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2016.10.08 Saturday

第6回日本伝道会議 クリストファー・ライト 第1回 講演会参加記録

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    日本伝道会議の第6回日本伝道会議の第1日目に行われた、クリストファー・ライトという方の講演会の第1回目の個人的な速記録からの内容を掲載してみたい。かなり真面目に記録を取得する努力をしたので、要約としてはそれほど外れていないと思われるが・・・。書き込みすぎの部分もあるかもしれません。それはミーちゃんはーちゃんがわるい、ってことで、ご容赦をば、ということで。以下速記録からの復元。

     

    ReVisionをどう考えるか

     今回は、神のことばと神のミッションについて考えてみたい。今回のテーマは、Re-Visionということだが、これは、神によって、私の目を開いてほしい(ミハ氏註 この見るということとVision、あるいはRe Vision 再度見直すという言葉が掛詞になっている)ということとも関係が深い概念である。従来の枠組みとは、変わった仕方で目を開いて、ものごとを見ないといけない。世界は従来のものから、すでに変わっているし、教会も変わってきた。しかし、神はすべてを新たにされる方である(ミハ氏註 天の地にあるものすべて… これは神の主権性を表すヘブライ的なものの言い方)。何が変わったのか、どのような見方をしないといけないのかを神に求めていくべきではないだろうか。それは、ある意味で、信仰の目が開かれていくということでもある。

     

     

    Be Thou My Vision(あなたが私のVisionでありますように)

    ゲール語(古アイルランド語)バージョンのBe thou my vision

     

     

     

    信仰の目を持ってみる

     シリアに囲まれたエリシャのしもべが見たもの
    信仰の目によってみる事が大事だろう。神は心の内を見られる方だろう。我々は、ダビデがゴリアテに対面したときのように、そこに巨人を見るかもしれないが、神はそこにある勝利を見ておられたのではないだろうか。ミッションについて、気がついていることを見ていかないといけない。

     

    神は、我々に全貌を明らかにしていく。列王記第2の6章の中に、2つの目が開かれる経験が見られる。エリシャのしもべは神の臨在を見たのである。たしかに、丘が敵の軍隊で埋まっていたし、エリシャのしもべはそしてだめだと思った。人間からしてみれば、そこにいたのは、エリシャとしもべと敵の軍隊だけであった。

     

    【口語訳聖書】列王下
     6:14 王はそこに馬と戦車および大軍をつかわした。彼らは夜のうちに来て、その町を囲んだ。
     6:15 神の人の召使が朝早く起きて出て見ると、軍勢が馬と戦車をもって町を囲んでいたので、その若者はエリシャに言った、「ああ、わが主よ、わたしたちはどうしましょうか」。
     6:16 エリシャは言った、「恐れることはない。われわれと共にいる者は彼らと共にいる者よりも多いのだから」。
     6:17 そしてエリシャが祈って「主よ、どうぞ、彼の目を開いて見させてください」と言うと、主はその若者の目を開かれたので、彼が見ると、火の馬と火の戦車が山に満ちてエリシャのまわりにあった。
     6:18 スリヤびとがエリシャの所に下ってきた時、エリシャは主に祈って言った、「どうぞ、この人々の目をくらましてください」。するとエリシャの言葉のとおりに彼らの目をくらまされた。
     6:19 そこでエリシャは彼らに「これはその道ではない。これはその町でもない。わたしについてきなさい。わたしはあなたがたを、あなたがたの尋ねる人の所へ連れて行きましょう」と言って、彼らをサマリヤへ連れて行った。
     6:20 彼らがサマリヤにはいったとき、エリシャは言った、「主よ、この人々の目を開いて見させてください」。主は彼らの目を開かれたので、彼らが見ると、見よ、彼らはサマリヤのうちに来ていた。
     6:21 イスラエルの王は彼らを見て、エリシャに言った、「わが父よ、彼らを撃ち殺しましょうか。彼らを撃ち殺しましょうか」。
     6:22 エリシャは答えた、「撃ち殺してはならない。あなたはつるぎと弓をもって、捕虜にした者どもを撃ち殺すでしょうか。パンと水を彼らの前に供えて食い飲みさせ、その主君のもとへ行かせなさい」。
     6:23 そこで王は彼らのために盛んなふるまいを設けた。彼らが食い飲みを終ると彼らを去らせたので、その主君の所へ帰った。スリヤの略奪隊は再びイスラエルの地にこなかった。

     

    エリシャの弟子は自分でしっかりとその現実であるシリア兵団に囲まれていることに直面せずに逃げ出したかったが、実際には、神がエリシャとその弟子の目を開かれたとき、霊的現実(Spiritual Reality)として神は、エリシャとその弟子とに何かを見せた。神の軍勢がその場にいたということをエリシャのしもべは見たのである。そして、彼らは、神の軍勢を見ることを通して、目が開かれて、物事の見方が一度に変わったのである。

     

    エリシャのイコン(こっちのカラスの給食の話のほうがかなり有名)

     

    ヘブライ語聖書内での相似の事例

    この話は、ダビデがゴリアテに向かったときの出来事や、モーセとアロンの時の出来事・・・と重なっている。モーセがファラオ(パロ)の家に向かっていくとき、持ってたのは、羊飼いの杖であり、その杖一本持って、エジプト王のパロ、全世界の王という雰囲気のある人物と対面した。モーセが燃える柴のところで、神と出会ったとき、神はモーセにあなたと共にいる。そして、恐れるな、勝利は私のものだ、とおっしゃったのである。このような重層性が聖書にはある。そして、これらは、ある人の戦いというよりは、イスラエルの神の戦いである、という点で共通している。

     

    福音に対する信頼(神の福音への誠実さ)

    この神がともにおられるということは、我々が福音に対する信頼を持つ、ということへとつながっていく。パウロは福音は神の力である、といっている。神が働いていて、我々の罪からの開放(救済)を成し遂げたのである。なお、このことに関して、次回明日は福音理解の話をしたい(ミハ氏註 この回は途中で、PCが誤動作したので、メモはほとんど取れていない)。

     

    異教の兵士に対する神の大宴会

    さて、列王記第2の6章20節から23節を見てみると、敵は、神の民の憐れみと神の民による神のもてなしを見ることになった。これは、冗談みたいな話でしかない。エリシャを捕縛しに来たのに、捕縛することはできず、その結果、この軍勢は、サマリヤに連れていかれていって、結果としては、敵であるイスラエルのど真ん中にいることになった。この軍勢はおそらくこれから確実に殺されるだろうと思った。大虐殺を覚悟しただろう。しかし、そのような悲劇が実現することはなく、神は、殺してはならないと言われたのみなあらず、神はこのシリア人の人々が空腹だから食事をさせてやれ、そして、彼らシリア人を国に帰らせてやれとお命じになられたのであり、そして、異邦人の異教徒に対するイスラエルによる大祝宴のような食事の会が開かれたのである(ミハ氏註 これ、神による回復の現実世界で一つの表現だと思っている。そして、イエスの神の国は、食事と深いつながりにあるし、それは、聖餐にもつながっていると思う。また、詩篇23篇ともつながっている部分もあろう。口語訳聖書 詩篇23篇5 あなたはわたしの敵の前で、わたしの前に宴を設け、…を思い起こさせる。

     

    この出来事の前景としてのナアマン

    外国人が神の非常に大きな憐れみを神の民を通して実現したことを味わうことになる(ミハ氏註 当時の常識で言えば、大虐殺されるか、身代金を要求されるか、身代金が払えないならば、捕縛された兵について、戦利品としての身代金の請求を家族が負担できない場合、その請求金額を付与された奴隷として売り飛ばされるか、自分自身のその身代金相当額を労働の対価として支払うのが常識であった。以前、京都大学の近所の王将では、食事代を払うことのできない学生には、労働により食事代を支払うことができた、という都市伝説がある。王将に関する都市伝説の真偽の程は定かではない)。このようなもてなしを受けたシリア人たちは、この出来事、自分の直接的な経験を通して、イスラエル人とその神について考えたであろうし、考えざるを得なかったであろう。この話は、シリア人が改宗した、というような物語ではない。無理やり敵のスリヤ人(シリア人あるいはアラム人)を強制的に神の民にしたわけではない。似たような話は、同じ列王記下の5章でも起きている。つまり、ナアマンの話であり、シリアの軍団長であったナアマンは、自分の重篤な皮膚病が癒やされることで、イスラエルの神、この方こそ、神であるとナアマンは知った。ナアマンは偉大な人物であったが、神に立ち返るという謙虚さは持っていた人物であった。

     

    ヨルダン川で清められたナアマン


    この列王記の部分は意図的に並べられていると思う。異邦人であるシリア人ナアマンが重篤な皮膚病から開放され、ついで、シリア人の軍勢が戦争を仕掛けてきたのに神の民によって、かえって恵みともてなしを受けている。これらのことを通して、イスラエルとその神を見直した可能性がある。まさに、Revisionが異邦の民シリア人において起きているのである。このような話はヨナやルツの物語と共通の部分である。

     

    異邦人が神を礼拝するという

    ソロモンの神殿奉献の祈り

    これは神が忠実にアブラハムへの約束(あなたによってすべての国民が祝福される)を守っていることの一つの現われであるといえるだろう。すべての国民がアブラハムのその子孫によって祝福されるという約束があるが、これはもちろんイエスの十字架とその後の復活という福音によって与えられていく恵のことではある。しかし、旧約聖書はこのような数多くの類例がある。例えば、ソロモンが神殿を立てたときの祈りがこれにあたる。列王記 上 8章で記載されている祈りである。

     

    口語訳聖書 列王記上

     8:41 またあなたの民イスラエルの者でなく、あなたの名のために遠い国から来る異邦人が、
     8:42 ――それは彼らがあなたの大いなる名と、強い手と、伸べた腕とについて聞き及ぶからです、――もしきて、この宮に向かって祈るならば、
     8:43 あなたは、あなたのすみかである天で聞き、すべて異邦人があなたに呼び求めることをかなえさせてください。そうすれば、地のすべての民は、あなたの民イスラエルのように、あなたの名を知り、あなたを恐れ、またわたしが建てたこの宮があなたの名によって呼ばれることを知るにいたるでしょう。 


    ソロモンが異邦人による神の礼拝を願っている。エルサレムは当時の国際的都市の一つであり、多国籍社会であり、地中海世界から様々な人々が来ていたのであり、ある種の文化都市のようでもあったであろう。

     

    このソロモンは、外国人が望むものを与えていたし、ある麺当時の社会にとって見れば企業家的存在のようなものといっていいだろう。クライアントにこたえたいという点では、一種の企業家(アントレプレナー)としての側面がある。そして、彼らが神殿で、イスラエルの民が礼拝するのを見ることを通して、イスラエルの神殿とそこで礼拝する神の民を見ることを通して、この偉大な神とその神殿について家族に伝えるし、そして、イスラエルに来るだろう(ミハ氏註 当然のことながら、そこの禁制品などを狙いに来た軍隊が後に実際に出現し、完膚なきまでに略奪された)。その結果として、神の名が世の果てまで崇められることになるだろう。この列王記上8章に記載されている表現は、ある種、宣教的な祈りに近いとも考えられるだろう。

     

    他の異教の人々をどう見るか?

    私達が、他の人たちをどう見るか、どう理解するか、という視点は重要である。現代社会において、他国民、自分と違う文化にいる人々を、我々は敵と見るのだろうか。あるいは、他宗教とそこでの信仰をどう見るか、あるいは、無神論者をどう見るか、ということが重要になってくる。その意味で、イエスの主張は、敵対的な人でも愛せ、ではなかったであろうか。イエスも教会の中に居た人ではなかったし、教会外の人をも愛せ、といったのではないだろうか。

     

    教会外の人々からどう見られているのか?

    ところで、今、教会は、他からどう見られているだろうか。イギリスでは、ノンクリスチャンは、キリスト教に否定的な視線を見向けている。なぜ、人々は教会について否定的に見ているのだろうか。

     

    神の民として我々が何者で、現在、今この地で生きていることの理由を考えて見る必要があるだろう。ところで、イスラエルの民、神の民がすべきことは何であったかを、出エジプト記19章のシナイ山の記事から考えてみたい。イスラエルの民は、エジプトから導き出され、シナイ山で十戒が与えられる前のところである。

    【口語訳聖書】出エジプト記
     19:3 さて、モーセが神のもとに登ると、主は山から彼を呼んで言われた、「このように、ヤコブの家に言い、イスラエルの人々に告げなさい、
     19:4 『あなたがたは、わたしがエジプトびとにした事と、あなたがたを鷲の翼に載せてわたしの所にこさせたことを見た。
     19:5 それで、もしあなたがたが、まことにわたしの声に聞き従い、わたしの契約を守るならば、あなたがたはすべての民にまさって、わたしの宝となるであろう。全地はわたしの所有だからである。
     19:6 あなたがたはわたしに対して祭司の国となり、また聖なる民となるであろう』。これがあなたのイスラエルの人々に語るべき言葉である」。

     

    出エジプトを経験したイスラエル人たちは、イスラエルを神が贖ったこと、イスラエルの民に対して神がなしたことを、あなた方イスラエル人は見たこと、そして、それをイスラエル人たちは実地に、経験したことを、思い出させている。神は憐れみによって暗闇から光に、奴隷状態から自由人状態に、そして、死から永遠のいのちへと移すお方であることを思い出させているのである。

     

    先程のソロモンの祈りでもそうであるが、人々を神の前に戻す人が祭司であった事に触れつつ、他国民を神のもとに連れ戻すという役割があることをイスラエルの民に神は言っておられる。このことはペテロ第1の2章9節での、神が選ばれた聖なる祭司とつながっていくる。国々の民にあって神が存在することを、神の愛を指し示す(証する)存在として我々はこの世界に置かれている。それが我々のミッションのなかに含まれていると言えるだろう。

     

    神が神の民に望んでおられること

    イスラエルの神は、神の民が宗教的な民になってほしいと願っているわけではない。Holy、聖であれとは言うが、その中には、宗教的であれとは言うことではない。ただし、他の民とは異なる存在となる、といっておられるのだ。その意味で、Missionという言葉の中にはいかに生きるかも含まれる。ここで、同じようなことをペテロは言っていると言えるだろう。

     

    神の民は、語るべきこと、指し示すべきことが存在するのである。神を指し示すような良き働きに関与しようではないか。良い働きを通して、異邦の民が父なる神のことを崇めるようになることを望んでおられるのだ。出エジプト記のこの場所は、本来あなた方はこういう民であり、生き方への神の希望を語っているのではないか。神の民として、地に平和をもたらし、良きことをもたらし、異邦の略奪に来た兵士らに対して、豊かに与えたイスラエルの民と同じように生きることを望んでおられるのではないか。その意味で、我々は聖書全体の物語を多くの人々、異なる神を礼拝する人々にも語る必要があるだろう。その神の偉大さと豊かさと哀れみを。神の民に敵対している民にも、神の存在と神との関係を伝える必要があるのではないか。そして、イエスを通して、十字架の死と復活を通して異教の民との和解も実現したのではなかったか。

     

    神の民としてのRe-Creation(再創造)

    イエスにより和解が実現し、神の民として生きる様にさせられたのがキリスト者であろう。その意味で、神の再創造であり、つくりかえられたものであり、リクリエーション(Re-Creation)が実現したのだ。ちょうど、エリシャのしもべが目が開かれたように、我々もこのことに目を開かれるよう求めるべきであろう。仮に神との和解が成立し、再創造されたものであることを忘れてしまったら、聖書の本筋から外れてしまっていることになるし、我々が何者なのかを忘れることになろう。我々は神のために、神のミッションのために整えられていく存在なのだ。

     

     このご、ケープタウン宣言 p38が画面に表示され、読まれた。

     

    エリシャの弟子は、目が開かれて、神の存在と力を見た。

    また、そのとき、シリアの兵士たちは神の民の憐れみともてなしを見たのである。
    どうか、私たちの目が、神の王国が広がっていくことを、見ることができるように願おうではないか。
    そして、神が、神に敵対するものを見ておられる如く、我々も、神と同じように神に敵対する人々を見ることができるように願おうではないか。

    そして、自分自身を神が見ておられるように、見ることができるように願おうではないか。神の御思いが実現するために、神は、我々の実存を創造され、そして我々を呼び出されているのではないか。

     

    個人的な感想

    この話を聞きながら、時々唱えるAnglican Communionの祈祷文を思い出していた。将に、地に平和を、神の支配もたらすために関与していくことが、我々がこの地上に置かれていることなのだと改めて思った。まぁ、それは、クリストファー・ライトさんが、どうもAnglican Communionの人だから、なのかもしれない。
    V. Show us your mercy, O Lord;  
      (あなたのあわれみをわれらにお示しください)
    R. And grant us your salvation.  
      (あなたの和解を私たちにお与えください)
    V. Clothe your ministers with righteousness;
      (あなたから権威を授けられたものに、義をまとわせてください)
    R. Let your people sing with joy.  
      (神の民が喜びこもって歌うことができますように)
    V. Give peace, O Lord, in all the world;  
      (主よ、あなたの平和がすべての世界において実現しますように)
    R. For only in you can we live in safety. 
      (あなたの中にある時にのみ、我らは穏やかに過ごせます)

    とか

    V. Let not the needy, O Lord, be forgotten; 

      (主よ、必要のある人々が忘れ去られませんように)
    R. Nor the hope of the poor be taken away. 

      (あるいは、貧しい人々の希望が奪い去られませんように)
    V. Create in us clean hearts, O God;   

      (神よ、我らを聖い心のうちに立てあげてください) 
    R. And sustain us with your Holy Spirit   

      (あなたの聖なる霊により、我らをあなたのうちに保たれますように)

    という祈祷文の内容を思い出しながら、このライトさんが言っていることは上で紹介した祈祷文の内容と殆ど変わらないなぁ、と思ったのである。

     

    また、この話をお聞きしながら、Tim Kellerの『放蕩する神』”Prodigical God”とフィリップ・ヤンシーの『隠された恵み』を思い出し、しばらく頭のなかでぐるぐる回っていた感じがした。要するに、今回のクリストファー・ライトさんの講演は、神が我らに対しても鷹揚なお方ばかりではなく、敵に対しても鷹揚なお方であり、豊かに半端なくその愛と恵みを放蕩しつつ対応されたのにもかかわらず、現在の神の民は、本来、その神の愛とめぐみという神の支配を指し示すべき存在であるべきなのに、それを逆に隠してしまっているのではないか、それでいいのか、ということを問われた気がする。

     

    それを思うとき、自分たちの仲間であるか、否かで考えるのではなく、神がすべての民を愛し給い、それぞれの存在を大事なものとして創造されているものの、神の民を含む全ての民が最終的な形に、作り変えられうる、来るべき後の神の支配の中において、再創造ないし、新創造のうちに置かれるものとされうる(ミハ氏註 なんのなんの、何でもかんでも救済されると言ってはいないことに読者は注意されたい)、ということを覚えることの大切さを思ったのである。神は、細かいことをうじうじ言う風紀委員のような方ではないのだなぁ、と思った次第である。

     

     

    ライトさんの講演の第2回は、神の福音について、であるはずだが、そこはメモが殆ど無いので、飛ばします。したがって次回公開の記事は第3回である。うーん、面白いことが多すぎて、N.T.ライトの『新約聖書と神の民』の連載が進まない。悲しい。

     

     

     

     

     

     


     

    評価:
    ティモシー ケラー
    いのちのことば社
    ¥ 1,404
    (2011-01)
    コメント:めっちゃいい。おすすめ

    評価:
    フィリップ・ヤンシー
    いのちのことば社
    ¥ 2,592
    (2015-11-05)
    コメント:米国の事例付きで、今回のクリストファー・ライトさんの講演の主張を再検討するために有効であろう。蓋し名著。

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