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2017.02.25 Saturday

N.T.ライト著上沼昌雄訳 『クリスチャンであるとは』 その37

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    今日もいつものようにたらたらと、N.T.ライトさんの『クリスチャンであるとは』を読みながら、面白いなぁ、と思ったことについて書いてみたい。今日もまた、聖餐の理解についての部分である。個人的には聖餐式が大好きな聖餐マニアなので、今日の部分なんかは面白かった。


    聖餐式の誤解について

    パンを裂くことと『献げもの』(Offering)との間にどのような意味があるか、ということに関する部分で、プロテスタントはプロテスタント風の行き過ぎがあるようだし、カトリックはカトリックで行き過ぎがあるようなのだが、聖餐の理解をどうするか、ではなく、聖餐という儀式そのものが指し示そうとしていること、そのものに着目してはどうか、というのがライトさんの主張のようである。ライトさんは次のように書いておられる。

     

    これらのことを踏まえた上で、ぜひ検討してみたいことは、あるクリスチャンの伝統がしてきたことだが、パンを裂くことを『献げもの』と語ることに、どのような意味があるか、という点である。そのことは、結構長い間議論されてきた。そして、二つの誤りがなされてきた。第一に、献げものは、旧約聖書の中で礼拝者が神の好意を得るために「行う」ものだと思われてきた。それは正しくない。
    それは、ユダヤ人の律法そのものに対する誤解から来る。そこでは、献げものは神によって求められてはいるが、感謝するために捧げられたのである。神を買収したり、神をなだめたりするためではなかった。(中略)
    第二は、パンを裂くことと十字架刑によるイエスという献げものとの関係が終始混乱してきたことである。カトリックは通常、それは一つのことで同じだという。それに対してプロテスタントは、その見解はかつて一度なされたために二度と必要のないことを繰り返すようなものだと反論する。(中略)
    このような不毛な議論は、天と地、神の未来と現在という組み合わせの二つが、イエスと聖霊にあってひとつになるという、大きな絵図から礼拝を考えることで乗り越えられると私は信じている。聖書的な世界観(現代の思想は、かつて程、それを否定したり、無視したりはしない)では、天と地が重なり合う特定の時間と場所では、イエスと聖霊がその指標となる。(『クリスチャンであるとは』pp.221−223)

     

    旧約聖書の規定(律法)をよくよく考えてみると、大贖罪日とか、和解のためとかに献げものが神の前に捧げられているのを確かに見る。いちばん有名な献げものは、もうすぐやってくるイースターとも関連が深い、過ぎ越しの祭のときの献げものが思い浮かぶ。その過ぎ越しの祭は、神が過ぎこされたことを喜び、開放され、旅にこれから出ていける、という意味での祝祭の要素が強いはずなのだけど、とは思うのだが。

     

     あるいは、和解のために献げものにしても、和解したことを喜んでいる儀式のはずなのに、なぜか、相手をなだめるための儀式として理解されているのはなぜなのだろう。

     

    ノアが大雨の後ささげた献げものは、これ以上大雨を降らせないために、神様に納得してもらうための犠牲ではなく、それこそ、被害を起こさないようにお怒りを問いてもらうための献げものでもなかった。大雨が終わったことを素朴に喜んでいることを示すためのような気がするんだけどなぁ。

     

    献げものについて

    日本の神道的な世界での献げものとか、バアルの礼拝の一環としての献げものは、お怒りになっている神々をなだめる、いわば賄賂みたいなところがある。これあげるから、悪いこと起こさないで、とか、これあげるからいいこと起こして、とか言うところがないわけではないように思う。

     

    まぁ、日本の神の場合は、基本が悪しきことを起こす祟り神という存在として理解されているので、そうなるのはわかる。ヤマタノオロチもそうだし、この時期受験との関わりで、とくに参拝者の増える菅公様とか天神様として知られている菅原道真公信仰も、基本的に祟り神信仰に出発点があるように思う。しかし、菅原道真公は、学問ができたから、ということもあるためか、現在、学問の神様、ということになっているが、本来は都に災いをもたらす祟り神としてなだめるべき対象であったのである。

     

    菅原道真公を祀る太宰府天満宮(受験の神様をお祭りしている、とされている神社)

    https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%AA%E5%AE%B0%E5%BA%9C%E5%A4%A9%E6%BA%80%E5%AE%AE より

     

    菅原道真公絵巻の一部

    https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8F%85%E5%8E%9F%E9%81%93%E7%9C%9F より

     

    なお、ミーちゃんはーちゃんは、太宰府で売っている梅ヶ枝餅は結構、好物だったりします。

     

    梅が枝餅  https://matome.naver.jp/odai/2146599453661136601/2146599774564446703 から

     

     

     先にも少し述べたが、聖書でささげもの、と言ったときには、基本的にCelebration、つまり祝祭の側面が強いように思うのだが、聖餐式という祝祭については、その祝祭の前にイエスの苦しみの方にばかり目が行きがちで、本来の目的である祝祭という側面がかなり希薄な気がする。昔は、かなりそのような理解の傾向が強く、喜びの結果としての献げもの、祝祭としての献げもの、という概念はあまりなかったように思う。いくつか、キリスト教会と呼ばれたところに行ったが、この祝祭としての献げものということをあまり感じた教会は少なかったように思う。まぁ、真面目に静粛にしているという事が日本の教会では、多いからかもしれない。

     

    バッハ作曲 音楽の献げもの

     

    聖餐式のパンに関する理解いろいろ

     ローマ・カトリックの理解では、聖餐式のパンとイエス様は同じで、それは神の臨在を表すという理解であられるようなので、パンがあるところが聖なる場所、ということらしい。この辺はよく知らないが、確かに聖餐式にもちいるパンがイエスの実在だという理解がカトリックの世界には、どうもあるらしい。このお正月にお知り合いになった、あるプロテスタントのグループから、カトリックに移籍された信徒の方にお会いしたが、その方がいまだにかなり違和感があるのは、この聖体であるパンがあるところがキリストのおられるところであり、キリストのおられるところは、このパンがあるところだ、という理解だそうらしい。化体説を取ることからの延長の理解なのかなぁ、と思っている。この辺は、実はかなり微妙だけれども、どれか一つの理解で全て説明し尽くそうという近代の時代の中で、発展し普及した理解なのかもしれないなぁ、と思う。個人的には、すべてのことは言語や理屈で語り尽くせないから、そこは、そっと触らずにおいておくのが良いようにも思うのだが。


    天と地、神の未来と現在という組み合わせの二つが、イエスと聖霊にあってひとつになる、ということは、大事だと思うのだなぁ、聖餐は、まさに我々のうちに、パンを口から取り込むことで、パンという物質が象徴するイエスを我々が取り込み、うちにいてくださるという意味で、一つになる、すなわち、天に属するイエスと地に属する我々が一つになり、そのことを天に属する聖なる神(聖神あるいは聖霊)を通して、神と我々がひとつになることを求める(礼拝する)ようになるという意味で、天と地はたしかに、聖餐式において一つになっているように思う。

     

     ここで、「天と地が重なり合う特定の時間と場所では、イエスと聖霊がその指標となる」という表現は、実に味わい深い表現だと思う。ここでは、指標 Key markersという語が用いられているが、それは、他のものとは異なるものと区別できるような印象的な特徴あるもの、ということだろうし、区別することができるような特徴といったような意味ではないか、と思う。それは、特徴としての跡(マーク、ないしマーカー)、神によってつけられた手の跡のようなもの、神が残された痕跡といったものなのではないか、と思うのだ。

     

     この間、あるユダヤ学関係の人と話していた時の話が印象的であった。たまたま、なんで陶器の話になったかは忘れたが、陶器の話になった。その時お互いの頭のなかにあった聖書のテキストは、この聖書箇所だったと思う。

     

    【口語訳聖書 イザヤ書】

     64:3 あなたは、われわれが期待しなかった恐るべき事を

       なされた時に下られたので、山々は震い動いた。
     64:4 いにしえからこのかた、あなたのほか神を待ち望む者に、このような事を行われた神を聞いたことはなく、耳に入れたこともなく、目に見たこともない。
     64:5 あなたは喜んで義を行い、あなたの道にあって、あなたを記念する者を迎えられる。見よ、あなたは怒られた、われわれは罪を犯した。われわれは久しく罪のうちにあった。われわれは救われるであろうか。
     64:6 われわれはみな汚れた人のようになり、われわれの正しい行いは、ことごとく汚れた衣のようである。われわれはみな木の葉のように枯れ、われわれの不義は風のようにわれわれを吹き去る。
     64:7 あなたの名を呼ぶ者はなく、みずから励んで、あなたによりすがる者はない。あなたはみ顔を隠して、われわれを顧みられず、われわれをおのれの不義の手に渡された。
     64:8 されど主よ、あなたはわれわれの父です。われわれは粘土であって、あなたは陶器師です。われわれはみな、み手のわざです。

     

     

     

    我々は、神という陶器師に作られたものであり、陶器が一つとして同じものがない(安物の陶器は別として、そこそこの値段のする陶器は、ほぼ同じ形で作られていても、完全に同じものはないし、同じ形であっても窯の中でどの場所に置かれるか、窯の温度の上がり具合によって、灰のかぶり方によって、実に一点一点違う形になっていく。それと同じように、陶器として例えられた人間は神の手形が、その人の中の出っ張りやくぼみのように残っているカスタムメイドの存在である、ということについて、その方と少し話していた。我々には、神のマーカーが、見えないマーカーがついているのではないか、と思う。

     

    陶器  http://www.tnm.jp/modules/r_collection/index.php?controller=dtl&colid=G5749 より


    そのマーカーが付いたものが集まってきて、マーカーを与え給うた神を礼拝するという、実に面白いことが礼拝のときには起きているのだと思う。

     

    あるいは、マーカー、目印という意味では、ミーちゃんはーちゃんは、街を歩く時、あるいは車で街を運転する時、幾つかの特徴的な建物や印象的な景色やお店を目印、マーカーとして使うことがある。それは、迷わないための工夫であったり、目的地に到着しやすくするための工夫でもある。マーカーと目的地の位置関係を思い出しながら、目的地に到着しようとすることが多い。イエスや聖霊は、神を拝する、神と一つになるという目的地に達するために用いる目印(マーカー)と考えると、わかりやすいかもしれない。


    不毛な議論を避け、

    儀式が指し示そうとするものと向き合うことの大切さ
    礼拝が天と地が交わる、重なっているということを考える時、何を見るべきか、礼拝という儀式で指し示す者を重視すべきであって、そこでのスタイルとか、何をどうするのかに、必要以上に引きずり回されてはならないことに関して、ライトさんは次のように書いている。

    こうした理解が、礼拝についての全ての考え方、教会で行われる聖礼典についてのすべての議論に、正しい枠組みを与えると私は信じている。それ以外は、枝葉、好みの問題、それぞれの伝統、さらに言えば、個々人の好き嫌いであり(自分の好みについて人はそう呼ぶ)理屈に合わない偏見(別の人の好みについて人はそう呼ぶ)である。
     すなわち、この食卓にまつわる不毛な議論をすることで、自分を見失ったり、礼拝の中心行為を十分味わうことから遠ざけられたりしないようにしよう。(同書 p.223)

    まぁ、人が一番議論しやすいのがここで言う枝葉の部分であることは間違いない。それは参加者全員が見えるし、そのことについて云々(デンデン)することは容易だからである。しかし、それは、好みの問題、伝統の問題だ、と言っておられる。一番受けたのは、「個々人の好き嫌いであり(自分の好みについて人はそう呼ぶ)理屈に合わない偏見(別の人の好みについて人はそう呼ぶ)」という表現である。実にブリトン人らしい皮肉である。個人的にはこういうクスクスっと笑える表現は大好物である。


    ところで、多くの場合、教会で不一致や揉め事が起きるのは、この枝葉の問題、好みの問題であることが多いのは、30余年という短い信仰生活でも思い知ってきたところではある。キリストが神である、とか、キリストが何者であるか、ナザレのイエスは十字架の上で死んだ、というようなことを巡って、論争が起きることはめったにない。割りと些末な技術論で揉めること、瑣末なことを針小棒大にしてしまっていて、そこに「聖書的」とかいう理解を持ち込もうとするから、枝葉末節にすぎないことの議論に振り回され、揉めるだけだなぁ、と思う。実に不毛だと思うことが多い。

     

     ライトさんは、枝葉末節の議論に振り回されるよりも、その本質のところにあるもの、礼拝が指し示す、神の臨在をもっと味わおうではないか、と書いておられる。しかし、ミーちゃんはーちゃんを含む多くの人々は、不毛な議論のほうが議論にとっかかりやすいから(と言うよりは、議論をふっかけることが簡単だから)、つい、こういう不毛な議論の中に陥って、自分を見失ったり、あるいは逆上したり、居丈高に声を荒げたりしがちなのである。実に残念であるが。

     

     

    http://www.resologics.com/mediation/ から

     

    まぁ、枝葉末節の議論は、わかりやすいし、容易に議論に参加しやすい。しかし容易に議論しにくいような問題、例えば、教会がなんのためにあるのか、ということ、何のために自分は教会に行くのか、教会とはなにか、といったような問題は、じっくり考えたほうが良いかもしれない。これは簡単に答えが出ない、紋切り型の答えでは、その問いに答えたことにならない。時々、簡単に答えが出しにくいことと向き合ったほうがいいのかもしれない。

     

    ただ、こういう答えが出しにくい問題といつもいつも向き合っていると、気が狂いそうになることは論を俟たない。そのためには、時々自分勝手に、神に議論を勝手に吹きかける、問いかけるのをやめ、一人静まって神の前に出るしかないのだと思う。神の前に問いかけるのをやめ、静まったから、と言って答えがすぐには見つからないだろう。しかし、ことばの支配や論理の支配から抜け出すためには、時に、あえて、ことばや論理を使うのを一時的に止める必要も、時にはあるように思う。

     

    次回へと続く。

     

     

     

     

     

     

     

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