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2016.10.10 Monday

第6回日本伝道会議 クリストファー・ライトさん 第3回 講演記録

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    今回は、第6回日本伝道会議でのクリストファー・ライトさんの講演の3回目に参加したときの速記録から書き起こしてみたい。

     

    エレミヤ書29章から
    まず冒頭で、エレミヤ書29章1-14節が読み上げられた。

    【口語訳聖書】エレミヤ書
     
     29:1 これは預言者エレミヤがエルサレムから、かの捕え移された長老たち、およびネブカデネザルによってエルサレムからバビロンに捕え移された祭司と預言者ならびにすべての民に送った手紙に書きしるした言葉である。
     29:2 それはエコニヤ王と太后と宦官およびユダとエルサレムのつかさたち、および工匠と鍛冶とがエルサレムを去ってのちに書かれたものであって、
     29:3 エレミヤはその手紙をシャパンの子エラサおよびヒルキヤの子ゲマリヤの手によって送った。この人々はユダの王ゼデキヤがバビロンに行かせ、バビロンの王ネブカデネザルのもとにつかわしたものであった。その手紙には次のように書いてあった。
     29:4 「万軍の主、イスラエルの神は、すべて捕え移された者、すなわち、わたしがエルサレムから、バビロンに捕え移させた者に、こう言う、
     29:5 あなたがたは家を建てて、それに住み、畑を作ってその産物を食べよ。
     29:6 妻をめとって、むすこ娘を産み、また、そのむすこに嫁をめとり、娘をとつがせて、むすこ娘を産むようにせよ。その所であなたがたの数を増し、減ってはならない。
     29:7 わたしがあなたがたを捕え移させたところの町の平安を求め、そのために主に祈るがよい。その町が平安であれば、あなたがたも平安を得るからである。
     29:8 万軍の主、イスラエルの神はこう言われる、あなたがたのうちにいる預言者と占い師に惑わされてはならない。また彼らの見る夢に聞き従ってはならない。
     29:9 それは、彼らがわたしの名によってあなたがたに偽りを預言しているからである。わたしが彼らをつかわしたのではないと主は言われる。
     29:10 主はこう言われる、バビロンで七十年が満ちるならば、わたしはあなたがたを顧み、わたしの約束を果し、あなたがたをこの所に導き帰る。
     29:11 主は言われる、わたしがあなたがたに対していだいている計画はわたしが知っている。それは災を与えようというのではなく、平安を与えようとするものであり、あなたがたに将来を与え、希望を与えようとするものである。
     29:12 その時、あなたがたはわたしに呼ばわり、来て、わたしに祈る。わたしはあなたがたの祈を聞く。
     29:13 あなたがたはわたしを尋ね求めて、わたしに会う。もしあなたがたが一心にわたしを尋ね求めるならば、
     29:14 わたしはあなたがたに会うと主は言われる。わたしはあなたがたの繁栄を回復し、あなたがたを万国から、すべてわたしがあなたがたを追いやった所から集め、かつ、わたしがあなたがたを捕われ離れさせたそのもとの所に、あなたがたを導き帰ろうと主は言われる。


     昨日の講演(ミハ氏註 記録欠損の故公開できず・・・)で、福音を新しい見方で見ることをお話した。そして、聖書全体から、神のなさった福音理解を新しい見方で見ることの大切さを述べた。昨日、福音を新しい見方で見ることを話した。そして、聖書全体から、神のなさった福音理解の大切さを述べた。本日は、世界について話していきたい。すべての教会が、完全に福音をすべての世界にもたらすことについて考えていきたい。すべての世界にもたらすとはどういうことだろうか?また、聖書は世、或いは世界についてなんといっているか、ということを考えてみたい。

     

    相反する内容が含まれる聖書
    聖書の中には、相反する内容が含まれている。聖書の中で、世界は神を愛されたことが書かれている。イエスを介して、この世界を贖われたのである。キリストの内にあって、神はイエスによって神と私達とが和解がなされたのである。神は世界を愛されたが、一方で、この世界には、神に対する罪、反逆が存在する。その意味においてこの世界を愛してはならないのは当然である。良き創造としてのこの世界が有り、神に対する反逆の世界も、この世界の中に含まれている。この両面について、Missionとのかかわりで、考える必要があるだろう。


    ケープタウン宣言の中でも、この世界に関するいろいろな側面を書いている。例えば、他の宗教、貧しさ、悪がある世界、完全な世界など、世界のあり方、世界に対する視点について、様々な側面が書かれている。このことについて、アナロギア・グループ(ミハ氏註 要するに、より大きなグループで討論するためのグループみなたいなもの、ある種の公共圏と言ってもいいかもしれない)でも、コイノニア(ミハ氏註 一時的、ないし永続的につながっていくより小さな数人程度のグループ、フェイスブックでのグループみたいなもの 限られた人数での親密圏を伴った公共圏)でも、これから、世界の様々な側面について、継続的に対話してもらいたいと思っている。

     

    小さく弱く見える日本の教会と

    捕囚時代のイスラエルの相似性
    特に今回来日して講演を準備する中で思ったことは、以下の内容である。日本の教会は小さく、さらに力もなく、こんな日本の教会が、日々多くの深刻な問題が起こっている日本や社会、そして世界に対し、一体どのようにして仕えることができるのか、という問いを考えてきた。それは、ちょうど、ネブカデネザルによる捕囚の時のイスラエルの状態のようではないか、と考えた。彼らも同じような問いを持ったと言えよう。異教社会の中にある小さく力のない敗北者からなるミュニティで、文化的にも、宗教的にも少数者であったし、異教社会の中に置かれたのである。しかしながら、彼らはイスラエルであったし、あり続けた。


    彼らは、敵対的な偉大な文化や社会システムというバビロンの中で、イスラエルという神を信じる小さなコミュニティが生き延びえたのだろうか。エレミアはそれについて語ったし、いまだにそれが尚イスラエルとして受け継がれ語られているのではないか。

     

    エレミヤ書の引用からのポイント
    エレミヤ書の引用部分のポイントを見てみたい。神は我々を求めておられ、それは何よりも、人間がどのような状況に直面していようと、神の主権の中にあることである(1−4節 参照)。事実関係を考えてみると、ネブカデネザルはイエルサレムを攻撃を攻撃し、人々をバビロン捕囚し、イェルサレムを破壊、その結果として、病気や苦しみ、死があった。これは歴史的事実である。


    ところで、誰が、このような捕囚の責任者は誰だろうか?1節と4節はある種のコントラストを示している。第1節では、ネブカデネザルが捕囚をはじめたとされている。しかし、第4節では、神がイスラエルの民をバビロンにひかせていったとなっている。こうなると、イスラエルを捕囚の民とならせたのは、神なのだろうか、あるいは、ネブカデネザルなのだろうか。


    答えは両方である。これは、見方の次元あるいは視点の違いの問題である。その違いとは、人間のレベルで見るか、神のレベルで見るか、によるともいえるだろう。今、もし映画やテレビがあれば、ネブカデネザルの軍勢がイェルサレムに攻め込み、虐殺し、捕囚されていく様を放映したであろう。そんな状況であった。

     

    しかし、エレミヤは預言者であり、ネブガデネザルによる武力行使、実力行使を神の視点で見たといえるのではないか。イェルサレムは破壊され尽くしてしまい、イスラエルは敗北したとはいうものの、しかし、神は変わらず、その主権を持って神の王座にいまし給われたのである。その意味で、神がイスラエルをバビロンに導かれたといえるのだろう。この捕囚にも神の目的があったといえよう。


    エレミヤが捕囚で、偉大なる大民族の中で少数者として生きるというこの状況を非常にフレッシュな方法で表現していると言えよう。イスラエル人には、状況は希望のないものに見えたであったろうし、現実的にも絶望的だったろうし、エレミヤの手紙は、現状から見れば、逆方向に進んでいるような雰囲気に見えたことだろう。


    このエレミヤの手紙はエルサレムからバビロンへ送られたものであろう。ちょうどビデオの逆再生ボタンのような印象を与えるような手紙であった。バベルの塔からイエルサレムに向かっていく、というのが旧約聖書全体の流れと言えるだろうが、このエレミヤの手紙が書かれた時代は、イエルサレムからバベルに向かっていくような状況の中であった。このような状況下、すなわちバビロン捕囚の中で、ヤーヴェの神の存在を見るのは困難で、神が何をしているのか見出すのは現実的には極めて困難であったであろう。今このバビロン捕囚時代に神が何をしておられたのかを現代から見ることはできるが、現場にいる人はこのような見方は当然理解できなかったろう。

     

    共産化中国とキリスト教
    1950年のころ私が、4歳のことを覚えている。中国において、共産党が宣教師達を国外に次々と追いだしはじめた。そのときのショックを未だに覚えていて、大人たちが中国で何が起きているのだろうか、これからどうなるのだろうかと大人たちが心配していたことを覚えている。世界で最大の国で、世界中で最大の宣教師数がいた国で何が起きているのだろうか、残されたキリスト者たちはどうなるのだろうか、神が何をしておられるのだろうか、と当時大人たちが心配していた。たしかに、その時期の中国本土でのキリスト教徒は少数派で、弱い存在であったということを思ったかもしれないが、60年たってみると、中国の教会で毎週日曜日に礼拝している人々がいる。それは、神がこの世界の中で、主権を握っておられ、今も尚、生きておられることが如実に示されるのではないだろうか。中国で1950年台に起きた迫害の現場で、今日の姿を思うのは困難であっただろう。


    これは、今もなお、中東で起きていることであろう。現在、シリアで大きな困難が起きている。2000年間存続したキリスト教共同体が崩壊しかけていて、シリアからキリスト教共同体が追い出されようとしている。レバノンのアラブ人のクリスチャンに聞いたはなしでは、シリアからイスラム教徒が流れてきており、そのイスラム教徒の人々をレバノンのクリスチャンたちは受け入れ、ケアしている。そして、イスラム教徒として到着したシリア人の人々のうち、多くの人がイエスを信じている。とは言え、悲惨があり、イエスを信じている人がいるから、といって、現状は非常に良い状況であるとは言えないだろう。

     

    歴史において主権を持っておられる神
    人間の悪のはびこるこの世界のただなかにおいて、神は主権を持って立っているということは変わらない。日本において考慮しないといけないことは、日本のキリスト教は、非常に弱々しく、困難に直面しているこの状況の中で、更に、その社会に置かれたキリスト教会の中で、神が何をなしておられるのかに目が開かれていく必要があるだろう。社会的文化的人間的事実として世界をみるのではなくて、神のプランがどのようなものであるのかについて、見ていく必要があるだろう。


    なぜ、神は日本に教会におかれているのだろうか。16世紀に、なぜ、宣教師たちは、福音を携えてきたのだろうか。日本社会の中でキリスト教徒の比率が、1%にとどまっていても、何故、教会がこの国にあるのだろうか、と考えてみることは必要だろう。この国において、神の御手はどのように働いておられるのだろうか、最近の歴史の中で、痛みの中で、例えば、神戸の地震の中で、2011年の東日本大震災の中で、どのように働いておられるのだろうか、ということを考えてみたい。そのような中での教会は、まさにエルサレムの破壊と捕囚のような状態であったといえるであろう。そのような悲惨の中で、どのように神の主権があるのかということを考える必要がある。教会が神の働きをその悲惨のただなかで見ているのではないだろうか。それがエレミヤが示している第1のレッスンと言えるだろう。ある面、我々を励まし、我々の目を開き、宇宙の王座におられる神の御姿と力と主権を見させておられるのかもしれない。

     

    神の宣教と自己の環境のために祈ること
    神の宣教という視点から、自己の置かれた環境と自己の国と世界を見ることは極めて大事である。7節「わたしがあなたがたを捕え移させたところの町の平安を求め、そのために主に祈るがよい。その町が平安であれば、あなたがたも平安を得るからである。を見て頂きたい。これは驚きを禁じえない箇所である。捕囚の時にこんなその町にとどまり、自分たちを支配するものへの平安を祈るということは誰も語りたくないだろろう。捕囚のときのイスラエルの人々は悲惨な敗者であり、捕虜状態にあったにも関わらず、主である私がひいて言った街の繁栄を主に祈れ、という命令は考えがたい。この、敵の繫栄のために祈れ、という部分に関しては、聖書の文言をバビロニアの人が書き換えたのであろう、と思うかもしれない。


    詩篇には、エルサレムの平和のために祈れ、それが祈るべきことであるとされているのにも関わらず、このエレミヤ書の中では、バビロンのために祈れ、とエレミアは預言していっている。

     

    詩篇137は、 バビロンの川辺で書かれた詩篇とされている。

    口語訳聖書 詩篇
     137:1 われらは/バビロンの川のほとりにすわり、シオンを思い出して涙を流した。
     137:2 われらはその中のやなぎにわれらの琴をかけた。
     137:3 われらをとりこにした者が、われらに歌を求めたからである。われらを苦しめる者が楽しみにしようと、「われらにシオンの歌を一つうたえ」と言った。
     137:4 われらは外国にあって、どうして主の歌をうたえようか。
     137:5 エルサレムよ、もしわたしがあなたを忘れるならば、わが右の手を衰えさせてください。
     137:6 もしわたしがあなたを思い出さないならば、もしわたしがエルサレムを

        わが最高の喜びとしないならば、わが舌をあごにつかせてください。
     137:7 主よ、エドムの人々がエルサレムの日に、「これを破壊せよ、これを破壊せよ、その基までも破壊せよ」と

        言ったことを覚えてください。
     137:8 破壊者であるバビロンの娘よ、あなたがわれらにしたことを、あなたに仕返しする人はさいわいである。
     137:9 あなたのみどりごを取って

        岩になげうつ者はさいわいである。

     

     

    By the rivers of Babylon, painting by Gebhard Fugel, circa 1920 Wikipediaから

     

    自己を圧迫するもののために祈ること
    こちらの詩篇137篇のほうが普通に思えるだろう。しかし、それなのになぜバビロンのために祈るのだろうか。本来、神がバビロンへの反撃をなさるようにと、祈るのが普通だと思うであろう。それなのに、バビロンの繁栄、シャロームのために祈れ、と神はエレミヤを通じて預言され、神殿とイェルサレムの街を破壊したバビロンのために神は祈れといっておられるのだ。


    さらに、新約聖書の中で、イエスは、敵を愛せ、といっておられる。それは、神がアブラハムに与えたもうた祝福とその祝福のうちに示されたミッションを思い出せ、とおっしゃっておられるのではないか。つまり、神がアブラハムに対し、アブラハムによって地上の諸国民は祝福されるという約束をもたらされた。この地上の諸国民の中から、あなたの敵を取り除いて、そのうえであなたを祝福するとは言われなかったのではないだろうか。究極的にエレミアは、神の裁きの中にあることは知っていたが、バビロンに神の民がいるときには、神の民として生きなければならない、と預言したのである。それ故、彼らの的であるバビロンために祈らなければならないし、その敵のために祈ることが神の民に課せられたことであったのである。

     

    世界を祝福するアブラハムの子孫
    アブラハムへの約束は、神の民を通して、世界中に祝福を与えられるということであった。エレミアが語ったことは、ローマ書でパウロが語ったことと等しいだろう。パウロは高い地位の人々のために祈れといっているが、それは、キリスト教的な政府のことではない。あの当時は、キリスト教を圧迫していた異教徒の敵対していた人々のために祈れ、といっているのである。クリスチャンはローマ皇帝のために祈れ、といっている。さらに、ガラテヤ書の中で、よいわざをせよ、ともいっている。特に信仰の家族に対して良き業を励めと行っている。その意味で、教会の中で、互いの必要を満たす必要があるし、それ以上に世の人々に良きことをもたらしなさい、ともいっている。それは、どんな小さなコミュニティでも、それが実現できるだろう。

     

    たとえ、イスラエル人の信仰を基礎としたコミュニティが小さくても、それぞれ人々へのミッションがあったのである。バビロンにおいても、神のために祈ることができる。彼らを嘆き悲しむ捕囚の民から、神を指し示す宣教師に変えていったと言えよう。エレミヤ書29章は、ある面、神の民のミッションにかかわる内容であるとはいえる。

     

    世の中における教会の役割
    世における教会の役割とは何だろうか、と考えてみたい。これらについて、ケープタウンコミットメントは様々な視点から書いてある。福音を中心において、言葉による伝道と実際に善きことを世にもたらすことが両輪であることが示されている。ケープタウンコミットメントの28ページの1−7−Aを見てほしい。

     

    ここで、包括的宣教がふれられているが、以下の3つ宣教の領域があることを示している。


    1)教会をたてあげる(伝道と教育を通して教会を立てあげていく)こと
    2)愛とあわれみのわざを通して、社会に仕えること(エレミヤがいうように)
    3)被造物世界を正しく治めること

     

    1)教会をたてあげること

    1)教会を立てあげるに関しては、まさに、これが大宣教命令そのものであり、かなり、明らかな内容である。つまり、世界のすべての人を弟子とせよ、洗礼を授け、教えよといわれたのである。良き知らせを語りつつ、教会を立てあげ、そして信徒を教えはぐくむことにより成長させる事も大事であると言っておられるのではないだろうか。それがこの大宣教命令の根本的なところである。それは、キリストを信じたことの応答として起きるはずのことである。まず、この神から与えられたミッションを皆さんに果たしてほしいのである。特に信徒を育てることが大事である。救われることだけを目的とするのではなくて、育てるという側面に着目してほしい。そして、人々を助けることができるように、整えていくことが大事ではないだろうか。そして、その信徒を整えることができるように、指導者が整えられていく必要があるだろう。


    第1コリントのなかでパウロとアポロをとして表されている2つの役割がある。パウロが基礎を置き、アポロが整えていった。この二つの働きはじつは一つであるとも言っている。たしかにパウロは種をまいたが、アポロが整えていったとは言うものの成長させたのは神の働きであったことを示しているのではないだろうか。そのことに関して、今夜の講演では、神の宣教において、神学的教育の話をする(この講演は欠席しました)ので、よろしければお越しください。

     

    2)愛とあわれみのわざを通して、社会に仕えること
    愛とあわれみの御わざを通して世界に出ていくことが求められているのだ。単に言葉による宣教だけでは頭だけの信仰になるかも
    しれない。そして、知識として知るだけでなく、実践のことばとしてイエスは語っておられるのではないか。義に飢え渇くものは幸いである、また、神の国と義を求めよとイエスはおっしゃっておられるだろう。正義と憐れみと誠実さの大切さをイエスは言っておられるのである。

     

    愛とあわれみのわざを通して、社会に仕えることにかんしては、イエスは弟子たちに向けて、あなた方は世の光とおっしゃったのである。それは、どのような意味だろうか。

     

    その意味するところは、福音を語り、人々の頭の中に光が届くようにしなさい、とい割れたのだろうか。もちろん、それも含まれていたろう。しかし、人々が神の民の良きわざを通して、光り輝くようにせよ、とも言われたのではないだろうか。そして、人々の生き方が神の民の良き技を見ることで人々が変わるようにしなさいと言われたのではないだろうか。イザヤ書の58章が念頭にあったろう。

     

    【口語訳聖書】イザヤ書
     58:1 「大いに呼ばわって声を惜しむな。あなたの声をラッパのようにあげ、わが民にそのとがを告げ、ヤコブの家にその罪を告げ示せ。
     58:2 彼らは日々わたしを尋ね求め、義を行い、神のおきてを捨てない国民のように、わが道を知ることを喜ぶ。彼らは正しいさばきをわたしに求め、神に近づくことを喜ぶ。
     58:3 彼らは言う、『われわれが断食したのに、なぜ、ごらんにならないのか。われわれがおのれを苦しめたのに、なぜ、ごぞんじないのか』と。見よ、あなたがたの断食の日には、おのが楽しみを求め、その働き人をことごとくしえたげる。
     58:4 見よ、あなたがたの断食するのは、ただ争いと、いさかいのため、また悪のこぶしをもって人を打つためだ。きょう、あなたがたのなす断食は、その声を上に聞えさせるものではない。
     58:5 このようなものは、わたしの選ぶ断食であろうか。人がおのれを苦しめる日であろうか。そのこうべを葦のように伏せ、荒布と灰とをその下に敷くことであろうか。あなたは、これを断食ととなえ、主に受けいれられる日と、となえるであろうか。
     58:6 わたしが選ぶところの断食は、悪のなわをほどき、くびきのひもを解き、しえたげられる者を放ち去らせ、すべてのくびきを折るなどの事ではないか。
     58:7 また飢えた者に、あなたのパンを分け与え、さすらえる貧しい者を、あなたの家に入れ、裸の者を見て、これを着せ、自分の骨肉に身を隠さないなどの事ではないか。
     58:8 そうすれば、あなたの光が暁のようにあらわれ出て、あなたは、すみやかにいやされ、あなたの義はあなたの前に行き、主の栄光はあなたのしんがりとなる。
     58:9 また、あなたが呼ぶとき、主は答えられ、あなたが叫ぶとき、『わたしはここにおる』と言われる。もし、あなたの中からくびきを除き、指をさすこと、悪い事を語ることを除き、
     58:10 飢えた者にあなたのパンを施し、苦しむ者の願いを満ち足らせるならば、あなたの光は暗きに輝き、あなたのやみは真昼のようになる。
     58:11 主は常にあなたを導き、良き物をもってあなたの願いを満ち足らせ、あなたの骨を強くされる。あなたは潤った園のように、水の絶えない泉のようになる。
     58:12 あなたの子らは久しく荒れすたれたる所を興し、あなたは代々やぶれた基を立て、人はあなたを『破れを繕う者』と呼び、『市街を繕って住むべき所となす者』

       と呼ぶようになる。
     58:13 もし安息日にあなたの足をとどめ、わが聖日にあなたの楽しみをなさず、安息日を喜びの日と呼び、主の聖日を尊ぶべき日ととなえ、これを尊んで、おのが道を行わず、おのが楽しみを求めず、むなしい言葉を語らないならば、
     58:14 その時あなたは主によって喜びを得、わたしは、あなたに地の高い所を乗り通らせ、あなたの先祖ヤコブの嗣業をもって、あなたを養う」。これは主の口から語られたものである。

     

    ここに紹介したイザヤ書58章8節では、暁の様にさし出るようになる、といっているのではないか。光と正義についてのべているが、世の光とは、このような光である、と言うことを預言されたのではないだろうか。


    イエスは、福音の故にイエスの御名で出ていくように、といわれたのである。ルカの書いたもの(ルカの福音書や使徒行伝)の中を見ていくと、人々は良き技が行われるのを見て、教会に集まり始めたことが記載されている。使徒行伝の11章をみると、飢餓の状況の中で伝道が行われたことが描かれているのを見ることができるだろう。そして、パウロはイェルサレムの教会から異邦人教会に贈り物をもたらすために行ったのではないだろうか。


    ガラテヤ2章10節では、貧しい人々をケアしようとしてたことが読み取れる。ガラテヤ書の2章において宣教と良き働きの両方ともに実施したといっている。1974年のローザンヌ宣言以来、宣教と良き働きの統合をしていくことを考えてきたといえるだろう。イエスを中心として、その両者を統合しようとしてきたといえるのではないだろうか。


    こう考える時に、私たちの国においてできることは相当数あるのではないだろうか。宣教は、宣教師だけのものでなく、イエスに属するすべてのものが実施できることである。それは、仕事場、農業、教育、医療、近所、放送の分野であれ、政治、経済の場であれ、福音と共に生きる。福音を生きる事が重要なのではないか。その意味で、キリスト者の性質をもって、世界に出ていくことが求められていると言えよう。生きている神の善き性質を持って世界の中に出ていく。なぜならば、キリスト者は、イエスを主であり神であると告白するものであるからである。教会の中での伝道と信徒を整える教育をもって、教会が社会に仕えることが求められるのではないか。

     

    3)被造物世界を正しく治めること
    大宣教命令において、主が被造物に関する主権を持っていることが指摘されている。被造物すべて、というものの言い方は、ヘブライ聖書駅なものの言い方である。その意味で、主はこの世界全体の地主のような方であり、我々は店子のような存在であると考えるのが良いのかもしれない。それ故、店子としての借りているものを善意無過失のものとして、問題が起きないように良い状態を保つようにする管理責任があるのではないか。良いケアをする責任があると言えるだろう。例えば、誰かを愛するなら、その愛する人のものは大事にするだろう。あるいは、友達のものを大事にしないと、友情はこわれてしまうだろう。


    イエス・キリストの十字架は和解のためであり、最終的に神とすべての被造物が贖われることが重要ではないか。ここで、ケープタウンコミットメントの1−7−Aを読んでみよう。


    日本のクリスチャン世界で、この両者にどのようにかかわわっていくかをぜひ考えてほしい。人類による破壊によって、非常に傷ついているこの世界は、もともと神のものであり、福音を聞いたことがない人々、また、様々な問題で傷ついた人々に神の福音、神が回復させようとされておられることを神は届けたいと願っておられるのではないか。福音と関わる世界は、非常に広い範囲Scopeを持っているのである。その意味で、神の主権という視点(光)において、自分の置かれている世界を見ていくべきではないか。

     

    死に絶えたかのようなイスラエル人を用い給うた神
    聖書テキストを見ると、当時のイスラエルの民は、捕囚で終わった、もう終わり、死んだも同然だと思ったであろう。イスラエルの民は、神の裁きのゆえにこれが起きたと思ったことであろう。エゼキエルは失望した状態にあったことを、渇いた骨の様に死んでいたと書いたのであり、もう墓の中状態であり、骨がばらばらの状態になっていると思っていたことを表現している。しかし、神は、彼らの目を開き神のみすがたを見せ、神の主権があることを示されたのである。たしかに、バビロンの時は来ていた。しかし、イスラエルは開放されることもしめされている。そして、イスラエル人には将来があることを示し、現在捕囚の民であり、虐げられた被害者の立場であるものが、ビジョンを持った生き方に転換できうることが示されているのである。


    11節において、あなた方についての計画を良く知っていると書かれている。神が繁栄させる約束、希望、将来に関する約束が描かれている。この聖書箇所は、好きな人が大変多いし、最も知られた聖書箇所であり、多くの人から愛された聖書箇所であるだろう。神の素晴らしい約束ではあるが、この言葉が描かれたコンテキストを皆さん方はお考えになったことはあるだろうか。

     

    長期間で取り組まれる神と近視眼的な我ら
    これらの言葉は、神の裁きの中にあった、捕囚の中にあった人々へのことばであり、奴隷状態にあった人々への言葉である。たしかに、非常に気分を良くさせるための言葉ではないのである。この言葉は、クイックフィックス(短期的な弥縫策)があると約束する言葉ではない。神が回復させるまでには、70年かかり、2世代以上回復までにはかかると神はおっしゃっているのである。長い時間をかけ、イスラエルの民の回復についてのヴィジョンをもっておられる神である。たとえ、長い時間がかかっても神は忘れることのない神であり、将来への希望を与えられる神である。エレミヤ書の時代の人々は神がなされた回復の御業を見なかった。しかし、子供、孫、ひ孫へとこの希望は、つながったいたのである。イスラエル人は、彼らの民の将来の希望を持って語ったのである。この回復と同じような回復が、世界中のすべての人にイスラエルを通して起きるのである。神は、アブラハムへの約束を決して忘れてはおられない。イスラエルの捕囚ということを通して、イスラエルに回復を与えようとされたのである。更には、アブラハムの末であるナザレのイエスを究極的に傷つけることで、神の民を回復させようとされたのであり、それをどう信じるかがこの世界にとって問われていくことになったのである。


    しなければならなかったことは、エレミヤ書の29章12-13節の部分である。

     29:12 その時、あなたがたはわたしに呼ばわり、来て、わたしに祈る。わたしはあなたがたの祈を聞く。
     29:13 あなたがたはわたしを尋ね求めて、わたしに会う。もしあなたがたが一心にわたしを尋ね求めるならば、
     29:14 わたしはあなたがたに会うと主は言われる。わたしはあなたがたの繁栄を回復し、あなたがたを万国から、すべてわたしがあなたがたを追いやった所から集め、かつ、わたしがあなたがたを捕われ離れさせたそのもとの所に、あなたがたを導き帰ろうと主は言われる。

     

    この部分にあるように、神を呼び求めることを神はイスラエルに求めた。悔い改め、神のもとに戻ること、神の民族、神の民になることを神はイスラエルに望まれたのである。すなわち、モーセ5書にある、心を尽くして、力を尽くして、魂を尽くして、思いを尽くして神を求めることをのぞまれたし、そうすれば、神を見出すだろうと約束されているのである。


    このエレミヤの手紙が読まれるのを聞いた人はダニエルで少年だったころの時代に人々であろう。ダニエル書9章でエレミヤの手紙が読まれる記述があるが、そのころ、ここでいう70年が終わろうとしていた。バビロンが裁きを受けるということが起きようとしたときである。しかし、そのバビロンで、ダニエルたちは何をしたのだろうか。彼はひざまずいて、神のもとに戻って祈ったのである。


    いま我々が何をしないといけないのだろうか、それは、伝道の方法論や資源を考えるよりも、神への従順を考えることではないだろうか。そして、神の主権に対する思いを明らかにすることを考えてほしい。神のミッションにかかわっていく事、すなわち神の計画へのコミットメントをしてほしい。将来、神がその御名のゆえに、神が崇められるようにしてほしいと思う。


    感想

    時々思うことであるのだが、我々はあまりにマイオピックな(近視眼的な)物の見方をしながら生きているのだなぁ、とこのご講演を聞きながらも、改めて思った。100年とか200年単位や大きなスケールで物事を考えず、目に見える範囲のこと、この1年とか、この3年とか、といった感じでしかものを見ていないなぁ、と思った。そして、ミーちゃんはーちゃんが神への信頼の薄いものであることを思い起こされた。


    Most merciful God,

    we confess that we have sinned against you in thought, word, and deed,

    by what we have done, and by what we have left undone.

    そして、いまミーちゃんはーちゃんはアングリカン・コミュニオンに行くことが多くなり始めて、少しづつ変わり始めているけれども、結局かなり長い間、頭派のキリスト教、言葉で語ってなんぼ、言葉で”福音”と日本語で言われるところの内容を語ることだけがキリスト教、という概念のことだけをやっていたことに思い至った。


    この中で、どう地に平和をもたらし、囚われ人に開放を告げ、悲しむものに喜びをもたらし、神とともに生きていき、神とともに変容していく福音を生きることをどのようにもたらしていくのか、そして、山上の説教の中で、

    【口語訳聖書】マタイによる福音書
     5:3 「こころの貧しい人たちは、さいわいである、天国は彼らのものである。
     5:4 悲しんでいる人たちは、さいわいである、彼らは慰められるであろう。
     5:5 柔和な人たちは、さいわいである、彼らは地を受けつぐであろう。
     5:6 義に飢えかわいている人たちは、さいわいである、彼らは飽き足りるようになるであろう。
     5:7 あわれみ深い人たちは、さいわいである、彼らはあわれみを受けるであろう。
     5:8 心の清い人たちは、さいわいである、彼らは神を見るであろう。
     5:9 平和をつくり出す人たちは、さいわいである、彼らは神の子と呼ばれるであろう。
     5:10 義のために迫害されてきた人たちは、さいわいである、天国は彼らのものである。
     5:11 わたしのために人々があなたがたをののしり、また迫害し、あなたがたに対し偽って様々の悪口を言う時には、あなたがたは、さいわいである。

    ということを今一度考えさせられた。

     

    あと、このあとのコイノニアでミーちゃんはーちゃんが喋ったことを思い出してみながら書いてみると以下のようなものになろう。

    おそらくであるが、教会は、必要以上に教会に来た人を抱え込みすぎる傾向があるのではないか、ということを思う。とりあえず、困っている人がいると、(福音を語る対象として、という下心付きで)何でもかんでも際限なく抱え込みたがる傾向があるような気がするので、適当な境界線を設定しておくことが重要かもしれない。さらに、全部教会が抱えられないからと言って自分たちに対して失望する必要はないと思う。困っておられる方に対して、その他の方法、他の団体、行政を含む他の組織を指し示してあげられるポインターの役割、ソーシャル・キャピタル論で言う、ブリッジングの働きを果たすことも重要だと思う。

     

    また、教会はどちらかと言うと、一発逆転ホームランのようになんでも全部、完璧に片付けることを狙いすぎ、あまりに完璧を目指す傾向があるように思う。当たれば、非常に効果的であるが、当たらないと結局は失望してやる気が失せてしまうし、うまく行かなかったりして失望すると、全くやる気がなくなってしまう傾向があるように思う。多分、それが人情というものなのだが。それよりも、バントでいいから、小さい成功例をたくさん積み重ねていって、積み重ねていく方法論もあるのではないかなぁ、と思う。それは、ある面、期待値を小さくし、それでもそこそこの成功の満足感(これ、案外大事)を関与者が持てるようにすることが大事だと思う。その満足感がないと、継続的な運営のためには必要不可欠なのではないか、と思う。

     

    ところで、クリストファー・ライトさんの今回のこの話を聞きながら、以下の聖餐のときの祈祷文を思い出していた。

     

    Blessed are you,
    God of those who hunger and thirst,
    for you give us our food in due season.
    You nourish us with your word,
    which is the bread of life.
    You strengthen us with your Spirit,
    the new wine of your Kingdom.
    In Christ you are food for the hungry,
    refreshment for the weary.
    Blessed are you, our Creator and Redeemer.
    Blessed be God for ever.

     

    次回最終回に続く

     

     

     

     

     

     

    評価:
    ---
    いのちのことば社
    ¥ 972
    (2012-04-05)
    コメント:ぜひ、お買い求めを

    評価:
    フィリップ・ヤンシー
    いのちのことば社
    ¥ 2,592
    (2015-11-05)
    コメント:キリスト者として、神の義を地に具体的にもたらすことを考えさせる本。蓋し名著

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