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2017.02.20 Monday

N.T.ライト著上沼昌雄訳 『クリスチャンであるとは』 その35

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    本日もいつものように、N.T.ライトさんのクリスチャンであるとは、を読んで考えたことをタラタラと書いてみたい。今日は聖餐についての続きである。

     

    聖餐式の受け止め方
    まず、ライトさんは、聖餐式についてのものの見方やよくある無理解があるのではないか、と思われることについて、懐疑的な三つの視点からの聖餐式の受け止め方のポイントを取り上げ次のように書いている。

     

    はじめに三つの点に触れたい。第一は、共にパンを裂き、ぶどう酒を飲むときは、イエスとその死の物語を語っているのである。イエスが私たちに、「私を覚えて、これを行え」と言われたからである。それほど単純なことである。それだけではなく、なぜなぜイエスがそのように語られたのか、私たちはよくわかっている。(中略)

    第二は、プロテスタントの懐疑的な人がよく心配するように、同情を引き起こすための呪術ではない。その行為は、古代の預言者によってなされた象徴的行為のように、天と地が出会う契機の一つとなるのだ。(中略)

    第三に、それ故パンを裂くことは、時にカトリックの懐疑的な人が、それをプロテスタント信仰と思い込んでいるが、昔起こったことを単に思い起こすだけの機会なのではない。私たちがパンを裂き、ぶどう酒を飲む時、私達も最後の晩餐の二階広間に弟子たちとともにいる。私たちはゲッセマネでのイエスと一つになる。(『クリスチャンであるとは』 p218−219)

     

    まず、それがイエスの命令であるというのは、聖書の中に、次のように書かれていることに跡付けられる。

     

    【口語訳聖書 ルカによる福音書】
    22:19 またパンを取り、感謝してこれをさき、弟子たちに与えて言われた、「これは、あなたがたのために与えるわたしのからだである。わたしを記念するため、このように行いなさい」。
     22:20 食事ののち、杯も同じ様にして言われた、「この杯は、あなたがたのために流すわたしの血で立てられる新しい契約である。


    正に、この命令があるからこそ、聖餐式をやる意味があると思うのだ。ただ、毎週やれ、とも書いてないし、日曜日にだけやれ、とも書いてないし、日曜日以外の日にやってはいけないとも書いていない。また、聖餐式がどのような形のものや、どのような受け取り方の所作によるものであるべきだ、とも書いてはいない。この二年余りの間、コプト正教会、ハリストス正教会、カトリック教会、聖公会、改革派、改革長老派、福音ルーテル派、バプティスト派、フリーメソディスト派、(外資系)ペンテコステ派などなど、あちこちの教会巡りをしたが、聖餐式がない教会も、結構多くて、それは聖餐式マニアとしては、かなり残念だった。また、聖餐式の進め方も、教派ごとに、色々の教派や教会で、違うし、使うパンの種類も、でっかいパンの場合もあるし、ホスチアの場合もあるし、クラッカーを砕いたようなものもあるし、食パンを切り刻んだ場合もある。まぁ、実にいろいろであった。

     

    ギリシア正教での聖餐式

     

     

    カトリック教会の聖餐式(初聖体のときの模様)

     

    聖公会の外人中心の教会というか、出島のような教会で、いつもではないが、式文の中で、聖餐式の前に、かなり頻繁に、このような表現が、司祭によって唱えられる。

     

    Blessed are you, most holy, in your Son;
    On that night before he died
    he took bread and gave you thanks.
    he broke it, gave it to his disciples, and said:
    Take, eat, this is my body
    which is given for you;
    do this to remember me.


    After supper he took the cup;

    and gave you thanks,
    he gave it to them and said:
    Drink this, it is my blood of the new covenant
    shed for you, shed for all,
    to forgive sin;
    do this to remember me.

     

    もちろん、これに関する聖書の部分、例えば、先に引用したルカの福音書の部分でも良いが、まぁ、聖餐式の前に、これを言われるとたしかに、あの、最後の晩餐とこの聖餐式のつながりを強く感じるよなぁ、と思うことしきりなのだなぁ、これが。

     

    概念ではない、この地に生きている人間としての身体性をもって、神の業である聖餐に招かれていること、そして、神ご自身の臨在を味わうことは実に重要なのだなぁ、と思うのである。

     

    プロテスタント懐疑派の心配 呪術では? 

    次に第2の点であるが、プロテスタントの懐疑的な人が心配していることとされているのが、「同情を引き起こすための呪術ではない」ということと、として指摘されていたが、ミーちゃんはーちゃんがもっている英文では、it isn’t a piece of sympathetic magic となっていた。この部分の意味は、英文でもわかりにくい。誰の何に対する同情なのかが今ひとつはっきりしないのである。

     

    神の人間に対する同情を引き起こすということなのだろうか。ミーちゃんはーちゃんは、自分自身では、結構懐疑的な人間だとは思ってはいるのだが、聖餐式をやったからと言って、父なる神が、ナザレのイエスとしてこの地を歩いた神に同情したりとか、そのナザレのイエスへの同情の延長線上で、神が人間に同情したりとか、そんな神概念って、これまで全く考えたこともないので、そのような理解はわからない。

     

    ただ、ライトさんが、「その行為は、古代の預言者によってなされた象徴的行為のように、天と地が出会う契機の一つとなるのだ」という部分はよく分かる。預言者および祭司によってなされた象徴的行為は、確かに、天と地が一つになったとしか考えられない時に出てくる。例えば、エリシャが死んだ子どもの上に体を伸ばしてみたりとか言った行為は、まさに象徴的な行為であった。

     

    【口語訳聖書 列王記 下】

     4:32 エリシャが家にはいって見ると、子供は死んで、寝台の上に横たわっていたので、
     4:33 彼ははいって戸を閉じ、彼らふたりだけ内にいて主に祈った。
     4:34 そしてエリシャが上がって子供の上に伏し、自分の口を子供の口の上に、自分の目を子供の目の上に、自分の両手を子供の両手の上にあて、その身を子供の上に伸ばしたとき、子供のからだは暖かになった。
     4:35 こうしてエリシャは再び起きあがって、家の中をあちらこちらと歩み、また上がって、その身を子供の上に伸ばすと、子供は七たびくしゃみをして目を開いた。

     

    また、エリコの周りを主の箱の前で行進しながら、エリコの町の城壁を七回回って、そのあと祭司が角笛を吹くなどは、神から命じられた象徴的行為ではあったように思う。

     

    【口語訳聖書 ヨシュア記】
    6:6 ヌンの子ヨシュアは祭司たちを召して言った、「あなたがたは契約の箱をかき、七人の祭司たちは雄羊の角のラッパ七本を携えて、主の箱に先立たなければならない」。

    これらは、確かに象徴としての意味を持ったように思うのである。

    ところで、天と地が一つになるというライトさんの表現は、アングリカン・コミュニオンで聖餐式の前の祈祷文の文章などを思い起こさせる。主がここにおられる、ということを、この文章を司祭が読み、それに、太字のように信徒が応答することで、確かに、ここは、天と地が一つになる。

    The Lord is here.
    God’s Spirit is with us.

    Lift up your hearts.
    We lift them to the Lord.

    Let us give thanks to the Lord our God.
    It is right to offer thanks and praise.

     

    そこで聖霊が大きな役割を果たしている、ということを思うのだ。正に、神がここに、そして我らとともにおられて、そしてそのことを、心から喜びつつ、神の臨在に感謝しつつ、その臨在に対する賛美をするという意味は、実によく分かる構造になっている。確かに儀式的で、同情を引き起こすような魔法や呪術や呪文のように、全く意味がわからない、意味を解そうとしない人には見えるのかもしれないが、儀式で用いられる式分とその儀式そのものが指し示そうとしていることは、正に、教会が神と人が出会う場であり、共にいる場であるということを言っているようなきがする。

     

    カトリックの懐疑主義者の心配 単なる儀式

    次に3つ目の誤解とういのか、聖餐式を記念のための象徴としてプロテスタントが理解していると言うカトリックの方々の一部の方々がお持ちの誤解についての部分については、一部のプロテスタント側が、カトリック側の聖餐理解と言うものを過剰に否定して、カトリック教会のやり方を否定しすぎたことにあるのだろうと思う。その一部の言説が一般化されて誤解されて定着したようにも思う。とは言え、ミーちゃんはーちゃんにも、実体変化の話は、よくわからない。よくわからないものの前には、沈黙するしかなく、神の領分の前では、ただただ、モーセ先輩に倣って、靴を脱いで神を礼拝するしかないのではないだろうか。語り尽くしたり、説明し尽くせないものがあるから、神なのではないだろうか。我々は、チラ見をしているにすぎないのに、あまりにそれで全てをわかったかのように語りすぎる悪い癖があるように思う。それは、カトリックの側も、またプロテスタントの側も同じであるように思う。

     

    神の過去と神の未来の現在への侵入

    先に、アングリカン・コミュニオンの礼拝で、

     

    The Lord is here.
    God’s Spirit is with us.

    Lift up your hearts.
    We lift them to the Lord.

    Let us give thanks to the Lord our God.
    It is right to offer thanks and praise.

     

    という式文を、声を出して読み、上のような告白することがあることをご紹介したが、これなどは、神の支配が完全に明らかにされた段階で起きることをこの地においてもやっている、あるいは、神の支配の先取りをしているという感じがある式文である。声を出してこの式文を読むのは、実になかなか、リズム感にあふれていて気持ちがよいものなのではある。賛美歌ではないけれども、ある種のリズムを感じるのである。

     

    しかしそれは、過去が現在に侵入してくるだけではない。もしパンを裂くことが天と地の間の薄い膜が透明になる瞬間の一つであるなら、神の未来が現在に入り込む重要な契機の一つである。(同書 p.219)

     

    パンの場面はいくつか聖書に出てくる。例えば、出エジプトでのマナも関連付けられる。有名な聖書の箇所であるので、皆さんもよくご存知であろう。

     

    【口語訳聖書 ヨハネによる福音書】
    6:30 彼らはイエスに言った、「わたしたちが見てあなたを信じるために、どんなしるしを行って下さいますか。どんなことをして下さいますか。
     6:31 わたしたちの先祖は荒野でマナを食べました。それは『天よりのパンを彼らに与えて食べさせた』と書いてあるとおりです」。
     6:32 そこでイエスは彼らに言われた、「よくよく言っておく。天からのパンをあなたがたに与えたのは、モーセではない。天からのまことのパンをあなたがたに与えるのは、わたしの父なのである。
     6:33 神のパンは、天から下ってきて、この世に命を与えるものである」。
     6:34 彼らはイエスに言った、「主よ、そのパンをいつもわたしたちに下さい」。
     6:35 イエスは彼らに言われた、「わたしが命のパンである。わたしに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決してかわくことがない。

     

    あるいは、イエスの復活後に弟子たちと一緒に食べたパン、エリアが食べたカラスが運んできたパン、荒野のマナ、アブラハム(当時はアブラム)に差し出された義の王メルキゼデクのパン、五つのパンと2匹の魚の奇跡、エマオの途上での食卓のイメージ、これらのイメージが重層的に重なるように感じる、あるいは直感的に理解するときが時々ある。まぁ、これもライトさんの本を読んでからのことであるし、その意味で、ライトさんの書いたものにかぶれているのだろうと思う。ただ、この重層的に重なって迫ってくる感じは、多分にアングリカン・コミュニオンの式文を読んでの聖餐式においてではあるのが、今ひとつ謎なのだが。

     

    多分、式文の中に散りばめられた聖書の中から抜き出したことばから、そして、時間をかけて編み出された式文の中で、同じ言葉を重層的に繰り返していく中で、そのような神と人が出会っている世界、すなわち、「天と地の間の薄い膜が透明になる瞬間の一つ」の瞬間にいざなわれているのかもしれない。

     

     

    この陶器製のコップはいいなぁ、と思った。

    http://www.ocalawestumc.com/ministries/worship-and-the-arts/holy-communion.htmlより

     

     

    5つのパンと二匹の魚のモザイク画 http://www.holylandchristiansouvenirs.com/loaves-fishes-mosaic.html より

     

    エリアのイコン http://www.iconsandechoes.com/2013/12/holy-prophet-elijah.html

     

     

     

    次回はプラスチックコップの話にもう一度触れます。

     

    次回へと続く

     

     

     

     

     

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