<< リングマ著 『風をとらえ、沖へ出よ』 をよんでみた 中 用語と概念のご紹介 | main | N.T.ライト著上沼昌雄訳 『クリスチャンであるとは』 その31 >>
2017.02.08 Wednesday

リングマ著 『風をとらえ、沖へ出よ』 をよんでみた 下 感想と、この本は誰のための本か

0

     




    Pocket
     

     

     

    音声ファイルダウンロード先

     

    さて、リングマ著  『風をとらえ、沖へ出よ』 も、今回が最後であり、本書をよんでみた感想めいたものを書いて、本書のご紹介を終わりたい。

     


    時間をかけて放浪、模索することの重要性
    本書で大事なこととされていることの一つに、十分時間をかけて放浪すること、模索することの大切さが、以下のように書かれていた。

     

    物事が変わるためには、その出発点としてまず、人々の生活の中で伝統のなめらかな流れに裂け目が入るような、何かが起こる必要があります。疎外や失望の経験、より良い道の模索、教会市場のラディカルな運動について知ること、聖書に新しい答えを求めること、これらの、そしてまた他の多くの触媒が聖霊に用いられ、痛みを伴う模索が始まります。つまり、変革が一つの可能性となるのは、慣れ親しんだものがもはや信頼できなくなるときです。旧い選択肢がもう満足できないものになると、私達は新しい問いと選択肢を模索し、物事を新しい視点から見始めます。


    新しさを求める多くの人々の模索は、残念ながら正にその段階で終わってしまいます。伝統を問い直せば、自動的にオルタナティブなものが実現すると誤解しているからです。こうしたことは往々にして、ひどく勘違いされています。真に新しい答えやアプローチは、早々簡単に向こうからやって来ません。また、旧きをふるい落とすことは、私達が考える以上にずっと難しいのです。旧きは私たちの現在の価値体系の一部になっていて、それ故私たちの分別の一部であるため、そうとう執拗で頑固です。(『風をとらえ、沖へ出よ』 p.135)

     

    前回の記事でご紹介した、クリティカル・シンキングの関連リンクとして紹介したウェブサイト クリティカル・シンキングの3つの基本姿勢: テクニック以前に必要なこと という文章の中に、次のような文章がある。

    これは、自分自身、あるいは相手の思考のクセを意識しながら考えようということだ。たとえば、人は誰しも、何かを考える際には暗黙の前提 ――個人的価値観や過去の経験からの教訓―― を置いているものだ。それを認識したうえでコミュニケーションや問題解決をしていかないと、いつまでたっても議論がかみ合わなかったり、非常に狭い範囲で問題の解を求めてしまいがちになったりする。
    (中略)

    こうした思考のクセを見抜くコツ、特に気がつきにくい自分自身の思考のクセを見抜くコツは、自分自身を客体化し、客観的に眺めてみることだ。自分自身を第三者の目で見ることと言い換えてもいい。そのうえで、「自分の判断に影響を与えている価値観や好き嫌い、思い込みはないだろうか?」と自問してみるとよいだろう。

     

    こうした思考のクセを客観的に把握することができれば。議論のすれ違いや、解の見落としは格段に減るはずである。また、そもそも自分の考えが常に最善であるとは限らないし、むしろ隔たっているのではないかという前提のもと、他者との対話や、自分にない視点に触れることを通じ、互いに建設的に考えを高めていくことに議論する意義がある。クリティカル・シンキングは他者の批判あるいは自己の正当化を目的とするものでは決してないということである。

    ここで、リングマさんが言うように「旧きは私たちの現在の価値体系の一部になっていて、それ故私たちの分別の一部であるため、そうとう執拗で頑固」ということがあると言うのはその通りであろう。我々の思考枠は、あるパターンにロックインされており、それを相対化しづらいからなのだ。ある思考法に取り憑かれてしまうと、そして、その思考法から開放されずにいると、本来見るべきものを見失ってしまうことが起きてしまいかねないようである。思考法、の代わりに神学的思惟、と言ってもいいかもしれない。つまり、人は何らかの思考枠や思考のパターンや、神学的思惟のパターンに捕囚されているし、されざるをえないのだと思う。

     

    十分に時間をかけて変容していくことは重要だ、と思う。何より、変革は革命型、急進型の運動体をどうしても、目指していきがちで、その意味で、非常に近視眼的(Miopic)である。近視眼的で急進的な運動体は社会と共同体と組織とに多くの悲劇をもたらす。典型的には、これまで数次にわたって行われてきた宗教改革しかり、フランス革命しかり、市民革命しかり、明治維新しかり、昭和維新を模索した226事件しかり、ヒッピーやサイケデリックムーブメントしかりである。

     

     時間をかけて変容を目指すというのは、急進派からすれば許しがたい行為に見えるが、ショックを緩和するというメリットは大きいし、社会全体の痛みは少なくて住むようには思う。そのあたり、変革をもたらそうと思う者、試みようとするもののノウハウと社会理解、共同体理解にかかっているかもしれない。

     

     

    フランス革命のときの事件

    https://global.britannica.com/event/French-Revolution から

     

    ところで、イスラエルの民は、荒野で、40年たっぷりと時間を掛けて形成された運動体である、と考えても良いだろう。それを、神は大リーグ養成ギプスをつけるようなかたちの促成栽培のように、神は人々を育てたか?形成させたか?、というと、そうではないと思う。インスタント食品のような、イスラエルの民の形成を神はなされなかったし、それは我々現代のキリスト者も同じではないか、と思う。その意味で、曲がりくねったPrayer Labyrinthのようなものなのだろう。それはじっくり、丁寧に、着実に生きる、ということなのではないかなぁ、そして、じんわりと神の臨在の中に生きることの中で、やんわりと聖神(聖霊なる神)が内在されて、変化していく、ということなのではないかなぁ、と思うのだなぁ。これが。

    Prayer Labyrinth 祈りの迷路と呼ばれる施設

     

     また、短兵急な理解は、本来の重厚な理解をだれにでも簡単に使えるようにマニュアル化はしてくれ、便利にはしてくれるが、本来神秘の化学反応である可能性があるものまでもパターン化し、薄っぺらいものにしてしまう。ちょうど、ディズニーランドのシンデレラ城の内部が、コンクリートとぶ厚めのベニア板でできたほぼ書割のようなお城であるように。

    シンデレラ城
    https://en.wikipedia.org/wiki/Cinderella_Castle から

     

    新しい選択肢も、旧い選択肢に・・・

     なお、ここで旧い選択肢と翻訳されている選択肢は、Optionと言うよりは、おそらくalternativesと書かれている可能性が高いように思う。もとの英語のテキストでは。今ある教会も以前は新しい選択肢であったが、いつの間にか旧い選択肢となってしまったのだ。オリジナルであったものが、パターンに変わり、固定化されてしまったのである。旧い選択肢ももともとは新しい別の選択肢であったのではある。オルタナティブなものも、実は、旧い選択肢と同列の選択肢の一つなのであるのである。


    そして、ここで指摘されていることは、変革の出発点には、破れ、不幸、疎外や失意が必ず生じていることが指摘されている。これは案外大事なのではないだろうか。それらがないと、そもそも、何も問題がなく、順調で、誰も疑問を持たないからだ。現状に不満を抱くからこそ、オルタナティブなあり方が必要になり、それが変革として、現実の状態が、新しい状態に、移行する場合がある。

     

    オルタナティブな選択肢に対する抵抗
    ところが、このオルタナティブな提案に全員がすぐに賛成できるか、というと、そうではない。なぜならば現状に全く不満を抱かない人の方が、案外多いからだ。というよりは、人は現場のまま、変更しないほうが良い場合のほうが多い。一旦あるシステムにハマった人は、そのシステムから抜け出せなくなってしまっているのである。


    日常生活でも新しいシステムや新しいオルタナティブに抵抗感や都合が悪い、ということを感じる状態、不具合を感じる人々がすぐに出てくるのであれば、その忌避感は大きなものになる。その新しいオルタナティブに対する忌避感の対象が、聖書理解がかかわるようなことなら、なおさら抵抗感は大きなものになる。

     

    オルタナティブなあり方を求めることは、もともとの旧いあり方とそれをやり続けてきた人々が間違っていたかもしれない、ということを指摘することを意味するように思うのだなぁ、これが。自分自身が間違っていたことをしてきたかもしれないという恐怖を、旧いシステムに慣れ親しんだ人々に与えるかもしれないからである。ちょうど戦後すぐの墨塗り教科書にしてしまうようなものだ。小学生の男子は、ほっておいても墨塗り教科書に近いことをすることがあるが。

    墨塗り教科書
    http://www.kushima.org/is/?p=25446 から
    内部の組織として、部分的に非公式組織でやる、という方法も

    何かしようとする時に、何でもかんでも、教会全部を巻き込むのではなく、既存の教会体制はガッチリ残しつつ、特定のことだけに限って、オルタナティブな生き方ができる場所を確保するという方法はある。例えば、カトリック教会の中に自然発生的に発生したオルタナティブな共同体の組織化を目指した、コンフラリア・デ・ミゼリコルヂアなどのコミュニティを共存させるやり方は一つのやり方だし、現在のカトリック教会の大阪教区などでのホームレス支援のあり方(教会とは独立にN P Oを立ち上げ、教会と併存するようなかたちで活動をするようなかたち)などが参考になるかもしれない。

     


    現在、ミーちゃんはーちゃんは、明石でこじんまりとした、オルタナティブな集まりを、そして、参加者が安心して発言できる環境が伴ったディスカッショングループを開催している。読んでいるのは英文のナウエンの本であり、参加者は4〜5人なので、大して多くはないけれども。ナウエンの本を出発点にしながら、参加者が気づいたことや。時に、本文から離れて、個人的に抱えている質問や話を、適当にディスカッションする時間をもつことがあるが、これも、教会外におけるオルタナティブな共同体の一つと言って良いかもしれない。

     

    これまでにも触れた、お友達の大頭先生が書かれた本である、『聖書は物語る―一年12回で聖書を読む本』や『聖書はさらに物語る―一年12回で聖書を読む本』などを読む読書会が、公民館などの施設や教会など、各地で開催されているが、それも、オルタナティブな共同体の例としてあげることができるかもしれない。そもそもは、宣教、伝道の一部として行われている所もあるようであるが、個人的には、オルタナティブな共同体として教会内部にインフォーマル組織を形成する契機になると言う意味でも、一種のオルタナティブを提供している、とはいえるだろう、とおもっている。

    従来、青年会、婦人会、読書会などがオルタナティブな共同体を形成される動きもあったのではあろうけれども、その運用方法を間違うと、教会内に固定化された教会活動のミニチュアを作り出すだけに終わってしまう。問題は、牧師ないし、そのようなことを始めたい人のファシリテーション能力と、その参加者が他の参加者を受け入れていくようなオープンな対話能力と、参加者の関与していこうとする態度と言うか精神が重要なのではないか、と思う。


    1年12回で聖書を読む会のサンプル動画(長いので、適当に…)

     

    また、ミーちゃんはーちゃんの近所で、ある施設の一室を借りてやっている教会もある。そこに、何度か参加したことがある。そこも信徒さん中心で、牧師が年に数回(第5日曜日だけ)来られたときにのみ聖餐式をし、それ以外は信徒さんで運用している教会がある。リングマさんが言う、ある種のオルタナティブな共同体ノイッシュだろうとは思う。ただ、聖餐式の神秘が大好きなミーちゃんはーちゃんは、聖餐式の魅力には勝てないので、後ろ髪惹かれつつも、聖公会の中に入っている感じがする教会に通っている。

     

     

    リングマのこの本は誰のために書かれたのか?
    この本は、一体誰のために書かれたのか、というと、おそらく教会の変革をもたらそうとする人々や現場の教会で行きづらい思いを抱いている人々に向けて書かれた本である。そのあたりのことに関してリングマさんは次のように書いている。

     

    本書は主な読者層として二つのグループを想定しています。第1のグループは制度的教会の中で生むことなく変革を働きかけたものの、最後に諦めてしまった人々です。彼(女)らは立ち往生してしまいました。(中略)彼(女)らは戦いで打ちのめされ、置き去りにされています。
    第二のグループは、オルタナティブな教会のあり方を試みてきた勇敢な少数派です。(同書 p.13)

     

    本書の読者層としては、この第1のグループと第2のグループがメインであるように思う。そして、主要な読者となるのは、第1のグループではないだろうか、と思う。とくに、教会内改革に疲弊した人々は多いと思う。

     

    個人的には、キリスト集会派という、英国国教会から1840年代にアイルランドで分離したプリマス・ブラザレンという運動体で育った、英国人、米国人の宣教師による開拓伝道により始まり、日本で独自に形成された集団に長くいた。本書を読みながら、我が国でオルタナティブな教会を目指したのが、キリスト集会派だったといえるかもしれないなぁ、と思った。それこそ『福音と世界 1月号』に寄稿した小論で説明したような、万人祭司制に近い形で、信徒が関与していく、まさしくオルタナティブな教会の理念を追って形成されてきた集団にいた。とは言え、そのキリスト集会派ですらも、一つのキリスト集会派的なテンプレートが幅を利かせている場合があり、主流派のキリスト集会派の人々が標準的と考えている、キリスト集会派のテンプレートに合致していないと、主流派のキリスト集会派からは、キリスト集会派としては認識してもらえない、というような場合も、何例か発生している。このあたり、教会政治をどのようにシステム論的に見るのか、ということ、メタの視点、次元を変えた視点で見られるかどうか、自己についても、批判哲学の観点から見られるかどうかに関わっているなぁ、と思っている。

     

    ミーちゃんはーちゃんは、今の段階では、この第1のグループのほうが近いかなぁ、と思っている。まぁ色々やりすぎて、結果的に疲弊してしまったので、今は、神との出会いの機会は、確実に保証してくれている聖公会の出島のようなありがたい教会に週2回、通っている。

     

     

    第三のグループとは、教会とのつながりを断ってしまった人たちです。彼(女)らは今も信仰を持ち、祈り、奉仕していますが、教会からは疎外されてしまっています。(中略)
    第四のグループは、教会に強い不満を持っているものの、腰を上げない人々です。彼(女)らは教会の中で変革のために働くこともなければ、オルタナティブなあり方を試すこともありません。単に現状に満足せずに過ごしています。(同書 p.13)

     

    教会に、傷つき、愛想を尽かしている人は案外多い。キリストは好きだが、教会と固定化された教会はどうも好きになれないといった人々も多い。あるいは、小嶋先生の造語である、「お一人様クリスチャン」的信仰の持ち主の方々などがこの第三の分類に入るだろう。多分、小嶋先生の「お一人様クリスチャン」の記事は、ひょっとして、この本に触発されての記事だったかもしれない、と一人ニヤニヤ妄想して遊んでいる。


    日本では、第四のグループ、不満を持ちつつ、それをFacebookやツイッターで呟いている、あるいは他の人のコメントでそれを書いている人々が、案外ミーちゃんはーちゃんのお友達に多い。まぁ、日本では、出る杭は打たれるだけではなくて、地中深くに埋められて、存在すら忘れるようにすることが多いから、それなら、最初から目立たないほうが良いということは知られているので、まぁ、不満を抱えつつもグリューンの本の記述ではないが、現在の教会の形への『従順という病い』に冒され、動きが全く取れない状態になっておられるのだろう。日本では出る杭は地中深く埋めて見えなくするけど、NYのマフィアなら、ハドソン川の川底遊覧させてやる、とか、いいそうだけど。

     

    まぁ、第5のグループは、読者の楽しみのために残しておこう。ぜひ、本を手にとってお読みいただきたい。

     

    ということで、本書の紹介は終わりである。後は、本書を手にとって、ぜひ、ご自身でお読み頂き、リングマさんから刺激(パンチ)をうけたり、かわしたりしながら、ご自身の教会で、生き生きとした、オルタナティブな取り組みに取り組んでいただきたい、と思っている。結構自己にも批判的な目を向けることを強いられるので、この取組は、そんなに簡単ではないし、つらいとは思うけど。やる勝ちはあると思っている。

     

     

    次回は、N.T.ライト著 「クリスチャンであるとは」 のご紹介に戻ります。

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

    コメント
    コメントする








     
    Calendar
        123
    45678910
    11121314151617
    18192021222324
    252627282930 
    << June 2017 >>
    ブクログ
    G
    Selected Entries
    Categories
    Archives
    Recent Comment
    Links
    Profile
    Search this site.
    Others
    Mobile
    qrcode
    Powered by
    30days Album
    無料ブログ作成サービス JUGEM