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2017.01.28 Saturday

N.T.ライト著上沼昌雄訳 『クリスチャンであるとは』 その28

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    今日もいつものようにたらたらと、ライトさんの『クリスチャンであるとは』を読みながら思ったことを書いてみたい。今日は聖霊と教会とその社会への影響ということについての内容である。

     

     

    教会とシナジーと社会

    聖霊が働く場所としての教会ということは、前回の記事でもちょっこし書いたが、基本的に教会の中心というか、教会がこの地上に存在している記号として、何を指し示そうとするものであるか、といえば、基本的には、神の存在を指し示す場所であり、その具体的な行動(祈る、賛美歌を歌う、聖書を読むという行動)による記号として、神が賛美され、神が礼拝されるべき方であることを礼拝という身体的、また、精神的、霊的行動を通して示す場所なのだと思う。それなら、「家で一人でやればいい」という節があって、「教会なぞいらない」ということを主張する人々もおられるが、どうもそうではないようなのである。その辺について、ライトさんは次のように書く。

     

    人々はそこ(ミハ氏駐 教会)に、それぞれの小さな信仰を携えてきて、他の人達とともに真の神を礼拝するために集まる。全体でまとまるのは、個々ばらばらの単なる総計よりも遥かに大きな意味があることを見出すからである。どの教会もいつもこのようなわけではない。しかし、驚くほど多くの教会で、たとえ部分的ではあっても、頻繁にこのようなことが起こっている。
    忘れてはならないことがある。それは、南アフリカの教会のことだ。教会は労し、祈り、苦しみ、戦った。大きな変化が起こり、アパルトヘイトは廃止された。さらに新しい自由がもたらされた。誰もが予想していた大流血なしにそれは実現した。また、東ヨーロッパの旧共産主義のただ中で生き延びたのも教会だった。旧体制が終焉する時、キャンドルと十字架を掲げて行進し、もうたくさんだと内外に示した。(『クリスチャンであるとは』 p.176)

     

    経営学の用語でシナジーという用語がある。Synergyと英語では書くが、このシナジーなる語の語源は、 συνεργός シネルゴス であり、この語は、ともに、という意味のシンと言うことばとエルゴンという語の二つの語を合成した合成語である。「一緒に働くと、一人ひとりがバラバラで勝手にやるより効率が良い」とか、「人々が一緒に働くことで、より大きなことや、より効果的にできること」を表している。企業に関する経営学では、相乗効果とか呼ぶ。その用語の意味は、三省堂さんのワードワイズ・ウェブのこの記事(シナジー効果)を参照してほしい。

     

     

    先程のワードワイズ・ウェブの記事では、ある種、範囲の経済(管理部門や営業部門などの機能が様々な部門に対して提供するサーヴィスが共用されるすることで、費用が低減できるような書き方がなされている。あるいは、社員が多機能的な動きを実現することで1粒で二度も三度も、美味しいことが起きる)風のような説明がなされている。をしているが、経営のダイナミズムに着目していうなら、社内で多様な資源や人材の存在により、会社内にいる様々な人材がいることで、それらの様々な社員のアイディアにおける化学反応や融合反応が起きて、予想外のとんでもないような変化が起きることを、本来はシナジーと呼ぶような気がする。

     

     

    それを、ライトさんは、「個々ばらばらの単なる総計よりも遥かに大きな意味があることを見出すからである。どの教会もいつもこのようなわけではない。しかし、驚くほど多くの教会で、たとえ部分的ではあっても、頻繁にこのようなことが起こっている」と表現しておられるのだろう。その意味で、教会は時にシナジーを生み出し、人々の生活をより良くするための社会資本を生み出す存在であるとは言えよう。

     

     

    教会に関する誤解で多いのは、「どの教会もいつもこのようなわけではない」という側面である。一つの教会をとってみても、うまくいくときもあれば、うまくいかないときもある。それは、その教会の外部及び内部のパラメータ(変数、あるいは要因といったもの)によっている、とミーちゃんはーちゃんは思うのである。すべての教会でなにかある方法に従ってやると、必ずうまくいく、という万能薬のようなものはないのではないか、と思うのである。 

     

     

    天国を伝えるためのイベント地獄という悲喜劇

    こんなことを思っていると、この前、ある教会関係のお知り合いがフェイスブックで「地方は儲からない「イベント地獄」で疲弊する 現場がボロボロになる3つの「危険な罠とは」と言う記事をご紹介されておられ、また、幾つかコメントもあった。その記事をを読みながら、また、フェイスブックでのコメントを見ながら思ったのは、教会も似たようなものだ、ということであった。もし、教会が神の国や天国を伝えるところだとしたら、天国を伝えるためのイベント地獄だとしたら、これほど皮肉なことはない。個人的には、教会は天国を伝えるための場所や組織でないと思っている(そう思っておられる方のご理解は否定はいたしませんが…)。

     

    イベント地獄とはよく言ったもので、勝ち目のない消耗戦(太平洋での帝国陸軍が経験したガダルカナル作戦)をやっているようなものだ。以前いた教会でも、「やれ、クリスマスだ」と言って、そして「特別伝道集会だ」と言っては、イベントはやったが、それを通して信徒になった方はあまりいなかった。極く稀にそういうのをきっかけにイエスを知っていく人がおられるから、やればいいという話になるのだけれども。

     

    そういうこととはほとんど無縁な教会に行ってみると、まぁ、クリスマスだろうが、クリスマスイブだろうが、それに関する祈祷文が読み上げられ、祈祷文に参加者が参加する部分もちょっとあって、あとはクリスマスに関する聖書箇所を読んで、そして、5分から10分位、その聖書箇所からお話があり、聖餐式をやって、あとは、誰かが持ってきたケーキとかお菓子を食べながら、ダラダラと喋るだけである。お菓子が普段よりもちょっといいものが出るけど。あとは特になにもない。

     

    そもそも、以前参加していた教会でも、このタイプのイベントで張り切って伝道しようとかは、ほとんど思っていたりもしなかったので、ミーちゃんはーちゃんは、もともとイベント地獄という状態にはなかったけれども。

     

    この種のイベント地獄のような誤謬というのは、どこでも起きるものである。例えば、商店街や、役所の人たちなどは、どこぞに成功事例があると言って、そこを視察するのが大好きな人々もおられる。一時期、話題になった号泣議員や、時々、海外の視察旅行についてテレビに取り上げてもらっていて、無料の選挙活動してもらっている国会議員さんや首長さんがおられる。マスコミとかの取り上げられ方が悪いのか、次の選挙では落選されることが多いようだが。それらの方々も、何処かに成功例が落ちていると思っておられるのではないか、と思う。

     

    なお、世の中書店のビジネス書コーナーに行けば、この手のことを書いた本や雑誌が山のように置かれている。そして、他の成功例を文脈や自らの環境を考えずに、他と同じことをすれば成功するのではないか、と無意味に物まねをする人々がいる。それは失敗へ一直線に近いのではないか、という風に思っている。成功の方程式などは落ちていないのである。

     

     

    現代の出来事と教会

    ここで、ライトさんは、現代的現象として、南アフリカのアパルトヘイト後の人々の分断状態の回復に、教会が果たした役割と、ペレストロイカ後、共産主義が崩壊したあとのロシアと東欧圏でもしぶとく素朴に神の民が生き延びていた事実を指摘している。とくにアパルトヘイト後の南アフリカの人々が、野蛮な報復合戦になるのではなく、大規模な流血や殺戮が起きなかった背景には、もちろん、ネルソン・マンデラという人物の存在も大きいが、それとともに、真実和解委員会で委員長を務め、各地の真実和解委員会を統括し、指導したデズモンド・ツツというキリスト者の存在は、かなり大きいのである。

     


    デズモンド・ツツ 元ケープタウン大司教

     

    映画 In my countryのワンシーン

     

    また、ソビエト連邦という人間中心主義、ロマン主義の夢が敗れた後に、現れてきたロシア正教への回帰にロシアの素朴なおばあさん(バブーシュカ)たちが果たした役割が大きいことは、フィリップ・ヤンシーの『隠された恵』でも触れられているところである。

     

    教会と聖霊と神の計画の完成との関わり

    ペンテコステ派など、聖霊の働きや聖霊と教会の強調を非常に重視する教会群もある。かとおもえば、淡々と説教がなされていくような教会もある。儀式中心と言いながらも、賑やかなコプト教会のような教会(シンバルが用いられる)もあれば、ハリストス正教会のように、無楽器で合唱だけが流れる教会もある。しかし、共通するのは、神の臨在としての聖霊の働きを指し示そうと表現している、ということではないだろうか。賛美歌は、賛美が神に向けてのものである以上、聖霊の働きとは無縁ではないように思うのだが。表現の方法の多様性を考え、それぞれが神への賛美であることを考えると、ある特定の賛美の方法、賛美歌のメロディのスタイルだけが賛美ではないように思う。

     

     

     

    主よ憐れみ給え (コプト教会)

     

    主よ憐れみ給え(現代アメリカ風)

     

    テゼの「主よ憐れみ給え」

     

    Anglican Chantの「主よ憐れみ給え」

     

     

    アメリカのゴスペル系の「主よ憐れみ給え」

     

    風、火、翼で覆う鳥というイメージは、教会が教会であることを可能にするために与えられている。言い換えるなら、神の民が神の民であることを可能にするためである。それらには驚くべき劇的な効果がある。聖霊が与えられていることで、普通のはかない存在である私たちが、イエスご自身がそうであったものに幾分かでも近づくことができるのである。すなわち、神の未来が現在に到来している部分に、天と地が合わさっている場に、神の王国が前進していくための手段に、近づくことができる。(同書 p.177)

     

    教会が教会であるためには、聖霊が必要である、とされている。ところで、人の集まり、例えば、労組系の集会やBig Bangとかの韓流アイドルのコンサートやジャニーズのメンバーによるコンサートなどは盛り上がることもある。とは言え、最近の労組系の集会は盛り上がりに欠けることが多い。それはさておき、人間が集まっているという意味では同じかもしれないが、それらと教会との根本的な違いは、我々に神を示し、神の聖さを示す聖霊なる神の臨在ではないだろうか。

     

    キリスト者は、神が内在して下さる以外の点において、他の人とはほとんど違いがない。大きな違いがあるというのは、少し言いすぎである、とミーちゃんはーちゃんは思う。ライトさんがここで書いておられるように、「普通のはかない存在である私たち」にすぎないのである。正にイザヤ書の記者が書くように、神の息吹の前に草のように枯れてしまう存在である。まかり間違っても、我々は神ではない。他の人よりはるかに優れているわけではない。普通の人々にすぎないのだ。

     

    【口語訳聖書 イザヤ書】

     40:6 声が聞える、「呼ばわれ」。わたしは言った、「なんと呼ばわりましょうか」。「人はみな草だ。その麗しさは、すべて野の花のようだ。
     40:7 主の息がその上に吹けば、草は枯れ、花はしぼむ。たしかに人は草だ。
     40:8 草は枯れ、花はしぼむ。しかし、われわれの神の言葉は
       とこしえに変ることはない」。

     

    しかし、神の霊が何の為に我らに内在されておられるか、という事を考えると、他の人よりわれらを優れたものと自称するためでも、偉大なわざを為すためでも、立派な人になるためでもなんでもなく(この辺、誤解しているキリスト者の方も、少なくないようにお見受けしているが)、あくまで、「イエスご自身がそうであったものに幾分かでも近づくことができる」という点なのかなぁ、と思っている。すなわち、「神の未来が現在に到来している部分に、天と地が合わさっている場に、神の王国が前進していく」という事が人生の目標にできている、ということだと思う。キリスト者とはいえ、普通の人なので、神のみ思いが自分の上に完全に実現しているとは言い切れないが。

     

    普通の教会の祝祷に当たる部分で、いつも行っているチャペルでは、ここ何週間かクリスマスからエピファニーのときの式文では、次のように祈る。太字部分は全員で祈る部分である。

     

    Arise shine, in Christ, God's light has been revealed to us,

    It reach across time and space,

     

    We have come to see,

    We have come to follow,

     

    Arise shine, in Christ, God's light has been revealed to all people,

    God's glory has been unveiled in all the earth,

     

    May we go and tell,

    May we go and share God's light with our needy world,

     

    Go into the world knowing you are led by the light of Christ,

    May the love of the Creator go before you,

    May the life of the Redeemer be within you,

    May the joy of the Spirit shine through you,

     

    Amen.

     

    クリスマスとエピファニーということもあるのだろうけど、最初にこの祝祷に声を合わせて、参加した時、それから、最近毎回この文章を声を出して読んで参加する時に、確かに、我々は、何しに教会に来たのか、というと、イエスがこの地に来られたことを確認するために来たのだし、イエスに従うものとなるために、イエスが当時の人々に、そして、参加者に何を言われようとしたのかを覚えるために来たし、そして、そこから、出ていって、伝えること、そして、神の光があることを必要とする人々と、神の光を分かち合うために生きているし、そのために教会から出ていくのだなぁ、ということを思うんだなぁ、これが。

     

    その意味で、この祈祷文を読むたびに、自分自身に対する反省が求められていることを感じる。

     

    そして、May the joy of the Spirit shine through us と祈りの中で思うのだなぁ。これが。

     

     

     

    http://newsletter.cbu.edu/arts/2013/09/ から  聖霊を表す鳥が描かれたイコン

     

     

    http://www.peterpaulcoc.org/icons/ 教会と聖霊を表すイコン(コプト正教のイコン)


    なお、聖霊が人々に下った日は、ペンテコステの日と呼ばれるモーセの律法が与えられたとされる記念日でもあるが、その日は、炎のような舌がキリスト者の上に現れた記念日でもある。上のコプト正教のイコンは、それをよく伝えているように思う。このペンテコステの日は、我々の中に住まうことを望んでおられる神を知るためのモーセ5書に加えて、我らの中に、神である聖霊(聖神)が与えられたことを覚える日であり、人が生きるという意味に関しても、旧約聖書と新約聖書が重なっていて、つながっている日なのだなぁ、と思う。こういう感覚は、教会暦を真面目にやる今のチャペルに行くようになってから、印象深く覚えるようになった。

     

     

    次回へと続く

     

     

     

     

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    コメント
    >成功の方程式などは落ちていないのである。
     茶々と受け取られるかも知れませんが、その認識は少々論点をずらされているのではないかなと・・・
     『黄金律』『弱き者に手をさしのべよ』の二言で必要十分ではありませんか。例えば商売に敷衍すれば、多くの人が欲するものを掲げれば、みなが競って求めて利益が得られるのは自明の理にすぎません。晴れたときに傘を買って雨の時に売る。それを付加価値などと記述する言葉遊びなどするから本質を見失う。例えば百万人の人がワックかけたとしても、それを求める人がいなければ何らの価値など付加されないわけで・・・
     その意味で情報商材の詐欺に多くの人が欺されるのは、情報そのものには全くの価値など無く、その情報を得た人の行動によって適切な行動を起こせる人にはその行動によって価値が出る場合があることに気づけないからです。そもそも、その情報そのものにに価値があるなら、だれが好きこのんでその情報を売るわけがないことに気づけないからなのです。自ずから使うより情報を売るほうが儲かるから売るので、競輪場や競馬場にいる情報屋などがその最たる例です。
     ただ本質を理解したとしても、現実世界で具体的に翻訳した場合、多くの人は傘を買うのが雨の降っているときになってしまうのが殆どであることは認めます。
    • ひかる
    • 2017.01.29 Sunday 16:42
    御清覧コメント、ありがとうございます。

    少し気がつくのが遅れました。大変失礼しました。
    ひかる様のところは違うのでしょうが、いろいろな教会の指導者の方を見ておりますと、やり方を求めておられる方が多く、おっしゃるように、「心をつくし、精神をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ」と「あなたの隣人を愛せ」に集約できるのですが、そこに行くのではなく、具体的にどうするのか、ということを聞き回る方や、こうすればうまくいく、といういわゆる方法論に縮約された事象のみをお探しの方が多いので…

    まさに、
    >現実世界で具体的に翻訳した場合、多くの人は傘を買うのが雨の降っているときになってしまうのが殆どである
    ということに対して、もうちょっと聖書とご自身を取り巻く環境を参照しながら、ちっとは濡れてもいいから、どうすればいいのか、ということをお考えになって、取ってつけたように他所の成功例を持ち込む前に、よくお考えになって、成功例を作り変えながら、自分自身の集団にあうようになさったら、と思うのですね。

    実は某自治体のある委員会の委員を勤めさせていただいたときにも、市会議員で委員から出席されたかなりご高齢の委員の方が、よその成功例を持ち出し、それを本市でもやるように文章中に入れるべきだ、とかなりご主張になられ、そのご発言を延々繰り返され閉口したことがございました…。

    まぁ、全ての方に聖書テキストに基づき色々考えることを求めることは無理かとは確かに存じておりますが、本ブログの読者の方には、お考えいただきたいなぁ、と存じております。

    コメント、ありがとうございました。
    • ミーちゃんはーちゃん AKA かわむかい
    • 2017.02.01 Wednesday 07:15
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