<< N.T.ライト著上沼昌雄訳 『クリスチャンであるとは』 その26 | main | 儀式と象徴とその先にあるもの (2) >>
2017.01.21 Saturday

儀式と象徴とその先にあるもの (1)

0




    Pocket
     

     

     

    音声ファイルダウンロード先

     


    先日、ある方と、教会の日曜日とプログラムの関係について、カジュアルにお話したことがあった。プロテスタント教会では、儀式がないところが多く、静思の時間とか、祈りのために静まる時間の大切さを言うものの、それを墨会社があまり経験しないまま、信者さんが経験しているかどうかに関係なく、静思の時間とか、静まりとかがたいせつだ、とか言っていることが多い、という話になった。

     

    ミーちゃんはーちゃんと静まり
    個人的には、この種の静まりとか、静まることの大切さを覚え始めたのは最近のことである(と言ってももう10年ほど前のことだが)。信仰歴25年を超えた頃にナウエンや、ジャン・ヴァニェの著作に出会い、そして本格的にそれについて思いを巡らせ始め、黙想のリトリートや、黙想の家でのセミナーなどに参加してその大切さを経験した。そして、この種の時間(そう長い時間ではないけれども)を礼拝の一環としておいているAnglican Communion のChapelに行き始めて、毎度毎度やるたびに、やはり、この種のものは、やはり大事であったのだなぁ、と思い始めている。

     

    言葉による伝道が中心の教会で
    それまでは、言葉による伝道することがキリスト者の生きる道であると、福音派の片隅のちょっこしだけ過激なキリスト者集団の中で育ったこともあって、そのように思っていたのである。伝道せねば人にあらずとは言わないが、伝道しない人はキリスト者としてどこかおかしいのではないか、と思うほどであった。それも言葉による伝道が全てであった。言葉によらない伝道、或いは言葉を介さない伝道というのは、かなり変わったもの、かなり変なものだ、と思いこんでいたのである。


    言葉だけが指し示すのか
    例えば、絵画が伝道するとか、儀式が伝道するとか、所作が伝道するとかいったことは、キリスト教としてはかなり、変わったものであり、おそらくそれは、ありえないものであると思いこんでいたのである。「下手をすると偶像ではないか」と思いこんでいたのである。単に自分たちの伝道方法と違うから、ということで、そもそも理解しようとしなかったのである。

     

    伝道する、という言葉使いは誤解を生むかもしれない。伝道するというよりは、「指し示す」という言葉がふさわしいかもしれない。伝道するという語のイメージの中に、真理を伝える、自分が持っている真理を伝える、ないし、分かち合うというようなイメージがあるかもしれない。近代を経た現代人にとっては、真理とは、論理的に理解可能なもの、言語により表現可能なもの、言語で提示しうるもの、それで十分、と言ったような理解があるかもしれないが、本当にそうだろうか。真理とは、本当に言語で表現可能なのか、という素朴な疑問に、いま直面している。

     

    神秘の前には沈黙するしかない人間
    イエスが神であり、人であるという神秘は、論理的に表現可能かと問われれば、かなり怪しいのではないか、と思い始めている。あるいは、父なる神があり、子なる神があり、聖霊なる神(ないし聖神)があり、それでいて三つにして一つという神秘は言語で表現可能か、あるいは論理的に表現可能なのか、あるいは論理世界において理解可能であるのか、と言われれば、個人的にはかなり厳しいと思う。少なくともミーちゃんはーちゃんの理解能力や言語能力では表現する能力が限られている以上、それが表現可能であるということに関しては、ミーちゃんはーちゃんに関しては、甚だ怪しいのではないか、と自分自身を反省してみて、そのように思う。

     

    単に指し示したバプテスマのヨハネ

    神の偉大なる神秘を前にして黙る、言葉を失う、沈黙する、しかないのではないだろうか、と思う。最近、ほとんど週に2回通っているチャペルでこの前の日曜日と先日の水曜日に、エピファニーということで読んだ聖書の場所は、次のものであった。

     

    【口語訳聖書】ヨハネによる福音書
     1:35 その翌日、ヨハネはまたふたりの弟子たちと一緒に立っていたが、
     1:36 イエスが歩いておられるのに目をとめて言った、「見よ、神の小羊」。
     1:37 そのふたりの弟子は、ヨハネがそう言うのを聞いて、イエスについて行った。
     1:38 イエスはふり向き、彼らがついてくるのを見て言われた、「何か願いがあるのか」。彼らは言った、「ラビ(訳して言えば、先生)どこにおとまりなのですか」。
     1:39 イエスは彼らに言われた、「きてごらんなさい。そうしたらわかるだろう」。そこで彼らはついて行って、イエスの泊まっておられる所を見た。そして、その日はイエスのところに泊まった。時は午後四時ごろであった。
     1:40 ヨハネから聞いて、イエスについて行ったふたりのうちのひとりは、シモン・ペテロの兄弟アンデレであった。
     1:41 彼はまず自分の兄弟シモンに出会って言った、「わたしたちはメシヤ(訳せば、キリスト)にいま出会った」。
     1:42 そしてシモンをイエスのもとにつれてきた。イエスは彼に目をとめて言われた、「あなたはヨハネの子シモンである。あなたをケパ(訳せば、ペテロ)と呼ぶことにする」。

     

    ここで、バプテスマのヨハネは、「見よ、神の小羊」と言ってイエスの存在を指し示したに過ぎない。とくに、ダラダラと言葉で説明したとも、福音書を書いたヨハネはここでは書いていない。もちろん、これはバプテスマのヨハネが祭司長や律法学者に「あんた、だれ?何者」とベタニアで職務質問された翌日の出来事である。


    サクラメンタルな儀式にしても、教会にしても、イコンにしても、聖書とその中のテキストにしても、あるいは日曜日にしているはずの聖餐(御言葉の聖餐であれ、実態としてパンを使う聖餐であれ)は、要するに、「見よ、神の小羊」とイエスを指し示し、神の存在が地上に来たことを指し示している、といえるのではないだろうか。教会は、イエスを指し示すことをしている場所なのだと思う。それが協会の役割なのだと思う。建物や場所がどうであれ。ただ、教会ごとに、そのイエスの指し示し方は、それぞれかなり違う。しかし、指し示しているものは、神であり、人であるキリストであるのがキリスト教だと思うのである。

     

    多様な記号の種類
    キリストを指し示す記号、キリストを示す記号として、画像が使われるか、儀式が使われるか、言葉が使われるか、所作が使われるかは、それぞれ違うけれども。どのような様式(画像なのか、儀式なのか、所作なのか、言葉なのかという様式)であれ、その様式あるいはメディアや手段に込められた意味というのか指し示す対象がある。記号と記号が指すものの関係があるということを考えると、どれがまともで、どれが正しくて、どれがだめでないか、というのはあまりないのではないか、と思うのである。儀式には儀式の、所作には所作、絵画には絵画が指し示すものがあるのである。

     

    イコンの象徴性と指し示すものの中心性
    最初、正教会系のイコンに触れた頃は、近代の遠近法に慣れたものからしたら、イコンの遠近感もおかしいし、写実的とは言いにくいし、抽象的なイコンも多い。ある面で言うと、近代の西洋絵画に慣れ過ぎているミーちゃんはーちゃんとしては、なんだかなぁ、と思っていたことも確かなのである。しかし、このブログで聖書のシーンを描いた絵画を時々紹介しているが、その時に思うのは、妙に写実的なイエス像というのは、かえって特殊なイメージを与えるのではないか、イメージを固定するのではないか、とあるときから思い始めたのである。かえって、イコンのような抽象的で、記号的なものであるほうが、細部を詰めないがゆえに、指し示そうとする対象をより明確に示すことができるのではないか、という逆説を思うようになったのである。問題は表現ではなく、指し示される対象とその対称性の重要性であるという立場に立つと、なるほど、イコンというのはそうなっているのだなぁ、と思うようになった。

     

    イコンや儀式が指し示すもの

    そして、文字が読める人は、視覚を通して文字が読める人は、文字が指し示す象徴に思いをはせ、そのことに対して思い巡らすことができるかもしれない。しかし、イコンがあれば、たとえ文字が読めなくても、そのイコンが指し示すものに対して思い巡らすことができるだろう。仮に、視覚を失っても、聖餐でのパンと葡萄の実からできたものを口にすることで、そのパンと葡萄の実が指し示すものに対して思いを巡らすことができるのではないか。その意味で、自分たちの指し示そうとする方法(表現方法)に目を向けることも重要かもしれないが、方法にばかり目を向けすぎると、その方法が指し示そうとする象徴を見逃してしまうのかもしれない、と最近反省している。

     

     

    コプト正教のエピファニーのイコン

    https://jp.pinterest.com/emtsmulders/doop-van-christus-in-de-jordaan-theofanie-icons/

     

    アメリカのギリシア正教会のエピファニーのイコン
    http://www.goarch.org/special/listen_learn_share/epiphany
    グルジア正教会のエピファニーのイコン
    https://georgianorthodoxchurch.wordpress.com/category/baptism/

     

    このように並べてみると、基本的な構図は同じであることがよく分かる。

     

    次回へと続く

     

     

     

     

    コメント
     個人的に環境の変化などもあり、読むのが全く追いついてはいないのですが、つまみ食い的に・・・
    >イエスが神であり、人であるという神秘は、論理的に表現可能かと問われれば、かなり怪しいのではないか、

     いやそもそも、人の知識で、いわゆる合理的に説明などすることなど当初から不可能ってことだったはずで、「不合理が故に我信ず」などと言われる神話(よく云われますが、相当近代にでっち上げたお話しらしく、古い文献には全く出てこないと・・・)が出来たぐらいのお話しで、故に信じるしかないってことなのだと思います。
     個人的には・・・細君の従姉ががちなカテキズムの教会の長老に任命されたりしているにも拘わらず、最近非カルケドンに引きこまれつつあり、唇が寒くなってきている状況です。
    • ひかる
    • 2017.01.23 Monday 01:26
    ひかる様
    お久しぶりでございます。ご清覧、ありがとうございます。

    全く、おっしゃるとおりなんですよ。ただ、私の関係者の方には、理屈で理解可能である、という方もチラホラおられるので、いきなり、「そんなん無理じゃん」とか「土台無理ゲー」とか正々堂々と書くとですね、あらぬところで反論とか、いちゃもんのたぐいをお伺いしないといけなくなるので…。

    結局、近代を作り、近代にまたその姿を変えたプロテスタントとか、それを突き詰めた教会に疲れてしまって、今現在は、普段は日本聖公会の英語部のチャペルに参加したり、ハリストス正教会に出没したりしております。うちは配偶者が一緒の教会に行きたがるもので…最初正教会に言った時あh,流石に説明なく連れて行ったので、お寺じゃないかと思ってびっくりした挙句、知恵熱出してしまいました・・・という状態でしたが・・・最近は理解が少し進んだようです。

    まぁ、ごゆるりと・・・
    • ミーちゃんはーちゃん AKA かわむかい
    • 2017.01.23 Monday 22:14
    コメントする








     
    Calendar
        123
    45678910
    11121314151617
    18192021222324
    252627282930 
    << June 2017 >>
    ブクログ
    G
    Selected Entries
    Categories
    Archives
    Recent Comment
    Links
    Profile
    Search this site.
    Others
    Mobile
    qrcode
    Powered by
    30days Album
    無料ブログ作成サービス JUGEM