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2016.11.07 Monday

グリューン著 従順という心の病い を読んでみた(1)

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    BookReport  アルノ・グリューン著 村椿嘉信訳
    従順という心の病い ―私達は既に従順になっている― ヨベル刊 800円 (最下部参照)

    N.T.ライトセミナーに行ったとき、ヨベルの社長の安田さんから本書をご恵贈いただいた。その日には、同行者のSKHRさんも居られたので、帰りの電車の中では馬鹿話(といってもほかの人には馬鹿話だが、一応まじめなキリスト教業界の話)をしていた。帰りの新幹線の中では、読めなかったが、翌日通勤時に、この本を一気に読んだ。薄い本であり、翻訳も読みやすい。何より、現代の病理に迫っていたので、大変面白く読んだ。これは紹介すべき本だ、と思ったので、ある会合で、ブックレポートをした。本記事は、本日ご紹介したブックレポートにかなり加筆して、ブログ向けに読みやすく書き換えたものである。

     

    社会システムへの従順
    社会システムに関する「従順」という概念、近代から現代社会における社会システムとの関わりの中で生み出されていった行動規範が、ある種の現代病であり、現代社会におけるある種の病理現象と、もはや言ってもいい現象である「従順」を生み出したのではないか、ということを本書は指摘している。つまり、現在の社会システムやある前提や行動パターンを与件として、無批判に受け止めることがどうもおかしいのではないか、と批判している書物が本書である。

     

    背景にあるナチス・ドイツ

     読みながら思ったことだが、著者が生まれた地であるドイツにおいて、ナチス・ドイツを生み出していったドイツ型の衛生思想、優生学思想をどうも念頭に置きながら、社会システムと社会の基本原理に関する無批判な従順がどのようにして生まれていったのかを起点に考え、書かれた書物であるといえると思う。

     

    http://ripy-jm.com/news/pickup1306_keyakizaka46_ishou_nazi.htmlより

    (なお、このRipyの記事の著者の主張とミーちゃんはーチャンの主張とは一致していません。)

     

     なお、この種の問題はドイツだけに限られない側面もあり、近代そのものが内包している問題意識だと思う。また、この問題意識の先に、文明理解、社会理解がシステム化されること、とりわけ、本来別々の個別のユニークなものとして被造された人間である個人に画一化、均一化の危機が迫っていることを指摘した書である。

     

     その意味で問題意識としては凡庸さと悪を扱ったハンナ・アーレントと共通するものがある。

    映画ハンナアーレントの予告編

     

    異なる文化形態の人々との共存のために

     ところで、本書を読みながら、本書には、近代を支配する世界観と異なる世界観を持つ人々との間の緊張の問題を考える鍵があるように感じた。というのは、現代イスラエルにしても、あるいは、現代ムスリム社会にしても、社会システムに従順であろうとする、という、この種の社会の基本的前提を与件として受け入れる必然性を必ずしも有していない、という点では西洋近代とは異なる世界観を持っている人々である。それ故、西洋近代と、ユダヤ社会、ムスリム社会は、時に西洋近代と緊張関係にあった。とはいえ、ユダヤ社会、ムスリム社会は西洋近代を与件とする社会に巻き込まれつつも、どこかで、共通化されることに関する問題意識というか、緊張関係を持っていたし、現在もなお持っている様に思われる。

     

    今、この文章を書きながら、イスラエルにお住まいのお友達の旧約学者の方が京都の浄土宗のお寺で開催されている冥土カフェ「ピュアランド」でお話してくださったときのことを思い出した。現代のイスラエルでは、ドイツ人が徹底的に一致してまじめ過ぎだったが故に、徹底的なホロコーストが起きたことの反省に立ち、極力一致しない方向で、極力こめかみに電気を走らせない方向で、個人の個性と社会の多様性を重視する形で教育を思考しているものの、ロシア系の音楽教育やバレェ教育は、完全に型をはめる教育スタイルなので、その辺で、後からやってきたロシア系ユダヤ人との間になんとはなく軋轢がある(大意)という話を思い出した。

     

     

    冥土喫茶 ピュアランドのフライヤー

     

    現代の社会だからこそ、必要な本書

     また余談に言ってしまったが、この本の主張に目を向けると、近代を経験し、近代という遺産の上にある現代社会に生きる我々にとって、現在の社会システムに対して無批判にその前提と行動基準、そしてその社会をもたらすものを受け止めることが本当に望ましいのか、ということを幾つかの具体例をとともに紹介している本である。そして、ツィッターとかFacebookとかで、他人の箸の上げ下ろしを云々する人々が居られ、あれはこうでないといかんのではないか、とか正義の剣を振り回すかたがたも居られるが、そういう時代であるからこそ、他者性を持つ他者を受け止めるために、この本は必要であるといえるのではないか。

     


    典型的に本書の問題意識は、割と最初の段階で取り上げられているスタンフォード監獄実験、あるいは、ミルグラム実験、あるいはアイヒマン実験と呼ばれる実験とその結果が示されていることで暗示されている。この実験に関しては、映画ESでも取り上げられた。この実験は、社会システム理論や経営理論関係で有名な実験ではある。

     

    その実験を取り上げつつ、人権教育を十分に受け、人権を重要視しているアメリカの教養ある現代人でさえ、権威と呼ばれるものが指示することに唯々諾々として従っていくのかを示しているし、その人々が権威に無批判に従うメカニズムについて分析的に書かれている書物である。

     

    映画ESの予告編

     

     

    似たような映画の『エクスペリメント』

     

    「合理的に把握すること」、「従順になること」を要求する私たちの文化、つまり人間の本質を観念的に理解しようとする私たちの文化は「規格化された人間」を生み出す。私たちの文化に生きる個々の人間は、それゆえ常に、「役割」や「地位」という観念的なものによって評価さらされている(アーヴィング・ゴフマン(1922−1982 米国の社会学者))。自分を独自の個体とみなす私たちは、「人格(ペルソナ)」という構築物を、自分自身の独自な成長によって手に入れたものと勘違いしている。(『従順という現代社会の病い』p.10)

     

    上記の文章は非常に示唆に富む文章であると思う。先日のN.T.ライトセミナーで東京に下る途中、同行者のSKHRさんという方とも話していたことを思い出した。近代社会は、学校と軍隊という2つの人間の規格化装置というか規格化の為の制度を持ち、その規格化装置ないし規格化制度によって、ここで言う従順(あるいは社会制度への盲従、依存関係と呼んだほうがいいと思うが)という心の病を自分たちのものとして自ら獲得したかのような理解が広まっているのは確かだと思う。

     

    ナウエンの本から

    この人格(ペルソナ)のことをナウエンは、The way of the heartの中で、繰り返しFalse Selfと読んでおり、そのFalse Selfに従わせる力のことを、Compulsion(形に人をはめていくこと)やSeductive Powerと繰り返し指摘している。そして、The way of the heartの中で、ナウエンは一人ひとりの人間が本来のSelfに戻り、Spiritual Lifeに戻る必要があることと、そのためのSolitudeソリチュードが必要であることを説いている。

     

     このソリチュードが必要になる背景について、グリューンは次のように言う。

    人間は、脅され、恐怖に陥ると、「自分を恐怖に陥れた人と一体化する」傾向があるが、これほど不思議な事はない。さらに、脅される人は、脅す人と融合し、恐怖に陥れる権力者に自分の判断を合わせ、自分のアイデンティティまでも放棄してしまう。恐怖に陥った人は、このようにして ― 決して成功するはずがないのに ― 自分自身を救うことができると期待するのである。(p.17)

     

    『聖書的』、『クリスチャンらしさ』

    を強いる教会内の従順

    ここでは、近代の中のシステムの中で、結果的に自分のアイデンティティ間で放棄させ、恐怖を持って支配しようとする権威者、権力者と一体化することで、自己の本来のアイデンティティを放棄して、False Selfである、支配者、本来の自己の姿と異なる他者の姿と一体化してしまう可能性があることを指摘している。そして、自分自身を偽って、偽りの生を生きることを自らに強い、偽りの生を生きることを他者に強いるのである。現在日本のキリスト教会の文脈では、キリストに従って生き、そして本来の人間の姿を回復するのではなくて、教会で一般に標準的とされている「クリスチャンらしく生きる」とか「聖書的に生きる」という偽の人格を生きることになる場合もないわけでもない。大体、聖書的に生きたら、ニネベに行け、といわれたのに、タルシシに向かっていくことにもなるし、なんとなく偉い人のお薦めの結婚相手も娶るが、本人の好きな相手と最終的に結婚するまでやりぬくのであるが、こんなことをしたら、今なら、それこそ「クリスチャンらしくない」とか、「聖書的でない」という生き方をしているとご批判を受ける。そもそも、モーセさんだって、異教徒を娶っていたし、アブラハムは異教徒であったし、異教徒と結婚しているしているではないか。それでも、彼らは神に用いられた僕ではないのか。「聖書的」とは、「発言者にとって都合がよく、好ましく見えること」の総称ではないか、といいたくなる。

     

    いつものような上記のような余談はさておき、グリューンのテキストに戻ろう。他者から愛されるために、ナウエンがいうところの偽りの自己を演じ、偽りの生き方をすることによって生まれることについて、グリューンは次のように書く。

     

    全ては、自分が低く評価されないこと、とりわけ拒絶されないことを目標に「生き延びるための闘争」を演じることになる。「愛」や、「共感によって真実を受け入れること」、また「人間的な思いやり」を表現する生は失われる。その失われた部分に、常に待ち受けていた「無力さへの不安」が忍び込む。それ故、人間は自らを攻撃者と同一視するのである。(同書 p.24)

     

    強者への依存の結果、自己の弱さ、素の自分、飾っていない自分、自分が破綻していること、という真実を受け入れなくなり、共感ができなくなり、耐えざる不安にさらされる、とグリューンはいうのである。

     

    この部分に関する引用をナウエンのThe way of the heartの中からしておこう。

    In  solitude, I get rid of my scaffolding: no friends to talk with, no telephone calls to make, no meetings to attend, no music to entaertain, no books to distract, just me - naked vulnarable, weak sinful, deprived, broken - nothing.  (The way of the heart p.18) 
    ナウエンは、自己が見るかげもない姿で、裸であり、弱いこと、それらを恐れるし、本来の哀れな姿を受け入れるのではなく、自分が何か価値ある人物のように思いたがるナウエン自身の姿をこの後、正直に書いている。

     

    ストックホルム・シンドロームと

    レイプ被害者

    ところで、この部分を読んだとき、ある人物のことを思い出さずにはおられなかった。それは、被抑圧者と一体化することによって生存を図り、誘拐されたにも関わらず、誘拐者と一緒に犯罪行為に関わるようになった有名な事件の登場人物である。その人物とは、アメリカの大富豪ハースト一族の一人のパトリシア・ハーストのことである。彼女のこの事件は、犯罪学の典型的なケースとして、いろいろ取り上げられるが、彼女が有名人であったこともあり、ストックホルム症候群が知られることになった犯罪事例である。事件の概要は、誘拐されたハースト嬢が、こともあろうに、誘拐した人々と一緒に銀行強盗までやり、ライフル銃だか散弾銃をぶっ放したというところまでいったのである。

     

    http://www.cbsnews.com/news/february-4th-1974-patty-hearst-kidnapped/ から

     

    銀行強盗中のハースト嬢

     

     

    クリミナル・マインドとか、Law and OrderとかLaw and Order Criminal Intentとか、Law and Order Special Victim UnitとかなどアメリカのCrime DramaのHostage Situationでは、生き残るために監禁者の言いなりになることに悩む被監禁者、あるいは、生き残るためにレイプ半の言いなりになったレイプ被害者の問題として、この種の呵責に悩む人々の問題も取り上げられることが多い(アメリカの犯罪ドラマ見すぎというご批判は甘んじて受けよう)。ハースト事件は、監禁事件で監禁された者が生存するために、監禁する人物の発言に合わせていってとりあえず生存を図ろうとするうちに、その犯罪者にいつの間にか錯誤がおき、結果的には積極的に従うということまでがことが起きる、ということを示した結果であろう、と思う。

     

     

    Criminal Mindsの予告

     

     

    現代の社会システムに捕囚されたわれらかも

    直接の明確な言及そのものはないが、グリューンは、この本の中で、現代人が現代社会システムに監禁されており、現代社会全体が、ストックホルム症候群にロックインされている状態に陥っているのではないか、ということを指摘しているように思う。さらに、次のように続け、被抑圧者が抑圧者、監禁されたものが監禁する側に回ることを説明している。

     

    その人にとって、権威に必死にしがみつくことが人生の基本原則となる。人は権威を嫌うが、しかしながら、自己をそれと一体化する。他の可能性はない。自分自身を抑圧することによって、「抑圧するものに向かう憎悪や攻撃性」ではなく、「他の犠牲者に転嫁される憎悪や攻撃性」が呼び起こされるのである。(同書 pp.49−50)

     

    この部分を読んで思ったのは、昨年、ご妙齢のかたがたと読んだナウエンの「両手を開いて(With Open Hands)」の割と早い部分で書いていることであった。それは、ある老婆の話である。この老婆は、小額のコインが他者によって取り上げられると思って、両手をぎゅっと握って、頑として離さないという状態であったらしい。人間は、他者から見た場合に、価値がほとんどないようなもの、握り締めたコインを握らずには、あるいは、しがみつかずには居られないものらしいことをナウエンはこの話で指摘している。まるで、この老婆にとっては、コインを離すことが自分のアイデンティティ崩壊につながるかのように。

     

    この老婆のことを紹介したあと、ナウエンは自分が握りしめている汗ばんだコインのようなつまらないものを握り締めている手離し、その代わりに神を受け入れるために、神に向けて両手を開いていくことと、祈りとの関係、神との関係の回復のことを説いていたことをこの部分から思い起こした。この、偽りのペルソナをつけるように仕向けるComplusion強制やSeductive Powerから離れ、真の自己を回復するために必要なものが、いま、ご妙齢のお嬢さん方(60歳以上のかたがた)と読書会をしているThe way of the heartでは、ソリチュードであることが指摘されていた。

     

    われわれは握りしめたFalse Self、偽りのペルソナもの見つめ、そして、神に向かっていくソリチュードを手放した結果、偽りの自己増、ペルソナが放棄されることによって、自己を変容させることにつながるということなのだろうと思う。そして、現在明石のナウエン研究会で読んでいる砂漠の師父たちを扱った作品であるThe Way of Heartを読みながら思う。
     

     

    次週、一週間後に続きを公開。

    それまでは、N.T.ライトの『新約聖書と神の民』の区切りのいいところまではやるつもり。

     

     

     

     

     

     

     

     

     

    評価:
    アルノ・グリューン,村椿嘉信
    ヨベル
    ¥ 864
    (2016-11)
    コメント:うっすいけど、大事なことが書いてある。名著。ただし、神も聖書も一時も出てこないが、われわれの状態を理解するために必要な書物

    評価:
    アンリ J.M.ヌーエン
    サンパウロ
    ¥ 1,296
    (2002-10-07)
    コメント:内容はいいのに、訳が変でちょっと突っかかる(減点対象)。ただし、表紙デザインは最高。

    評価:
    Henri J. M. Nouwen
    HarperOne
    ¥ 916
    (2009-09-22)
    コメント:使っているのはこの版ではないけど、非常によい。

    コメント
    こんにちは、ちょっと情報を探していて、たまたまこちらのサイトにお邪魔しました。グリューンの指摘と、クリスチャンのメンタリティの考察にとても同感しました。私もグリューンの本を読んでみたいなと思います。
    とても興味深い記事をたくさん書いておられるんですね!また読みに来ます。
    私もくだらないことを色々書いていますので、よければ遊びに来て下さい。それでは、これからの記事も楽しみにしています!
    • Yamori
    • 2016.11.08 Tuesday 18:24
    Yamoriさま

    御清覧、コメント感謝申し上げます。

    はい、グリューンの指摘は極めて重要か、と思います。

    これから、もっと面白くなります。

    Yamoriさまは随分と教会とマネジメントをご研究なのですね。

    福音派は、マネジメントをこれまで人間的なものとして忌避してきたのですが、先ほど神戸で開かれた日本伝道会議JCE6での報告のご発言やプレゼンテーションなどを見ても、そのつけを漸く払う気にはなりかけているのかなぁ、と思いつつも、報告そのもののがつけの現れになっていたという。

    数量で全て議論できるとは思いませんが、数量で抑えるべきところは抑えておいたほうがいいとは思っております。

    ご活躍を期待しております。
    • ミーちゃんはーちゃん AKA かわむかい
    • 2016.11.08 Tuesday 22:37
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