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2017.03.15 Wednesday

N.T.ライト著上沼昌雄訳 『クリスチャンであるとは』 その43

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    今日も、N.T.ライトさんの『クリスチャンであるとは』の12章「祈り」の部分から読んで、思ったことをタラタラと述べてみたい。一応本日で、第12ショウは終わりだが、この先に、なんと第13章、聖書が待ち構えている・・・一体いつ終わることか・・・。

     

    気を取り直して、書いてみたい。

     

    祈りと先人との関わりを持つこと

    世俗の仕事の関係で、技術コンサルタントもどきのことをすることがあるのだが、ご相談に来られる方は、そのご相談に来られる方の中で混乱していたり、困っていたりする人たちが抱える問題を、外部者の目から見ると、外部者の岡目八目的な発言で気づかれることが多いという経験をする。自分一人でうじうじしているために、かえって問題がややこしくなるということはあるのである。

     

    最近、日本のキリスト者の中でも一部の方々とのお話の中で、霊的同伴とか、霊的ガイドとか、スピリチャル・ディレクションと言うような単語が出てくる。舟の右側でもそういえば特集が組まれていた。

     

    舟の右側の霊的同伴の特集号 http://www.revival.co.jp/rj/legwork-diary/ から

     

     

    そのあたりのことについて、ライトさんは、次のように書いている。

     

    もちろん、祈りについてさらに言うことができる。しかし礼拝と同じく、大切なことは始めることである。多くの祈りの手引書が今日では手に入る。現代のキリスト教の健全なしるしの一つはますます多くの人が経験豊かなガイド(あるグループでは「霊的指導者」、あるいは、「霊的同伴者」という)と話すことが、大きな助けになると気づき始めたことである。霊的指導者は、時には安心感(「そう、それで大丈夫。多くの人も同じように感じているから」)を与え、時には新しい方向へと優しく促してくれる。

     

    私は同僚との関係で大変な困難に陥った時、霊的指導者のすすめで解放されたことをよく覚えている。それは、「主の祈り」を唱えることと、その祈りのそれぞれの部分を、とくにその同僚に当てはめて思い巡らすことだった。書物、リトリートでのリーダー、友人、牧師は、それぞれ助けになる。(中略)もちろん、人によって有益な方法やパターンは異なる。その人にあった、その状況に応じた道を示してくれる指導者は大勢いる。(『クリスチャンであるとは』pp.242−243)

     

    世の中には、形から入るのがお好きな方もおられるし、かたちではなく、心の赴くままに始める人々もおられる。ミーちゃんはーちゃんはどちらかと言うと、かたちからではなく、心の赴くままにはじめちゃうタイプである。それで、後から慌ててかたちを学ぶタイプに近いかもしれない。

     

    ところで、ここで、ライトさんは、現代のキリスト教の健全なしるしの一つはますます多くの人が経験豊かなガイドと話すことが、大きな助けになると気づき始めたことである、と書いておられるが、これは案外大事なことではないか、と思うのである。これは、教会内にコミュニティを生み出す、ということでもある。教会そのものというよりは、教会内での祈りのコミュニティを、形成するということなのかなぁ、とも思う。基本、霊操とか、スピリチュアル・ディレクションとかは、コミュニティ志向(少なくとも、神と、神の前にともに並びながら、ガイドする人とガイドとともに歩む人というコミュニティができる)でもあり、Me and My Godの世界とはちょっと違うと思う。

     

    このあたりのことについて、ナウエンの本から少し引用してみたい。

    Calling people together, therefore, means calling them away from the fragmenting and distracting wordiness of the dark world to that silence in which they can discover themselves, each other, and God. The organizing can be seen as the creation of a space where communion becomes possible and community can develop. (Henri J. M. Nouwen, The way of the heart, p.54)

     

    ミーちゃんはーちゃんの個人的日本語変換

    人びとを礼拝に招くことは、人びとがこの暗い世界のことばに満ちあふれた世界で、それぞれが孤立し、精神を集中させない状態から、それらの人々自身が本来の姿(神のかたち)を見出し、そして、お互いの本来の姿を見出し、神を見出す静まりの状態への脱出を呼びかけるようなものです。その意味で、(教会とその環境を)整えるということは、聖餐(コミュニオン)が可能になり、そして、コミュニティが生まれいづるような場所を作り出していくことと考えることができます。

     

    ミーちゃんはーちゃんが参加している教会でも、普段こんな感じでの聖餐式(コミュニオン)

    (写真はルーテル教会での聖餐式の写真 http://www.zion-lutheran.com/photos/easter-2014/gathered-around-the-last.html より)

     

    その意味で、現状の日本におけるプロテスタント教会関係者の間で、わりと、霊性や霊的同伴、スピリチュアル・ディレクションへの関心が高まりつつあるのは好ましい傾向としても、霊性とその教派の基本的な聖書理解や、聖餐理解をあまりに深く考えもせず、霊的ガイダンスやスピリチュアル・コンパニオンシップの部分だけ導入すると、大根の上にカリフラワーをつなぐようなことになりかねないのではないか、という懸念もある気がするなぁ。まぁ、大根とカリフラワーの両方ともアブラナ科という意味では、同類ではあるけれども。

     

     

    霊的ガイドとか、霊的指導者だとか言うと、霊的な意味で「ああせい、こうせい」と指導を受ける人びとにいろいろ注文を出す人を思いがちだが、どうもそうではないように思う。

     

    むしろ、霊的指導者、あるいは霊的同伴者とは、クライアント(指導を頼む人、あるいは、お願いする人)の支援者になるというのか、行き過ぎを防ぐ役割を果たす人、共に祈りの時間をとって、同じ方向を見る人、というニュアンスが強く、牧師が信徒を指導する関係というか、牧師が信徒を教える関係というようなものとはかなり味わいが違うように思う。

     

    それと、牧師についていえば、牧師になってしまうと、指導する立場ばかりのことがどうも多いらしく、他の人によって、支えられる経験というのは少なくなってしまうのではないか、と言う印象がある。そして、牧師が燃え尽きてしまい、大量の人的資源の浪費につながっているように思う。まるで、献身者ホイホイのように。献身者ホイホイの記事はこちらからどうぞ。

     

    これらのことをやってみようとすれば、まず、牧師の支援(集めての教室形式での集合研修とかいうかたちではないタイプの支援)というところから、変えていったほうがいいのかもしれない。

     

    カウンセリングや、法曹関係の相談でもそうだが、こういう相談事業は、利害関係のない第三者のほうが、その人達を縛って混乱を生んでいる原因やそれを生み出すマインドセットからの影響を受けないという意味で、都合が良い場合があり、それと同じことが、スピリチュアル・ディレクションやスピリチュアル・コンパニオンシップの場合にも同じことが言えるようなきがする。その意味で、ハンズオンや身体性を伴ったものを教室型の集合研修で学ぶというのは、入門としてはいいのかもしれないけど…とは思う。

     

     

     

    異言をどう考えるか

    以下で、ライトさんは異言と沈黙の祈りを取り上げている。個人的には沈黙の祈りのほうが相性がいい。異言に関しては、ミーちゃんはーちゃんには経験もないし、その世界観がないので、なんとも言えないが、否定もできないことも確かである。ミーちゃんはーちゃんがこれまでお見知り置きいただいた方々の中に、異言の祈りをしておられるということを教えていただいた方も少なくない。ところで、異言で祈るからと言って、キリスト者ではない、とも言えないように思う。ブリッジ・チャーチ、ブロード・チャーチを目指しておられるアングリカン・コミュニオンの性格を考えるとき、この辺のアングリカン・コミュニオンでの包摂性ということは大きいのかなぁ、と思う。

     

    そもそも、自分たちの身の回りだけ考えれば、周りの言葉は異言ではない事が多いだろうが、神の目から見たら、世界中に存在する各国語で祈られてしまっていることになるわけで、すべての人の祈りは神様にとっては、それぞれの人の祈りは、それぞれが、ある面、異言の祈りをしていることに近いことになるのではないだろうか。

     

    今、訪日外国人が昨年、2000万人を超えた中で、外国人の多い難波とか、大阪城付近や、京都の四条河原町や先斗町などの観光地などを歩いていると、日本語を聞こえてくることのほうが少ないということを考えると、異言とはなんだろうか、と思いこんでしまうことがある。

     

    さて、ライトさんの祈りに関する記述に戻ると、ライトさんは次のように書いておられる。

     

    クリスチャンの祈りには、さらに他の仕方もある。ある人にとって異言で祈ることは、具体的に何を祈ったらよいかわからないとき、あるいは、あまりに明白な課題やそのことで圧倒されて、どう祈ったらよいかわからないときに、その状況や人々の必要を思いながら、神の前に出るのに役立つ(もう一度、『ローマ人への手紙』第8章26〜27節に戻って欲しい)。沈黙の祈りは、かなりの人にとって実行が難しく、それを継続して行うとなると、殆どの人には困難である。しかし、良い意味での暗闇のように、信仰と希望と愛の種が人知れず芽生える土壌となる。(同書 p.244)

     

    個人的には、沈黙の祈りのほうが、異言の祈りに比べて、格段に好きなのである。沈黙の祈りにより、心のなかに大きく余白を拡げてゆき、日常生活の概念や、諸概念から離れ、神を迎えて行く場所を作り出すことのほうが、異言の祈りよりは馴染みがあるような印象がある。

     

    沈黙の祈りについて

    もともと、システム設計したり、コーディングしたりするときや、ドキュメントを書くとき、また、デバッグするときは、他者との関係を絶ち、そして、とにかく雑念を排除して、無音空間でやりたがる、という習慣がついているからかもしれない。とくに設計したり、コーディングしたりするときは、対象の抽象化という作業をすることでもあるので、似ている側面があるかもしれない。

     

    パワパフガールズでのCoding 作業
    https://www.n3rdabl3.com/2016/06/09/157251/cartoon-network-promote-coding-powerpuff-girls-episodes/ から

     

    基本的に非営利組織で働いている(ある面で言えば、社会に寄生している)ので、このような機関で、開発作業をすることは他者に仕えるという性格を持つこともあるのだろうが、この静まりの中で生み出されたものが、他者の生活の質をあげるとき、してよかった、と思うことは多い。
    でも、このことは、声を出して話を全くしない、ということではない。ナウエンは、このあたりのことについて、The way of the heartの中で、次のように言っている。

     

      After all, silence of the heart is much more important than silence of the mouth. Abba Poemen said: 'A man may seem to be silent. but if his heart is condemning others he is babbling ceaselessly. But there may be another who talks from morning till night and yet he is truly silent.'

    Silence is primarily a quality of the heart that leads to ever-growing charity. Once a visitor said to a hermit, 'Sorry for making you break your rule.' But the monk answered: 'My rule is to practice the virtue of hospitality towards those who come to see me and send them home in peace.'

    Charity, not silence, is the purpose of the spiritual life and ministry. About this all the Desert Fathers are unanimous.
    (Henry J. M. Nouwen, The way of the heart, p.54)
     

    ミーちゃんはーちゃんによる、個人的日本語変換

    結局、心を静めることは、ことばを話さないことよりもよほど重要な事なのです。砂漠の師父の一人、師父Poemenは、次のように言っています。ある人は沈黙を守っているようにみえるが、心が他者をさばいているようでは、彼の心は、とめどなく思いが湧き上がっているのです。しかし、朝から晩まで話している人でも、彼はほんとうの意味では静まっている人もいます。

     

     静まりは、まず第一に心の質のことであり、それは、とどまるところを知らない思いやりに導いていくものなのです。あるとき、ある訪問者が修道者に次のように言いました。「あなたが守っていることを破らせるような形になって申し訳ない。」しかし、その修道僧は次のように答えました。「私が守ろうとしていることは、接遇の美徳であり、それは、私に会いに来られた方が、神の平和のうちに、皆さんの世界に戻っていかれることなのです」

     

    静まりというよりは、思いやりの心こそが、霊的生活の目的であり、使えていくことの目的でもあるのです。これについて、砂漠の師父たちは一致しているのです。

     

     

    このあたりの表現を総合的に考えると、祈りは、自分自身の問題というよりは、他者に仕えるためのものという側面が案外強いのかもしれない、と思う。自分のための祈りはもちろん必要ではあるものの、それだけでは多少まずいのかもしれないと思う。外に出ていくための祈り、あるいは外に出ていく祈りというものが家に向かう祈りと同様に必要だ、ということだろう。

     

    以上で祈りについての章は終わりである。

     

    次回から聖書の章について移っていく。

     

    次回へと続く。

     

     

     

     

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    評価:
    Henri J. M. Nouwen
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    (2009-09-22)
    コメント:よろしいか、と思います。

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