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2017.02.27 Monday

Ministry32号を読んでみた

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    N.T.ライトさんの『クリスチャンであるとは』の解説をしてみることも個人的には面白いのだが、今日はちょっと箸休め的にMinistry32号から紹介してみたいなぁ、と思う。この号がまた、いつものように良いのである。この号の特集テーマは、教会を開く、というものであった。地域に教会を開く、という試みをしている例がいくつか紹介されている。例えば、代官山ノエルとか、たかとりコミュニティセンターとかの事例紹介とか、熊本の日本キリスト教団武蔵ヶ丘教会の記事や、名古屋の大須の街なかにある教会のメンバーでもある、教会ホームページ作成会社の代表の丸山さんなどの記事などが出てくる。

     

    前回のテーマは「ヲタクとキリスト教」あるいは、「ヲタクとしてのキリスト教」であったようにおもうが、今回のテーマは、『教会を開く』というよりは、『(教会から)出ていって戻る』ということかなぁ、と思った。 それは本ブログで今月紹介した、リングマの『風をとらえ、沖へ出よ』(あめんどう刊)とも響き合う内容であったように思う。なお、同書については、Ministry32号でも紹介記事がある。


    出ていって戻る教会
    まず、今回印象に残ったのは、街中を巻き込んで市民クリスマスなどを通り越して、街中をクリスマス・イベント会場化した代官山ノエルについてのインタビュー記事の中に記されている、ある教会の役員のこの言葉であった。

     

    一連の変化を、教会員はどう受け止めているのだろう。同席したある役員は、「これまで教会を開いたのはバザーやコンサートぐらいでした。『外に打って出る』教会の方向性は、本来のあるべき姿だと思います」と好意的だった。かつては地元に住む教会員もいたが、最近は遠くから通ってくる信徒が多くなったため、地域とのつながりは希薄になっていたという。(Ministry Vol.32 p.7)

     

    外に打って出る』つまり人々のところに、これまでは信徒が遣わされていたが、この際、共同体として教会全体が遣わされていく、ということを『外に打って出る』ということで、多分表現しておられるのだろうなぁ、と思った。「教会を開く」だと、どうしても、お籠もり型というか、教会に来てもらってなんぼの世界であり、教会にやって来いの世界が待っている感じがするが、出て行く「外に打って出る」教会というのは、人々のところに行って、キリストをご紹介する、キリスト者としての生き方を外部世界の方々にも見てもらって、キリストに不十分な我等であるが、そこに存在しているはずのキリストに出会ってもらおう、という感じになるのだろうと思う。

     

    中世の西洋都市や橋頭堡のような日本の教会
    個人的には、これまでの日本の教会は、地域社会の中における、西欧の中世都市のようなものだと思う。その昔、ミーちゃんはーちゃんは、都市計画の勉強をかなり真面目にした。その時、藤森照信さんという方の書かれた本の、明治の東京計画という本を読んだことがある。その中で印象的だったのは、中世ないし近世の都市と城郭についての西洋と日本の違いということであった。同書の中では、西欧型(大陸型)都市は、非常に強い卵の殻のような所々に空気穴がちょこっと空いたような城壁を建て、それにより外部からの侵入者から内部を守り、外から都市を攻撃するものに対応するための施設を作り、街全体をぐるっと回り込むようにして防御するように設計する。また、橋頭堡も敵地の中の上陸地点として作るので、堀や壁を作る構造にならざるをえない。

     

    しかし、日本型の都市は、ちょっと違うのである。藤森さんの本によれば、日本型の都市は、キャベツ型であるとされていた。一応防御は柔らかに対応しているものの、その防御は柔らかいキャベツの葉で重層的に包み込むようにして都市とお城を守るようになっているという。実は日本の城下町の寺院は、そのキャベツの端を支えるキャベツの葉っぱの軸みたいな役割を果たし、出城の役割を果たせるように配置されていることが多い。

     

     

    姫路城 http://www.wikiwand.com/ja/%E5%A7%AB%E8%B7%AF%E5%9F%8E から

    確かにのの字のように、お城を取り巻く街がぐるぐる巻いている感じになっている

     

    江戸城 古図  http://www.arcgis.com/apps/MapJournal/index.html?appid=952c9f55f20f446ca248460dbcb4e322

    (上の図をクリックすると、インタラクティブに遊べます。)

     

     

    日本語の近代の国家理解(都市理解)による聖書の誤読
    日本の都市では、市民は戦争が始まると領主と一緒に戦わず、戦闘員以外の民は、手前勝手に逃げる、という設定になっているので、お城の中の人と市民が協調して戦うという思想がない。しかし、エリコなど旧約聖書に出てくる都市やイタリアの諸都市は、市民とその地域の王や領主が共闘する運命共同体的戦闘ということになっている。そのために市民も籠城戦になれば王たちや武装勢力と一緒に戦うのである。その市民の中には、教会も入る。教会や地域社会という運命共同体が先にあって、それに領主が乗っかっているという構造になっているように思う。血を流して戦うような都市間戦争が近代では、もうなくなったので、領主と市民についての関係について、そのような印象は一般の方々には、ほぼもう無いだろうが。

     

    ラファエルによるエリコの落城の絵画 

    http://www.art-prints-on-demand.com/a/rafaello-santi-raphael/raphaelthefallofjerichoc1.html

     

    指輪物語での城壁攻防戦のシーン

     

    そもそもこのブログは、余談だらけの記事だらけなので、あまり気にはしてはないが、かなり重要な余談として言えば、このあたりの都市居住の伝統というか現代の日本と聖書の世界の地域における文化習慣がかなり違うので、神の国(神の(都市)国家、神の支配)と言った言葉の中核にある意味は、かなり日本語的な語感と文化的コンテキストのイメージを前提として読むのと、新約聖書や旧約聖書が書かれたヘブライ語なり、アラム語なり、ギリシア語なりの語感と文化コンテキストで読むことの間にかなり違いが出るように思うのだ。なお、旧新約聖書時代の国家は、ある種の運命共同体としての基本都市国家のはずで、近代の国民国家ではないはずであるが、時々、それを国民国家の路線で理解している日本人キリスト者も少なくはないように思う。

     

    国民国家なのに都市国家風 トランプ大統領の壁
    もう一つ、書きながら思ったことは、ドナルド・トランプアメリカ合衆国大統領がメキシコとの間に万里の壁(The Great Wall)を作るというのは、金をかければ技術的には可能であるとは思うが、基本的に彼の世界観がかなり中性的なヨーロッパ的な都市国家のイメージで、アメリカ合衆国という国民国家(それも移民によって成立してきた国民国家という血縁とか地縁とか言った現実に根ざす共同体を持ち得ないかなり仮想的な制度)とを混乱して構想しているのではないのか、という疑念がある。都市国家概念で語っているのならば、外の世界と内側の世界を厳密に分けることにならざるをえないように思うのである。以上余談。

     

    出ていくための場所としての教会

    ってくる場所、家としての教会
    教会が「外に出ていく」、あるいは、教会全体が外に遣わされる、というのは面白い発想だなぁ、と思った。現在、アングリカン・コミュニオンの教会にほぼ毎週通っているのだが、その教会では礼拝の最後は、いつも、この教会に集まった人たちに祝福があるように、とはあまり祈らない。

     

     

    礼拝の締めの言葉は、多少表現が違うこともあるのだが、

     

    Go in Peace, to love and to serve the Lord,

     

    と司式者がいい、それに参加者(会衆)が

     

    in the name of Christ.  Amen

     

    と応答し、Go in Peace to love and to serve the Lord, in the name of Christ.という文章を完成させるかたちで礼拝そのものが終わる。そして、この言葉を応答する時、自分たちは、神を愛することを表現し、神に仕えるために、この世界に派遣されているのだなぁ、と毎週感じながら、家や職場や、地域での生活に出ていくのだなぁ、という印象を強く持つ主日を過ごすさいわいを感じている。

     

    教会の中での余白を考えたいなぁ
    その意味で、日本の中世及び近世都市の設計が城壁で内と外をきちんと分けるような構造になっていないように、そもそも、すべてのものに白黒つけず、どこからがうちで、どこからが外で、ということをファジーに処理しているような日本社会だと、ここからが教会です、とか、ここからが教会外です、みたいな白黒つける存在の仕方は、あまり賢いとはいえないのかもしれないなぁ、と思ったのである。

     

    つまり、わけの分からない余白というか間の部分を残しておくこと、それって日本社会の中で神の支配を伝える上では、案外大事なのかもしれない、と思ったのである。とは言え、日本は明治以降プロテスタント型教会がその成立に大きな影響を与えた、西洋に倣うタイプでの近代化を目指してきたので、どうもこの手の余白を残すタイプの方法論に対して疑問がつく人々も多いのではないだろうか、あるいは、日本の現在の多くの教会は、ことばで塗りつぶそうとしてきた部分もあったのではないか、と思う。余白というか、沈黙というか、Silenceというか、静まりというか、神が働かれる部分というか、神と出会う部分を残すということは案外大事なのかなぁ、と最近は、The way of the heartと言うナウエンの薄い本をよみながら、思っている。まぁ、このタイプの本は、宣教地である日本のプロテスタント派の皆様方には、理解されにくいのかもしれないが。

     

    ウィリアム・ウィリモンと言う説教者であり説教学の偉い人らしい方がおられるが、以前Ministry誌で紹介された説教なんかは、突然終わって断絶を感じさせるタイプの断絶をもって、空白の部分、余白の部分を生み出していたように思う。その意味で、西洋近代式の伝統にあっては、それ以外の余白の生み出し方がないのかもしれない。それとは違った余韻というか余白の残し方が別にあるのではないか、とは思っている。

     

    ルオーの絵のような説教
    個人的には、お考えと違うところもあるかなぁと思うところもありながらではあるが、その存在を尊いなぁと常々思っている朝岡勝さんという方が今回も寄稿されていたが、そこでは、賛美歌でほぼお腹いっぱい状態の若者に、それでもあえて説教のことばを届けようとするご努力をされた状況のことが、ご自身の経験として書かれていた。それを読みながら、西洋近代風の説教と言うか、西洋絵画の行き着いた先にある絵画のような、油絵をこれでもか、と載せていくタイプの絵画である、ルオーの絵画ような重厚な説教だったんだろうなぁ、と思った。まぁ、若者には貪欲に消化する体力があることが多いので、貪欲な若者向きの説教であったし、それに朝岡さんはお答えになられたのだろうなぁ、と思った。それもまた、若者に向かって、そして、神の言葉に貪欲な若者という存在に向かって、外に出ていく、ということなんだろうなぁ、と思ったのである。実際、寄稿文の最後あたりの部分で次のように書いておられる。

     

    祈りと黙想を重ねて、そのテキストを通しての神の語りかけを聞く。これらの作業をすすめるに当たっては、まことに充実したツール(引用車註 ギリシア語やヘブライ語の聖書やコンコルダンス、注解書など)が揃っている。それらを駆使して、テキストに固着して対話を続け、さらに黙想を重ねて語るべき「ことば」を獲得していく。(Ministry Vol 32 p.62)

     

    ルオーの絵 https://jp.pinterest.com/THartdiva/georges-rouault/

     

    水墨画   伝 宮本武蔵画 古木鳴鵙図 http://photo-tetujin.sblo.jp/article/28313845.html

     

    この絵の話でも明らかなように、どちらがいいという話ではない。要するに個人の好みの話であって、個人的には、語りすぎない説教もありだ、と思っているだけである。まぁ、聖書の中身の殆どない、前の一週間の業務報告で埋めたような説教は、お断りだと思っているけれども。

     

    もう、老年に向かいつつあるミーちゃんはーちゃんは、脂っこいフランス料理とかは無理になりつつあるので、けつねうろんのような教会で過ごしたいでござる。関西の教会の愛餐の定番料理、けつねうろんを教会に食べに行きたいわけではないが。関西人なので、けつねうろんは好きだが。

     

    けつねうろん  http://magomagom.exblog.jp/12218479/

    阪急三宮駅のフレッズ ベーカリーという パン屋で売っていたきつねうどんパン のポスター
    http://nlab.itmedia.co.jp/nl/articles/1406/12/news135.html から
    (カレーうどんパンのほうが美味しかった記憶がある。きつねうどんパンとカレーうどんパン、の両方食べたことがある。)

     

    教会が外に出ていく、とかいうことを書くと、行きっぱなしになるのではないか、と一部の方々はご心配になられるかもしれないが、それは行きっぱなしとなることは、決してないように思う。外に向かって出ていったら、また戻るのである。ちょうど、エジプトに行った、ヤコブとその民がアブラハム・イサク・ヤコブの地に戻ったように、行っては戻るのである。バビロンの地に行ったままではなく、バビロンに連れられて行ったアブラハム・イサク・ヤコブの民がその父祖の地に神のもとに戻ることは必要だろうと思うし、戻るのである。あるいは、放蕩息子のように行きっぱなしではなく、放蕩息子は戻るのであり、エマオの途上でイエスに出会った弟子がイエルサレムに戻るように、行ったり来たりすることが必要なのであるし、その意味で、聖書の物語と我々が生きている物語は行ったり来たりの物語なのではないか、と思うのである。


    外に出て行き、戻ってくる世界
    外に出ていく、ということで言えば、本ブログでも、以前、比較的あっさりしたご紹介をした聖書信仰に関する本がある。

     

    藤本満著 『聖書信仰』を読んだ(1) 


    藤本満著 『聖書信仰』を読んだ(2) 終わり

     

    藤本満著 『聖書信仰』を読んだ のコメントにお応えして

     

    これも一種従来の「聖書(逐語)無誤論」や「聖書(逐語)無謬論」という枠組みから外に出ていかれるような印象を与えるほんではあるものの、基本確実に聖書に戻る本であった。この本をお書きになられた藤本満さんと編集委員の平野さんとの対談の中での、平野さんの次のご発言が非常に印象的であった。

    外からは「教理の理解が違うのに一緒に説教が作れるのか」とよく言われます。たしかに教理論争をはじめたら一緒に勉強できないかもしれません。しかし、生活の場で丁寧にテキストを読んでいく時に、ことばが通じ合うんです。それぞれの教派的個性を失わずに、教会という場、現代という社会的なコンテキストの中で神学していくという可能性があるんだろう、と思います。(Ministry Vol 32 p.39)

    このなかで、「教理の理解が違うのに一緒に説教が作れる」ということや、「現代という社会的なコンテキストの中で神学していく」ということは社会の中に、教会の外に出ていくような説教をつくる、ということだろうし、その上で、「教会という場、(中略)で神学していく」ということは教会の中の世界に戻ってくるということではないのかなぁ、と思った。

     

    第2特集 沈黙

    もう一つ、特集として組まれた、沈黙という映画は、ちょうど世俗の仕事がピークを迎えた時期であり、余裕を失っているので、未だに鑑賞しに行けてないが、一度生鑑賞してみたいと思っているので、詳しい論評は避けたいが、いろいろな情報を得た範囲で考えるに、映画の中で描かれたキチジローやロドリゴという司祭たちは、旧約聖書のイスラエルの民のような人物なのではないか、と思っている。正に、神から離れ行きながらも、神に立ち戻る人物たちの一つの姿として描かれているのかなぁ、と思うのである。


    まぁ、実際には映画を見に行ってみて考えたいと思う。

     

     

    ということで、いつもよりは、詳しすぎない紹介にしたつもりだが(編集長、いつもすまん)、今回は非常に印象的なテーマである「教会から出ていったあと、教会に戻ってくる」が全体を通して流れていたと思う。


    この号は、ご一読をおすすめする。前号も面白かったけど、全面にヲタクセンスが立ちすぎて・・・(個人的にはそっちのほうが好きだったけど)

     

     

     

     

     

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    コメント:これは、前の号

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    コメント:大変よろしいか、と思います。

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    コメント:おすすめします。

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