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2009.10.16 Friday

エトランゼ―ということ

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     最近、面白い映画を見た。以前、スカパーのどこかの

    映画チャンネルでしていたのだが、DVDになったらしい

    のでみた。

    オリジナルのタイトル:The Spitfire Grill

    日本版タイトル:「天使はこの街でバスを降りた」

    この映画を見ながら、エトランゼ―(フランス語で寄留

    者・通行人)ということを考えた。

     義理の父親にレイプされた揚句に胎児を父親に殺さ

    れ、その怒りから父親を殺して、見ず知らずのメイン州

    に流れてきた南部なまり(あのなまりは、ケンタッキー

    あたりか)のあるパーシー。出獄し、あてもなく、

    小さな町ギリアド(聖書ではギリアデ:殺人者の逃れの

    町があったとされる)に流れてくる。彼女も間違いなく

    寄留者。

     一方、彼女が働くことになったSpitfire Grillの女性

    オーナーも定着はしているが、心の面ではエトランゼ―。

    心に迷いがある。

     ジョニー・Bと呼ばれることになるSpitfire Grill

    の女性オーナーの息子も、ベトナム戦争前は、町の期

    待を一身に集める期待された人材であったが、ベトナ

    ム戦争でのPTSDからか、自宅近くにいながらエトラ

    ンゼ―として暮らしている。彼の作る木工作品が、

    鳥であることがキーの一つである。えさをついばむ

    鳥のように、母親の差し出す缶入り食料で生活して

    いる。

     エトランゼ―である鳥がメタファーとして取り込

    まれている。

     Spitfire Grillの女主人の甥もまた、エトランゼ―

    である。家族もある。しかし、他人に対する不信感

    があり、特にパーシーに対する敵愾心と疑惑の念を

    向ける。他人に対して、心を開け放つことのできない

    人物。

     これらの人が一つの小さな町、ギリアドという

    固定され、みんなが顔を知っている町で交差する

    ことで、エトランゼ―であることを明らかにしな

    がら、あるいは隠しながら暮らしている。

     この映画の最後のシーンで出てくる教会の姿を

    みながら、泣けてくる。牧師のいない、使われる

    ことのなくなった町の中心にある教会。礼拝に参

    加するためには、自動車に乗ってよその町まで

    行かなければいけなくなった町の姿。コミュニティ

    が失われてしまった町の姿。

     エトランゼ―、あるいは漂泊する民は、日本社

    会でもヨーロッパ社会でも社会の枠外におかれ、

    差別されてきた。しかし、モーセは漂泊する民で

    あった。アブラハムも漂泊する民であった。

    イスラエルも漂泊する民であった。エリシャも

    エリヤも漂白した。ナザレのイエスも漂泊した。

    イエスは、漂泊しても、枕するところのない漂泊

    であった。

     キリスト者と漂泊者の問題は本来深いところ

    でつながっているはず。その思いが強い。

    キリスト者自身も、霊的には漂泊する民である。

    キリスト者であっても漂泊する。その中で、どの

    ように神と出会うのか、そこがポイントだと思う。

    荒野にいることは漂泊することである。漂泊する

    ことの意味をまだ考えている。


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