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2016.12.24 Saturday

大阪ハリストス正教会での降誕祭講演会「なぜ神が人となったのか」参加記録

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    友人のOrzさんが誘ってくださったので、大阪ハリストス正教会の講演会に行く予定にしていたのだが、Orzさんのご関係者に重篤なご病気という実にやむを得ない急用ができたので、家内と二人でデートとして出かけることにした。今回は、昨日2016年12月23日の講演記録である。

     

    まずは正教会の概要のご説明

    修道士としてのニコライが来て、日本で布教が始まった。最大時期は3万人くらいの信者数を擁したが、今は1万人くらいである。明治や大正の頃は、教会外部の人向けに説教会で正教会のことを伝えることを良くしていた。そして、その講演会を通して、多くの信徒を獲得していたことあもった。今日は、その明治の頃の真似をして、講演会をしてみようと思っている。


    正教会についてだけれども、キリスト教の教派の一つであって、ある面で言えば、キリスト教の理解は、正教会の理解にかかっている、といえるかもしれない。正教会を基準にキリスト教を理解してみると、正教会を一つの補助線に、様々なグループがどう分かれているかを辿っていくことで、割とシンプルにキリスト教の各派の関係が、理解できるかもしれない。

     

    ミハ氏註

    これは半分は当たっているし、半分は当たってないような気がする。なぜかというと、日本から見て、極西のアメリカあたりに行って、割と最近のキリスト教と呼ばれるものなどを見ていると、儀式論において、もう、すっかり変質してて、何が何だかという状態になる。こうなると、これはこれで、また別の補助線が要るからである。確かに、先週土曜日の天理大学での、講演会(天理大学で開催された、イスラエルの発掘報告会に行ってきた 参照)の最終発題者のご発言の基本ガイドラインとなされたユダヤ教イスラム連合 VS 西側のキリスト教 などにみられるような例は、正にそうかもしれない。あの記事でも書いたように西側のキリスト教の行き着いた先ばかりをキリスト教だと思いこみ、正教系の理解が抜けると、ユダヤ教とキリスト教より、ユダヤ教とキリスト教との位置関係が近いというようなご発言になってしまうかもしれない。)

     

     

    ある種、キリスト教のカノン(まっすぐの棒 基準線 の意味)としての役割が正教会が果たせるだろうと思う。そして、正教会は、どのような教派がもともとはどんな状態だったのかを真面目にしっかりと考えつつ、キリスト教としての、再合同を模索する人々にとっては、一つのカノンとして捉えることも可能ではないか、と思う。

     

    ミハ氏註

    確かに、正教会では、古代教父の伝統にしっかりと立脚しておられるから、これは儀式の側面でも基本形がよくわかる。そのことに関しては、否定のしようがない。カノンというご発言は、まぁ、そのご気概をお持ちということでご理解は可能であるけれども、ポストモダン社会において、カノン云々といったところで、一種の参照点、補助線としての意味しかもちえないので、そのあたりはもう少し議論の余地があるのではないか、と思うが。)

     

    正教という言葉をキリスト教会関係者でも知らない事が多く、教会堂のドームの先端の形状から、イスラム教の一派、と思われたり、ニコライ堂はモスクだと思っていた人がいるほどである。

     

    大阪ハリストス正教会での写真(当日ミハ氏撮影)

     

    その意味で、日本では、キリスト教といったときに、アメリカで発展したピューリタン的なキリスト教しか、一般の人々のイメージにはないかもしれないし、日本でキリスト教というと、西ヨーロッパのキリスト教というイメージが強いように思われる。しかしながら、エルサレムの重要な教会は正教会系統のキリスト教であり、ロシア、ルーマニア、グルジア、アラスカ、ケニア、オーストラリアと様々な空間的広がりを持つ地域に、多様な教会群が地域の実情に合わせながら広がっている。その意味で、正教会は、エルサレムから東の方の地域に影響している存在である。

     

    コンスタンティヌス型キリスト教の功罪
    キリスト教そのものは、地域文化を超えたもので、地域文化と本来は響き合うもののはずであるし、対決ではなく、破壊でない共存ができるものであったはずだが、西側のキリスト教は(ミハ氏註 西側のキリスト教と言うよりは、ローマ帝国と一体化した、コンスタンティヌス型キリスト教国家と化した、西側のローマ帝国が、だとは思うが)ラテン語の世界をその先々で人々に押し付けようとした。ところが、正教会では、聖書と祈祷書は直ちに現地語化しようとしているし、これが正教会の伝道についての伝統の基本線である。


    現在、欧米社会の中でも、時々あるけれども、欧米的なもの、西ヨーロッパ的な支配概念に沿ったものへの反発がある。例えば、アジアやアフリカでの侵略主義、進歩主義、物質主義、近代の西ヨーロッパの思想に大きく影響されている社会の状態への反発が、あるだろう。それが、そのままキリスト教への反発へとつながっていて、その近代社会の極限まで突き詰めようとしている、アメリカ社会とその文化というか、文明の背景にキリスト教がある、という人もあるほどである。たしかに、それは、否定できない部分があるが、しかし、それだけがキリスト教でもない。正教会があるはずだったのに。

     

    そして、現代社会では、キリスト教世界でも、正教会を素通りして、仏教やヨガやニュー・エイジの世界に入ってしまっている人々がおられる。それは、正教会が維持してきたものの中に、西方の教会が迷信的、異教的として切り捨てているからではないか。正教会では、神秘も非常に大事なものとしてきた。。その意味で、西洋型のキリスト教が対応しかねた部分に、神秘性を重視する正教会であれば対応が可能である部分があると思う。そのような神秘性を有する理解が、正教会の伝統にはある。たしかに、神秘主義といわれれば、神秘主義かも知れないが、神との一致を信仰生活のゴールにしていることが、正教会の概念としては存在し、信仰と一体化した生活全体を、神秘として生きるということが、言えるかもしれない。

     

    ミハ氏註 砂漠の師父とか、ソリチュードとかは、この正教会の伝統に則ったものであるとは、最近より深くわかってきた。神と共に活かされる神秘を、すなわち、信仰と神と一体化することを求めて生きるという意味では、非常にムスリムと近いベクトルを感じるのである。実際に正教会系の人々と、ムスリムは信仰の点においてかなり類似性を感じる)

     

    正教の捉え方からならば、日本文化を再発見できる可能性もないわけではないことに私(松島司祭)は、気がついたことがある。(ミハ氏註 まぁ、一神教と多神教では根本的に違うところがあるが、そこらあたりの厳密な議論は、一応留保しておく。)

     

    イイスス(ミハ氏註 ナザレのイエスとして日本では知られることの多い、人物名の日本ハリストス正教会風の言い方。なお、イエズスとか共同訳聖書では表記している。以下、一般化している表記のイエスに統一する)は、単なる歴史上の偉人ではない。キリスト教は、三位一体にして神である父と子と聖神が存在し、それらが完全に一つであるという理解に立つ。理屈ではわからないことでもあるが、これは、最も大事な教義となっている。至聖三者(英語では the Holy Trinity)であることを、考えるとともに、完全に神が人となった方として、神であり、人であるイエスということの理解が大事にしている。


    正教会の礼拝のときの指の組み方は(ミハ氏註 十字を切る時の指の形)、親指、人差し指と中指を合わせて3本で三にして一であることを示し、薬指と小指を内側にきっちり折り曲げるのは、神が人となったこと、イエスの神人両性を折り曲げた二本の指で示し、二性一人格ということを表している。この指の形は、それだけで、三位一体と二性一人格の根本教義を示している。この三位一体と二性一人格あるいは神人両性を認めないものは、キリスト教としては、正教会の伝統からはお付き合いは難しいという側面がある。

     

    なぜナザレのイエスが必要だったのか
    本日は、この地に人間であるナザレのイエスとして神が来たことについてお話したいが、これについて、正教会の伝統では、藉身(せきしん)といい、カトリックの伝統では、託身(たくしん)といい、プロテスタントの伝統では、受肉という。

     

    本来、この神が人になる、ということは、一神教世界において、とんでもない大スキャンダルであるのだが、翻って日本を見たときに、現人神として人が神になる世界である、日本では、神が人間になる(ミハ氏註 まさしく、N.T.ライトさんの著書の How God became Kingを思い起こさせるが)ということの大スキャンダル感が、どうも伝わらない。ユダヤ教、キリスト教、イスラムを含む、これらの一神教世界では、神に関しては、絶対他者性というのか、どうやっても人間とは異なる他者性をもった存在として、理解される。一神教の世界では、神が人になるなどということは、起こり得ないこととされており、その世界の人々にとっては、そんなことがあってたまるか という感覚がある。

    ミハ氏註

     この辺がどうも日本では、きちんと伝わってないので、一神教の世界はある程度適切な範囲で、どうやっても理解されないように思う。そして、日本では、一神教と言いつつも、似て非なるものがまじりこんで来ている可能性があるかもしれない。とはいえ、そもそも人間は不完全な存在だ、くらいにはミーちゃんはーちゃんとしては、思っているので、この他者性が理解できない人について、個人的に、少しスルーしていることも少なくない。)

     

    まず、この世界のことを考えてみよう。3種類の疎外の観点から考えてみたい。

     

    疎外とは仲間はずれにする、ということである。全共闘全盛時代、この阻害という語は、産業社会の中で、人間がその本来の姿から切り離された、人間の姿の言葉として使われた。

     

     

    逮捕されたように見える、全共闘の方(画面中央)後ろは機動隊  

    http://campingcar.blog.hobidas.com/archives/article/88984.html

     

    日本大学の全共闘ヘルメット

    http://www.geocities.jp/keitoy2002/nichidaitousou1971.htm

     

    ところで、全共闘の人々が言うまでもなく、人間の現実では、様々な面で疎外されているのである。どのような意味でかというと、まず(1)神からの疎外、(2)人間関係からの疎外、(3)被造物全体からの疎外の3点で阻害されているのである。

     

    神からの疎外からの開放
    まず、神からの疎外であるが、神の裁きや神との関係がエデンの園での出来事で、神によって人間が阻害されているかのようにおっしゃる向きもあるが、それはそうではなくて、人間自身が、神から自らを切り離した、と正教会では考える。まさに、失・楽園である。

     

    映画失楽園のパンフレット

    http://jidai2005.at.webry.info/200707/article_41.html


    神の戒めに背いて、禁じられた善悪を知る木の実を食べることで、神との関係を人間側が切り離して、勝手に生きていくことを選択した、と正教会では理解する。つまり、神による追放ではなく、自己追放ではないだろうか、と師父(ミハ氏註 最初の頃のキリスト教の神学者たちのこと)は、主張しているのである。自ら、神との関わりにおいて、自己疎外したとえいるのである。手厚い保護のもとにある神と共に過ごした楽園での生活を、自ら捨てた、と理解するのが 正教会の伝統である(ミハ氏註 なお、イスラム世界でもそうなっている)。イエスも同じイメージを語っているが、それは、どこかというと、典型的に、放蕩息子のたとえ話であり、弟息子も、自分から神のもとを去っていっている。

     

    人間は、自分の意志で生まれてきたわけではないだろう。であるとすれば、人間の存在根拠は神にある、といえるのではないだろうか。存在の根拠であるいのちの源である神から離れた人間は、根無し草同様の状態であり、こうなっていると、自分はなんのために生きているのか、確信がない状態になる。

     

    時々、強がって生きている人もいるが、そうなると、ポキっと折れる人々も少なくない。人間の存在の根拠は、生物学的な親の存在という人もいて、そのような人と向き合っていると説明に困ることはあるが、肉体的な私、心理学的な自我は、たしかに生物学的な両親の存在から来ているかもしれないが、この自分を自分たらしめるものの存在がある、という説明で以前、ご納得いただいたこともある。

     

    自分が神との関係に根を下ろしていた記憶が人間には残っているのではないだろうか。神との関係を離れては、人間は内実を持ち得ないのではないか。人間として、明白でないかもしれないが、薄っすらと記憶している感じ、なんか空虚だという意識を感じている部分もあるのではないか、ということはないだろうか。

     

    ミハ氏補足

     このあたりのことを拝聴しながら、あぁ、これ、ライトさんが『クリスチャンであるとは』の中で「響いている声」と表現したものであるなぁ、と思った。)

     

    イエスと出会った女性の一人に、日中の高温の環境下の、サマリアのスカルの井戸でイエスと出会った、多くの男性の妻であった女性の話が出てくる。おそらくこの女性は、自分自身の欠乏感、あるいはなんとも言えない渇きを満たそうとして次から次へと恋愛の対象を変えて行ったのであろう。正教会の伝統の中では、このサマリアの女性のすがたは人間のさまよいを写し撮っている、と理解する。

     

    まぁ、さまよった挙句でも、なんとか、教会にたどり着ければ、ラッキーであると考える事はできるであろう。多くの場合、芸術もさまよい、仕事、政治、学問、宗教も、人間のさまよいを示しているのではないだろうか。これが、ある面、人間の神からの関係が阻害された、結果の現実であると、理解できるのではないだろうか。

     

    人間の関係性からの自己疎外からの開放

    神から自己追放したために、人間世界での共同体性が失われ、人間関係をバラけさせることになった。その結果、人間もバラバラになっていき、結果として、人は孤独な個人になったのである、と正教会では考える。正教会にとって、個人であることや個人主義は、ネガティブな意味しか持たない。自分への関心を中心として向き合うということは、あまり評価されない。個人主義的な考え方は、関わり合うのではなく、他人と向き合う(ミハ氏註 対決的な姿勢を持つ)ということでもあろう。正教会の伝統では、個人主義や個人中心というものに対して、否定的な視線を向ける。

     

    しかし、正教会の伝統では、神にしっかりと結びついたものとして、お互いを見出していき、より豊かなものを生み出すようにされていると考え、このお互いに見出し、受け入れあっていくという理解が、本来の人間のあり方であろうと考えている。正教会の伝統としては、本来的な人間というものは、神のかたちであり、三位一体であり、互いに分かち合っている関係性を持つと考えられており、男と女とかの違いはあれど、それぞれが異なった者として創造されつつ、相補性をもっていて、神のかたちを形成していると考えてきた。であるからこそ、人が神のかたちとして創造された以上、人が一人でいるのは良くない、という理解となる。

     

    よく誤解される語に、人格があるが、正教会が人格と呼ぶものは、人のあり方のことであり、性格や特性というものではない。この神によって人格(ミハ氏註 神と対話する能力、神と関係を持つ能力)を持つものとして創造されたのに、人間はそれを失ってしまったという立場であり、その結果、相互にかけがえのないものとして、一致していこうとする、ダイナミックな存在としての人格、すなわち、ペルソナが失われ、人はその人生を孤独、無関心、無理解の中に生きなければならないように、自らしてしまっている。

     

    ちょうど、メドゥーサがそれと、向き合うものを、冷たい石に変えてしまったように、人間は互いに敵対的に向き合ううちに、人間関係から豊かさがもたらされるのではなく、そして、人間関係が良きものをもたらすのではなく、冷たい孤立した孤独な関係に変わってしまったのである。

     

    ギリシア神話のメドゥーサの首を持つペルセウス

    http://www.artsheaven.com/sebastiano-ricci-perseus-confronting-phineus-with-the-head-of-medusa.html


    カリストス・ウェアという英国の正教会の神学者が要るが、彼は、Love is creativeと言っている。その意味で神の関係性は、非常にユニークで独創的なものと考える、という理解が正教会にはある。(ミハ氏註 霊性の神学の世界では、創造的であることとこの愛の概念は非常に似通った言われ方がする例が多いようなきがする。)

     

    被造物全体からの自己疎外の開放
    神からの関係の疎外の結果、人間と自然界の関係においても、疎外が生じた、と正教会の伝統では考える。


    被造物世界の中で、同じ神によって創造された、という根拠によって、被造物理解が正教会の伝統では形成されている。人間の役割は、神からの贈り物として委ねられた世界への配慮として、神への礼拝を捧げることであり、勝手放題好き勝手やっていい、ということではない。この地をケアすることが、本来の人間と自然界との関わり方えあり、礼拝であるはずである。

     

    善悪を知る木の実は、アダムには委ねられなかった。それに触ってはならない、と言われた。善悪の知識の木の実を触ってはならなかった、ということは、人間の力を及ぼしてはいけないところがあることを表している、と考える。それを無視して、その木の実を口にしたことで、本来の人間と自然の間での適切な関わりを、人間は阻害してしまったのである。そして、この自然の世界は、人間にとって研究し、利用し、支配し、破壊する対象となってしまった。それは、自分でしたことの結果ではあるけれども、その結果、自然からも仲間はずれにされ、疎外されてしまった。

     

    このような、3種類の自己疎外、すなわち、神からの自己疎外、人間関係からの自己疎外、自然からの自己疎外の自己疎外、があるのではないだろうか。

     

    ミハ氏註 ナウエンは、The way of the heart の中で、特に、人間関係の自己疎外の結果について、論考している。人間関係の自己疎外の結果である、他人に強いること、Compulsionの問題を追求している。そして、グリューンは、それを「従順さという病い」の中で、人間関係からの疎外を恐れるあまり、その社会システムなり、特定の人との関係性の中で、他者の理想や他者が求めてくるものに対しての従順さを、過剰に追求し、そしてそれに過剰に応じようとする人間の悲惨を描いている。)

     

    なぜ、神が人になる必要があるのか

    アダムは、なぜ、善悪の知識の木の実を食べたかを問われ、エバに責任転嫁し、エバをアダムに与えたもうた、神にさえ責任転嫁をしようとする。そして、そのアダムの子どものカインは、兄弟であるアベルを殺し、そのカインの末裔は、金属器(青銅器や鉄器)を作るようになる。この金属器が作られることで、農業生産性は飛躍的に向上し、そして、それに伴い、他者の富やその源泉を奪うために、武器を使った殺戮が当たり前になる(ミハ氏註 実際に、水田耕作が行われている地方では、雨不足のときに、殺気立ってくると鎌が持ち出されることがある)。 金属器の登場は、文明の登場でもあった。テラやトゥバル・カインでは、鋤や鍬が作られ、生産性が上がり、あまつさえバベルの塔のようなものを建設し(ミハ氏註 バベルの塔を建設することで、神に近接しようとし)、人は都市を作り出そうとする。このような創世記の人々の動きの中に、人間が作った、文明と呼ばれる要素が全部入っている。

     

    ところで、パウエル(ミハ氏註 パウロと呼ばれる人物 以下パウロ)は、自分が罪人のかしらだ、と主張している部分に関して、パウロのレトリックだといい、パウロは、もっと立派な人だという解説した書籍もあるが、おそらく、この部分は、パウロの正直な気持ちだったのではないだろうか。


    ところで、自己疎外こそ、死ぬことの本質ではないだろうか。人間が、そして、自分たちが自らを追い込んでいった「死」という状況、それが、原罪であるのだろう。死ぬ、という状況の中に生まれてくること、その事自体が原罪である。ダビデの詩篇には、「我が母は罪において、われを産めり」とあるが、正に死ぬものとして、自ら神からの関係に阻害があるものとして、いのちの源からの断絶へと自ら追い込んでいった「死」という状況の中に生まれることが、罪なのではないか、と思う。


    神の側の対応

    神の側は、ときに神に対して失われていることに対して、激しい怒りを持って人間に接する。

     

    罪を犯したものが許しをいただく痛悔機密(ミハ氏註 いわゆる懺悔とか告解と呼ばれるもの)があるが、この中の成文祈祷の表現のなかに、「 転じて生きよ」という一文がある。それは、神のもとに転じて、神と共に生きるものとなれ、ということである。転じて生きるために、人間があまりに失われた状態、死した状態にあるため、そこからの救出のため、あえて、その失わそうな状態である人間と同じ状態に身をおいて、一緒になって救出するために、(ミハ氏註 ちょうど、消防士が火の中に飛び込んで、中にいる人を助けるように)、神は最も深い愛をもって、神の側が人間の側に、やって来たと理解する(ミハ氏註 N.T.ライトは『クリスチャンであるとは』の中で、神のレスキューミッションと書いている)。神と人との深い裂け目を超えて、神が人間の側に来たのであり、更に、深い裂け目の奥底にまで、神の側が来て、その手を人間に向かって伸ばしているということだと考えている。

     

     

    救急戦隊ゴーゴーファイブ(単にレスキューつながりで、引用。東映戦隊モノ。随分前に子供と一緒に見てた)

     

    Cicago Fireから(消防隊を描いたDick Wolfのドラマ)


    その意味で、創造者である神が、人間のもとに人間を救出するために、やってきた。神としての自分を状態を捨て、わざわざやってきた、そこに神の愛がある。神が意図的に自分自身を死ぬものと等しくするという、ナザレのイエスの髪に対する自己疎外(ミハ氏註 エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ と言わなければならない状態にイエスが自らおくこと)が、人間の自己疎外から救った。

     

    礼拝するとは何か

    耕し守ることは、礼拝する、とも訳せる可能性がある。礼拝での役割を担う司祭は、神と人との仲立ちをする。その意味で、このナザレのイエスは、人間が司祭としての性質を取り戻すために、この地に来た、とも言えるのではないか。

     

    正教会の式文の表現に、献じるものと献ぜられるもの、という表現があるが、 人間の司祭性を回復させるために、ナザレのイエスは来たと考える。つまり、我々人間が司祭であることを回復させるために、イエスがこの地に来たと考える。

     

    共同体の回復

    孤独な私としての人間の状態から、私達への回復を正教会の伝統では考える。それは、互いの愛の関係の中への回帰である。その意味で、私(ミハ氏註 MeismやSelfishness)から、私達(ミハ氏註 コミュニティとコミュニオン ナウエンはこのことを非常に重視している)への回復である。

     

    人間の利益確保の道具としての地や被造物である、という側面から、自然と人間との本来との関係を取り戻し、モノの世界との和解が可能となった。

     

    ミハ氏感想

     だからこそ、正教会では、ものとの和解をするために、聖性の儀式をするのかな、聖なるものとするための儀式をするのかなぁ、とこの部分をお聞きしながら、思った。なお、このような概念は、モノにもある種の霊があるとするムスリムの精神世界と類似性が高いと思った。)

    聖餐(聖体礼儀)をどう考えるか

    パンとぶどう酒というモノそのものが栄養源として考えられているのではなくて、これらが神からの愛の贈り物、”いのち”の源として差し出されることを受け取るという理解が一番いいのではないか。たしかに、偶有性としてのパンとぶどう酒頭囲言い方もあると同時に、実態としてのキリストの体という理解もあるが、それは、パンとぶどう酒というモノでありながら、キリストの体と血として差し出されている愛の贈り物でもある、という両面性があるものとして、理解することが良いのではないだろうか。

     

    その意味で、日常のあらゆるものがモノであると同時に、キリストの贈り物、神秘であると考えることもできようし、日常生活の中の神秘を日々経験している、すなわち、神との関係回復、人間の関係回復、モノとの関係の回復ということとおして、「死ぬ」という極限的な疎外から回復されることを覚えている、とも言えるだろう。詩篇の中に、次のような詩篇がある。

     

    【口語訳聖書 詩篇148篇】
    主をほめたたえよ。もろもろの天から主をほめたたえよ。もろもろの高き所で主をほめたたえよ。
    その天使よ、みな主をほめたたえよ。その万軍よ、みな主をほめたたえよ。
    日よ、月よ、主をほめたたえよ。輝く星よ、みな主をほめたたえよ。
    いと高き天よ、天の上にある水よ、主をほめたたえよ。
    これらのものに主のみ名をほめたたえさせよ、これらは主が命じられると造られたからである。
    主はこれらをとこしえに堅く定め、越えることのできないその境を定められた。
    海の獣よ、すべての淵よ、地から主をほめたたえよ。
    火よ、あられよ、雪よ、霜よ、み言葉を行うあらしよ、
    もろもろの山、すべての丘、実を結ぶ木、すべての香柏よ、
    野の獣、すべての家畜、這うもの、翼ある鳥よ、
    地の王たち、すべての民、君たち、地のすべてのつかさよ、
    若い男子、若い女子、老いた人と幼い者よ、
    彼らをして主のみ名をほめたたえさせよ。そのみ名は高く、たぐいなく、その栄光は地と天の上にあるからである。
    主はその民のために一つの角をあげられた。これはすべての聖徒のほめたたえるもの、主に近いイスラエルの人々の/ほめたたえるものである。主をほめたたえよ。

     

     

     

    クラッシックな詩篇148篇

     

    現代風の詩篇148篇の賛美

     

    正に、この地の被造物全てとの関係の回復にあたって、天と地を結び合わせる存在としての神が、この地上に到来し、その回復があるのである。この回復を、体験するのが教会であるし、それを示すのが、毎週の神への礼拝、共同体で行う礼拝であり、今は、教会の中で見ている人だけかもしれないが、それが、そのうち、全地、及び、全宇宙、すなわち、神の子が作り給いし全てのものに対して創造主である王が現れ、神の創造の美しさを持つコスモス(ミハ氏註 このコスモスには、お花のコスモスの語源というよりは、Cosmetics すなわち、化粧品 の語源の被造物世界の美しさ、っという語として理解した方がいいだろう)全体に、回復された関係が広がる。 これが降誕祭で祝っている内容である。このキリストが地上に生誕したことで、神との関係が回復し、そして万物との関係が回復するというのが、正教の理解である。

     

    正教では、もし、という問いをあまり取り扱わないのだが、それを取り扱っているものの中に、「もし、人間がそのあり方を失わなかったら、神は人とならなかったのか。」という問いがあるが、シリアのイサアクは、神はやはり藉身(Incarnation)しただろう。このIncarnation すなわち、藉身とは、神が自分自身から出て人の中に自らを注ぎ込み、人と一体となる神の愛のわざである、と表現している。また、それは、神と人とが一つになる、と表現した正教の師父たちもいる。

     

    キリストとは何者か?
    完全な人間の示しとしてのハリストス(ミハ氏註 ハリストスとは一般にキリストと呼ばれる油注がれたもの、ギリシア語でキリストは、王という意味)はアダムの善悪の知識の木、の果実に関するしくじりの回復をするために、十字架という木にかかることで回復された、と考える。(ミハ氏註 このことを聞いた時、以下のアフリカン・アメリカンのブルースである”Strange Fruit”が思い浮かんだ。)本来人間がなっていくべき神の似姿の具体的な提示としてのキリストであり、そして、神と人間の回復された姿が、キリスト・イエスに示されている。これは、聖師父(直接の弟子たち)の共通理解であったであろう。我々も、人間として生きながら、神と一つになるように変容していく。 その意味で、神が人間という、あえて貧しい姿を取ったのがIncarnation(藉身・受肉)であり、それを記念するのが、クリスマスである。その意味で、神が人となったのは、神が神であり続けつつ、また、人が人であり続けつつ、それでも、共同体として、神と人が一つになることが目的である、ということを覚えるためである、と正教会では考えている。

     

    ビリー・ホリデー嬢の Strange Fruit 

     

    今回お話した内容は、幅広いキリスト教の中での伝統の、その中にある一つの見解、ではあるけれども、多くの師父たちは、様々なバリエーションで、このことを述べている。

     

    個人的感想

    非常に楽しかったし、ある面、同行した家人は、めちゃくちゃ感動していた。ミーちゃんはーちゃんは、横浜ハリストス正教会の水野司祭がお書きになられた『福音と世界』での論文を拝読し、ある程度の理解をした上で、横浜出張のついでに、横浜ハリストス正教会に寄せていただき、色々と、ご教示及びご指導賜った上で、神戸のハリストス正教会に行ったので、神戸ハリストス協会に行くのが楽しかった。しかし、そのときに同行した家人は、何も知らずにハリストス正教会に連れて行かれたので、ミーちゃんはーちゃんが間違ってお寺に連れて行ったと思ったほどの家人であったが、今回、松島市祭のお話を聞いて、なるほどと思ったことが多買ったらしい。帰り道で、実に実りある講演会であったと、何度も繰り返し言うほどであった。

     

    松島司祭は、正教会は大風呂敷を広げる傾向にある、とお話されていたが、非常にスケールの大きなまさに”福音”(イーワンゲリオンと呼ぶべき人間界ではなく、世界全体の回復も含めた回復のお話)をお伺いしたと思うし、ここまでまとめて、クリスマスの意味を提示された方のお話を、これまで聞くことはなかった。

     

    ご講演中の松島司祭

     

    今回、この講演会に参加させていただいてお聞きしたお話は、クリスマスに際し、大事なご講演の機会であると思ったので、本日ここに紹介した次第である。Orz山、明日の説教、ここからパクったらあかんよ。 

     

    なお、この速記録は、当日会場でメモをミーちゃんはーちゃんが、講演を聞きとったものなので、聞き漏らし、意味の取り違い、ミスなどがあるとすれば、その責任はミーちゃんはーちゃんにある。参加者は全部で、30名前後ではなかったか、と思っている。

     

    このご講演の後、大阪ハリストス正教会の美しいイコンスタシスや、会堂内部をご紹介していただいたり、正教会のクリスマスのときに歌われる賛美歌をおきかせいただいた。

     

     

     

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    コメント:薄いけど、めちゃ考えさせられる。

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    コメント:おすすめしています。

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