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2017.03.01 Wednesday

N.T.ライト著上沼昌雄訳 『クリスチャンであるとは』 その38

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    前回はトピックス的に、最近出たMinistryの詳しすぎないように心がけた、ご紹介をいたしましたが、今日はまた、本題に戻って、N.T.ライトさんの『クリスチャンであるとは』からご紹介していきたいと思う。

     今日からは、祈りについての部分である。

     

    ライトさんによる主の祈り 略説

    冒頭に主の祈りがかかげられており、そしてその主の祈りについて、ライトさんは次のように書いている。

     

    もちろん、人それぞれに多少異なった訳の主の祈りを好んでいる。(中略)ただ、幾つかの問題がある。特に(『マタイ』『ルカ』及び初代教会で『十二使徒の教訓(ディダケー)』と呼ばれている書物において)この祈りのギリシャ語原点が全て同一というわけではなく、英語訳の用語もすべて原語に対応しているわけでなく、イエス自身が用いたと思われるアラム語の味わいを正確に再現しているわけでもない。しかし、それは問題ではない。表面的なことで惑わされないようにすべきである。(『クリスチャンであるとは』 pp.225−226)

     

    ここで、重要なことは何を祈っているかであって、それがどのような語であり、その祈りの先にあるもの、祈りの表現の先にあるものと我々がどのような関係にあるのかが重要なのだ、ということをここでも繰り返していっている。礼拝や聖餐のときと同じメタファー(礼拝での儀式に使うものがぶどう酒か、ぶどうジュースか、ホスティアか、パンか、パン種を入れたパンなのか、入れないパンをもちいるのか、は、礼拝そのものから比べたら、よほど重要性が低く、礼拝や聖餐そのものが指ししメス者に、着目すべきである、という立論の仕方をしている。それはそう思う。

     我々はあまりに瑣末なことばかりに目が生き、自分自身のやり方が良いと納得させようとするのである。ギリシア語だろうが、ラテン語だろうが、アラム語だろうが、日本語だろうが、大正改訳だろうが、口語訳だろうが、新改訳だろうが、新共同訳だろうが、そんなことはあまり本質的なことではないのではないか?というのが、ライトさんのお立場のようだ。そのとおりだと思う。

     

    ミーちゃんはーちゃんが育ったキリスト教は、かなり特殊なキリスト教であったように思う。こういう儀式的な祈りは祈りではない、成分祈祷は祈りとは呼ばない、という扱いをする教会群で育った。毎週のように、この主の祈りをすることはなかったので、未だに、主の祈りが新改訳風だったり、口語訳風だったり、ちゃんぽん状態になったりして、みんなで日本語で祈るときには、主の祈りを祈りましょう、と言われても、未だにまごまごしてしまう。困ったもんだ。今は、諸般の事情で、英語の式文の教会に行っているので、全部その日のバージョンの主の祈りが書いてあるので、迷うことはない。まぁ、Your が Thy となってたり、Forgive us our sin が Forgive us our tresspassesとなってたりする違いはあるけれども。

     

    まぁ、個人的には、tresspassesを使った祈りに触れたことで、あぁ、神の前の罪って、こういうことなんだなぁ、ということがよくわかった経験がある。罪とは、神の領域に不法侵入することなのだ。いわば米軍施設に不法侵入するようなものだ。いや、不法侵入しちゃうのが人間なのかもしれない。悪気なく。米軍施設の場合は、軍用犬に吠えられるならまだましで、銃殺されても何も言えない。

    No Tresspassingと書いた看板 http://imagict.com/ja/words/trespass より
    空軍の女性MPと軍用犬 
     http://www.usafpolice.org/k-9.html より
    主の祈り、そのコンテンツ
     主の祈りの内容とその意味について、最初にミーちゃんはーちゃんが考え始めたきっかけになったのが、N.T.ライト読書会であった。全く主の祈りを無視するかのごとくスルーした教会のなかにいた。一応、イエスが弟子に教えた祈りであるから重要、という程度が主の祈りの評価であり、主の祈りは一応、重要であるということになっているが、この祈りについての説教を教会でほとんど聞くことがない教会)で長年過ごしたものとすれば、テゼの祈りの会に言ったり、牧師さんの会に混ぜてもらったりする時に主の祈りをスラスラ言える人達を見て、すごいなぁ、と思っていたことがある。自由祈祷衷心であり、成文祈祷はメドゥーサではないけれども、医師のような祈りとか、死にかけているような祈りという認識でしかなかった。そこで、ライトさんの主の祈りの論文を読んだもんだから・・実に衝撃的でした。

     

    主の祈りに関しては、山崎ハンサム先輩と大頭先輩が呼ぶ、山崎ランサム和彦さんが次のようなシリーズを書いておられます。参考になろうか、と思います。

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

    さて、その主の祈りの文言を参照しながら、イエスが成し遂げられたことについて、ライトさんは次のように書いています。

     

    この祈りはすべての点で、イエス自身の行ってきた業を反映している。それは、一般化された意味での「神性」や「神的なもの」に対する一般的な祈りではない。典型的なユダヤ人の祈りではない。(中略)

    いずれにせよ、父の御名が崇められ、父の王国が天においてなるように地にもなる時が来たと触れ回ったのはイエスであった。荒野で、群衆をパンで養ったのは、イエスであった。罪人を赦し、イエスに従うものも同じようにするようにと語ったのはイエスであった。目をしっかりと開いて「試練のとき」の中を歩み、イスラエルと世界を襲う大波のような艱難を、そのすべての力を自分のみに負い、人々を救ったのは、イエスであった。神の王国の到来をもたらし、神の力を行使し、神の栄光を表すために死なれ、よみがえられたのはイエスであった。(同書 pp.226-227)

     

    イエス時代の当時の典型的なユダヤ人の祈りがどんなものだったかは、よく存じ上げませんが、殉教したと伝えられるユダヤの アキバ ベン ヨセフ (手島イザヤ先生ご指摘ありがとうございます。)ラビ、ベン・アキバ(似たようなこの名前を持つMoshe Ben Akiva と言う、実に恐れ入るような名前の地域科学の研究者がいる。その昔、論文を多数読んだ。)は、記憶が間違いなければ、殉教し絶命する時にシェマーを唱えていた、祈っていたという伝承があるとかないとか聞いたことがある。なお、シェマーとは、イスラエルよ聞け、で始まる申命記の部分である。

     

     

    【口語訳聖書 申命記】

     6:4 イスラエルよ聞け。われわれの神、主は唯一の主である。
     6:5 あなたは心をつくし、精神をつくし、力をつくして、あなたの神、主を愛さなければならない。

     

    とりあえず短め、ゆっくりした発音のシェマー

     

     

    シェマーの祈りの祈り方 (別バージョン)

     

     

    ところで、神の国(天の国)が来た、と触れ回ったのはイエスである、とライトさんは書いているが、それはどうも、「父の王国が天においてなるように地にもなる時が来た」とまさしく、この主の祈りの中の文言の中に現れることが、この地に実現するということを触れ回ったということであるのだろう。どうも、イエスは、「将来、死んだ後、イエスに従うものは、天国に行ける」と言ったような、天国教の教えを説いたわけではない、ということをライトさんはここでも言おうとしているかのようだ。我々を神のみ思いの世界(天において、行われることを、我々が実際に行う、ということ)に参加し、関与させようとしている神のご計画のことをライトさんはここで言っている。イエスを信じるとは、イエスに倣うことであり、神のみ思いの実現に進んで関与していくことだ、と言っているような気がする。

     

    正に、主の祈りは、イエスの生涯そのものであったし、我々もそれに従うように、弟子として、神の荷姿を回復するように、この祈りの中に招かれている、つまり、主の祈りを唱える時に、ライトさん風の言い方をするならば、天と地が噛み合うということに我々が招かれており、その場所に我々は、招かれているのだ、ということなのだろう。単に死後の復活だけに招かれているのではなく、その前の神の支配、神の存在が我々に近づいたことを知らせること、さらに、悪なるものを赦し、和解をすること、神を愛するとともに、あなたの隣人、敵をも愛することに導いていることを考えると、実にものすごい内容を主の祈りは含んでいると思う。

     

    悪のはびこる世界の中での祈り
    残念ながら、現代の社会把握のはびこる社会である。その中で我々も、完全でない人間として行きなければならない。悪には勝てない、神に向かいつつあるものの、神ではない人として行きなければならない人間は弱い。実にか弱いものにすぎない。努力ではどうにもならない。神に煮るものとは完全になりえない。神に回復を願わねば、神との関係はすぐ崩壊してしまう。それが人間であると思う。そのために、主の祈りが必要だ、とライトさんは次のようにいう。

     

    私は、悪が未だに猛威をふるっているこの現実の世界に生きているため、守られ、救出されることが必要だ。そして、これらすべてのうちで、また全てを通して、私は父の王国、その力、栄光を認め、かつ誉め讃える。祈りたいことの殆どが、この祈りの中で扱われている。(同書 p.227)
    いま、言っている教会の式文では、聖餐の前に、この祈りをみんなで祈る。それは、非常に印象深い経験になっている。習慣としての祈り、祈祷のテンプレートだけに沿って祈っているわけではない。聖餐の前にこの祈りを唱えることで、この祈りと聖餐とがつながっており、キリストの体と地を取り込むことと、弟子となっていくことがかなり密接に結びついていることを感じるのだ。そして、我々が神を試みるものとはならないこと。つまり、イスラエルの民がマサで神を試みたように試みることのないように、神に願っているのが、この祈りでもあるということだろう。とくに、我々を試みに合わせることがないように、ということは、神を試み内容に導いてほしいということが、この試みに合わせないよう似、という祈りの文言に含まれているのではないか、と、巣鴨でのN.T.ライト読書会でライトさんが書かれたものには書いてあったように思った。まぁ、我らは、神を怒らせるようなことをすぐにやっちゃうものなのだろうなぁ、と思う。

     

    【口語訳聖書 申命記】
     

     6:13 あなたの神、主を恐れてこれに仕え、その名をさして誓わなければならない。
     6:14 あなたがたは他の神々すなわち周囲の民の神々に従ってはならない。
     6:15 あなたのうちにおられるあなたの神、主はねたむ神であるから、おそらく、あなたに向かって怒りを発し、地のおもてからあなたを滅ぼし去られるであろう。
     6:16 あなたがたがマッサでしたように、あなたがたの神、主を試みてはならない。

     

    主の祈りを実際には、どう用いるのか
    祈り方には、色々ある。祈りの言い方にも人それぞれという部分がある。主の祈りや沈黙の時間をあまり重視しない、キリスト教の関係者の集団の中で育ったので、ことばなしに祈るという経験はあまりしたことがなかった。前回の記事で言えば、祈りの中に余白を置かない、余白をあえて置かない、あるいはあえて神の前に沈黙せず、沈黙することに恐怖や怖れを感じるような世界の中で、キリスト者としての歩みを形成してきた。

     

     ゆっくりと祈るということが、ことばを味わいながら祈るということが、どちらかと言うと不得意なキリスト者人生を送ってきた。その昔は、ことば数が多ければ、・・・それが熱心であるかのように思っていた。そのような祈りについての感想を持っていた。しかし、レクティオ・ディヴィナという祈りに出会い、静かに静まって祈ることを覚えてから、余白を置くような祈りを覚えてから、祈りに対する考え方は少し変わったようなきがする。まぁ、馬齢を重ねただけのことはあったのかもしれない。神の恵みであったのであろう。
    ライトさんは主の祈りの用い方について、次のように書いている。

     

    ある人は、「主の祈り」をゆっくり数節づつ唱えては休止し、神の前に出て、その語っていることがもたらすものに浸るようにして祈る。ある人は、もっと長く祈るとき、そのはじめか終わりにそれを唱えることを好む。その祈りによって、他に祈ったことをすべて適切な文脈に位置づけたり、まとめたりするためである。ある人は「主の祈り」をゆっくりと、何度も繰り返すことで、神の愛と臨在の深みに入ったり、天との領域が重なるところに踏み入ったり、日々の糧、許し、救いをもたらす福音の力のうちに自分を浸す助けになる。
     いずれにしても、用いたいと思うやり方で用いるのが良い。今いるところから始め、導かれるままに祈っていくとよい。(同書 p.228)

     

    最近になって、「主の祈り」をゆっくり数節づつ唱えては休止し、神の前に出て、その語っていることがもたらすものに浸るようにして祈る ということの意味や味わいがおぼろげながら、なんとなくわかってきた。そして、「主の祈り」をゆっくりと、何度も繰り返すことで、神の愛と臨在の深みに入ったり、天との領域が重なるところに踏み入ったり、ということの意味や味わいがわかるようになってきた。神の愛と臨在の深みに入ったりということは、自分のうちに余白としての神の前に沈黙する、あるいは黙想するという部分を残すということなのではないか、自分の思い出語り尽くしてしまわないことかもしれない、と思うようになってきたのである。まぁ、自分自身が辛い時、余裕のないときには、そういうことは実際には難しいことではあるが。

     

    人それぞれは違うし、神の人に対する取り扱いも違うように思う。それは大事にしたほうが良いと思う。また、それぞれの教派的伝統もおあり、個人個人の信仰の背景も違うので一般化したことは言いにくいが、しかし、取り憑かれたように、短時間に何回繰り返すかを競うように祈る(それこそ、言葉数が多ければ、の世界であるが)のが全てではないのだろう。ここでは、浸すと訳されている語は、go down intoという語が用いられていた。それは、ある種、バプテスマの儀式とよく似ている。それもあって、浸すと上沼さんは訳されたのだと思う。

     

     神の前に、神とともに、神の深みとご自身の姿を捨てて、仕えるものの姿の世界をとられたキリストの姿の中に入っていくこと、それは、キリストのご生涯のクライマックスでおきた死の世界に入っていくことと深い関連があるのかもしれない。

     

     ハリストス正教会の皆様は、大斎(おおものいみ)の期間にお入りになられたし、本日はちょうど灰の水曜日である。イスラエルの民が、神の前に立ち返る際に灰をかぶって、悔い改めた姿を思い、我らも神の前に反省し、悔い改めを覚える日でもある。そのような受難節、レントの時期であるからこそ、天に登っていこうとする信仰ではなく、地の深みに下っていく、苦しみに向かって行かれたイエスの信実(信仰)を覚える意味でも、この主の祈りをゆっくりと唱えることで、そして祈りを通して神の深みに降りて行く経験は、案外大事なのかもしれない。

     

    なお、ミーちゃんはーちゃんは、本日、灰の水曜日の聖餐式に、夕方参加してきます。

     

    次回は、今回のおりていくという部分とも深く関係するため、この前参加した大阪ハリストス正教会で開催された大斎(おおものいみ)についての講演会の記録からご紹介してみたい、と思います。そして、その後、また改めて、ライトさんの『クリスチャンであるとは』の連載に戻ります。

     

     

     

     

     

     

     

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    コメント:入門書としては、最高。実際にやって見られることをおすすめしたい。できたら、司祭などのディレクションがある方がいいとは思うけど。

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