<< NTライト著上沼昌雄訳 『クリスチャンであるとは』 その16 | main | NTライト著上沼昌雄訳 『クリスチャンであるとは』 その17 >>
2016.12.19 Monday

天理大学で開催された、イスラエルの発掘報告会に行ってきた

0

     

     

     

     

     


    Pocket
     

    音声ファイルダウンロード先

     

     

     

    2016年12月17日に、天理大学で開催された、新約聖書時代のシナゴーグが疑われる遺跡の発掘報告会「イエス時代のガリラヤ地方と一神教の系譜を探る −イスラエル、テル・レヘシュ遺跡における最初期シナゴーグの発見 」に行ってきたので、その概要と、ミーちゃんはーちゃんが思ったことをタラタラと書いてみたい。

     

    日本とイスラエルの共同発掘プロジェクト概説

    最初は、桑原久男さん(天理大学)により、これまでの移籍の発掘の経緯と、日本とイスラエルの発掘関係についての概説がなされた。イスラエル大使とかの祝辞が送られてきたものが読まれていたあと、橋本英将さん(天理大学)がシナゴーグの発見に至った発掘の経緯である、遺跡の概要をご説明になった。

     

    以下発言の趣旨を要約する。

     

    タボル山(変貌さんと否定されることがある)を望む、タボル山から南西 5km付近のテル・レフェシュ遺跡であり、丘に囲まれた中にある遺跡である。テル(丘、の意味)とは、住居を建てては、その部分を埋め、その上にまた都市を作り、更に、またその新しい都市を潰しては、更にその上に都市を建設していった上げく、古代住居跡がミルフィーユよろしく、層になって重なっている、中東独自の遺跡が発見される、小山状の場所の総称である。

     

    イケアさんのミルフィーユ http://www.ikea.com/ms/ja_JP/food/recipes/pancake.html

     

    テル・ネフェシュ遺跡

    このテル・レフェシュ遺跡(下のMap参照)では石灰岩の岩盤が表層近くにある。この遺跡は、前記青銅器時代から、ローマ時代の遺跡であり、ユダヤ戦争のあとのヘレニズム時代の遺跡は確認されてない。なお、この都市は、ヨシュア記に出てくるイッサカル部族の主要都市、アナハラトと表記される町に、比定される可能性があるらしい。この都市名は、エジプトのファラオの遠征碑文にも登場する。

     

    Google Mapsによる地図 https://www.google.co.jp/maps/place/Tel+Rekhesh/@32.6533495,35.3964932,12z/data=!4m5!3m4!1s0x151c4464c62184dd:0x5788c935f974750d!8m2!3d32.653345!4d35.466531

    でみるレフェシュ遺跡

     

    テル・レフェシュ プロジェクトの皆様 http://rekhesh.com/rekhesh.com/Home.html

     

    なお、この遺跡のこれまでの発掘経緯からは後期青銅器時代には、ミケーネ土器の断片が発見されており、この丘の上の町が、エーゲ海方面の諸都市と交流と言うか、物流関係があったことが、想像されている。また、儀礼用の香炉台とか土製仮面なども出土しており、鉄器時代I期の遺構としては、オリーブ・プレス(オリーブの圧搾施設)と巨大建造物が出土している。

     

    ミケーネ式土器の一種(多分こんなに豪華な分ではないけど) http://www.veniceclayartists.com/minoan-art-pottery/

     

    オリーブ・プレス(発掘されたものではなく、もうちょっと最近) http://free.messianicbible.com/parasha/parasha-tetzaveh-you-command-the-oil-of-anointing/

    鉄器時代の後期の石の壁と入り口がついたような、大規模構造物を発掘するのが、直近の発掘の目的であったが、その発掘の過程で、ローマ時代の出土遺物として、土器とコイン 、石臼、ヘロデ時代のランプ(ランプは、出土品の中でもデザインが時代によって変わるので、時代特定に有効)、ローマ時代のフレスコ断片、さらに、石灰岩製の石製容器(石灰岩を削ったもの、宗教祭具の一つ、と考えられている)が出土している。

     

    発掘前に、地中レーダーで探査した結果を見ると、「なにか出そうだ」という判断で、発掘を開始した。後期鉄器時代の壁の延長線上を、発掘している最中に、その鉄器時代の遺跡の延長線と思ったものが、初期シナゴーグの遺跡と思われるものであり、今回発掘の結果、この遺跡が見つかった。

     

    様々なランプのレプリカ

     

    これを初期シナゴーグと想定した理由は、直方体の切石が壁際に積まれていること、真ん中に直方体状のに切石(画面中央やや左の立方体の石)が整えられた岩盤を利用した上に据え置きされており、ベンチ上の石に囲まれるようにして建築プランがなされており、この遺構を始めてみたとき、イスラエル側の発掘責任者は非常に興奮した。

     

    発掘された遺構の画像 http://www.wnd.com/2016/08/1st-century-galilean-synagogue-discovered/

     

     この遺構はマグダラの初期シナゴグ遺跡とよく似ている 初期シナゴーグの特徴と幾つか合致する性質が見られた。発掘現場の画像や発掘時の各種の記録図面なども紹介しつつ、講演がなされた

     

     1世紀のシナゴーグの意味としては、これまで同時代のシナゴーグは、7例がおそらくそうでないか(ミハ氏註 そうでないか、のはなしであり、確定をしないところ、ここが大事)と言われているものが見つかったが、今回はその8例目になる可能性がある(ミハ氏註 まだ可能性である。このことが大事)。特に、漆喰の塗られた階段状の石造遺構が見つかったが、これは、ミクベと呼ばれる沐浴場跡ではないかと考えているが、まだ、同定に至るまでの発掘が進んでいない。ただ、この発見は、「何が見つかったら初期シナゴーグといえるのか」ということに補助線を与える調査であり、同様の遺跡が出た時に、参照することができる遺跡が現れたということであり、これからの研究課題への貢献が期待できる。

     

    シナゴーグとは何か?

    続いて、山野貴彦さんという先生が話された。ご専門は、新約聖書時代の初期シナゴーグのご研究をなさっている方である。要約した結果を以下に示す。

     

    シナゴーグとは、もともとギリシア語由来のことばで、シュナゴーゲー、ないし、プロセウケーと言う、”集まる”という語から発展して、その変化形として、シナゴーグとなっている。ヘブライ語では、 ベト・クネセト(ミハ氏註 人が集まる家 くらいの意味)、アラム語で べ・クニシタと呼ばれるところであり、多目的集会所、人が集まるための建物という程度の意味であり、現代イスラエルの国会もクネセトと呼ばれているのは興味深い。

     

    さて、新約時代のシナゴーグにしても、ローマ時代のシナゴーグにしても、かなり時間幅があり、また、どちらかというヨーロッパ視点からの名称であるのは気になる。ユダヤ教の歴史から言えば、第二神殿時代とは言えるが、厳密に言えば、初期シナゴーグの時代は限定的であり、むしろ、 ローマ史から見れば、ローマ帝政の成立期、そして、第二神殿時代からの視点では、その最終期に当たる。その意味で、ユダヤ教の歴史的現象を扱うにも係わらず、「新約時代というキリスト教目線のタイトルはいかがか」と思う。

     

    初期シナゴーグ時代とは、ナザレのイエス登場前夜から、新約聖書諸文書の成立の時代 BC4からAD100くらいまでの時期であるとは言えるだろう。

     

    ところで、シナゴーグの成立時期はいつか、という問題があるが、論者によって、モーセ時代(ミハ氏註 これはないと思う)から、預言者時代、第2神殿期まで、様々な見解があり、その実像に迫ることは困難である。その意味で、成立時期は、現段階では学問的な意味ではなんとも言えない。

     

    ところで、ディアスポラ(パレスティナの外側にいる人々)のシナゴーグを考えてみると、紀元前3世紀頃の碑文には記載がある。出土したその碑文では、プロセウケーと書いてあり、また、ヨセフスの著作にはシナゴーグの紹介が出てくる。海辺のカイサリアなどの名前を上げて、シナゴーグの存在を紹介しているが、しかし、これらの名称付きのシナゴーグは、その遺跡が出土していないので、考古学的には立証されていない、というしかない。テオドトス碑文では、シナゴーゲと呼ばれている。

     

    シナゴーグには、律法の朗読、戒めの教育以外にも、宿泊施設としての役割もあって、人々がそこに宿泊する場所という側面をも、もっていた。宿泊の場所に関しては、ラビ文書内に、「シナゴーグで宿泊とは、けしからん」とか言う文書もある。

     

    ミハ氏的感想

    ちょうど、天理大学行く途中、天理駅から大学まで歩いたのだが、駅前のあちこちに地名入りの宿泊施設(「詰所」って書いてあって、確かに詰められたのだろうなぁ、とは思った)があって、そして、カナダとかブラジル系の人たち向けの「詰所」と言うか、宿泊施設もあって、いやぁ、驚いた。現代日本の宗教都市と、イスラエルの宗教都市であったエルサレムとの関わりを考えると、こんな感じだったのかなぁ、と思ったのである。

     

    ところで、巡礼のときには、カトリックの巡礼者は、カトリック教会に泊めてもらえることも、あるらしい。カトリック教会の中には、病院の機能と巡礼者の宿泊施設の機能を持ったものがある。 ヘブライの巡礼の際の宿泊施設としてのシナゴーグを考えると、それがカトリック教会に引き継がれているのかもしれない、と思うと、非常に印象深かった。)

     

    古代におけるシナゴーグ遺跡の分布図を見ると次のような感じである。

     

    パレスティナのシナゴーグ遺跡の分布図

    http://synagogues.kinneret.ac.il/excavated-synagogues/distribution-maps-of-ancient-synagogues/ から

     

    ローマ期シナゴーグの遺構は、わずか7例しか見つかっていない。 しかし、後世の遺跡は爆発的に増加するのである。特にイスラエルから離れているガリラヤでは、ユダヤ教の中心施設として、シナゴーグが必要であったのであろう。3世紀以降は出土物などから、その遺構がシナゴーグであることが、特定しやすくなる。屋内装飾とか、律法の巻物が設置してある場所などが特定でき、居住地区の領域内における最大級の遺物であり、かなり。集会所である以上、普通の住居遺構以上の大きな建物であれば、シナゴーグであると比定しやすくなる。特に建物をめぐるように、座るためのベンチがあり、ベンチで足りない分には絨毯を引いていた、と考えられる。


    シナゴーグかどうかの確定には、規模、出土物からの確認、宗教的な遺物の存在、などがかなり大きな要素であり、それが発見されると、おそらく宗教施設として利用されていた、と比定しやすくなる。

     

    イスラエルのシナゴーグと

    ギリシア世界のシナゴーグ

    シナゴーグ研究では、ディアスポラのシナゴーグとイスラエルのシナゴーグをかなり安易に比較しているような研究があるが、ディアスポラのシナゴーグは、その町の文化に属するものであり、単純比較できないが、比較対象の参考にはなる。この古代のシナゴーグ様式の原型は、現代までつながっている部分があり、例えば、壁際に沿ってベンチがあるなど、古代から連続する建築様式がある。例えば、プラハにある、シナゴーグなどが参考になる。

     

    ミハ氏註 このあと、過去イスラエルで見つかっているシナゴーグ遺跡の個別の説明(詳細省略)がなされ、このローマ帝政初期の数十年間に建設されたものの、特徴に関する解説が行われた。詳細省略)


    面白かったのは、出土品の石の容器に関する議論であり、ガリラヤ湖の東北側では、加工の容易な石灰石の容器ではなく、現地で産出する硬質の石である玄武岩でできている石製宗教祭器が出土するらしい。なお、ガリラヤ湖から西側は、石灰石製の宗教祭器が出土し、ゴラン高原付近は玄武岩製のものが出てくる。

     

    また、シナゴーグの構造とし1階建てなのか、2階建てなのか、という議論があるだろう。現代のシナゴーグをもとに、2階建て(女性等の席)の例を参考に2階建てを考える向きもあるが、壁体構造から行って、2階を想定するのはしんどい仮説と思われる。


    1990年から発掘されているヒルベト バド イーサ遺跡があるが、この遺跡からは、着色漆喰の存在がみられた。また、2008年に、ガリラヤのミグダル(マグダラ)でビーチ開発の途中でシナゴーグ遺跡が見つかっている。広間の中央から石段が出土し、レリーフが彫り込まれたメノラーが見つかった。この側面4面と天板部にレリーフが彫られており、前後左右のデザインが対象になっていた。

     

    きよめの思想と沐浴場

    また、シナゴーグでは、ミクヴェとよばれる身体を浄める沐浴施設が設置されていることが多い。それは当時のヘブライ人の信仰世界の中で、身体性と関わるきよめ、清浄さをが重視されたためであろう。また、石の間から、妙な動物などが出てきて、汚れが生じないように、きよめのための施設では、漆喰で穴などが完全にカバーがされている。

     

    レフェシュの居住地を考えてみると、非常に小さな集落であるため、これまで発見されている大都市のシナゴーグと比べて、当時の小規模のユダヤ社会の中で、シナゴーグがどういった意味を持ったのかを考える契機となる可能性があり、地方の宗教史を考える上で重要かもしれない。

     

    一神教はいつ成立したのか問題を考える

    最後に、市川裕さんという方が、「イエス時代のガリラヤ地方と一神教の系譜を探る」ということで公演された。

     

    これまでのユダヤに関する日本人の歴史理解は、キリスト教の影響が強すぎていて、ユダヤ理解が歪んでいるのではないだろうか、。キリスト教が、イエス殺害に関わったということでユダヤ人を差別して、ユダヤ人がしていい仕事は当時、卑しい両替商や金融業(今の銀行業というよりは、いわゆる闇金的職業と理解されたようであるが)などに制限された結果、ユダヤ理解が誤解を含んでいるのではないかと考えている、とのご発言があった。

     

    一神教の成立、特にユダヤ教の成立とガリラヤ地域を考えてみたいが、ユダヤ教の成立をいつ頃と想定するか?ということに関しては、かなり、遅い定義で考えたい。一神教とは、神と人間、というよりはむしろ、人間集団としての結びつきを考える体系である。(ミハ氏註 ヘブライ語聖書、あるいは旧約聖書を理解する上では、この、人間集団、コミュニティというのが大事である)人間集団が、一つの神でつながっている、というのが一神教の特徴である。そして、神殿などの中心的施設と周辺にある教会との関係を構築している。ユダヤ教で考えると、3世紀にならないと、体系としてユダヤ教が、できあがっていないのではないか、と考えている。そのような比較的遅い成立を想定している。例えば、ラビ・ユダヤ教が成立したのは、キリスト教が成立したあとの口伝律法の体系である、ミシュナーが完成した時を考えていけるだろうし、地方でのシナゴーグの成立はその意味で重要であろう。

     

    三大一神教観の比較とその関係

    神と人が交わるところとしてのシナゴーグがあり、それは、キリスト教では教会であり、イスラム世界ではモスクである。それらの施設があるが、これらの一神教と呼ばれるものを考えてみると、ユダヤ・ムスリム の共通性のほうが強いのではないか、唯一神(ユダヤ世界では、アドナイと発音される聖四文字なる方、イスラム世界ではアラーまたは、アッラーと呼ばれる方)からの掲示されたものが中心になっている。

     

                    ヘブライ世界     イスラム世界
    聖典              トーラー       クォラーン

    神聖集会所   神殿(シナゴーグ) モスク
    入口の方向   エルサレム     メッカ

     

    であるが、キリスト教になると、人にして神であるということはあるものの、礼拝対象は人間という性質を持つことになり、図像などが置かれる。このような図像化された、十字架や聖像やイコンと行ったものは、イスラム世界とヘブライ世界にはないものであり、ユダヤであれば、神聖集会所で、トーラーとネビームがよまれ、イスラムであれば、クォラーンが読み上げられ、あとは、祈りとこれらの聖典テキストを学ぶだけである。

     

    特に、キリスト教以外の一神教と呼ばれるものになく、キリスト教独特のものとしてもっているものは聖餐式であり、旧約聖書における生贄(過越祭)の儀式性が含まれている。そう考えると、同じ一神教とは言え、キリスト教とキリスト教以外の一神教という理解のほうが、わかりやすい宗教理解かもしれない。

     

    特に、ユダヤ・イスラム宗教共同体と考えると、シナゴーグとモスクの役割には共通性があり、ユダヤ・イスラム宗教共同体から見ると、キリスト教は特殊に見える。その意味で、一神教に関して、ヨーロッパを中心とした、従来のキリスト教的歴史理解による、ユダヤ教理解の偏りを外していく必要があるのではないか。

     

    ミハ氏的感想

     これは、息子殿の研究テーマが、イランなので、どうしてもイスラム教の影響を考えないといけない(ムスリムの世界は、生活、即イスラムの世界なので、信仰と生活が一体化している)ので、息子が井筒さんのクォラーン注解書をよんで、「これこれ、そこの不信の者共よ…」と井筒さんの注釈をそのまま引用するので、家内は息子がイスラムに改宗しないか、と心配になったらしく、井筒さんのクォラーン注解書を読んで、どこが自分の日本語訳(新改訳第2版)の旧約聖書と違うのかを、かなり真面目に研究したらしい。その意味で、我が家は一家で、一神教研究所になっているのがおかしいw。で、家内の研究成果によれば、ムスリム側から見れば、イエス(アラビア語でマルアムの息子イーサ)も、クォラーンでは一定の評価をしているので、序列順位で言えば、ムスリム、その下がキリスト京都、ヘブライ的信仰者という序列順位であるらしい。それを考えると、儀式様式の形式論理だけでヘブライ世界とムスリム世界の一体性があるとするのは、相当無理があると思う、と、この理論には挑戦したいと思う。東大の宗教関係の学者に楯突いても、直接の利害関係がなく実害はないので、一応念のため、疑義を申し立てておく)

     

    特にこのようなヨーロッパ的な世界観から一方的に見たユダヤ社会理解は、高校の教科書に典型的に現れており、特に、ユダヤ思想は神との契約に基づく特別の任務をイスラエル人が負っている、という理解がすっぽり抜けている。ユダヤというと、すぐ選民思想とかいう話になりがちだが、選民思想はユダヤだけでなく、世界の民族のかなりの部分のどこにでもある。

     

    ミハ氏的感想

    それはそうなんだと思う。先の戦争中、1940年ころは、神国日本とか言って、選民思想に日本人のほぼ全体が染まっていったし、いまだに政治家のオジサンで、誰とは言わないけれども、「日本は神国ですから」と発言を切り取ればそう行っているかのように聞こえる発言をした政治家もおられるようであるので、日本だって、人のことを選民思想をお持ちだとは、批判できないのである。)

     

    高校の世界史の教科書における記述を引用しながら、ユダヤ教は、キリスト教によって、超克されたかのような印象を与える記述があり、世界の宗教世界の中では、ユダヤ教が消滅したかのような印象を与える、高校の世界史の教科書の記述がある。

     

    いつを一神教体系の成立期と見るか
    ところで、ミシュナーとよばれる、口伝トーラーの成立は、ムスリム世界のハディース(言行録)の成立と、ある面、似ている。 なお、律法(トーラー)の中で、口伝ではないのはモーセ5書である。ヘブライ社会も、ムスリム社会も、日常生活でも神の法(律法)に従うのである。(ミハ氏註 これは、キリスト教は言われても仕方がないと思った。我が身を振り返っても。世俗法と宗教法が完全に分離した生き方をしている。)

     

    基本的には、ミシュナーの成立で、ラビ・ユダヤ教が成立したとされていて、 律法主義の確立は、ミシュナの成立、つまり成文及び口伝という、2つのトーラーの成立、すなわち成文及び口伝トーラーの成立をもって、成立した点でも、クォラーンとハディース(言行録)を持って成立したムスリム世界と似ている。ただし、それを言うなら、イスラム世界の中には、先にも述べたように、マリアの息子イエス(マルアムの息子イーサ)を含んでいるので、多少違うようにおもう。宗教法に関して、ムスリム世界のウンマに相当する法学者をユダヤ教は整備していくことになる。また、イスラム統治下でユダヤ教がかなり繁栄しており、その意味で、この両者は相性が良かった。

     

    ミハ氏的感想 まぁ、これは、キリスト教勢力が東地中海世界には、たまたま人口的に少なかっただけであり、イスラム世界の成立期に、キリスト教徒がムスリムを援助していることを考えると、本来、キリスト教とムスリムは、相性が良かったはずであるが、アラビア海賊の活躍及びトルコの急拡大以降と、それ以前を混ぜて議論されているように思われた。その意味で、日本における正教会系のキリスト教とその理解と、歴史認識の影の薄さが悔やまれる。)

     

    法概念が違うオリエントとオクシデント

    法と宗教、世俗法と宗教法の分離が、世俗法でのローマ法体系が西洋法体系として継承される中で進んでいき、世俗法と宗教法という法の支配の2重構造がうまれており、これが現代までに及んでいる。ムスリム世界では、カリフ制の復活(ミハ氏註 きゃーイスイス団キタ〜〜〜)を目指す向きがあるが、イスラムを見ていると、イスラムとヘブライ社会の双方が辿れるのではないか。

    セム的な(ミハ氏註 ユダヤとイスラム)世界を考えたほうが良く、ヘブライ世界とイスラム世界の連続性を考えたほうが良いのではないだろうか(ミハ氏註 だけど、ヘブライ世界は、マルアムの息子、イーサ(マリアの息子ヨシュアあるいはイエス)を認めないが、イスラム世界は神としては認めないものの、預言者としては、ミリアムの息子イーサを認めるので、その点でこの議論は要検討であると思った)。

     

    テル・ネフェシュ遺跡の発掘の意味

    シナゴーグの発見が提起する意義についてであるが、エルサレムの第二神殿時代のユダヤ社会を一神教の世界宗教の世界の中でどう位置づけるかを考える手がかりになるのではないか。一神教の2つのタイプが有る(ミハ氏註 ここから、ユダヤ&イスラム VS キリスト教 の議論を与件としてこの講演者はお話になったので、議論がずれてくる、と思った)。

     

    イエスの位置づけに、この発掘は、より公正な代案を提示するきっかけとなるのではないだろうか、キリスト教的な歴史の影響かとは独立の見方ができるのではないだろうか。エルサレムでは、祭司たち アロンの直系の家計が神殿を守り、それ以外ではパリサイ派の人々やエッセネ派の人々のような、血統によらない人々がヘブライとしてどのように生きるのかを議論していた。(ミハ氏註 これは、先日の『福音と世界』2017年1月号に掲載された、山森みか論文参照されたほうがよい)


    そして、ユダヤ教徒は何かを巡って、意見を集約させるのではなく多様な意見を展開しつつ、日常生活を律法に則って、自覚的に統御する方向性が強まる。それが、パリサイ派や、エッセネ派を生み出し、パリサイ派は、一種の大衆運動的な方向性を持っており、逆に、エッセネは、一部のみの人に向かった運動体として考えられるのではないだろうか。

     

    その中で、バプテスマのヨハネが生まれ、ユダヤはイエスが登場する直前の時代には、非常に混沌とした時代であり、熱心党含め。いろんな運動体が併存し、ユダヤ教とは、何であるのか、が考えられていった時代であった。その中で、対ローマのユダヤ戦争があり、神殿が崩壊し、その神殿崩壊後のなかで、ユダヤ教とはなにか、という問題が取り上げられていくことになる。

     

    イエスの時代には、宗教生活の中心としてのエルサレムの神殿があり、そこでの生贄、祝祭、巡礼と言った者から、パリサイ派、サドカイ派、エッセネ派、死海教団などがうまれており、ガリラヤ地方でイエスがローマの支配強化に伴うユダヤ社会の圧迫が始まルナ化で、その活動を開始する。そして、イエスの死後数十年して、第一次ユダヤ戦争へとつながり、ユダヤ宗教の各施設である、神殿崩壊することになり、ユダヤ人に非常な衝撃を与える。そして、その結果として、ユダヤ人のエルサレム追放とガリラヤ進出が起きたであろう。ミシュナーとタルムードが形成され、それらの教えが説かれているという意味で、シナゴーグは重要であったろうし、それらの成立にも、シナゴーグという存在が影響しているとは考えられるだろう。

     

    神殿時代のガリラヤとシナゴーグ
    神殿時代のガリラヤとシナゴーグとしては、イエスが宣教した30年前後からユダヤ戦争頃までは、エルサレム神殿への巡礼(ミハ氏註 キリスト教徒も宮で集まっていたと使徒言行録に記述があるから、そこに行っていただろうが)や神殿での振る舞いを学習するためには、シナゴーグが一定の役割を果たしたはずである(ミハ氏註 キリスト者たちも髪の毛を剃っているが、異邦人が混じっているので、パウロが逮捕される原因となる神殿での騒擾が起きる)。

     

    この時代は、メシア思想(ミハ氏註  イエスだけでなく自らが、メシアであると主張したものが、多数いたことが使徒言行録やヨセフスのユダヤ戦記で出て来る)、終末論的切迫感、世界戦争等の思想の広がりがあり、ユダヤ社会に関する宗教を議論する場としてのシナゴーグがあったのではないか、と考える。

     

    トーラーとイマムのような存在がある一神教ができるのが2〜3世紀であり、トーラーによる宗教として、神殿での供え物に関する教義を神殿崩壊とともに失うなかで、どのように展開していくのか、は議論になったであろう。賢者と呼ばれる知識者集団が口伝トーラーの概念を発展させ、ミシュナの編集に至ると考えていくことになるだろう。


    この中にキリスト教も合わせて考えていく必要があるだろう。より具体的に言えば、メシアの死と復活を信仰を基礎とする宗教はいつどのように展開してくのか、ということ、すなわち、ユダヤ社会のシナゴーグとの分離について、考えていく必要があるのではないだろうか(ミハ氏註 この部分は、新約聖書中に明白な記述がないように思う。あるのかもしれないが、ミハ氏が不勉強なだけかもしれない)。

     

     異邦人世界に布教する中で、ユダヤ的な戒律ではない、神の概念に魅了される信徒が形成され、魂の救済を柱とする神学が、教父と呼ばれる知識層によって、確立されていくことになる。そして、神殿祭儀(過ぎ越し祭)をシンボリックにした儀礼(聖餐式)がキリスト教の儀式の中に定着していく研究はもう少し考えられてもいいかもしれない。実際に、パウロは、このブログで以前紹介したとおり、伝道と言いつつ、路傍伝道していたわけではなく、シナゴーグに入り込んで伝道していった、ということの意味や、意義をどう考えていくか問題があるだろう。

     

    シンポジウムはちょっと意識散漫になっていたので、省略。あまり意義ある話し合いとは、正直、あまり言えなかった内容であったと思った。それは、ミーちゃんはーちゃんの理解力不足の故であろう。

     

    月本先生の総括

    面白かったのは、月本先生のお話で、山川を信頼するなと言うのは、月本先生は思われたらしい。別件で。

     

    あと、補足として、ガリラヤ地方になぜユダヤ人がいるのか問題は、ユダヤ民族誌の中でシューラーが最初に議論しているが、ハスモン家の人物が、この地の人々をユダヤ教に改宗させたのではないか、との主張がある。また、この征服は、ヘロデのイドマヤ人征服と並ぶものである。また別の学者は、ガリラヤにユダヤ人が多い理由としては、捕囚とはいえども、捕囚されたのは、一部の上流階級だけで、庶民層を中心とする人々はかなりは残っていた説を唱えている。また、紀元前2世紀から1世紀のハスモン時代から、ローマ時代にかけて、ガリラヤ地方で、ユダヤ人の居住地が増えていく傾向が、発掘結果からわかっている。

     

    ユダヤ人がガリラヤに定住したのであるが、それは、エルサレムや南のユダヤ人との関係を考える際に、今回発見されたようなガリラヤの遺物とイスラエル南部との関係を考えることができるのではないだろうか。

     

    なおミクべはシナゴーグ以外にもあり、個人宅や大規模邸宅にもあり、イスラエルでは全部で250見つかっていて、そのうちの70がガリラヤ地方にある。

     

    特に、土器で輸入品ではないものに関しては、ローカル産品が大量に使われていたことがわかる。であれば、もし、エルサレム周辺で作られたものが出土したりするなど、出土品の産地がわかると面白いのではないか。ある時代においてランプのデザインは共通であるが、そのランプからの交流史を辿れると面白いだろう。

     

    出土した石製の容器のように、ユダヤとガリラヤは共通性があり、ユダヤ人の世界がもともとの南ユダヤから、ガリラヤ地方に、ローマの早い時代に移動しているようだ。テル・レフェシュ遺跡の年代特定ができたら、ガリラヤでのユダヤ人居住地がどれくらいの時期に始まり、どの時代で終わっていたか、を特定することが期待できるのではないか。ただ、ローマ時代以降の居住施設の遺構の発掘が大事になるだろう。

     

    新約聖書との関わりでは、シナゴーグでイエスが話すなど、イエスの活動とシナゴーグの関わりを考えることも重要だろう。マタイの福音書でも、会堂でシナゴーグで、イエスは教えていたし、パウロもそのようにしている。


    福音書の記述があり、所在する町の名前のわかっているシナゴーグとしては、カファルナウムとナザレの会堂は記述上では特定されているし、ヨセフスはティベリアのシナゴーグや祈りの家があったとしている。その意味で、イエスは会堂でも活動したわけであるし、パウロの伝道でも、会堂にはいっては、教えていることが使徒言行録に記載されている。その意味で、キリスト教を育てていった母体としての会堂、シナゴーグの役割の研究が進められていくべきだろう。

     

    最後に、発掘ボランティアの資金が足らないので、あちこち駆けずり回って募金による資金調達をしているそうなので、もしよろしければ、ご協力をば、ということであった。

     

    全体的感想

    この講演を聞いていくつか思ったことがある。それは、この発掘があたかも「イエスが活動した、あるいはナザレのイエスがそこでトーラーやネビームを読み、民に話した」会堂の発見として報道されたことである。確かに、この会堂は、イエスが活動したガリラヤにある。ナザレからもそう遠くはない。しかし、イエスが、ここにいた、と判断することは、考古学的にはできないだろう。だいたい、イエスという名前自体、ヨシュアないしイシュアスであり、まぁ、普通の名前である。それこそ、指紋でも見つかれば別であるが、そんなものは見つかりっこないし、条件が苛烈なパレスティナで残っているとも思えないし、比較の対象になるイエスの指紋はない。まぁ、イエスが行ったことがある会堂の一つだったかもしれないね、というあたりが正確なところであろうし、今回のご講演の中でも触れられていたが、この建物は、シナゴーグの可能性が高いとはいえ、そうだと認定されたわけではなく、これから更に発掘が進められ(今、半分くらいの発掘が終わったところらしい)、様々な観点から検討されるであろうが、それでも、シナゴーグとして判断することが可能なのではないか、という程度のことである。この慎重さが、考古学が学であろうとしている学であり、批判に対して開かれているなぁ、と思うところである。それは非常に好感が持てた。

     

    もう一つは、マスコミが世界の大発見とか騒いでいたが、マスコミは、この種のことに基本的に理解がない、ということの証左であり、風呂屋政談の素材提供組織、といった程度のものであり、信用ならん、ということであることを指し示しているのだろう。それを、我々は、十分わかった上で、メディアと付き合っていくことが求められる。それは、世俗のメデイアであろうと、キリスト教メディアであろう、自称キリスト教メディアとされている、というメディアでも、同じことである。山本リンダ嬢ではないが、♪メディアを信じちゃいけないよ♪なのである。

     

    山本リンダ嬢の『どうにもとまらない』(小学生ころ聞いた)

     

    もう一つは、学問対象としての宗教をどう考えるか、という問題である。今回ご発表になられたお三方の信仰の背景は、よく存じ上げないが、山野さんと月本さんの理解が、ある種信仰の内実と一体化しているというところで、議論を進めておられて、なるほど、そのように理解すればいいのか、ということを強く感じた。しかし、その立場は、学問としての所謂客観性を多少犠牲にしているのではないか、という批判を受けやすい。しかし、所詮は、客観性と言いつつ、純然たる客観は人間が生み出せない以上(これは器械を用いた測定値であっても、その問題はつきまとう)、間主観性であるにすぎない。であるとすれば、自己の信仰の内実に照らしつつ、できるだけ他者と対話可能な言語と手法で対話しようとしているということをお二人からは強く感じた。

     

    しかし、予算をお借りしたということもあるとは思うのだが、市川様のご発表のご趣旨は、あまりに信仰の内実というのか、信仰の思想的な部分を相当に無視した、外形論的根拠を利用した形式における傾向性からのご発言とは言えるかもしれないものではなかったか、と思う。学説の説の新規性という意味では、面白かったが、今後これから、ご検討される仮説を、とりあえず、出して見られた、ということなのだろう。なお、このご講演を拝聴しながら、ミーちゃんはーちゃんは個人的には、”見かけの相関”ないし”擬似相関”という語を思い出した、ということだけは申し上げておこう。と言うのは、この3つのグループは、基本は、旧約聖書の世界から出発したグループではあり、共通部分から見ると、共通度は高い。しかしながら、キリスト教はギリシア、ローマを経ていく中で、現地化していき、ムスリムはムスリムでイスラム系の諸帝国の成立、滅亡という時代を経る中で、変容しているのだ。また、ユダヤ教も基本成文宗教法体系で固定されつつも、また、その先端では変容しているのである。また、どの程度の分析の精度か、あるいはレゾルーションをどの程度にするかにもよるけれども、イスラムとて一括りではない。しかし、それをあまりに細かくやりすぎると、何が何だかで、何も言ってないことになるので、このあたりのさじ加減がむづかしいのだなぁ、と改めて思った次第。

     

    この記事単発。

     

    なに、ミーちゃんはーちゃんごときの素人の見解である。お気に召されることもあるまい。素人のたわごとである。


     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

    コメント
    コメントする








     
    Calendar
     123456
    78910111213
    14151617181920
    21222324252627
    282930    
    << June 2020 >>
    ブクログ
    G
    Selected Entries
    Categories
    Archives
    Recent Comment
    Links
    Profile
    Search this site.
    Others
    Mobile
    qrcode
    Powered by
    30days Album
    無料ブログ作成サービス JUGEM