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2017.03.04 Saturday

大斎の意味 という大阪ハリストス正教会での講演会に行ってきた

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    2017年2月26日に大阪ハリストス正教会で実施された、大斎(おおものいみ と読む)の意味と題された松島司祭の講演会に行ってきたので、今日はちょっとご報告してみたい。以下、わかりにくい点、あるいは、間違いがあるとすれば、当日現場で速記をとった、ミーちゃんはーちゃんによるものである。

     

    大斎(おおものいみ)の開始日に

    講演会に参加させてもらった日が、乾酪(かんらく)の主日ということで、正教会の伝統では、この日が大斎の開始日に当たる主日である。西方では、灰の水曜日からレントが始まることになっているけれども、正教会ではこの日から始まる。なお、この乾酪の主日には、チーズや卵類を食べつくす主日ということになっている。(ミーちゃんハーちゃん註 その日はたまごサンドイッチがお昼ごはんに出たらしい)

     

    イースターの期間に向けての準備期間
    この大斎の機関は、復活大祭(イースター 以下イースター)に向けて、心と体の準備をするための時間といえるだろう。復活祭への心と体の旅として覚える日々でもあるといえ、この時期は、一種の神との関係を深めるための特別強化月間ともいうことが言えよう。イースターの時期から始まる特別祝祭期間をよりいっそう深く味わうことができるように、より明るいものに変えるための準備の機関であり、イースターから、その前の7週間は司祭たちは黒い服を着る。その意味で、ある種の服喪期間であり、日本風に言えば所謂精進の期間であるとも言えるだろう。

     

    大斎とは、もともと、初代教会でのイースターを迎える前の断食は短い期間で行われたものだった。それが、次第に長くなり、4世紀には現在の長さになった、と言われている。また、この時期は、伝統的に復活祭にバプテスマを受ける人々へのカテキズムを学ぶ最後の期間となっていた。また、伝統的に断食を通してキリストの十字架とその復活の意味と受洗の前の教育で受けた内容を思い出す期間としても利用されていた。(ミーちゃんハーちゃん註 このあたりは、赤木善光さんという方の『宗教改革者の聖餐論』の中でも触れられていたように思う。)

     

    函館ハリストス正教会の大斎期間の写真 http://orthodox-hakodate.jp/info/2586.html から

     

    強制ではない大斎の断食
    大斎の平日は、魚を含めて肉を食べない期間であり、乳製品や卵もとらない期間となっていた。なお、土曜日日曜日は、アルコールを取ることが許されるとされている。そのように食事帰省を守るかどうかは、本人の意志と主体的関与に関する問題ではあり、なお、教会ではこれが伝統であるということは言っており、決して、信徒に強制しているわけではない。授乳期間や、施設生活をしている人々は、例外となっているという側面もある。

     

    キリスト教会では、もう最近は、食べ物の節制ということは、あまり話題にならない。西方では、もっと言わないようになっている。カトリック教会では、以前ほど食べ物のことは強調されなくなっており、この節制の代わりに、レントには愛の行い、隣人愛の行いが勧められる事が多く、西ヨーロッパで成立したキリスト教では、レント期間であっても、それ以外の普段の生活とあまり変わらない生活になっていることが多いのではないだろうか。なお、カーニバルは、レント前に肉を食べつくすお祭りとして残っている。西ヨーロッパとかアメリカでは、カレンダーに四旬節と小さな文字が付いている程度、としてしか理解されてないことも少なくない。

     

    とは言え、正教会を含む東のキリスト教においても、濃度の違いで、その伝統の守られ具合に濃淡があるのは同じである。以下、正教会が辛うじて伝えてきた大斎の意味を考えてみたい。

     

    精神的なおすすめに変わる背景とその問題
    食べ物の制限が守られないなら、せめて、聖書通読をすることや、病者への訪問することや、あるいは、テレビを見ないと行ったような、善い行いをすすめる事があるのだけれども、それで本当にいいのだろうか、と言う側面がある。食べ物の制限を通した、身体的な実践が精神的なもので埋め合わせができるとしているとしたら、それは精神が身体に優先していることになり、正教会の伝統とは少し違うと言わざるをえないのではないだろうか。

     

    イカ・タコ・エビはOK?
    この大斎の期間は、タコやイカ、エビやカニは、普段の食事で食べていい事になっている。この部分の食物制限がない理由の背景には、ユダヤ教の伝統との関係から考えられるかも知れない(ミーちゃんハーちゃん註 ユダヤ教の食物規定では、これらはNGであるとされている側面はある)。肉体よりも霊的なこと、精神的なことが優先されていることが問題になっているように思われる。イカ・タコ・エビを食べて良いとするのは正教会の修道会の歴史のなかから生まれたのかもしれない。確かに、実際、青みの魚を食べることで、妙にエネルギッシュになってしまう修道士達が生まれたことなどもあるのではないだろうか。


    肉体と精神の関係は本来一つ
    精神よりも身体性が重要だということが強調されることはあるのだが、本当にそうなのだろうか。確かに、このようなことを考える根拠聖句として、「人は、パンのみにて生きるのではない」という聖書記述があるけれども、「パンなしで」とは聖書は言っていないことはもう少し考えたほうがいいかもしれない。そこでは、精神と肉体との対立の思い込みが、このような精神の肉体に対する優先というような読みの中に隠れている、入り込んでいるのではないだろうか。

     

    もう少し言うならば、この考え方の背景にあるのは、霊の世界は善であり、物質世界は悪という思い込みがあるのではないだろうか。あるいは、肉体的なものは悪、偽りであり、霊的あるいは精神的なことは永続的、という思い込みもあるかもしれない。その意味で、この大斎の機関は、我慢する力をつける、精神の向上を促すためのものとして大斎が用いられてきたのではないか、と思う。


    正教会での食べ物の理解
    正教会の食べ物理解を考えたい。キリスト教では、人間は神によって創造されたのである。神は人をどのようなかたちにでも創造でき、人間という存在をかなり自由に規定させることができたはずである。極端な話、人間が太陽光で光合成して食べ物を必要としないかたちで、創造することもできたはずであるが、そうではなく、食べ物をなぜ、人間が必要とするように創造されたのだろうか。

     

    ある家庭集会で、そのような話をしたときに、ある子どもが、「ごはんを食べるように作られたのは、ごはんが美味しいから」と言ったことがある。これは、正教会的には正しい答えである。ある面、神様は、ごちそうを人間に毎日食べさせたいから、そのように創造された、とも言えるだろう。

     

    正教会的には、物質の世界と霊的な世界は、密接に結びついているところがある。物質の世界と霊的な世界は本来一つであったが、人間が、本来一つであり、同じことだったものを、別のものとして扱うようにし、対立的な関係として扱わねばならなくなった。例えば、エデンの園のものは全て食べていい、と神はいっておられる。エデンの園では、感謝と喜びで食べ物を食べることができた。その意味で、エデンの園の状況は、神が「良かった」と言われているように、エデンの園での、神と私達と食べ物の関係は非常に良かったのであった。

     

    クリスマスなどが典型的だが、クリスマスにしても誕生日にしても、プレゼントは物質ではあるが、プレゼントそのものが、その送り主を示すことがある。

     

    象徴そのものではなく象徴が指し示す実体が重要
    象徴といった時、象徴としてのもの、記号ではなくて、現実という側面がある。象徴とは、本来触ることができないものについて、この地上で現実化したのとして目に見えないものを指し示しているものが、象徴ということではないだろうか。象徴とは、真実を感知するための認識の手段だけではなく、認識そのものが実在に関与するためのものであるように、象徴は、目に見えないけども存在するものに関わるための手段であり、象徴があるところには、象徴しているものが実在するという理解が正教会の伝統的理解である。

     

    宗教改革期に、シンボルという語の使い方が、ないものを指し示す記号と理解が変質してしまったように思われる。象徴とは、神のみ思いに関与することとか、神のみ思いに、あるいは神の世界に、人間が参与するための手がかりの様なものであると言えよう。

     

    キリストの冒頭の二文字を示すシンボル  http://glasshousetheology.com/christian-symbols/ から

     

    象徴(シンボロン)とは 触る世界、モノの世界についてもも言えて、感覚でも知性でも捉えることのできないものを、絶対的な他者である神からプレゼントされたものといえるだろう。この世界は神からのプレゼントであったのではないだろうか。その意味で、食べ物を神が与えられたものとして体験して味わう世界があったはずである。神が人の使命として食べるようにされたとも言えるだろう。食物を食べて喜ぶことを人の喜びとするように、与えられたのが食べ物であり、そして、食べることで神に感謝して生きる生き方が、人間の創造されたときの本来の生き方であるといえるのではないか。その意味で、食べ物と霊的なことと一つであると思う。あるいは、食べるということが神との交わりの一つであるとも考えることができ、神から与えられたものを食べるということと生きることは一つであると考えることもできるだろう。ある面、人間は、この世界を食べて生きているのであり、神の被造物世界を取り込んで、人間は生きているとも言えるだろう。人が失ったのは、食べ物を神からの贈り物として受け取るという関係性だろう。その意味で、食べる場を神との交わりの場とするのではなく、結果的に、食べることを生存や快楽の手段とするようになった。

     

     

    被造物の世界を横領し、簒奪した人間
    人間が神からこの世界を横領して、切り刻んで、扱えるものにしてしまったものが近代と言えるだろう。食べることは肉体維持の手段になり、霊的精神的なことが神との交わりの手段になってしまった。それは、人間が被造物の世界を神から横領してしまったことになるのではないだろうか。(ミーちゃんハーちゃん註 スコット・マクナイト著『福音の再発見』では、人間が神のみ座の簒奪者になってしまった、という表現が出てくる。)

     

    キリスト教の中にも聖書、霊的なことだけを神からの啓示の唯一の手段としてしまう。パンとぶどう酒での聖餐式、聖体礼儀は受難の記念として実施しているに過ぎない、とする人々もおられるようだが、ハリストス(キリスト)が成し遂げたものは、ものの世界と、失われてしまった、神と人が交わる生き方を回復することであった。

     

    イエスは、ご自身をとって食べよ、とおっしゃった方であり、更に、盃を差し出して、これをとって飲めと差し出されているお方なのである。食べることの新しい意味を示された方であったのである。新たなる創造の世界を知らせようとされたのがイエスだったのである。その意味で、キリストの復活は新しい回復された世界を指す。この世界に生きることは、それ自体神との交わりの世界であり、生活そのものが、行きてこの世界に生きることが神への賛美であり、礼拝であるという生活であるといえるのではないか。それを、教会という神の国の先取りをした場で実現しつつある、と考えるのである。(ミーちゃんハーちゃん 註 なお、このことも、N.T.ライトの『クリスチャンであるとは』の礼拝や祈りのあたりの話として触れられている。)

     

    教会はイエスご自身のお体でもあり、その意味で、教会は、キリストの御体として、ご自身の体を差し出しているはずである。ちょうどエデンの園で、神ご自身がエデンの園のどの木から取って食べても良い、といわれたことが教会で再現されているようにさえ見えるのではないだろうか。正に、教会は神ご自身の体と血、神ご自身の御体になっている、と言われているのではないだろうか。

     

    領聖生活とは、聖なるものに領る生活であり、聖なるものを大事に味わって生きる生活である。我々の現在の日常生活は、食べ物に喧嘩腰に向きあっていくような生活になっっているのではなかろうか。食べ物を食い散らかすか、対立的に向き合うような生活になっている人間の姿ではないだろうか。自己中心的、人間中心的な情念により、神が与えたもうたこの世界や、神が与えたもうたこの世界と、そこから生まれる地の産物である食物と仲良くできなくなってしまっているのではないだろうか。

     

    大斎の機関、食事に関する制限するのは、もう一度贈り物としての食べ物を喜ぶためである。聖書にもあるように口に入るものである食べ物は心を汚すものではない。

    【口語訳聖書 マルコの福音書】
     7:14 それから、イエスは再び群衆を呼び寄せて言われた、「あなたがたはみんな、わたしの言うことを聞いて悟るがよい。
     7:15 すべて外から人の中にはいって、人をけがしうるものはない。かえって、人の中から出てくるものが、人をけがすのである。
     7:16 〔聞く耳のある者は聞くがよい〕」

     

    食べないということを通して、食べることの素晴らしさを取り戻そうとしているのが大斎ということなのであり、もともとの世界の関係に大斎でに立ち返ろうとしているということでもあるだろう。あえて、食べなないことで、ほんとうの食べることの意味を取り戻そうとしているのが、大斎の世界である。

     

    救い(聞き手註:多分、『新世界の回復)の意味)のリアリティを取り戻すため、あえて食べず、祈りと物忌み(祈りと断食)によらないと奇跡は起きないという、ハリストス(キリスト)のことばもある。

     

    【口語訳聖書 マタイによる福音書】
     17:20 するとイエスは言われた、「あなたがたの信仰が足りないからである。よく言い聞かせておくが、もし、からし種一粒ほどの信仰があるなら、この山にむかって『ここからあそこに移れ』と言えば、移るであろう。このように、あなたがたにできない事は、何もないであろう。
     17:21 〔しかし、このたぐいは、祈と断食とによらなければ、追い出すことはできない〕」。

     

    ミハ氏註)))

    新しい創造が起きる世界(いわゆる終末の完成)では、全てのこの地上の不具合についての回復があり、創世記一章で神が「良かった」とする世界の本来の姿が取り戻されるる世界を想定するので、ある種の奇跡は、完全な世界(それがどのようなかたちや姿のものであるかは別として)のこの地上で先行した実現となっている、という理解であることに由来するのだろうと思われる。このあたりのことは、N.T.ライトの『クリスチャンであるとは』でも繰り返し述べられるテーマである。

     

    とはいえ、断食したからと行って、奇跡ができるわけではない、と個人的には思っているし、奇跡を起こすために断食するのは、基本的に神の主権を認めていることにならず、人の主権を優先することになるように思うのだなぁ。

    ミハ氏註)))

     

    断食による食べることの意味の回復
     ところでなぜ、断食する期間を持つことは、食べることの意味の回復につながるのだろうか。私たちは食べ過ぎ。食べすぎた翌朝の厳しさはよく知っているのではないだろうか。

     

    断食をしていると、イライラしたり、余裕を失ったりするために、どうしても自分の弱さが露呈する。断食をすると、無気力になることもあり、これらのことを通して、どれほど、食べ物が我々の日常を支えているかを、実感を通して感じることになる。


    大斎の期間を取ることは、この期間にある種の、しくじりをすることが大事なのであり、自分自身の弱さを通して、そして、肉体を通してそのしくじるさまを思い知り、神の前に立ち返ることに意味があるのである。とりわけ、しくじりの中で自分の弱さを知るのでだる。詩篇の中にあるように、砕かれた心、すなわち神の前に自らの弱さを認める心の大切さを覚えるためとも言えるのではないだろうか。

    【口語訳聖書 詩篇】

     51:16 あなたはいけにえを好まれません。たといわたしが燔祭をささげても
    あなたは喜ばれないでしょう。
     51:17 神の受けられるいけにえは砕けた魂です。神よ、あなたは砕けた悔いた心を
    かろしめられません。

     

    ウェア主教という、アングリカンから正教会へ移り、活躍した人がいるが、そのウェア主教は、大斎の意味は、神への依存を理解させるためであり、大斎の期間に感じる空腹と疲労は神への依存を気づかせるためである、と書いている。

     


    ところで、伝統宗教は空腹を経験させる。それは、人間の魂の渇きをとおして、魂の神と一体化する喜びを求めさせる部分があることの反映かもしれない。肉体の飢え渇きは、実際に、魂の渇きとつながっており、さらに、神への飢え渇きへと変わってくることを直感的に人間が知っていることに由来するのではないだろうか。

     

    奉神礼の祈りというのがあるが、この大斎の時期は、祈りのことばへの感受性が普段より深いものになってくることを経験する。ある意味で、断食が高める宗教的な感受性があるように思う。

     

    そして、この大斎の後には、神の食卓に招かれるという約束を具体的に象徴するイースターがあり、神の祝宴(セレブレーション)では、ものすごいごちそうが待っていることを味わうのだ。普段はなんの気なく食べている卵一個や、チーズのひとかけらが実に非常においしい、と感じるのである。あえて、食べないことで、食物の味わい深さを覚える大斎の期間の平日の準備が、日曜日の聖体礼儀において成就する、ということをより強く感じるのである。そして、日々の生活の意味(神の恵みに支えられている生活の意味)を感じる事ができるのである。なお、修道院では、一日が聖体礼儀で成就すると言うかたちで実現していく。

     

    その意味で、大斎の機関は、大斎のあとの成就としての到来する喜びの復活祭の準備機関でもある。ある意味、食べることは、食べるものを我々に与え、いのちのパンとして我々の御子を我々に惜しげもなくお与えになった、神との交わりでもあることを覚えることになるのではないだろうか。

     

    サクラメンタル・ライフ(機密的生活)という言葉があるが、それこそ、この神が与えたもうた、いのちに触れ、命をいただくことによって生かされている生活なのではないか、と思う。

     

    ミーちゃんはーちゃん的感想

    概ね、講演の要旨をミーちゃんはーちゃんがまとめるとこんな感じになろうか、と。なるほど、伝統教派の世界とはこう言う構造なっているのか、と改めて感じ入った次第であった。

     

    このお話を聞いたときに思い出していたのは、アメリカにいるときは、販売されている生魚の処理がおっかなくて生魚の断食状態、お寿司の断食状態にあったときのことである。そういえば、納豆もなかなか美味しいのは食べられなかったので、冷凍され、輸入された納豆を時々食べていたが、そんなに美味しくはなかった。帰国した時に食べた回転寿司はこの世のものと思われないほど美味しかったし、帰国して最初に食べた、スーパーで売っている特売の納豆が、実に美味しかったこと美味しかったこと、そんな妄想がぐるぐる回っている状況の中で、お話を聞いた。

     

    あと、この講演でも明らかになったように、世界の新しい完成というか、新しい創造をこの世界で味わうというこの正教会の伝統的な考え方は、もともと、伝統教派がもっていたものであり、カトリックでも、これらの伝統がかなり変質してしまっている現状があり、プロテスタントでは、レントの期間がもはや認識されることすら少ない現状(まぁ、つい最近まで、ミーちゃんはーちゃんもそうだった)を考えると、N.T.ライトを読み、これらの概念に触れた方が、この講演会で述べられた正教会系の伝統に触れたら、いきなり正教会に転会とか転向はあるだろうなぁ、と思った。

     

    まぁ、ミーちゃんはーちゃんがアングリカン・コミュニオン系の教会に今、割と足繁く通っているのも、この辺の教会の伝統の重さと、その聖書理解と象徴との関係具合に触れてしまったからではあるのは確かである。もちろん、ミーちゃんはーちゃんが聖餐式マニアなのと、今足繁く通っている教会では、毎週どころか、週に二回も聖餐式に参加させてくださっているからではあるけれども。

     

     

    回転寿司 http://gendai.ismedia.jp/articles/-/48327?page=3 から

     

    以上、参加した講演のご紹介でした。

     

    次回からは、N.T.ライトの『クリスチャンであるとは』のご紹介に戻ります。

     

     

     


     

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    赤木 善光
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    コメント:非常に良かった。聖餐を考える際には非常に参考になった。

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