<< N.T.ライト著上沼昌雄訳 『クリスチャンであるとは』 その35 | main | N.T.ライト著上沼昌雄訳 『クリスチャンであるとは』 その37 >>
2017.02.22 Wednesday

N.T.ライト著上沼昌雄訳 『クリスチャンであるとは』 その36

0

     

     




    Pocket
     

     

    音声ファイルダウンロード先

     

    まぁ、いい加減同じような話を繰り返しているので、呆れられている方もおられるとは思うが、ミーちゃんはーちゃんにとっては、面白いんだからしょうがない。今日も、いつものようにN.T.ライトさんの『クリスチャンであるとは』から読んでオモシロイと思ったあたりのことを書いてみたい。


    聖餐式のコップ論争
    プラスティックのコップなどうのこうのというところについて、前々回少し議論を拡げたが、アメリカにいる時、あるキリスト教書店に行った時に、こんな商品がおいてあったのでびっくりしたのである。

     

    ホスティア付き聖餐式キット 

    http://www.celebratecommunion.com/prefilled-communion-cups-with-wafers-free-sample-box.html 

     

    プラスティックカップのみならず、聖餐式のパンまですでに封入されて、これだけ貰えれば、一人で聖餐式ができるようになっている。アメリカ人らしい発想の商品だなぁ、と思ったことがある。ぶどうジュースとパンをセットにして封入しているのである。

    おそらくは、ラジオで説教聞きながら、会堂に入らずに礼拝をするような教会とか、メガチャーチとかで、パンを配るのがものすごく大変な教会とか、そういう教会のために開発されたものではないか、と思う。まぁ、ここまで、やるか、と思ったけれども、行き着く先はここなのだろう。

     

    お友達のミゾタさんが調べ上げたところによると、聖餐式のコップを分けて、銘々皿ならぬ銘々コップにしたのは、どうもアフリカ系アメリカ人差別が関係しているのではないのか、ということであった。一種人種差別と関係しているかもしれないというニュアンスがあるのである。本当にそれが原因なのかどうかについては、今のところ保留している。

     

    以前、同信会さんというエクスクルーシブ・ブラザレン系の教会の歴史が同信会関係のサイトに上がっていたところでは、割と古くから、別々のコップ(と言うよりは個人専用の湯呑み)がそこでは使われていたことが記載されていた。それは、どうも、昔は日本人の死亡率の堂々の第1位出会った結核(労咳)の感染を防止するためであったと書いてあったようなきがする。

     

    このような伝染病を始めとする社会的な問題と聖餐の問題はキリスト教の礼拝の儀式の様式に影響を与えていることは少なくないと思う。ただ、問題は、どのような方法でするかとか、どのようなスタイルでやるかということよりも、その象徴的なものが何を指し示しているのか、ということの理解であって、かたちそのものではない。ともすれば、どんな様式でするかにばかり、我々は目が行きがちであるが、何を見るべきかに関して、ライトさんは次のように書いている。

     

    ぶどう酒のグラスとプラスチックカップのことに戻ってみよう。ある教会では、(いわば)最高級のグラスを購入しても、ぶどう酒の質を誰も気にかけないことがある。同様に、グラスをやめプラスチックに変えたことを誇る教会でも、実質的な意味より、外見に注意が向いていることがある。 (クリスチャンであるとは p.221)

     

    外形的なものも重要だとは思うけど、問題は必要以上に外形的なものに拘って、実質的、本質的なところに目が行かないことが多いことかと思う。

     

    個人的に、昔ある方の結婚式記念で頂いた、錫(ピーター)製のコップでの聖餐が非常に好きであった。どっしりとして、夏でも冷たい重たい肉厚の錫のコップ派、実に口当たりも良く、硝子のコップのように肌をさすところがなく、安心感が漂っていたのであった。ただし中身は、ウェルチのぶどうジュースであったけれども。

     

     

    錫製のカップ こんな感じのものでした。

     

     

    プラスチックカップの聖餐とミーちゃんはーちゃん

    もともといた教会でも、新型インフルエンザが流行したことを契機に、開拓した宣教師の希望もあり、もともとのピーター製の一つのコップを回し飲みするかたちの聖餐式から、小分けしたプラスティック製のディスポーザブル・カップに変えたら、もとに戻らなくなった。変えてしまうと、もとに戻らないこともあるように思う。

     

    ところで、プラスティックではなく、ガラスカップという説もあったのだが、誰が洗うのか問題が出て、これは実務を担う婦人会の皆さんからの大反対で、ガラスカップではなく、いきなりプラスチックカップになった。まぁ、儀式的なことや象徴性をあまり重視しない(それはミーちゃんはーちゃんにとっては残念なことであったが)教会であったので、その意味では似つかわしいカップだったかもしれないと思っている。しかし、今、こういうことを大事にする教派にいるので、その意味で、今はかなり幸せである。

     

    赤玉ポートワインを使っていたなぁ

    禁酒運動の影響を受けて、もともといた教派での教理が形成された経緯もあったので、厳格な禁酒を是とする教会で育ったため、お酒は飲まない人になった。そのため、ミーちゃんはーちゃんには、ブドウ酒の善し悪しがわからない。最初は、赤玉ポートワインを使っていたが、いろんな議論を経て、未成年者とアルコール不耐症の人がいたため、ある段階から、最終的にぶどう酒ではなく、ぶどうジュースとなった。ぶどう酒は酸化が激しいので、サントリーのぶどう酒の代替品として日本国内で作られた、赤玉ポートワインを利用しているところは多かったのではないか、と思う。1週間で、ぶどう酒一本を開けるような教会も少ないから、赤玉ポートワインのような実質発酵をさせないようにしているワインとならざるをえないのはわからなくもない。

     

    ところで、完全に余談になるが、最近でこそ、国産ワインなども出回るようになり、輸送技術の変化もあり、海外さんワインなども大量に入ってくるようになり、日本でのボジョレヌーボー騒ぎにも見られるように、それなりにワイン文化もかなり変形しながら持ち込まれるようになってきたようであるけれども。教会でどんなワインか、ぶどうジュースがつかわれているのかは、一度調べたら面白いかもしれない、と思う。

     

    前回紹介した土の陶器製の聖餐式のコップというのがいいなぁ、と思ったのは、あのコップは、正に天と地が一つになっている、ということを表しているからかも、と思ったのである。人間という土の器が、神の霊をいだき、イエスをうちに抱くその姿を示しているという意味でも、いいなぁ、と思ったのである。
     

    ここで、「プラスチックに変えたことを誇る教会でも、実質的な意味より、外見に注意が向いていることがある。」ということは、象徴とその指示すもの、という関係をよく捉えていると思う。結局象徴とその表面を見るのではなく、象徴を指し示してしているものや、指し示し方の段階で心や思索が止まってしまい、本来見るべき象徴が指し示している存在、その象徴の奥にある存在であるべき、神や、神の臨在、神ご自身の関与、と言ったことに目が向かないことは多く、その表面的なレベルでしか他者に関与していかない底の浅さのようなもの、本来見るべき神の姿と神の似姿や、神のかたち、ないし、神のかたちのかたちに現れる神の姿に目が向けられず、本質的な議論がなされないのは、実に残念ではないかなぁ、と思ったりはしている。

     

     

    本末転倒・・・
    教会改革というのはあちらこちらで起きているし、試みられている。しかし、そこでは、本来取り分けるべきものも、古いから、と言ってゴミのように捨ててしまう例、あるいは、お湯と一緒に赤子を流してしまった事例が結構見られるように思う。その辺のことについて、ライトさんは次のように書いている。

     

    何れにせよ危険性は、いわゆる「カトリック的な儀式」に限定されるわけではない。十字を切るにあたって、正しい時に正しい仕方ですることに拘る人もいれば、礼拝中に手を上げることにこだわる人もいる。また、十字を切ったり、手を上げたり、その他の動作を何もBしなくてよいBと主張する人もいる。私はある時、全く見当違いに驚かされたことがあった。ある教会では、ガウンを着た聖歌隊とオルガニストを、あまりに『プロフェッショナル』に見えるからと廃止したのだ。その後、その教会では6名の人を雇った。彼らは礼拝中ずっと音量のダイアルを回し、レバーを調節し、音質と照明とプロジェクターを操作している。(同書 p.221)

     

     

    確かに、伝統教派は儀式的で良くないとかいう方々がおられるが、そのような方々は、ご自身たちが、聖書を毎日読むという儀式、聖書を開けるという儀式、そして、読んだ気になるような儀式にとらわれているとも言えるかもしれない。前位にもここで書いたかもしれないが、ミーちゃんはーちゃんの出会った御高齢のご婦人方の中に、自分は聖書が読めないからキリスト教徒としてだめなんじゃないか、と言い出した方がおられた。それを思った時に、結局聖書を開けて文字を読むという儀式にとらわれておられたような気がする。聖書を読むことがその方にとって目的化しているのではないか、と正直思ったのである。聖書信仰派的な儀式ができていたり、○○派的な儀式ができているんじゃないか、と思う。その意味で、かたちにとらわれるのではなく、その奥にあるものを追求することこそが大事なのではないか、と思う。

     

    礼拝と静まりの意味

    礼拝と静まりの関して、上のようなことを思っていると、ナウエンのThe way of the heartという本の中にこんなことが書いてあった。

     

    We have become so contaminated by our wordy world that we hold to the deceptive opinion that our words are more important than our silence.  Therefore, it requires a strenuous discipline to make our ministry one that leads our people into the silence of God.  That is the task Jesus has given us. The whole of Jesus' ministry pointed away from himself to the Father who had sent him. (中略)

    In order to be a ministry in the Name of Jesus, our ministry must also point beyond our words to the unspeakable mystery of God.(The way of the heart, Henri J.M. Nouwen p.49)

     

    ある面で、プロテスタント派の教会の多くは、ことばで語ることにひどく汚染されていて、その枠内でしか、神を礼拝することができなくなっているのかもしれない。沈黙に耐えられない教会とか、沈黙に耐えられないキリスト教徒とか、というのもあるのかもしれない。


    今ほぼ毎週通っている、聖公会に行くと、聖餐式で跪く人もいるし、聖餐のパンを受ける前に十字を切る人もいるし、十字を切らない人もいるし、いろんな聖餐のパンを受け取理方があり、それが併存している。個人的には、抵抗感はないのだが、まだまだなれていないので、適切な切り方ができないので、そのまま、頭を下げて受け取ることにしている。まぁ、そういう多様な受け方を許してくれている今の教会のあり方が非常に気に入っているのだが、先日、退職した司祭が司祭としてではなく一信徒として、聖餐式に参加された時、ずっと跪いたままで受けておられたのを見て、あぁ、美しいなぁと思った。

     

    おんなじようにボタンはいっぱいついてるけど・・・
    あまりにプロフェッショナル風に見えるからと言って、そして、オルガニストと、コンソールを弄る人は、キーボードをいじったり、ボタンを押したり、引いたりと、似ているといえば似ているが、同じものではない。ガウンを着た聖歌隊とオルガニストを廃して、プロジェクタとシンセサイザー、音響や照明のレベルのコンソールをいじるという形に変わったのは、実に残念だと思う。と言うのは、壊してしまうと、もとに戻らないことのほうが多いのだ。ミーちゃんはーちゃんが経験したように、ピーターの器からプラスチックに変わったあと、ピーターには戻らなくなったように。まぁ、だからといってプロジェクタとシンセサイザーを駆使している教会が、伝統のある教会の真似をして、聖歌隊風の格好をしたりするのは、なんか板につかなさを感じることがある。チグハグな感じというのか、バランスが取れてない感じがするのだ。

     

    パイプオルガンのボタン類 https://en.wikibooks.org/wiki/Organ/Operating_the_Console

     

    今教頭のコンソール類 https://jp.pinterest.com/pin/2251868534100449/

     

    お友達のミゾタさんが伝統教派の様式を、別の福音派の教会で全体像を思いつきや、あまり深い考えないで復活させよう、という動きに対して、常にかなり厳しい反対のご意見をお述べになられる。それは、この辺の板につかなさというのか、チグハグな感じが残るからだろうし、その儀式や様式が含んでいる意味とそれが指し示しているものを、十分に考えずに導入してしまうと、あるイシュ言い方は悪いがフランケンシュタインのような礼拝になるからだろう。とは言え、現実とのバランスを取らないといけない面もあるので、現実とのバランスをどのように取るのか、そして、それを聖書の全体と合わせて考えていくのか、ということは、くれぐれも慎重に考えていくこと、広い意味での神学をすること、真剣に神学し、それを時間をかけて、会衆に伝えていくこと、そして、納得してもらうことは大事なのではないか、と思っている。


    今まで見学させてもらった日本ハリストス正教会、コプト正教会、カトリック教会、聖公会などの伝統教派の教会では、聖餐式のパンも残さないし、ぶどう酒も残さない。全部食べきり、飲みきるのだ。そして、それが完全に空になったことを会衆に見せる所作をする教会がある。その所作の意味が最近になるまでわからなかったのだが、完全にパンと盃が空になったことを示すのは、あぁ、イエスが、復活されて、墓が空になり、天に昇られたことを示しているということに最近になって、気がついた。

     

    コプト正教会の聖餐式の最後で殻になった皿を高く上げる司祭(ミーちゃんハーちゃん撮影)


    あぁ、なるほど、このような伝統教派の所作には、本当に細かいところまで考えられているのだなぁ、と思うようになった。儀式を異様に軽視するキリスト者集団で育ってきた身としては、なるほど伝統教派の新体制を伴った儀式には、一つ一つに指し示すものがあり、そして、礼拝全体が全て聖書の物語と神と人との世界を表している、ということを知ることになった。これは、伝統教派でだけ感じられたように思う。そして、礼拝の中での沈黙も含め、その沈黙の中で、神との向き合う時間、そして、そのことを通して感じられる、自分のうちにある神の不在の意味に向き合う意味ということを日々感じている。


    次回も聖餐についての、ライトさんの記述から、引き続き考えていきたい。

     

    次回へと続く

     

    評価:
    価格: ¥ 2,700
    ショップ: 楽天ブックス
    コメント:大変面白いです

    コメント
    ホスティアがセットになってるプラスチックのカップ、札幌の伝道会議で、見ました。
    聖餐式なのに、写メとってる人けっこういました。
    単純に味気ないというか、ありがたみが少ない感じはしました。
    • 後藤真
    • 2017.02.23 Thursday 11:52
    後藤様

    いつもご井闌ありがとうございます。味気ないけどしょうがないですよね。大勢が集まるときの時間短縮校歌。これは絶大。

    でも、そうでなく、大人数でも古のぶどう酒でやるところだと、切らすわけには行かないので、ぶどう酒を並々嫁いだ大きなカップでやり、それを飲み干さないといけないために、若い司祭たちに飲み干す役が回ってくるので、ベロンベロンに和解し祭が酔っ払って、大変とか、聞いたことはあります。

    色々とあるようで。、
    • ミーちゃんはーちゃん AKA かわむかい
    • 2017.02.23 Thursday 23:53
    >どうも、昔は日本人の死亡率の堂々の第1位出会った結核(労咳)の感染を防止するためであったと書いてあったようなきがする。

     もう五十年以上前のお話しdすが、教団の女牧師さん(生涯独身で奉職され、小生の生母さんなどはファンでした)が、一椀の廻しのみを不潔で耐えられないといっていたことを覚えています。感染症などに掛かっている場合には参加を控えるのが当然のように発言されていた気がします。・・・・確かに場合に依りけり泣きもしますが

    >し祭が酔っ払って
     分量を間違えて(参加者の割に、聖体拝領を受ける人が少なくて)六尺を超える立派な体格をされた神父さんが顔を真っ赤になさって漸く飲み干されるのを見たこともあります。・・・結構よくあるお話しのようです。
     実は先日義父が亡くなり、その関係でカトの教会へ暫くぶりに行ったのですが、典礼が大きく変わったこともありますが、聖体を受ける信者さんがホスティアを自ら準備して余らせないようにしていました。合理的と申せばそうなのですが・・・
    • ひかる
    • 2017.03.01 Wednesday 20:18
    ひかるさま

    コメントありがとうございました。
    まぁ、衛星感という意味では、お嫌な方、特に様々な人が集まるような都市部では、そのような方もおられるかもしれませんねぇ。

    とくに、感染症患者が聖餐から排除される、ということを考えるとき、大きめのホスティア(パン)を割いて、それを司祭が、カップのぶどう酒につけて、与える、というスタイルも考え出されていったのかもしれませんねぇ。

    個人的には、今は、ホスティアを受け取り、カップのぶどう酒につけていただくスタイルで落ち着いています。、

    確かに、大勢の人数が集まるときに、聖別する必要もあるので、このぶどう酒の準備量の話は、足らないと困るので、どうしても多めになるようですね。

    特に第2バチカン以降、典礼の変化は激しいようですねぇ。聖変化云々は置いておいても、個人的には、This is the bread broken for you.とかThis is the bread given for you.といわれて渡された時の、感動というか、その象徴の意味の重さは何物にも代えがたい、と思っております。

    ご清覧、コメント、ありがとうございました。
    • ミーちゃんはーちゃん AKA かわむかい
    • 2017.03.03 Friday 07:23
    コメントする








     
    Calendar
       1234
    567891011
    12131415161718
    19202122232425
    2627282930  
    << November 2017 >>
    ブクログ
    G
    Selected Entries
    Categories
    Archives
    Recent Comment
    Links
    Profile
    Search this site.
    Others
    Mobile
    qrcode
    Powered by
    30days Album
    無料ブログ作成サービス JUGEM