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2017.02.06 Monday

リングマ著 『風をとらえ、沖へ出よ』 をよんでみた 中 用語と概念のご紹介

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    今日もリングマさん著の『風をとらえ、沖へ出よ』 をよんでみた中で思ったことで、理解が困難そうな概念について紹介したい。前回の記事では、本書の主要な主張がどのようなものかを紹介した。本書をわかりにくくしている用語の特殊性について、今回触れていきたい。当初は上下の2連載で簡潔であったのだが、用語解説部分が長くなりすぎてしまったので、ミーちゃんはーちゃん風の用語解説と概念整理で一回を過ごすことにした。申し訳ない。

     

    では、早速、用語紹介に移ってみよう。

     

    エンパワメント
    本書でのエンパワメントとは、人間としてその人がその人らしく生きるように支援する、ということであり、神から与えられた能力や才能がその人らしさをもって発揮できるようにすること、というような意味だ、と思う。その意味で、神が創造された個別の特性と豊かさと創造のわざが現れる本来のその人として、その人らしく生きることができるようにする、スピリチュアル・ディレクションという概念と深く結びついているように思う。

     

     

    あるいは

    エンパワメントの図解

     

    https://clipartfest.com/categories/view/c5ea7abba88923d4eb08fbf8c71ff7abad56bae9/empowerment-clipart.html から

     

    自己決定権
    自己決定権とは、なんでも自分自身で好き勝手に決めるということではない。被造物である人間であるとはいえ、神が主権を委ねられた人間として、生きること、神の主権を尊重しながら生きることを選び取っていくという権利であり、グリューンが別の本で指摘したような生き方のことである、他人から強いられた幾つかのオプションとしての生き方を選択するというスタイルや、この中から選んでください、という、他人から生き方を強いられたような生き方ではない。ある意味で、その人らしい、生き方ができる権利と言えよう。他人が与えようとする生き方、いや、正確に言うなら、他者が押し付けようとする生き方、かくあるべし、他人もこうだからあなたもこう生きるべきだ、と言うような生き方(他者から与えられる選択肢の中から考える)ということから、自由な生き方、あり方を求めることができる、ということなのだろう、と思う。

     

     これが、本書で多数出てくるオルタナティブな生き方(他者が決めた生き方の中から選ばない、それ以外を含めて考える、という生き方、従来にないかも知れない、新しい生き方)ということか、と思う。したがって、オルタナティブな共同体とは、これまでにはなかった共同体、人々と共に生きる生き方、ということなのである。これについては後に詳述する。

    つまり、オルタナティブな生き方は、これまでにない生き方であるわけであるから、既存の社会で、当たり前とされてきた生き方と対抗的な部分を持ってしまうのである。その意味で、多くの人から理解されないかもしれないし、場合によっては拒否反応を示す人々も出ると思う。その辺が、この本が諸手を挙げて受け入れられない人がいるだろうなぁ、という所以である。この本は、生き方や教会理解の再考を迫るため、厳しいことを言っているという本と思った所以なのである。

     

    最近医学分野ではすっかり定着した感のあるセカンド・オピニオンやインフォームド・コンセントなどは自己決定権が具体化したかたちである、と言ってよいだろう。

     

    https://www.theodysseyonline.com/denying-self-determination-intolerance-towards-freedom-seekers

     

    ファシリテーション
    ファシリテーションとは、おもてなし、ないし、接遇をする心あるいは思いに基づく他者への対応のことであり、霊的にも接遇(おもてなし)をすることと理解するのが良いだろう。その人をその人らしくしていくのがファシリテーションの基本ではないか、と思う。

     

    つまり、単なる人間という対象として認識せずに、神の栄光が隠されている(現れていないかもしれないがそれが内在する、本来人間は神のかたちないし神のかたちのかたちとして創造された存在であるという認識を持っているはず)という認識に立った上で、向き合っていく、ということなのだろうと思う。そして、霊の交わりを豊かにするための環境整備の役割を果たし、その人が神のかたちを十分に表すことができるように、そうなる場を生み出していくことのことがファシリテーションの意味であろう、と思う。より具体的には、対話を通して、もう少し、ハーバーマス風の言い方をすれば、公共圏(パブリック・スフェアの訳語 人々がそれぞれが尊重されながら、相手を信頼できる親密な環境の中で、その意見を無視されることなく受け止められ、建設的な対話がなされていくという理想的な環境)をどのレベルかは別として、親密圏(人々が個人として認識され、信頼に基づく親密な関係が成立している状態)において、対話を生み出していくということだろう。

     

     

    http://www.advancedconsultingfacilitation.com/facilitation


    冥土喫茶 ぴゅあらんどで実施したニクタンさんによるファシリテーショングラフィックスの実例
    (ユダヤ教のときのファシグラ) 右上に超正統派のユダヤ人の漫画がある

     

    インフォーマル組織
    この語はフォーマル組織、公式組織と対応関係で使われることばで、ある組織ないしは人間集団内で公式には定義する文書とか規範は存在しないけれども、実際にはその組織やその人間集団の中には、厳然と存在し、組織のパフォーマンスに大きな影響を与える組織であり、本来インフォーマル組織であっても、時に公式組織として形成されることもある。会社の場合は、会社の役職や部署割、事業部と言った公式組織であるが、インフォーマル組織には、同期会とか、出身大学別の人間のつながり、県人会などの個人属性をキーにした人のつながり、現在はバラバラであるが、過去業務を一緒にこなしたプロジェクトチームのメンバーからなる組織などがある。教会の場合は、教会の総会で定義されるメンバーからなる組織、青年会、壮年会、婦人会、読書会、などの組織は公式組織であるが、家庭集会は、一種の非公式組織(インフォーマル組織)に近い場合があるだろう。なぜならば、家庭集会には、そこに来ている、あるいは通過していく信徒以外の人々も内包することがあるから、という意味において、である。


    システム論の視点から、あるいは、組織コンサルタントの知識として、共有されていることの一つに、すべからく世の中の公式組織(例えば、企業や教会や、ボランティア団体…)は、そこに内包される人々から、アドホック(一時限りの)に機能したり機能しなくなくなったりするインフォーマル組織のバランスが取れていることが重要であることが、知られている。1980年代後半以降の組織論、組織システム論などでは、このような視点から組織が議論されている。公式組織だけ、命令系統の基礎となる公式組織だけに着目していたのでは、組織が機能しなくなるということは、現在では広く知られていることではある。インフォーマルな組織は、モラル(メンバーのやる気というか、士気)を規定する事が多く、会社の外側からの見た目を規定する公式組織では、解決がつかないことが多いのである。その意味で、ポストモダン社会において、組織をうまく運用しようとするものは、公式組織がこうだから、という公式論理の論理を振り回すだけではなく、非公式組織の存在と機能にも十分目を向けておく必要がある、とされていることが多いように思う。

     

     

    フォーマルな組織構造 と (フォーマルな組織の中の)インフォーマルな組織 の比較の図

    https://plus.google.com/+DaveGray/posts/SA8ARg7A9v3 から

     


    批判的
    これは日本語になりにくい語であり、英語ではCriticalという単語で表現される内容である。この批判的とは、自分以外のものに対して、問題点や改善点を指摘する、あるいは長所に関して評価判定するという意味で取られることがある。あるいは批判的であるというと、他者に対して非常に冷たく、裁くような、その行動や言動を云々するというようなイメージが付きまとう語であるが、本書で言う批判とは、批判哲学の意味で言う批判に近いように思う。

     

    それは、正当に評価するとか、きちんと物事見て、自己をもよく考えることで、その自己を含めて、よく思いを巡らした結果に基づき、それらに応じて自己の言動や行動の変容をもたらすという意味があるように思う。他者をおかしいというだけが批判ではないが、一般によく用いられている意味での批判は、冷ややかな視線を浴びせながら、他者の揚げ足を取ったり、他者の箸の上げ下げに対して一々文句をいうというような状態や言動の形容詞として批判的という語が用いられることが多いようである。クリティカルという単語は、臨界的判断というか、状況に応じて適切に判断すると言った意味のクリティカルである。クリティカル・シンキングCritical Thinkingという概念が1980年代に確立し、システム論の分野で議論の蓄積があるけれども、それと共通する意味でのCriticalだと思う。この辺のことは、他の本に乗っているので、それを参考にされたい。最下部で紹介するクリティカル・シンキングの本は手軽な入門書である。

     

     

    なお、この記事 クリティカル・シンキングの3つの基本姿勢: テクニック以前に必要なこと は、事前に読んでおかれると、良いように思う。

     

     

    オルタナティブ(オルタナティブな共同体)

    オルタナティブとは、これまでのものに変わるとか、これまでのものを補完するもの、従来は考えられなかったもの、と言った意味がある。その意味で、作り変えてしまうのではなく、別の活動ができる場を教会内外に作り、そこで信徒が自由に制約なく発言できたり、関与できる、あるいはエンパワーできるための考え方や存在のことである。例えば、日本にキリスト教が伝わる直前、カトリックには、コンフラリア・ミゼリコルヂアという組織confraria da misericórdia などがあったらしい。このコンフラリア・ミゼリコルヂアは、教会内のインフォーマル組織として、司祭たちをほっぽっておいて信者たちが勝手に始めた組織であるらしく、医療や社会福祉のような特定の業務を、教会内で請け負うものとして、教会内の一種のソーシャル・キャピタルとして機能したことが知られているし、日本にも、キリシタン時代、この非公式組織、あるいはオルタナティブ共同体が慈悲の組(コンフラリア・ミゼリコルヂア)としてすでに導入されていた、と聞いている。それが、カクレキリシタンを支えるインフォーマル組織として機能した、という論者もおられるようである。

     

    お友達の大頭さんが書いた『聖書は物語る 1年12回で聖書を読む』という本を使って、広く社会に開かれた読書会のようなものが、日本各地で開催されているが、それも、伝道を正面切って目的としていないかたちで、行われるところがあるらしい。これなども、オルタナティブな共同体をインフォーマル組織として形成しているように思う。その意味で、非常にこの議論に近い形の一つかもしれない。ただ、実際には、色々のようであるけれども。

     

     

    オルタナティブってこんな感じ

    http://www.teaching-certification.com/alternative-teaching-certification.htmlから

     

    なお、日本語で読めるキリシタン時代の こんふらりあ に関する記事はこちら。 

     

     

    次回へと続く

     

     

     

     

     

     

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    コメント:まぁ、ポイントはつかめると思います。

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