なバージョンのものが存在する。このような多様なものが存在するのは、聖者伝文学の中での多様性を示すものである。

     

    祈っているエジプトのマリアの体は、水の上を浮いていたなどのものもあり。罪あるものから義人へと変えられていった事例として、エジプトのマリアを示している。このエジプトのマリアの例は、信仰により、180度転換することができた類まれな例を示している。この聖人伝の中で、主が彼女に呼びかけたということを、我々は無視できないのではないだろうか。

     

    文字通り、エジプトのマリアの生きたような生活をすることはできないだろう。エジプトのマリアは欲との戦いに持ちこたえた人物であり、俗世からの隔絶をすることと肉体の衰弱、消耗を経験したといえるだろう。このようなことのためには、食事の量を減らして、仕事の量を増やすことで、この地の中で自らを聖なるお方へと心を向けていき、みずからを無にしていくこと、自己嫌悪すること。みずからの肉体を弱らせることで、聖なるお方にゆだねようとしたのである。このような信仰の在り方を、俗世に住む人間としてどう考えるのか、ということは、この聖人伝から問われているのかもしれない。


    それを具体的に俗世にいる人間がこのような俗世を離れるような経験を実現するためには、まず手始めに、生活様式を変えることで、俗世を離れることができるであろう(要約者註 正教会、カトリック、聖公会、プロテスタントのキリスト教徒の一部では、大斎の時期、レントの時期に、このような取り組みが行われることがある)

     

     生活を変え、みずからの姿を変えていくことが、アンドレイのカノンの内容として含まれており、俗世におけるみずからの生活習慣を捨て、行為を福音の命ずるように行うことを表している。

     

    聖人伝を日常生活で生かすには、生きるには

    では、実際にどうすればいいのだろうか。自分にあった方法、作法で見出す努力をすることでできるのではないだろうか。朝晩の祈祷もその一つであろうし、早課のカノンを家で唱えることや、エフレムの祈祷を唱えるのはできるのではないだろうか。あるいは、些細な出会いの中で、他者から頼まれた小さなことを、着実にこなしていく中で、そのことをこなすことが、神と共に生きる生活に関与することできるかもしれない。

     

    注意深く見ていると、自分の生活の中に神の御思いを実現するきっかけが転がっていることに気がつくように思う。その意味で、日常の生活の些細なことに注目していく。ちょっとした時間に祈りの時間を持つことや、他者に仕えるしもべとして、なすべきことを自分自身に課していくことなどが、神に仕えていくことになるだろう。

    要約者註

    このあたりの、日常生活を丁寧に生きることは、実にめんどくさいことであるが、キリスト者としての忠実に誠意を持って生きることから考えると、そんなに変なことではないし、さらに言えば、丁寧にこの地上の生を生きることは、最近の霊性の神学で強調されているポイントの一つである。また、N.T.ライトさん風に言えば、神の御業を神から与えられた賜物で実現し、地に神の平和をもたらすことに関与していくこと、ということになるのだろう。

     

    罪の歴史を聖書からたどるアンドレイの大カノン

    大斎の第5週の木曜日には、通してアンドレイのカノンが読まれる。このアンドレイのカノンをよく知ることで、どれだけ人間の罪があるのか、ということを理解することとなるように編成されている。このアンドレイのカノンは、罪という観点から見た旧約から新約に至る歴史の中での罪の歴史のなかで、すべての罪が書かれている。この人間の罪の歴史を思いながら、みずからの罪の悔い改めをするための手がかりであり、これらの歴史的な罪の記述を、単なる歴史的事実として回顧するのではなく、それらの事例に、みずからの罪ある状況に重ねて、悔い改めをするための手がかりとしているのであり、そして人間の歴史を振り返りながら、罪を悔い改め、神の世界への復帰を祈る、という構造になっている。みずからの魂の遍歴が大きなスケールの中で繰り返されていくことになる。

     

    その意味で、このアンドレイのカノンは、キリスト者全体に対してあらゆる罪を思い出させ、我々を悔い改めに誘う。カノンそのものは、我々を罪を定めるものとして、あるいは、罪を裁きの対象として示すのではなく、われわれの悔い改めによって転換していくような内容で、カノンの構造が構成されている。

     

    このアンドレイのカノンは、神が創造された世界での物語を逆に罪の側から描くものであり、良き福音の教えとは正反対に、人間が犯した罪からのよみがえり(回復)があることを描いたカノンになっている。その意味で、悔い改めによって、神と結びついていく世界を描いているものであるといえるだろう。

     

    このアンドレイの大カノンは、規模が大きく、聖書の物語を、人間の罪の歴史として読み直していて、別の物語として書き上げている。とは言え、この中で取り上げられている聖書の記述内容や個人名の中には、必ずしも有名なものばかりではないものが含まれる。

     

    ある面で、このアンドレイの大カノンを見ると、ある種の罪の百科全書と言う感じがするし、人間の罪の問題への嘆き、人間の弱さを描いている。当たり前のことだが、生まれてすぐの頃から成人になった人はいないように、聖人も生まれつきではない。罪のどん底から、神のかたちを取り戻した人、あるいは、蘇った人が聖人である。その意味では、聖人伝とは、人間の罪からの更正の物語であり、そして、罪からの更正は誰にでも起こりうるものであることを示している。

     

    福音書と関係づけられる聖人伝

    現在、ハリストス正教会では、5000人以上の聖者がおり、その聖者に関しては、まず聖人伝が作られ、その聖人伝からカノンが作られることになる。そして、福音経(福音書、とその記述)と結び付けられて、この聖者伝が語られる。聖者伝の教訓が、福音経(福音書)の中でどう位置づけられるか、という観点から考えられる。

     

    マルコの福音書の10章のエルサレムに登るときの説教で、エルサレムの宮登りで、弟子たちがイエルサレムに登って、イエスが世俗の国家の王となったときに、自分たちを左右の代表者に位置づけられることを願っているが、それはとんでもない勘違いであった。イエスが主張した神の国とは、霊的な国家であり、罪を隷属させることで、神の国を救済するというものであった。その意味で、神の支配とは、神の国とは、罪を隷属化させ、罪を取り除けということであり、罪から離れる自由を求めよということであった。その意味で、神の国のことを弟子たちもよくわかってない状態であると言えよう。我々が求めるべきものは、天の王国である。

     

    信仰や悔い改めが、行動に現れなければ意味がないのではないだろうか。心からの悔い改めがなければいけないし、罪から離れたかどうか、罪から癒やされるかどうかを確認する必要がある。その意味で、そのことは、神の意にかなった生活をする、つまり、ハリストスに倣って自己犠牲を通過していく事が重要だと考える。そのためには、まず、自分の罪を認める事が重要であり、人間の力によって完成の域に達する、というようには、なかなか実際には、起きないのである。

     

    聖人伝と聖書の人物の伝承の混乱

    エジプトのマリアとの関わりはルカ福音書7章36−50であるとされ、それは、涙でイイススの足を洗い髪の毛で香油を拭ったマリア(罪女)である。この罪深い女性であるとされた女性は、当時ありえないこととされていた、男性たちが食事をしている状態の中に無理やり入ってきた女性であり、当時の社会の中では許されない女性の行動であった。個々の話では、魂の食事と肉体のための食事が対比関係をなしている。 ここで、罪女が誰であるのか問題は、議論の余地がある。香油を持った女性たち(携香女)があり、マグダリーナは、7つの悪鬼を追い出された女とされている。

     

    そのマグダリーナについての西方の聖人伝の中に、このマグダラのマリアが荒野に行って修行することを記載するものがあるが、それは、エジプトのマリアの聖人伝からの流入があるのではないか、と思われるものがある。正教会の聖伝では、マグダリーナはローマで布教していて、ポンテオ・ピラトにあって話をしたことになっていて、このピラトとの話の中で、イエスは立派な人 であるとピラトが主張していた、と記録されている。そして、そのピラトとの対話の話を皇帝に伝えるときに、その皇帝のところに白い卵をもっていったのだが、ローマ皇帝が、そんな発言は、ここに持ってきたその白い卵が赤くならなければ信じないと、いったのに、その皇帝のところにもっていった卵が赤くなった、という伝承がある。現在でも、イースターの卵を赤く塗る伝統はここから来ていると考えられる。

     

    赤く染色されたイースターエッグ https://psalterstudies.wordpress.com/2009/04/07/red-easter-eggs/ から


    祈り(祈祷文)と聖体礼儀が、東方での祈りの構造を成していて、これらの祈りも福音の教えと関連付けられている。 そして、エジプトのマリアのように、遜りを獲得すること、罪の思いを冷静に見ることの大切さを伝えていくのが、聖人伝の一つの役割ではないか、と思われる。

     

    アンドレイのカノン

     

    このあと、アンドレイのカノンの一部が上映された。(当日上映されたのは、上の動画ではなかった)

     

     

    質疑応答
    その後の質問タイムでは、次のような質疑応答がなされた

    Q 教会スラブ語と現在のロシア語の違いはどのようなものですか。

     

    A 教会スラブ語は、スラブ人に伝えるための人造言語であり、もともと好戦的なスラブ人をキリスト教で強化することを目的として作られた人造言語であり、西スラブ、東スラブ、南スラブのスラブ語の中間的なもの。ギリシア語由来の言語もたくさんはいっていて、共通のキーワードが入っているものとして作られている。8割位は現在のロシア人が理解できるだろう。教会内では、各種のテキストは、教会スラブ語で読まれている。テキストとして提示すれば、現代のロシア人の半分くらいは理解できる。ちょうど、現代の日本で、ニコライ翻訳を初めて読む人が、その表現が日本語として分かりにくい、という程度の感覚だろう。

    要約者註

    この教会スラブ語に関しては、有賀力先生の『ヨーロッパとは』が現在の西洋に偏ったヨーロッパ理解やヨーロッパ意識とキリスト教理解を見直す上でも、非常に参考になるので、ご関心の向きには一度お読みになることをおすすめする。

     

    Q 現代のロシアでは、何パーセントくらいが正教徒なのだろうか。
    A ソ連崩壊後の現在では、7割位は正教徒か正教にシンパシーを持つ人々であるようである。現在は、国教というよりは、 憲法として信仰の自由が認められたことで、他の宗教と同等の位置をしめている。とは言え、ロシア文学やロシア文化の基礎としての正教があり、国教としての意味がなくなってはいるが、正教会の伝統が重要であることには変わりがない。なお、経済的な制度などでの管轄上の問題があり、ロシアは土地の私有という概念がなく、土地は国家のものであり、教会の土地に関しても国有地であるので、いくつか管轄上の問題が現れることもある。現在では、政治的指導者のプーチンも好意的で、時々、教会での礼拝に参加していることが報道される。その意味で、表立った争いはないものと考えられるであろう。


    Q 聖大ワシリイが示すように、一人ぼっちで修道するよりも、多数の方が謙遜を学べるのではないだろうか。そのあたりはどうお考えだろうか。

    A 共同体的な院修的な伝統もあり、このあたり、砂漠の師父、師母のような一人で何でもしなければならない伝統とバランスさせる、あるいは、かね合わせる必要があるだろうし、そもそも、修道院長などからのよほどの信頼がなければ本来、砂漠の中の単独の修行はさせられないものである。その意味で、経験のある人の判断を仰がないといけないし、そうであっても、修行に出ていった人で、砂漠で死んだ人はものすごくたくさんいる。改宗者イオアンは、外に出ていくことを制限的にとらえており、外に出ていくためには、ある種の徳の高さと精神力の強さが必要であるとしている。

     

    個人的な感想
    個人的には、全く聖人伝というものを知らずに、今日まで聖人伝を読んだことはないまま過ごしてきたが、今回参加して、ある面で、先輩たちが何をやって来たかを知ること、そして、聖人伝は自分自身の罪深さを考えるためのものであり、旧約聖書をプロテスタントは立派な偉人伝の光の部分だけを中心に見、その影の部分や負の部分をあまり見ない傾向があり、あるいは負の部分をあまり強調しない伝統の中で育ってきたのだが、今回のこの講演会に参加して、聖書などの登場人物が持つ、その負の部分をふくめて、神と人間の関わりを理解していく伝統を正教会はもっているのだ、ということを知ることができたことは、非常に意義深いことであった。


    それと、この世界の中で、神に仕えるために、自分自身をきちんと見つめていくことを学ぶという意味で、大斎は非常に重要であることを覚えた。さらに、現代のプロテスタント側の霊性を重視するグループで、日常生活をゆっくり、じっくり、細かなところにも目配りしながら、丁寧に生きることを問いているところともつながっている部分があり、このあたり、正教会からの伝統を受けていると思われる。このあたりのことを指して、マクグラスが、正教会と現在のプロテスタントの福音派との対話が可能なのではないか、ということを主張しているのかもしれないなぁ、と思った。

     

    また、アンドレイのカノンの話を聞きながら、大きな旧約聖書や新約聖書の中の物語の中に入っていく、という世界理解というか、聖書理解の体系は、物語神学と呼ばれるグループの聖書理解のアプローチや、ライトの聖書理解と近いし、ライトの聖書理解に触れた人たちの一部が、正教会の伝統とその世界に惹かれていくのは、ある面当然ではないかなぁ、とは思った。

     

    結局、宗教改革の精神で初代教会の理解に戻ろうと思えば、どうしても、現状の教会だけではなく、コプト正教や正教会の伝統も参考にせざるをえず、もともと、宗教改革が、原点回帰という方向性を持つ以上、そのことを考えるためには、正教会的な伝統を参考にすることも必要になるので、それはある面、理の当然という側面もあるだろう。

     

    聖人伝の教育性というのは意外と重要で、ちょうど日曜学校の教材で、プロテスタント教会の信仰の偉人たちを取り上げるのと、聖人伝は、ある意味、あまり変わらないし、それらが聖書の文言と結び付けられている以上、一種の現代の聖人伝となっている部分があるかもしれない。

     

    ただ、少し気になるのは、プロテスタントでは明白に聖人伝だとは言わないものの、印刷されている本の中に、近世のある種の聖人伝のような出版物「聖書を読んだサムライたち もうひとつの幕末維新史」のような本もないわけではない。あるいは、ユダヤ人にビザを発給し続けた杉浦千畝氏に対して、いわゆるプロテスタント派の教会で言及される際には、キリスト者であることは強調されるものの、反面、ハリストス正教会の信徒であるお姿と、その信仰の姿を正当に示しているか、というと、そういうことは適切に触れられないままのことが多いようなきもする。あるいは、大竹しのぶさんのお母様の聖人伝もどきのようなものが説教の導入部とはいえ、勝手に語られるとか、こんなことは、実に残念なことだなぁ、と個人的には思っている。

     

    このような実在の人物が、何かテレビで取り上げられたとき、十分な調査を集合的にして、充分な集合的検討を経ることもなく、個別の教会で現代の聖人伝が時々、教会内で人びととの人間的なつながりを持つためという正当化のもとで、作り出されているとしたら、どうなんだろうと思ってしまう。確かに、正教会が維持してこられた聖人伝の中には、現代人に理解不可能な荒唐無稽と思えるような表現があることも確かであるが、その古代の聖人伝を保有し、大事にすることを批判的にどうのこうのと言及してみたりすることはどうかなぁ、と思う。

     

    また、一部のプロテスタントがきちんとしたことも調べもせずにテレビで見た程度のことや、ネット情報をもとに、教会で語ることをどう考えるのだろうか、とも思う。そして、そのような教会で、正教会的な聖人理解や、聖人伝に関しても、批判的な言説が述べられたことを、あるプロテスタント系の教会で聞いたことはある。

     

    また、間もなく来るイースターで、卵を赤く塗る根拠も調べもせずにプロテスタント派で採用したりすることって、どうなんだろうと思う。

     

    以上で終わりである。この記事、単発。

     

     

     

     

     

     

     

     

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