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2017.03.13 Monday

N.T.ライト著上沼昌雄訳 『クリスチャンであるとは』 その42

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    今日も、また、いつものようにN.T.ライトさんの『クリスチャンであるとは』の第12章 『祈り』をたらたら読みながら、考えていることを、これまたタラタラと述べてみたい。

     

    讃美歌と集合的ないのり

    Collectも個人的には好きだが、恐らく、現在の多くのクリスチャン、特にプロテスタント系のキリスト教では、この集祷にあたるものが、賛美歌に変わっている様である。今英国でお仕事をしておられる、親切なある司祭の方が一昨日、教えてくださった。この方は実にありがたい方である。

    讃美歌も、多くはつくられては消えしているが、ある程度の期間残った讃美歌はそれなりのことがあるし、その意味で、Collectにあたるものを讃美歌として歌っているのだろうと思う。ただ、時には、これはどうにもまずいと思う讃美歌の歌詞が見られることがあるけれども。どうも、天国に行く期待だけを歌い上げるものもある。その代表例は、黒人霊歌などであろう。いまだとアフリカン・アメリカン・スピリチュアルズ(米国議会図書館には、その African American Spirituals の項目があった)などといわないといけないのかもしれない。ただ、アフリカン・アメリカンのご先祖さまたちが経験した、実際の労働環境の過酷さと差別の過酷さから、このように歌いたくなる心情は理解できなくないけれども、それを、そのような環境にない日本人が、大声で歌い、天国に行くことの希求をすることはどうなんだろうと思う。実際に、賛美歌はそれを歌う人々の聖書理解に影響を与えるからではあるけれども。

     

    African American Spirituals の名曲 Swing Low, Sweet Chariot

     

     

    African American Spirituals の名曲をサッチモさんで Swing Low, Sweet Chariot

     

    その意味で、改革長老派で賛美に用いられている詩篇を歌詞として用いる方法は、まぁ、全編聖書の詩篇から訪った讃美歌なんで、まぁ、問題は起きないだろうけど、詩篇には、結構そのまま歌うには適さない表現(呪いと考えられるもの)もあるので、その辺は、歌わないことでの対応かもしれない。ただ、詩篇だけで言い尽くせているか、というと、これまた問題がないわけではないように思うのだけれども。改革長老派のお立場は尊敬しておりますよ。そこに行く気は今のところ、いろんな事を考えるとしていないですが。

     

    伝統教派が持つ他のいのり

    さて、ここでお話を讃美歌から、祈りに戻すと、この祈りというのは、讃美歌同様、言葉のリズムが大事なんだと思う。英語で祈祷分を読むときのリズムは、韻をきちんと踏んでいて実になんとも気持ちがよくて、その世界に誘い込まれるような感じがするのである。個のリズムというのは、結構大事だと思う。日本語でも、リズムのいい文章はないわけではない。確かに、セブン、イレブン、いい気分、とか、昔の「恐れ入り谷の鬼子母神」などはなかなかできがいいが、なかなかそのタイプのものに教会の中では出会わず、どうも字余り感が強い。まぁ、これから、その辺はこれから、改善されていくんだろうけど。この辺が合わない服を着ている感覚、ってことにもなるのだろう。

     

    さて、本題に戻すと、その祈りのリズムの中に入っていくということについて、ライトさんは次のように語っている。

     

    主の祈りだけが、深く豊かな祈りの伝統を気づいてきたのではない。同じように長い間使われてきた他の祈りもある。祈りのパターンとして、あるいは繰り返し唱えることで、イエスにおける神の臨在の深みに入るために使われてきた。最もよく知られ、東方正教会で広く使われてきたものに「イエスの祈り」がある。自分の呼吸のリズムに合わせて、ゆっくり楽に唱えるのが良い。「主イエス・キリスト、生ける神の御子、罪人の私を哀れんでください。」

    (『クリスチャンであるとは』 pp.238-239)

     

    ここでイエスの祈りがあげられているが、それはこんな祈りである。

     

    イエスの祈り(主の祈りとは別物)

     

    どうも、この辺は、砂漠の師父たち(砂漠の洞窟の中に入って、沈黙の中で神との交わりを深めていった人々)の伝統に則っていて、これは、現在の日本のキリスト教の伝統が失っている重要な霊性についての理解の上にあるものだと思う。霊性の源泉として、敢えて神の前に沈黙する、敢えて神の前に静まる中に見ることが重要であるような気がする。そのあたりの事は、ナウエンのThe way of your heartの中にかなり詳細にかかれている。この分野に関心がある方は、まずは、The way of your heartを読まれるのがよろしいのではないか、と思う。

     

    ところで、イエスの祈りは、英語では、Lord Jesus Christ, Son of God, have mercy on me, a sinner.となるそうである。

     

    どれくらいのタイミングか、というのは、この動画である程度ご理解いただけると思う。現代のおしゃべりな時代の人間のミーちゃんはーちゃんには最初はつらい経験であった。多くの人にとっても、おつらいかもしれない。

     

    英語でのイエスの祈りのケンブリッジの関係者による説明

     

    英語でのイエスの祈りの砂漠の師父風の祈り方説明

     

    ロシア正教会の主の祈り

     

    アトス山でのギリシア正教会のイエスの祈り

     

    上の動画に見るように、イエスの祈り一つとっても実に多様であることがわかる。

     

     

     

     

    この繰り返しの祈りを単純に賛美歌の世界に置き換えることはできないが、ある種循環性という意味で、テゼの賛美とよく似ている。祈りのための音楽として、テゼがあるからなのかもしれない。

     

     

    循環といえば、この前、NHKの朝4時20分ごろからやっている「視点・論点」という番組を見るとはなく見ていたのだが、その中で、上智大学の植田先生という方が村社会が循環的な時間で考える習慣がある、という話が出てきていた。この話はある面、ヒントになるかもしれない。リンク先はこちらである。

     

    「人々はなぜ「むら」に住み続けるのか」(視点・論点)

     

    我々の生活は、循環論的な時間に支配されているのではないか、という思いを聞きながら持ったのである。そもそも、近代は、あまりに近代的な時間を直線的なものとして捉えすぎる側面があるようにも思う。本来、人間は、循環的な時間、あるいは再帰的な時間(recursive time)で生きる様に造られているのかもしれない。近代の時間概念が、その循環的な時間概念、再帰的な時間概念を失わせたのかもしれない。その際快適な時間は、リタージカルな世界を支配している時間なのかもしれない。太陽は沈み、太陽はまた登り、月は欠け、また満ち、大潮と小潮を繰り返し、高潮と低潮を繰り返す。その意味で、サイクリックな時間、ないし、再帰的な時間の中に人はい来ているし、そのように創造されているのではないか、と思いはじめている。その意味で以下の図に示すようなフラクタルな世界の中に人間は行かされているのではないか、と思う。それとリタージカルな生き方との関係を今考えている。

     

     

     

     

    いずれも、http://www.fractalsciencekit.com/ から

     

    最近までは、ミーちゃんはーちゃんは、直線的な人生観、つまり、始点から終点に向かって一直線上を問答無用で直進するような生き方をしてきた。しかし、どうもそれではいけないのではないか、ということを思い始めている。恐らく、年をとったということと無関係ではないのだろうし、近代の社会を支える原理の限界を感じ始めているということもあるのだと思う。
    その意味で、教会歴に沿って、再帰的に生きるという生き方、その中で迷うように生きる生き方、そして、繰り返しを経る中で、一日に数回祈るという生き方、週に二回、聖餐に定期的に与る生き方、といったことの大切さを学んだような気がする。まぁ、それが無理な人も世の中にはおられると思うので、別にこれがよいとか、かくあるべしだとか、これが正しいとか、主張しようというつもりは、毛頭ない。ただ、今のミーちゃんはーちゃんはそれで落ち着いている、というだけのことである。とはいえ、伝統的な宗教は、多くの場合、このような循環論的、あるいは再帰的な時間概念と、その再帰的な時間の中での祝祭(セレブレーション)がどこかに隠れている様な気がするけれども。こういう風に循環論的な議論をし始めると、すぐに、同じことの繰り返しで満足しているのではないか、というご意見をお寄せくださる方がおられる。個人的にはそれも違うかなぁ、と最近は思うようになっている。

     

    繰り返しと異邦人の祈りは同じか?

    そのあたりのことについてライトさんは、次のように書いておられる。

     

    この祈り(あるいは同様のもの)を繰り返し祈ることは、『マタイの福音書』第6章7節で、「同じことばを、ただ繰り返してはいけません」とイエスが避難している異邦人の祈りのことではない。もしそうなってしまったら、すぐに辞めて別のことをしよう。しかしそれは、これまで何百万人という人に役に立ってきたし、今でも役に立っている。すなわち、神に思いを向けたり、深く、広くはいっていくことで、どのような状態でも信頼できる方として、イエスにあって知る神に集中する祈りがなされてきた。(同書 p.239)

     

    同じ言葉をただ繰り返す、異邦人の祈りがどのようなものかは、ミーちゃんはーちゃんにとっては、定かではない。一種、宗教的な情熱に思いをとられ、とりあえず高速で同じ語を繰り返すような祈り方なのかもしれない。しかし、上の二番目の動画で、主イエスの祈りをお示ししたが、それと同じように黙して、神のみ思いを求めていくいのりは,どうも、どんどん精神的な高潮感、あるいは繰り返しによる陶酔感を求めるものではなく降りていくタイプの祈りであるように思う。我々は、どうも、高いところにばかり上りたがるのかもしれないが、イエスは、この地に来たばかりか、この地でも最低のところにまで下りて行った方でもあって、それを覚えるために、ぐるぐると旋回しながら、降りていくというタイプの祈りということを味わうことは案外重要ではないか、と思う。

     

    それは心を鎮める中で、神と出会っていくという事なのではないか、と思うのだ。だからこそ、人間側が、災害や戦争、痛みや苦しみの中で痛むときにも、ライトさんが言うように「神に思いを向けたり、深く、広くはいっていくことで、どのような状態でも信頼できる方として、イエスにあって」、深みに下ってことになるのではないか、と思うのである。

     

     

    シェマーの祈り 再訪

    「シェマーの祈り」ということばを最初に知ったのは、約5年位前であった。なぁーんも知らずに、福音派の中の過激派的な教会にいたときに、東京の巣鴨で行われていたN.T.ライト 読書会にお邪魔した。そのときの課題論文が確か主の祈りに関するライトさんがお書きになった説教だったか、論文だったかの文章の読書会であったと思う。その文章な中にシェマーという単語が出てきた。想像がつかなかったので、素朴に「シェマーって何です?」って聞いたら、タカ牧師を中心とした参加者の皆様方から、「聞け、イスラエルよ。主は私たちの神」のことですよって、ご親切にご教示いただいた。今でも、シェマーという言葉を聞くと、その時の記憶がよみがえる。
     そのシェマーの祈りについて、ライトさんは次のように書いている。

     

    もう一つ、用いることのできるものがある。先に紹介したのと同じように、初代教会で用いられていたと思われるものだ。古代から現在のユダヤ教に至るまで、それは毎日三回祈られてきた。このように始まる。「聞け、イスラエル。ヤハウェは私たちの神。ヤハウェは唯一である。心を尽くしてあなたの神、ヤハウェを愛せよ」。『申命記』第6章4節から始まることばから採用されたものである。「シェマーの祈り」として知られている。ヘブライ語の「シェマー」(聞け)」で始まるのでそう呼ばれる。これが祈りだとは驚きかもしれない。命令を伴った神学的宣言のように見えるからである。それは会衆に教えるためではない。礼拝で聖書朗読がなされるように、神が成したことをたたえ、ヤハウェは真に誰であるか、その契約の神が何を望まれているかの源泉であり、それ自体が祈りであり、礼拝と献身の行為なのである。(同書 p.240)

     

    ここで、ライトさんは、このシェマーに関して、「命令を伴った神学的宣言」と言っているが、個人的には、まさにこれをライト読書会で読んだ、ライトさんの小論を読むまでは、祈りとは思ったことがなかったのである。昨日の日曜日、レントの式文に初めて今年使う式文を見ることになったのだが(先週は世俗の仕事の関係でお休み)その最後のページに、10のことば(いわゆる十戒)が書いてあった。その式文の最後のページて、このシェマーの部分が記載されていた。確かに、このレントの時期は神への献身をする時期であり、神のみ思いを祈りつつ、そして神の御思いの実現をしていくということなのだろうと思う。こういうレントと十のことばとのかかわりは、これまであんまり考えたことはなかったが、今日の式文Prayer bookの最後にシェマーから始まっている一連の10のことばがあった。その申命記の記述を見ながら、あぁ、本当にこれは大事だなぁ、特にレントの時期に覚えることは大事だなぁ、と思ってしまった。

     

    そもそも、根本は、主はわれらの神、心を尽くし、覆いを尽くし、力を尽くし、知性の限りを尽くして、われらの神である主との関係を求めていく、まさにここにあるのであって、それと同時にレビ記の規定である、あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ、(旧約聖書 つまり、律法(トーラー)と預言者(ネビーム)は、この二つに集約されるというのがイエス様のおまとめ)であるのだけれども、まさに、そのことが今の時期、レントのテーマであり、このレントの静まりの中で、神を愛する、神との関係を求めていくことの強化月間なのだろうなぁ、と思っている。そして、「ヤハウェは真に誰であるか(ヤハウェは真にどのようなお方であるか)」を追い求めていく時期なのだろうと思う。

     

    シェマーは、ヘブライ語で読むのを聞いていると、確かに祈りなのかなぁ、と思う。まぁ、アキバ・ベン・ヨセフも、殉教死するときにこの祈りを唱えていたという伝承があるけれども、イスラエルの民の信仰を形作り、キリスト教の初期の人々の信仰を形作ったいのり、というのはその通りだろうなぁ、と思った。

     

    様々なシェマーの祈りの動画を紹介して本日の記事を終えたい。、

     

     

    多分ユダヤ教の恐らく改革派のラビによる、シェマーの祈り方。手の形をShinの形にして祈ることなどが触れられている

    ヘブライ文字とその発音のインターリニア型の読み方の紹介動画

     

    銀の文字さし棒を用いながら読むのは、トーラーが尊いものであることに対する尊敬を表すということの表れであると思われる。

     

     

    次回へと続く。

     

     

     

     

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    評価:
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    HarperOne
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    (2016-07-12)
    コメント:大変よろしいか、と思います。英文も比較的平易です。

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