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2009.10.24 Saturday

ディスカッションが日本の教会(集会)で成立するのかな

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      今、所属しているキリスト集会(キリスト教会)で月に

    一回程度、ディスカッションの時間というものがある。聖

    書の文言に基づきながら、自由に発言し、考えを深める時

    間ということになっている。あるいは、関西のあるキリス

    ト集会で聖書研究会という形の終わりの部分にあったディ

    スカッションの機会に参加したことである。

     これに参加しながら、思うことがある。あまりに変な

    ことを言わないように、ということなのだろうが、いろん

    な註解書で、こんなことが書いてあったということのオン

    パレードとなっていることがまず気になる。註解書を調

    べるのは良い。その努力は尊い。しかし、そこから、一

    信者としてどう考え、どのような聖書理解に達したのか、

    ということを示す機会がディスカッションの機会であり、

    そのディスカッションで自分の聖書理解が問われている

    にもかかわらず、その一線を越えることができない方が

    多いようにおもう。

     註解書比べをするのがディスカッションではないと思う。

    註解書を見ながら、それをもとに考え、そして、自分の

    意見は、こう思う。この解釈は、このように理解すべき

    ではないか、と問い、他者との聖書理解の比較の中で、

    自らが気付かなかった側面について思いをはせることで、

    各人の聖書理解を深めていくところにディスカッション

    の重要性があるはずであるが、それが少なくとも私の

    所属する教会では十分理解されていないように思われる。

    その意味で、表面的な聖書理解を触っただけに終わって

    いる印象があり、より聖書理解の深まりを得ることがで

    きないというフラストレーションを覚えることが少なく

    ない。

     もう一つディスカッションの差異に感じる違和感は、

    意見の集約志向である。ディスカッションは、意見の

    集約することに意味があるのではない。異なる聖書理

    解の見方があることにそれぞれが気付き、他者の視点

    で自らの聖書理解を再検討するための糸口を得る機会

    であり、意見統一を図る機会ではない。しかし、日本

    社会では、人が集まり話をし始めると、意見の集約に

    向かっていく傾向があり、異なる意見がそのまま並立

    したまま残ることに違和感があるようである。個人的

    には、聖書理解に関しては、意見集約を図る必要はな

    く、その聖書理解の多様性こそ、重要だと思うし、そ

    うでないと、より深い聖書理解とはならないのではな

    いかと思う。深さよりも表面的な一致を重んじる雰囲

    気が集会の中にあるように思う。

     このことを、今度の聖書研究会で触れてみよう。

    波紋は大きいかもしれないが、してみる価値があると

    思う。


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