<< 今年もやりますN.T.ライトセミナー | main | 京都精華大学での中田考さんの講演会にいってきた(講演編) >>
2016.10.12 Wednesday

第6回日本伝道会議 クリストファー・ライト 第4回 講演記録

0

     


    Pocket

     

    さて、日本伝道会議の最終日の午前主題講演の4回目の速記録に基づきながら、多少は読みやすくしたものと、そこに参加したものとしての感想を書いてみたいと思う。

     

    ローマ書から
    聖書箇所はローマ人への手紙14章1-3 ローマ15章1〜13節でした。

    【口語訳聖書 ローマ書】
     14:1 信仰の弱い者を受けいれなさい。ただ、意見を批評するためであってはならない。
     14:2 ある人は、何を食べてもさしつかえないと信じているが、弱い人は野菜だけを食べる。
     14:3 食べる者は食べない者を軽んじてはならず、食べない者も食べる者をさばいてはならない。神は彼を受けいれて下さったのであるから。

     

     15:1 わたしたち強い者は、強くない者たちの弱さをになうべきであって、自分だけを喜ばせることをしてはならない。
     15:2 わたしたちひとりびとりは、隣り人の徳を高めるために、その益を図って彼らを喜ばすべきである。
     15:3 キリストさえ、ご自身を喜ばせることはなさらなかった。むしろ「あなたをそしる者のそしりが、わたしに降りかかった」と書いてあるとおりであった。
     15:4 これまでに書かれた事がらは、すべてわたしたちの教のために書かれたのであって、それは聖書の与える忍耐と慰めとによって、望みをいだかせるためである。
     15:5 どうか、忍耐と慰めとの神が、あなたがたに、キリスト・イエスにならって互に同じ思いをいだかせ、
     15:6 こうして、心を一つにし、声を合わせて、わたしたちの主イエス・キリストの父なる神をあがめさせて下さるように。
     15:7 こういうわけで、キリストもわたしたちを受けいれて下さったように、あなたがたも互に受けいれて、神の栄光をあらわすべきである。
     15:8 わたしは言う、キリストは神の真実を明らかにするために、割礼のある者の僕となられた。それは父祖たちの受けた約束を保証すると共に、
     15:9 異邦人もあわれみを受けて神をあがめるようになるためである、

       「それゆえ、わたしは、異邦人の中で

        あなたにさんびをささげ、

        また、御名をほめ歌う」

        と書いてあるとおりである。
     15:10 また、こう言っている、

       「異邦人よ、主の民と共に喜べ」。
     15:11 また、

       「すべての異邦人よ、主をほめまつれ。もろもろの民よ、主をほめたたえよ」。
     15:12 またイザヤは言っている、

       「エッサイの根から芽が出て、

        異邦人を治めるために立ち上がる者が来る。異邦人は彼に望みをおくであろう」。
     15:13 どうか、望みの神が、信仰から来るあらゆる喜びと平安とを、あなたがたに満たし、聖霊の力によって、あなたがたを、望みにあふれさせて下さるように。

     

    これまでのまとめ
    今日が最期の日になります。初日については、神によって目が開かれたエライジャのしもべとそのしもべが見た神の臨在のお話をしました。2日目は福音とは何かを考えました。 聖書全体から、スコープについて考えながら、神がなされたことを考えました。そして、昨日は世界について考えました。特にエレミヤ書からバビロンにおけるイスラエルの民の状態について触れ、偉大な国家の中の失意の中にある小さくなっていた人々に神の主権を伝えた手紙のことをおはなししました。そして、アブラハムを通して約束された国々の祝福とミッションについてお話したし、神が完全な約束をお与えになられたことをお話しました。

     

    福音が示される機会
    今日は機会、オポチュニティについて考えてみたいと思います。


    日本に来て、福島や熊本などでの震災などが神が新たな機会を与えているという非常に驚くべき話を聞いたのです。この機器の中で、教会の働きが見えるようになったのです。この災害の中で、フレッシュな見方と力が与えられ、福音の力が地において実際に起きていることを見られるようになったのではないでしょうか。福音が愛をもって、さらに、憐れみを伴って表され、力を体験するようになってきたのではないでしょうか。それでは、いま必要なことはどのようなことでしょうか?

     

    福音と協調行動と一体であること、一貫性
    今日の聖書、ローマ書の部分からは、協調と一致Unityが重要であると教えられた。そして、希望とUnityの必要があることも、このローマ書の部分の中で書かれている。本日の聖書箇所はまた、希望と一体であること(Hope & Unity)について語っているのではないだろうか。希望(Hope)についてはここ数日間学んできたことであるし、絶望的な状況の中にあって希望を持つことについてであったこともお話した。また、それは真理と現実的で実際的な力についてでもあった。

     

    それでは、一体であることと協調(Unity & Cooperation)についてはどう考えればよいだろうか。聖書について、真剣に考えているとき、これらのことは起きるのではないだろうか。一体であること、あるいは一致をもって、協調ないし協力(Cooperation)しなければ何が起きるのだろうか。 それは福音の一貫性、或いは、そのものらしさ、整合性(Integrity)が脅かされ兼ねない。キリスト者の生き方が整合性があるもの Ingegrity となるためローマの最終まとめの部分で、パウロはそのことについて触れている。この整合的であること、一貫性が取れていることIngetrityは、どの世界の人々にとっても重要でもあるが、ここでは大切な事柄である都市適している。そのため、この一貫性があること、つまり、言行不一致でないことでもある整合性Integrityについて今日、考えていきたい。

     

    全地中海世界に福音を伝えようとしたパウロ
    聖書がどういうコンテキストで言われているのかを考えないといけない。パウロはこの書を口述筆記をしていたが、この時点は、彼の宣教師(Missionary)としてのミニストリの転換点でもあった。15章でそれに言及しており、19節からそれを言っている。19節で、エルサレムから始まって、世界中にくまなく伝えたといっている。これは、現在の地中海世界の東半分に伝えたということであり、現在のトルコ、アルバニア、ギリシア地方で伝道したことを示している。

     

    【口語訳聖書 ローマ書】
     15:18 わたしは、異邦人を従順にするために、キリストがわたしを用いて、言葉とわざ、
     15:19 しるしと不思議との力、聖霊の力によって、働かせて下さったことの外には、あえて何も語ろうとは思わない。こうして、わたしはエルサレムから始まり、巡りめぐってイルリコに至るまで、キリストの福音を満たしてきた。

     

    パウロは、これまで福音を伝えてきた地域(地中海世界の東側)において、その働きがすでに終わったものと感じた。もう、この地域で伝えることはない、と思ったことが、23節に示されていて、イスパニア(スペイン)という語にもあるように、パウロは地中海の西部、すなわち地中海の果てに向かっていたといえる。23〜24節でスペインに行くつもりで、ローマに立ち寄る予定であることが書かれている。その意味で、この手紙は宣教のストラテジーを考える中で書かれた手紙であるといえる。その意味で、西地中海に向かう途中の段階で書いたと考えられるだろう。

     

    【口語訳聖書 ローマ書】
     15:23 しかし今では、この地方にはもはや働く余地がなく、かつイスパニヤに赴く場合、あなたがたの所に行くことを、多年、熱望していたので、――
     15:24 その途中あなたがたに会い、まず幾分でもわたしの願いがあなたがたによって満たされたら、あなたがたに送られてそこへ行くことを、望んでいるのである。

     

    ローマ教会をベースとして、そこを中心として地中海の西側への宣教のための送り出し教会としようと考えていたようである。その意味で考えてみれば、アンティオキア教会は東半分の送り出し教会として考えていたことがわかるかもしれない。このような伝道の拠点としてのローマが、彼の伝導におけるストラテジーにとって、合致したものであり、そのような伝道を行う際の希望を書いたものであるとも言えよう。

     

    ローマ教会の分裂と和解(Reconciliation)
    このような彼の計画の中で、ローマの教会は分裂してたことを知っていたし、教会のユニティ、一つにされたものの中であっても、
    ユダヤ人と異邦人の間の分裂があったことは十分承知していた。実際、パウロは宣教が宣教に取り組んでいるその中で、この問題に直面した。それが、ローマ書、ガラテヤ書などにも現われており、下手をすると、宣教に悪影響をもたらしかねないほどの問題でもあった。和解を福音として語らなければならないのに、それができない状態にローマの教会があったことが読み取れるだろう。

     

    ローマの使徒たちに、あなたがたは、キリストにあって和解したものではないか、とパウロは言いたかったのであろう。そうであるのに、スペインでキリストにあっての神との和解と人々との和解を語りたかったのに、ローマの教会の状態はそれを言える状態になかったと言える。その意味で、福音の真理が脅威に直面した状態出会ったといえるだろう。さらに言えば、クリスチャンが和解のうちに生きていないなら、福音を生きていることにならないのではないだろうか。


    福音のインテグリティ統合性、裏腹ななさが危険にさらされていたとも言えるだろう。さらに言えば、パウロの宣教のインテグリティが危機にさらされていたということにもなろう。神にあるユニティをイスパニアに輸出しようとしているのに、分裂を輸出することになりかねない状態でもあったといえるかもしれない。


    日本には140ほどの教派教団が存在する、と聞いている。しかし、それは残念なことに、送りだしてきた外国の教会でもその分裂が反映されたものになってしまって居て、今の現状となっているのではないだろうか。統合的な一体となった教会(United Church)として送り出せれば、United Churchが宣教先でも起きるはずであったのだろうけれども。


    このローマ書の手紙のクライマックスに当たる本日紹介した部分で、一体となっていること(Unity)と和解の生き方をパウロはローマの教会の聖徒たちに訴えている。それによって福音の真理性がわかるのではないか、といっているかのようだ。このような一体となっていることと和解の生き方こそが異邦人に対する宣教の唯一の方法であり、また、それこそがローマ教会の人々が神の希望に満たされて生きる方法であったと主張しているかのようだ。

     


    この伝道会議の結果として、神が建てられた指導者が真剣に宣教をとらえて、世界に出ていくとしたら、神の機会に対して真剣に従おうとしようとするなら、このパウロが書いたローマの手紙のこの部分の主張を見ることが必要になるだろう。それは教義学的な事柄ではな胃だろう。もちろん、正しい神学を学ぶことも大事だが、実践的なことが指摘されているローマ書の12-15章を真剣に考えるべきではないだろうか。福音に従い、神に従って生きることが大事なことであると、パウロは指摘しているだろうし、特に、この所管のクライマックスであるローマ書の14章から15章が大事であるといえよう。

     

    ヴィジョンを持つべき3つのこと
    これから見るべき3つのことを一緒に見ていきたい。
    1)福音が創造したものを見ること
    2)福音が要求していることを見ること
    3)福音が導く場所を見ること

    (ミハ氏註 この見ることは、今回のテーマReVisionと掛詞になっている)


    このようなことを12章から15章を通して見いださないと、意味がないかも知れない。

     

    福音が想像したもの、すなわち

    神が建てようとしている多様な人からなるコミュニティ

    パウロが言おうとしていることは、教会を神のマルチナショナルコミュニティとして作ろうとしているということではないだろうか。


    そもそも、神に対する罪とそのもたらす問題をパウロはローマ書1-2章で論じている。つまり、ユダヤ人であろうとギリシア人であろうと関係なく、とパウロは言っている。すなわち、人はすべからく罪を犯しおり、神の前にこの罪という問題があることを指摘している。パウロはユダヤ人の神について、語っており、神はアブラハムを通して、すべての民は祝福をされるということ、その民の祝福はイエスを通して起きていることを語っている。つまり、イエスを通して、永遠のいのち、神の義、祝福があることが語られている。


    パウロは神のミッションとは、すべての人々、国々に伝え、神の平和を伝えようとしている。アブラハムの模範に従う。神を信じ神に従った。それが起きているとパウロは言っている。アブラハムはすべての国民の父であり、それが実現しているといっているのではないだろうか。


    また、エペソ書2章では、ユダヤ人と異邦人の差がないといっているのであり、神は、キリストにあって、一つのヒューマニティとしたことが記されており、世界に新たなる人がつくられた、とも言っているのだ。
    ガラテヤ書では、もしイエスを信じるなら、アブラハムの民の中に入っていくといっている。ガラテヤ書3章26-29を見てみたい。

     

    【口語訳聖書 ガラテヤ書】
     3:26 あなたがたはみな、キリスト・イエスにある信仰によって、神の子なのである。
     3:27 キリストに合うバプテスマを受けたあなたがたは、皆キリストを着たのである。
     3:28 もはや、ユダヤ人もギリシヤ人もなく、奴隷も自由人もなく、男も女もない。あなたがたは皆、キリスト・イエスにあって一つだからである。
     3:29 もしキリストのものであるなら、あなたがたはアブラハムの子孫であり、約束による相続人なのである。

     

    つまり、キリストイエスによって神の子供となり、キリストをその身に着るようになったのであり、男も女も、ユダヤ人も異邦人もすべての人は、キリストイエスにあって一つであると主張しているし、キリストのものであれば、アブラハムの子孫であるとも主張している。つまり、福音がこのことを成し遂げたといっているのではないだろうか。つまり、和解がなっており、一つのものに結び合わされた新たにされた人であること(New United Reconcile Humanity)といっているのではないだろうか。


    日本でも、キリスト者は、この和解がなっており、一つのものに結び合わされた新たにされた人に属しているということであろう。それは、多数の教派があってもそれはある面関係ないことなのではないか。これが我々の生きるべきStoryであるのではないだろうか。我々の神への信頼(Faith)、福音の故にそのような民とされたことをを覚えていないといけないではないだろうか。

     

    Reconcileされたキリスト者たち
    神の物語のただなかにいて、われわれは、その神の物語の一部になっていることを覚えていない。アブラハムにおける人々は罪人ではあるが、神と和解させられ、もともとあった形とに戻った(Reconcile)、神によって和解しもう一度一致させられた(Reconcile)人々であり、相互にReconcileされた人々であったのである。

     

    パウロはこの主張、テーマをローマ書、エペソ書において、展開している。そのReconcileということが、神が造られたものはどのようなものか、ということでもあり、福音がつくったものが何かということを言っている。さらには、ローマ書14-15章では、神が要求していることは何か、ということを述べているのである。つまり、キリストを受け入れたものは、キリスト受け入れたものを受け入れるということである。ユダヤ人であれ、ギリシア人であれ、そのような差別に関係なく、受け入れ、受け止め、一体となる(Embracement)しないといけないであろう。それをパウロは言ったのである。

     

    強い人としてのローマ人、弱い人としてのユダヤ人
    例えば、ローマ書の15章の1節に、強い人、弱い人ということが書かれているが、この強い人、あるいは、力ある人は、異邦人のことであり、ローマ人を指してその人々について言ったのである。また、弱い人とは、ユダヤ的な人々について言った。ある面、ローマ人は支配者であり、それ故、ユダヤの民を見くだしていたのである。


    弱い人ということについてであるが、身体的に弱いというよりは、あるいは、信仰が弱いということではなくて、保守的(コンサバティブ)で、いろんな気遣いをした人人のことである。より正確に言うと、旧約聖書の食事規定のことである。さらに言えば、当時のローマの食肉文化の一端でもあった偶像に捧げられた肉を食することを忌避したのであり、それが故に、彼らは野菜だけを食べていたのである。(ミハ氏註 ダニエルみたいだなぁ、と思った。それと、ローマの肉は、おそらく、モーセ5書に規定されたヘブライ的な食肉処理規定に従った血抜きがされていないので、血による穢れを忌避するヘブライ聖書的理解には相反したから、食べられなかったといえるだろう。現在のムスリムのかなりの部分やユダヤのウルトラ保守派もこの種のことに極めて厳格な部分がある)。また、さらに、安息日を守ることにも触れている。安息日規定は、極めて重要であり、彼らはい今日のローマ社会の中にあって、徹底的にヘブライ聖書による立法規定の一つでもある安息日規定を守った。これは、彼らのユダヤ人としてのアイデンティティとつながっていたと言えよう。その中で最も大事にされたものが、安息日規定と食事規定出会ったと言えよう。

     

    それが異邦人キリスト者には理解できなかったようだし、その規定を守る必要はなく、もっと自由に行動してよいのだと思っていたが、もっとそのような制約は関係ないのだ、と思っていたのではないだろうか。自由に行動できるから強いのだ、と思っていたろうし、実際に当時の世界のリーダー的役割を果たしているからこそ、自分たちこそが主導権を握るリーダーであると思っていたとも言えるだろう。(ミハ氏註 なんか、アメリカ人みたいだなぁ。たしかに、自分たちはローマの正当な子孫であるという思い込みと言うか、ロマンがアメリカ人にないわけではない。なお、ロシアはロシアで、自分たちこそ、ローマの正当な子孫であると思っているみたいではあるが)

     

    ローマ人たちは、彼らは自由に生きるのだ、と思っていたので、ユダヤ人との間に一致がなかった(ミハ氏註 なんで、劣ったヘブライの民、自分たちから支配を受けている民の律法なぞ、守る必要があろうと思っていたとは思う)。これは小さい事ではない。これは、文化的な違いをどう考えるかということでもあり、神学的には重要なことでもあった。そして、パウロは、重要ではないことことに重きを置かないようにと勧めている。パウロは、クリスチャンでもある点において意見の一致ができないことは十分知っていたし、異なる意見が併存することも知っていたであろう。すべてのことについて、同じであれ、とは言っていないことに注目すべきであろう。しかし、様々なことに関しての意見が違いがあっても、キリストにあって、異なる見解を持つ他者を受け入れ合うべきだ、ということを主張されていたのである。


    ローマ書の14章1節は、信仰の弱い人を受け入れよといっている。それは、キリストもその進行の弱い人を受け入れたともいっている。また、神に対しての信仰を持つ人々の相互受け入れをどう考えるかについては、ローマ書の14章3節で語っている。それは、食事規定の故に、他者をあなどってはいけないし、その食事規定の故に、他者にたいして軽々に判断を下し、自己と違うものと判定(Judge)してはならない、といっているだろうユダヤ人は、食事規定と安息日規定を守っていることについて、ローマ人はそれを馬鹿にしてからかっていたのであろう。パウロは、ここで、他者を哄笑してはならんといっているのであり、他のクリスチャンをそんな扱いしてはならんといっているのである。


    逆に、それよりもよい神との関係のあり方を守る(Good Morarity)を持っていない人々でもあるということで、ユダヤ人は異邦人を否定しようとした傾向もあったであろうし、他のクリスチャンたちを見くだしたりしていた部分もあるだろう。その意味で、他のクリスチャンを勝手に気軽に判断し、自己と違うものと軽々に判定(Judge)してはいかんのだ、ということを言っているのであろう。そして、ユダヤ人キリスト者も、キリストが他の民族の人々を受け入れたように、他のキリスト者を受け入れよといっている。
    誰かを拒否するなら、見下すなら、裁いたり、軽蔑したりするならば、それは非常にまずいことで、神はユダヤ人を受け入れたとは言うものの、他の民族は受け入れないと、何故、神でない我々が言えるのだろうか。

     

    福音が要求していること

    互いに受け入れ合うこと
    互いに受け入れよ、とここでパウロ言っているが、なぜ、そうするのだろうか。個々に見るように、パウロは、必死に何度も何度も相互に受け入れることについて、書いている。なぜ、受け入れあうべきであるのかの3つの理由があるだろう。


    1)我らは神に従うものである

    ローマ書14章1-2節で、神の僕(しもべ)であるキリスト者はお互いに非難しあうことができないとも言っている。なぜ避難し合ったり、難癖をつけ合ったりしてはいけないかというと、それは、同じ主人である神で有る主にともに仕えているものであるからである。同じ神である主の僕(しもべ)であるなら、主のしもべである他者を批判することはできないだろう。なぜならば、神である主が支配者であり、まずもっと神である主に関心を向けるべきであり、さらに、神に向かっていくということを主張しているのであり、何ごとでも、主のために生きておられる神の御前でもまず我らは生きることをが重要であって、他の人がどのようであろうと、他のしもべが生きる生き方はどちらでもいい最重要課題ではないことではないか、と言っているのではないだろうか。

     

    また、15章の10節で主張しているのは、あなた方、他の人もそうであるが、なぜ、互いにさばき合う(Condemn だめだと決めつけることをする)のか。いずれ、我らは、神の裁き座の前に立つようになるのだ。今、避難し、だめだと決めつけようとしていることが神の裁きの場で問題になるのだろうか。

     

    多くの教派があるが、ペンテコステ派でも、派手な礼拝をするグループでも、改革派でも、保守的な礼拝でもそれぞれははたして問題になるのだろうか。楽器の種類に関しても、オルガンやピアノまではOKで、それ以外の楽器を用いることがNGということで、それが裁きの場で、問題になるのだろうか。あるいは前千年主義だからだめだというのだろうか。それとも、既に千年王国が起きたと考える人もあるが、これらの概念が裁きの聖座の前で関係するのだろうか。それが問題にならないのに、なぜ、それらのごく小さな違いを、過大評価して、互いにさばき合胃、だめだと決めつけようとするのだろうか。このことを念頭に置けば、無益な議論は無くなるかも知れないではないか。であるのに、なぜ、互いに噛みつき合ったり、いがみ合ったりするのだろうか。

     

    2)愛による行動のゆえに
    コリント第1第8章の内容とかさなるのであるが、食事規定とのかかわりで考えてみたい。クリスチャンは律法における食事規定について自由にしているのは、そのとおりだが、自由にしているからと言って、他人を脅かしたり攻撃したりする(Offend)自由はないのである。コリント人の手紙では、罪を犯すなら、キリストに対して罪を犯すことになることが触れられている。そして、それは互いに愛し合うというイエス・キリストの基本的な提示に反するのであり、その互いに愛し合うこと、それがイエスの最後の命令の一つではなかっただのだろうか。


    愛試合なさいという指示に対して、罪を犯すのは問題である。

     

    【口語訳聖書 ローマ書】
     14:19 こういうわけで、平和に役立つことや、互の徳を高めることを、追い求めようではないか。
     14:20 食物のことで、神のみわざを破壊してはならない。すべての物はきよい。ただ、それを食べて人をつまずかせる者には、悪となる。
     14:21 肉を食わず、酒を飲まず、そのほか兄弟をつまずかせないのは、良いことである。

     

    この19節で平和に役立つことを追い求めよう、という表現があるが、パウロがここで使っている言葉は非常に厳しい言葉である。すべての徳を高めることを追い求める努力をせよといっている。そして、平和のために働けといっているのである。


    なお、このことばは、当時のローマの教会に向けられたばかりではなく、あなたとあなたの教会はどうか、を聞かれている。愛することが、教会を立てあげるというミッションにおいて貫ら抜かれているのか、が問われているのだ。ある面、ケープタウン宣言で言っていることは愛を追い求めていくことであると言われている。

     

    ここで、ケープタウン宣言のp35-37に記載されている1ー9のところを読んでもらいたい。(本文は省略)

     

    3)キリストのゆえに、キリストに倣うもの故に
    ここで言われているのは、神の民のしもべとなり、互い愛しあうこと、そして行動せよ。そして、キリストに倣うことがを指摘しているのである。

     

    【口語訳聖書 ローマ書 】
     15:3 キリストさえ、ご自身を喜ばせることはなさらなかった。むしろ「あなたをそしる者のそしりが、わたしに降りかかった」と書いてあるとおりであった。

     

    パウロは、イエスと同じ心、同じ行動せよといっているのではないか。そして、自分自身や他者を喜ばせるような生き方をすべきでないとも言っている。ここで、パウロは詩篇69篇からの引用していることが、興味深い。なぜなら、不正義な人からの不愉快な経験から、不正義や攻撃の中で書かれた詩篇と思われるからである。それは、キリストの経験と同じような経験であったであろう。この詩篇記者は、神の裁きを求めているが、しかし、イエスは神の許しを願っている。

     

    【口語訳聖書 ローマ書 】
     15:5 どうか、忍耐と慰めとの神が、あなたがたに、キリスト・イエスにならって互に同じ思いをいだかせ、

     15:6 こうして、心を一つにし、声を合わせて、わたしたちの主イエス・キリストの父なる神をあがめさせて下さるように。

    5節では、同じ律法とイエスに似た態度をもて、といってパウロは書いている。もし、キリストのモデルに従うのであれば、キリストとおなじ行動をするなら、おなじ一つの声で歌うことになり、一つの歌を歌うことで、神に栄光をもたらすことができるのだ。この5及び6節は非常にポジティブな態度であることを勧めている。

     

    もしキリストの模範に従わなければ、なにが起きるのだろうか。互いに協力しあわないならば、キリストの心を持っていないことになるのではないか。同じ歌を歌わないないならば、相手の人々愚弄(Mock)していることになるのではないだろうか。

     

    福音が導こうとしたもの、すなわち

    神のみもとにすべての国民が戻ること
    福音がどういうことを成し遂げたかをもう一度考えて見たい。そして福音に属しているものを見たいのである。それはすなわち、神が求めておられるものを見たいということでもあるのだ。神はキリスト者の一致と協力関係を求めているのではないだろうか。パウロがしているような形で講演を終わりたい。

     

    【口語訳聖書 ローマ】
     15:9 異邦人もあわれみを受けて神をあがめるようになるためである、
       「それゆえ、わたしは、異邦人の中で
        あなたにさんびをささげ、
        また、御名をほめ歌う」
       と書いてあるとおりである。
     15:10 また、こう言っている、
       「異邦人よ、主の民と共に喜べ」。
     15:11 また、
       「すべての異邦人よ、主をほめまつれ。もろもろの民よ、主をほめたたえよ」。
     15:12 またイザヤは言っている、
       「エッサイの根から芽が出て、
        異邦人を治めるために立ち上がる者が来る。異邦人は彼に望みをおくであろう」。

     


    この9-12節での指摘は、どこに福音が私たちを導くのか考える上で極めて重要である。この部分は、何かをすること(Business)のことでは決してない。この部分は、Missionalであるための理由ガキされていると思うのである。そして、この部分がクライマックスである。福音は、旧約預言の成就である。(ミハ氏註 スコット・マクナイトの『福音の再発見』の冒頭部分みたいである)


    救い主は、イスラエルと、他の民族を神のもとに戻す存在であり、キリストは多くのための犠牲になられた方である。キリストは神の僕(しもべ)としてこの地にきて、そのように死慣れたお方である。父祖たちの約束を実現するため、この地に来られ、イスラエルの僕でもあったが、すべての人の僕となられ、アブラハムの約束の実現された方である。全ての国民が神のもとに戻ることのためにこの地に来られたのである。それがイエスのミッションであった。


    そして、パウロは、そのミッションを思い起こしなさい、そのイエスのミッションは極めて重要なものであると言っているのではないだろうか。ここでは、聖書の4カ所から引用している。四回も聖書を引用して主張しているのであれば、それは、重要なことではないだろうか。


    この部分での四つの引用は異邦人が共通項である。預言、律法、詩篇からいんようされているが、全部の中身が、ユダヤ人を通して神のもとにすべての国民が戻るという約束が触れられているのだ。それこそが復活の日に起きることであり、その日、すべての国民が神のもとに戻ることにあるだろう。ルカ24章はそのようなことに関して書かれているし、今週、そういうことについて、学んだのである。


    旧約聖書のメッセージとはなんであったか 

    旧約聖書のメッセージ、キリストが来られる、そして、苦しみ、その後、復活する。その十字架と復活を通して、すべての国民に悔い改めと和解が語られ、すべての国民が神のもとに戻っていくるということであったし、これを人々に伝えることが大事であろう。スペインまで行けたかどうかはわからないが、そのスペイン行きにあたってローマ書がパウロによって書かれたのである。その異邦人の回復の故に神にイエスはご自身をささげられたのである。その結果、許し合い、和解し調和(Reconcile)して、相互に受け入れ合うこと(Embrace)することを神は求めておられるのである。


    パレスティナのクリスチャンに招かれ、そこを訪れたとき時、メシアニック・ジューの方がいたが、この会議の参加者の中に居られた事があった。その会議の中で、ナディーブというパレスティナ人のクリスチャンも居られた。イスラエルが国家として建設した壁でお互いに分離されていることが、いかにひどいことかと言う話をしたことがあった。ちょうどイスラエルが国家として建設した壁の両側にいる分離された状態は、それはここで読んだ、ローマの協会における分離と同様であり、また、ユダヤ人とギリシア人の分離と類似関係にある。


    サタンは、我々に合うようにいろいろなものをカスタマイズしていく声質を持つものであるが、しかし、神は、我々を神のかたちとして神と一致するようにカスタマイズしたいというご希望をお持ちなのではないだろうか。先に紹介したように、イスラエルとパレスティナのユダヤ人が一致をもたらしえたとするなら、日本においてできないはずはないのではないだろうか。パウロはスペインに行きたかったが、その前にパウロは、ローマの霊的な状態を整えたかったといえるだろう。

     

    神のもとに戻る機会が日本でも
    日本でも、そのような機会(Oppotunity)があるだろう。悔い改めと和解と、互いを受け入れることをし、そして、協力が起きることを期待したい。そして、それは、今この場所でのコイノニアでも起きているだろう。アナロギアとかプロジェクトでもこれから起きるだろう。そして、これからの7年の内に起きることを期待したい。そのなかで、ミッションにおける一致と協力関係がうまれていくことを期待したい。そして、神のHopeがこの様ざなな人々からなるグループの中にあるだろうし、神の霊の力によってのぞみがあるように祈ります。

     

    個人的な感想

    このあたりのおはなしをきいていたときに基本的に頭にあったのは、ヘンリ・ナウエンのHere and Now『今ここに生きる』(あめんどう刊)に出てくる車軸の話を思い出していた。車軸に向かってスポークが車輪から伸びるように、車輪の一部から、まず見るべきものは、車軸の中心部であること、そして、車輪がスポークでつながってないと、車軸にもつながれないこと、などなどのメタファーが浮かんで仕方がなかった。

     

     

     

    それと、日本の伝道が教団単位というよりは、米国の教団本部からの支援で当初運営されてきたこともあり、新島襄の時代ではないけれど、その米国本部とか、日本に海外からやってきた伝道師達の意向を無視できない状態のまま今日のキリスト教界の状態になっているのであるし、また、聖書無誤論だとか、福音派の一部の方々が、他の一部のキリスト教の教会群とそこの人々にリベラル派といってラベルを張って、その方々の行き過ぎばかりにあまりに目を向けてしまったあまり、対話の口すら失ってしまって、今に至っているなぁ、という気がする。

     

    福音派内でのイベントとしての伝道会議

    その意味で、今回、伝道会議と言いつつ、正教会系の人々もはもちろん、カトリック教会、日本基督教団などなどと思われる方の参加はなかったのは、残念であり、ある面、福音派的な人々の同窓会と言った雰囲気であった感じがする。神戸は、実際面で、様々な教派の間のつながりが日常的にあったはずなのに、今回はそれをあまり活かしきれていなかったのは、どうだったのかなぁ、と思う。

    ご尽力された人々への感謝
    とは言え、この準備に携わった神学校の関係の先生方の大変なご苦労、連日連夜の青谷詣を始めとして、非常に大きな負担を追ってくださったのは、傍目に見てて、気の毒なほどであったことをここに記して、深甚なる衷心からの感謝の意を評しておきたい。まぁ、そこまで広げると、収集のつけようもなかったろうし、カオス状態になったと思う。
    また、このイベントのために、声をからし、腰を痛め、背中を痛め、汗を書いた関西の神学校と呼ばれる学生の皆様にも、感謝の意を評したい。
    なお、割と早く、この記録を読まれたい、文字でまとめて読みたいとおっしゃるご友人の方のために通常記事に優先してこの記事を着したが、あと1月もすれば、CGNTVで動画で見ることができるはずである。
    記録は極力最新にメモしたつもりだが、充分でないことも重々ミーちゃんはーちゃんとしては承知している。記録中にMS-IMEの調子が悪くなり、変換文字数が、3文字程度しか表示されない、御動作をする、勝手にアップデートが始まる等々という中での記録であったりしているので、その点はご容赦いただきたい。

     

    日本伝道会議に関する記録は以上で終わりである。御清覧を感謝したい。

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

    評価:
    ---
    いのちのことば社
    ---
    (2012-04-05)
    コメント:必読書でしょう。

    評価:
    H.J.M.(ヘンリ・J・M) ナーウェン,太田和 功一
    あめんどう
    ¥ 1,944
    (1997-09-20)
    コメント:大変大事なことが書いてあります。

    評価:
    ジャン・バニエ
    あめんどう
    ---
    (2010-08-20)
    コメント:社会とともに神の平和をもたらすことに関する入門書的存在。

    コメント
    コメントする








     
    Calendar
         12
    3456789
    10111213141516
    17181920212223
    24252627282930
    << November 2019 >>
    ブクログ
    G
    Selected Entries
    Categories
    Archives
    Recent Comment
    Links
    Profile
    Search this site.
    Others
    Mobile
    qrcode
    Powered by
    30days Album
    無料ブログ作成サービス JUGEM