N.T.ライト著上沼昌雄訳 『クリスチャンであるとは』 その41
今日もいつものように、N.T.ライトさんのクリスチャンであるとは、の中から、祈りについての部分について、たらたらと思ったことを述べていってみたい。
定式化した祈祷は、ある面ありかも
現在、諸般の事情で、アングリカン・コミュニオンの一部である市内中心部にある船員(Seafarers)向け教会に通うようになったり、日曜日仕事でどうしても行けない場合は、朝7時からやってくれている聖公会の聖餐式に参加している。この7時からの聖餐式派、賛美歌も、説教もないが、キリストをうちに受け止める、ということを確実に思い起こさせてくれる教会の聖餐式に行っている。そこでの礼拝では、成分祈祷による祈祷と聖書朗読があり、そして聖餐式を中心とした礼拝である。誰が来るかは考えずに、毎週やっておられるのが、非常に印象深い。
ミーちゃんはーちゃんは、自由祈祷しかない(主の祈りすら礼拝の中で唱えない)教派的伝統の中で育ってきたこともあり、成文祈祷に対しては冷たい視線を向けてきた。まぁ、食わず嫌い王であったのである。成文祈祷そのものは読むことがあっても、それを集団で声を出して読むこと、唱えることが持つ、実際の環境の中でのみ経験されることに関しては、あまりにも無知であって、知らずに批判していたところがある。一番最初に、この概念を変えたのは、神戸市内のハリストス正教会に参加(見学)させてもらって、連祷に触れたときであった。あぁ、これ、聖書に出てくる内容を祈りとしておまとめされたものだ、と聞きながら思ったのである。まぁ、文語での祈りも、厨二病患者的には、非常に大好物で美味しかったが。
日本ハリストス正教会での大連祷
さて、このような定型化した祈りに関して、ライトさんは、次のように書いている。
ともかく、大切なことに触れておきたい。誰かによって前もって作られた形式の言葉を使うのは、何ら悪いことではない。実際、それを用いないほうが問題かもしれない。(中略)
この申し立ては、すぐに気づく人もいるだろうが、ある特定な人たちを対象にしている。つまり、気づかないうちに現代の文化(すこし前で指摘したロマン主義と実存主義の合成品)を、それがあたかもキリスト教であるように吸収した多くの国の多数のクリスチャンに向けたものである。そのような人に私は言いたい。他の人によって昔に築かれた言葉、式文、祈り、祈祷文を用いることは、何ら悪いことでも劣ることでもなく、「行いによる義」でもない。(クリスチャンであるとは P.235)
この中で、「気づかないうちに現代の文化(すこし前で指摘したロマン主義と実存主義の合成品)を、それがあたかもキリスト教であるように吸収した多くの国の多数のクリスチャンに向けたもの」とライトさんはお書きであるが、まぁ、これを読んだ時、あぁ、まさしくミーちゃんはーちゃんは、確実にその「現代の文化(すこし前で指摘したロマン主義と実存主義の合成品)を、それがあたかもキリスト教であるように吸収した多くの国の多数のクリスチャン」の一人であったことに気が付いた。ここでは、現代の文化のことを、ロマン主義と実存主義の合成物と呼んでおられるが、それは啓蒙主義と人間を中心とした(露骨な言い方をすると、人間と人間の理解を尊重するがあまり、その理解と人間により生み出された概念を偶像とする)ものをキリスト教と思いこんでいた、という側面はある。神を中心としたい、神が与えたもうた聖書を中心としたい、という思いからであったのではあるのだろうけれども、聖書理解をことばで伝えたいということが、教会文化として定着していった結果、神がどこか隅っこに追いやられてしまっていて、教会の説教の中で『説教者の先週の業務経過報告とその感想」や、その教会にとっての過去の人の偉人伝とか、その場にいないその教会固有の英雄列伝とか、先週見た映画とかテレビのおまとめなんかが教会の中での説教の座のかなりの部分を占めることになる場合もあるようである。あるいは、音楽を繰り返しリフレインしながら、延々と絶叫型の賛美を続けたりとか(まぁ、たまには良いのだけど、何を謳っているのかが、聞いていてわからない人には、解き明かしもないので、異言よりすごいかもしれないと思うこともある)、もあるようである。要するに、日曜日の礼拝を一定の時間をかけたものとするために、余分なものが、入れられていくことになりかねないことになりかねない。ここまで来ると、ロマン主義と実存主義の合成品と揶揄されても、仕方ないかなぁ、と思う。
おそらくこのロマン主義と実存主義の合成品は、マクナイトの言う「救いの文化(サルベーション・カルチャー Salvation Culture)」のことだと思う。このあたりは、スコット・マクナイト著『福音の再発見』をお読みになられると、詳しいことがお分かりになるのではないか、と思う。なお、マクナイトさんは、最近は米国のアングリカン・コミュニオン(日本では聖公会)系の教会に移られた模様である。
日本ハリストス正教会やコプト正教会、カトリック教会、日本聖公会に行くと、説教はぐぐっと圧縮され、説教自体は、ものの5分か長い場合でも15分ほどであり、式分と祈祷と神への賛美と、イエスの生涯と十字架を記憶することが、その教会の礼拝の中心を占めていることを強く感じる。
ところで、ライトさんは、「そのような人に私は言いたい。他の人によって昔に築かれた言葉、式文、祈り、祈祷文を用いることは、何ら悪いことでも劣ることでもなく、「行いによる義」でもない」と書いているが、ミーちゃんはーちゃんは、ここで言われている「そのような人」であった。「そのような人」が成文祈祷の文言に触れた時、打たれてしまったのだ。その広がりとその美しさの世界に。
とくに、先にも紹介したハリストス正教会の大連祷もそうである(神戸で人数が少ないときのものは、人数が少ないだけにちょっと残念な側面もあったが、まぁそれはしょうがないが、素朴な味わいがあったと申し上げておきたい)し、英文の祈祷書に触れたときもそうであった。聖公会の祈祷書も美しくはあるのだが、英文からの翻訳になっているところもあり、少し残念な部分もある。まぁ、英文と日本語の式文をちゃんぽんしているミーちゃんはーちゃんが、徹底的に悪いのだが、日本語の式文を聞きながら、英文の式文の原型を思い出してしまっている。
あと、説教を中心とせず、このような定型化された式文と儀式を中心とした運営の強みは、言語を超える部分があるということであり、何をやっているのかが、ある程度言語の壁を超えて予想でき足り、理解できたりするということがあるのである。それは、ある程度今よく言っているアングリカン・コミュニオンの聖餐式に慣れてから、コプト正教会の献堂式にいったのだが、それが指し示そうとしている意味が、アラビア語風に読まれる英語で行われる聖餐式ではあっても、普段の聖餐式の対応関係から、完全に理解できたのである。それは実に印象的であった。
(44分位からが聖餐式)
よい式文を読むこと
よい式文を読むと、特に初めて読んだ時などは、鳥肌が立ちそうになる。まさに、何とも言えない印象が体中を走り回る感じ、という側面があるかもしれない。成文祈祷を聞き、声併せて祈るときに、そうそう、これが言いたかった、こう祈りたかった、とか、祈りたいことを言ってくれてありがとう、と思ったことは何度もある。
そのあたりのことをライトさんは次のように書く。
良い式文は、恵みのしるし、また恵みを受ける手立て、また謙遜(自分が心から表現したいことを、別の誰かが自分より上手に言ってくれたことを受け入れる)と感謝を表す印となる。また、そうあるべきである。私は、比喩的にも文字通りの意味においても、夕暮れが迫った時、昔ながらの英国国教会の集祷文の祈りで、いかに多くの慰めを受けてきたことか。(同書 p.237)
集祷文とは、英語では、Collectと呼ばれるもので、特祷と呼ばれるものらしいのである。多くのプロテスタント派の祈祷では、これはあまり残っている教会に、これまであまりぶち当ったことがない。牧師のその週の代表祈祷がそれに当たるのかもしれない。多くの場合、聖書朗読の前に行われる。このCollectを司祭だけが読む場合もあるし、全員で読む場合もある。
たとえば、Lent1で読まれたものはこんな感じである。
Almighty god,
whose Son Jesus Christ fasted forty days in the wilderness, and was tempted as we are, yet without sin: give us grace to discipline ourselves in obiedience to your Spirit;and as you know our weakness, so may we know your power to save; through Jesus Christ your Son our Lord, who is alive and reigns with you, in the unity of the Holy Spirit,one God, now and forever.
Amen
ミーちゃんはーちゃんによる日本語変換全能の父なる神よ、汝の御子イエスキリストは、荒野にて40日の断食で、我らと同様に試みに合われ、それでも罪に陥らざり。恵みにより、我らが聖神(聖霊)により訓戒を受け汝に服させたまえ。我らの弱さを汝知るが故に我らが汝が救出する実際の力を我らに知らしめよ。我らの主、汝の御子、イエスキリスト、汝とともに生き、統べ治める方、聖神(聖霊)と共に一つである神において、今も、永久に。実に。
大体、こんな感じである。日本語にするとどうも締まらない。どうも冗長で、うーん、という感じがする。自分で変換しててもそう思う。
こういうCollect(これが毎度毎度違う)を読んでいると、あるいは読み上げられるのを聞いていると、Amenといいたくなる感じがしてしまってしょうがない。良く寝られているし、聖書のことばが思い浮かんで、それが広がっていくのを感じてしまうのだ。ライトさんが言っているCorrectはどれかはわからないけれども。
That we should be saved from our enemies,
and from the hand of all that hate us;
To perform the mercy promised to our forefathers,
and to remember his holy covenant;
To perform the oath which he sware to our forefather Abraham,
that he would give us,
That we being delivered out of the hand of our enemies
might serve him without fear,
In holiness and righteousness before him,
all the days of our life.
And thou, child, shalt be called the prophet of the Highest,
for thou shalt go before the face of the Lord
to prepare his ways;
To give knowledge of salvation unto his people
for the remission of their sins,
Through the tender mercy of our God,
whereby the dayspring from on high hath visited us;
To give light to them that sit in darkness
and in the shadow of death,
and to guide our feet into the way of peace.
Lighten our darkness, we beseech thee, O Lord;
and by thy great mercy
defend us from all perils and dangers of this night;
for the love of thy only Son,
our Saviour, Jesus Christ. Amen.ミーちゃんはーちゃんによる日本語変換暗闇を照らしたまえ、わが主よ。我らこれを希うながあまりある哀れみによりて今宵の危険と危機より、われらを守り給えそは汝が御子、われらの救い主、イエスキリストの愛ゆえに実に
その昔、結婚式の司式をした経験がある。平信徒主義の教会なので、お葬式から結婚式、バプテスマまでなんでも一通りのことはやった。その経験から言うと、式文があると締まるのである。それによく考えられている。以前の結婚式の時には、日本基督教団の式文(試用版)を参考にさせてもらった。今なら、日本聖公会の式文を使うところであるが、当時はまだ入手で来てなかったので、それを利用した。そのまま使わず、適当に用語とかは、自分たちのものに適切に変えたが、まぁ、余分なことを言いたくなることは避けられた。
現代のCollectに変わるものは何か、と考えてみると、それは讃美歌がその部分を担っているかもしれない。讃美歌を歌うことで自分の祈りにしておられる人々もおられると思う。そこに心を合わせ、心を一つにして、祈るという意味では、まさに、このCollectと讃美歌はパラレルな関係にあるように思う。
生き生きとしていた伝統も
時と場合に死加重に
伝統というものはありがたいのである。というのは、先人たちが必死になって考えた神学的英知が含まれているからではある。しかし、その中に含まれる意味や神学的思惟が理解されないと、すぐに死んでしまい、ミイラ状態になる。なぜ、この式文でこういうのか、何故にそのような表現になっているのか、なぜ、このように表彰するのか、ということとのつながりが分かりにくくなり、とりあえず、これを言っておけばいいという呪文のようなものに化してしまうこともないわけではない。
問題は式文を使うのか、使わないのか、といったことではなく、そこにどのように参加しているか、ということなのだろう。そのあたりの事について、ライトさんは次のように書く。
古代からの典礼と伝統的な習慣は本来、まさしく純粋な祈りを生み出し、謙遜な態度で神の臨在の前に出るのを助けてくれるものなのだ。何世代にもわたって伝えられてきた祈りが、徐々に自分自身の心からの祈りになって湧き上がるのに気づく。しかし、かつてのいきいきとした伝統も、すぐに死んだ重荷になってしまうことがある。ときには枯れた枯木を、新しい枝を伸ばすために取り除かなければならない。
(中略)
文化は変わる。変化すること自体が文化の特徴である。それ故、伝統的形式に困惑したり、不快に感じることになっても驚きではない。過去一、二年の間に出会った人だが、教会の会衆が新しい歌を採用し、会堂の通路で踊りだす人がいたのに驚き、その教会をやめてしまった。また他の人は、全く同じ理由からその教会に行くようになった。
そろそろ目を覚ましてもよい時だ。人はそれぞれ、人生のそれぞれの段階に見合った異なる種類の助けを必要とする。それを認め、それに合わせて歩んでいくべきである。(同書 pp.237-238)
ミーちゃんはーちゃんがいたキリスト者集団は、儀式的な要素を教会内から極力排除させようとした教派というか、キリスト者集団であった。まぁ、これでもか、これでもか、というほどの排除ぶりであった。そのキリスト者集団の中では、以前は十字架を掲げることについても、偶像的だとして、排除するほどの忌避感があったほどのグループである。しかし、その中でも、儀式の意味とか、儀式に含まれている要素が重大だ、と感じていたこともあり、違和感は感じまくりであったが、今は、このあたりをバランスよく含む教会に居るので、今のところは非常に納得的であったし、大変そこにいることができてうれしい。
そんな集団の中で、ひとり、最初は主の祈りとか、ニーバーの祈りとか、ボンフェファーの祈りとか、ナウエンの本を読みながら祈りを考えていった。その中でこれらの本の中に出て来る祈祷文を覚えながら祈ったりしていた。それらの祈祷文をそのまま使うと差しさわりがあった。より具体的に言うと、「成文祈祷で、儀式的」とかいう批判をそのグループでは浴びやすいので、多少は現代風に文言を変えながら祈っていた。まぁ、ここでライトさんが言うように、徐々に自分自身の心からの祈りになっていくという経験をした。
確かに、成文祈祷の良さというのもあるのだが、中には、その意味を解せず、その世界にも入ってみることすらもせず、その文言をひたすら、百万遍(般若新教を百万遍唱えたところから来ているらしいが)般若心経を唱えるように、唱えるかのように言う人もいるのは確かだ。理解もせずただただ唱えるというような祈りが成文祈祷ではない。そのようなひたすら繰り返し、回数を競うような祈りと、ここでライトさんが言っている祈りとはちょっと違うように思う。義務的に般若心経を唱えることの意味は、よくはわからないが、儀式の先にあるものを考えずに儀式をやることは、死荷重(死んだ荷重は、Deadweightで死荷重ということがあり、ここでは死荷重としておく)や生命を失った枯木となっていることもあると思う。そして、それは、その形に人を閉じ込め、そして人を苦しめる場合があるのは確かだ、と思う。
宗教改革自身、その死荷重や、枯れ木となったものを除こうとした運動体であったという側面はあるだろうが、そこからも、偶像的なものを排するという形を重要視するあまり、儀式を大切にする人々や、その人たちが大事にしてきたものを排除するに至ったという悲劇を生んだような気がする。。
この部分を読みながら、あめんどうから出たリングマの本『風をとらえ、沖へ出よ』の記述を思い起こしていた。
物事が変わるためには、その出発点としてまず、人々の生活の中で伝統のなめらかな流れに裂け目が入るような、何かが起こる必要があります。疎外や失望の経験、より良い道の模索、教会史上のラディカルな運動について知ること、聖書に新しい答えを求めること、これらの、そしてまた他の多くの触媒が聖霊に用いられ、痛みを伴う模索が始まります。つまり、変革が一つの可能性となるのは、慣れ親しんだものがもはや信頼できなくなるときです。旧い選択肢がもう満足できないものになると、私達は新しい問いと選択肢を模索し、物事を新しい視点から見始めます。
新しさを求める多くの人々の模索は、残念ながら正にその段階で終わってしまいます。伝統を問い直せば、自動的にオルタナティブなものが実現すると誤解しているからです。こうしたことは往々にして、ひどく勘違いされています。真に新しい答えやアプローチは、早々簡単に向こうからやって来ません。また、旧きをふるい落とすことは、私達が考える以上にずっと難しいのです。旧きは私たちの現在の価値体系の一部になっていて、それ故私たちの分別の一部であるため、そうとう執拗で頑固です。(リングマ著『風をとらえ、沖へ出よ』 p.135)
ところで、ライトさんが、
「過去一、二年の間に出会った人だが、教会の会衆が新しい歌を採用し、会堂の通路で踊りだす人がいたのに驚き、その教会をやめてしまった。また他の人は、全く同じ理由からその教会に行くようになった。」
と書いていることは非常に面白い。それほど、教会と会衆というのは、非常に密接に関係しているし、教会というものは生き物である、あるいは生きているということなのだろう。教会は会衆に影響を与えるし、会衆は教会に影響を与えるものなのだろう。教会はその意味で、生きているということだし、固定されえないもの、ということをおっしゃりたいのかなぁ、と思った。我々は真理とか完全というと、それは固定されたものととらえがちだけど、そうでもない、ということなんでしょう。多分。
女性の美についての動画(美が文化依存していることを示した化粧の仕方についての動画)
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評価:
--- Thomas Nelson --- (2015-04-14) コメント:大変面白かったです。教派のお昼(愛餐会)の違いの辺の記述には吹いてしまいました。 |
---
Morehouse Publishing --- (2013-01-01) コメント:非常に印象的な思いを抱きました。わが身に重ねながら読んでいます。 |
- コメント
- >百万遍(般若新教を百万遍唱えたところから来ているらしいが)般若心経を唱えるように、唱えるかのように言う人もいるのは確かだ。理解もせずただただ唱えるというような祈りが成文祈祷ではない。
祈祷そのものを目的とするなら何ですが・・・手段として、例えば修行の手法として虚空蔵求聞持法や常行三昧などの(修)行は人に拠りますが一定の成果を出す場合もあります。だからと申して、必ず成果が上がるわけでもありません。二百万回唱えて「俺には素養がなかった」と言われた方もいます。合わない方には時間と資源の無駄にしかならない場合も多々あります。しかも、修行は目的を利する手段と考えるのは誤った考え方とされていますから難しいものです。が、ロレトの連祷(ロザリヲを使用して長々と祈祷を繰り返す。日本の数珠も実は祈祷の数を数えるためにある)などは結構精神を落ち着かせるために十分実用性が有るよう見受けられることも経験上確かです。 -
- ひかる
- 2017.03.11 Saturday 23:32
- ひかる様
コメントありがとうございました。気づくのが遅れまして申し訳ございません。
御清覧、コメント感謝いたします。
>虚空蔵求聞持法や常行三昧などの(修)行は人に拠りますが一定の成果を出す場合もあります。だからと申して、必ず成果が上がるわけでもありません。二百万回唱えて「俺には素養がなかった」と言われた方もいます
このあたりの霊性は、人による差が大きく、なんとも言い難いことが多いのも確かですね。イスラム世界のスーフィズムも人それぞれのようだ、と聞いたことがございます。
個人的には、キリストの祈りを多用しております。静まりの方法として利用いたしております。
コメント、御清覧ありがとうございました。
-
- ミーちゃんはーちゃん AKA かわむかい
- 2017.03.14 Tuesday 19:58
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