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2016.10.01 Saturday

日本伝道会議 第6回 プロジェクト 聖書信仰の成熟を求めて(オープン神論と物語)

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    本来は、ソーシャル・キャピタルとしての教会を考えるために、日本社会と宣教:地域に開かれた教会に向けて というプロジェクト番号2番に出る予定だったのだけど、大頭さんから、強制徴募で、ミーちゃんはーちゃんはプロジェクト1 聖書信仰と物語神学&オープン神論というグループに急きょ参加することになったのでした。

     

    何をオープン神論と物語神学のグループでやったか

    このグループでは、聖書信仰の成熟を求めて、ということで大きなグループだったので、それを8つのサブグループに分け、その中で、サブグループのサブグループに分かれるということだったらしいのだが、M浦のみっちゃん先輩と小嶋先生とでしゃべっていて、入室がギリギリになり、とりあえずテキトーなところに座って、資料をもらってなかったので、資料をもらって、とりあえず、いろんな人がいる中で、なんとなく始まっていった。で、どこ座ったらいいのか、聞いたら、その辺適当に座っておいて、といわれて座ったら、このJCE6に来ておられた昔居たキリスト者グループ(現在、教会的には、荒野で40年の旅行の途中で2年目w)でのお知り合いとお隣同士になりまして…お久しぶりで…とかいう話をしておりました。

     

    チームリーダの突然の変更、そして

    オープン神論と、物語神学の簡単な導入

    本当はS野さんのチームだと思ったら、大Z先輩が直前に担当することになったらしい。大Z先輩が、S野先生のお書きになられた、物語神学とオープン神論のレジュメをもとに、その要点を手短に分かりやすく説明しようとしておられ、ある程度行くたびに、ミーちゃんはーちゃんに確認を入れる始末。要するに、なにを大Z先輩が言いたかったかというと、神の三位一体の様に関係性が大事で、神と我々は(祈りを通して、聖書を通して)対話をしながら、ダイナミックな関係性の中で我々は生きている。

     

    そして、その中で神はそもそもの予定があり、すべてのことをご存じなんだけれども、人間が神から離れていくので、人間を愛するがゆえにその人間が離れていくことを取り戻すために、”はみ出していく”神であって、全知全能だから、コンピュータ・プログラムのように、この段階でこれをして、このことが動き始めたら、このように動くように人間世界を動くような計画をお持ちだとは言えないかもしれない。もっとダイナミックで、関係の中である方向に向かうようにされる神だ、そして、リレーショナルな神との関係を重視するのだ、ということを熱心にお語りだった。

    しかし、大Z先輩ワールドに慣れている人ならいいのだけど、”はみ出していく”ではわからんなぁ(急遽頼まれたらしいのでしょうがないが)、と思ったので、”人間の人生に突然出てきて、関係を持つように人の人生やイスラエルの歴史に貫入される神がおられる”ことや、それはフランスのユダヤ人哲学者レヴィナスいうの他者性を以て、神が関与されることを大Z先輩は言っておられるのだ、と説明をした。

     

    ついでに、西洋型近代の中で、ある種のこれが正で、これが間違いみたいな概念が生まれ、その中で、永遠の真理性、普遍性を持つ真理性が生まれ、それを証拠聖句をもとに組み上げていくタイプの神学が形成され、それが組織神学に大きな影響を与え、そういう理解がある面近代社会の中で幅を利かせてきたし、近代社会の中で教会の中で合理性を強調した聖書理解が幅を利かせてきたところがあるが、ポストモダン時代を迎え、それでは不十分な部分が出てきた中で、本来的に神の予定、神の全能性の中での人間のかかわりということを考えることが、重要になる中で、オープン神論が出てきた、とポイントを紹介された。

     

    中Z御大登場

    補足として、中Z先輩(というよりかは御大)から、ナラティブ、ストーリー、作り話などが同じ物語として議論されやすいので、誤解による混乱が生じかねないが、米国では、これらの議論は1990年代末から21世紀初頭には、その議論は収束していること、さらに、基本的に旧約聖書の時代人や新約時代人については、物語、一連の出来事のシークエンスにおいて、神がどう関与され、どのように当時の人人が受け止め、神が人々と共に生きたことを示す方法論としては、物語しかなかったろうし、それゆえに、物語で語ることを神がなされたのではないか、ということを補足された。


    また、この話に大Z先輩が影響を受けたのは、神の物語というか、オープン神論で考える様になると信仰生活や伝道ということが極めて楽になることや、キリスト者ならみこころを当然ということではあるが、それが行き過ぎると、御心を求めるあまり、御心教のようになってみたり、あるいは御心を求めた結果さばき合ったりすることからの開放された。あるいは伝道がうまくいかないということ等に関しても、神と人との関係に基準を置き、ダイナミックな神の働きを考えれば、それほどしんどくなくなる。もし、我々が間違いをしたとしても、我々が完璧でなくても、神に立ち戻ればよいし、それを神が求めておられることがわかるようになる。ちょうど放蕩息子が父のもとに戻っていったときのようにというところが大事だと思っている。

     

    おまけで混乱させました

    近代を作り出す中で、宗教改革とその中で研ぎ澄まされていった理性による神理解は大きな役割を果たしたし、それは、近代を作り出していくうえで大きな役割を果たしたし、スコットランド常識哲学の成立などにもこの理性的な聖書理解のアプローチは非常に大きな影響を与え、またそれが、このスコットランドでの聖書理解の精緻化に影響を与えている可能性があるということをミーちゃんはーちゃんが口を滑らせたので、混乱した当たりのところで、サブサブグループ(聖書信仰と物語神学&オープン神論というサブグループのサブグループ)に分かれて40分くらいの議論を行った。哲学の歴史を考えるうえでは、この話は結構大事。

     

    ミハ氏のサブサブグループでの話題

    このサブサブグループの中では、改革派系の聖書理解に立つ人もおられて、その方から、物語というのがわからない、ナラティブとかストーリーとかがわからない、といわれたので、ナラティブは、人間視点での一人称語りの傾向が強く、ストーリーというと、物事の並びの中で、特にヘブライ語聖書の中に現われるイスラエルの歴史の中に貫入してくる神の存在として語られるものだ、モーセがどのように、出エジプト記を書いたのかは明らかではないが、その中で、自分が経験したナラティブとして、出エジプト記のあらの物語や、燃える柴事件のことを本来は語ったものが編纂されている中で、現代に伝えられるヘブライ語聖書のかたちになるのではないか、と思うというお話をした。

     

    そして、この話は、霊性の問題と深くかかわっていて、聖書を通しての神の語り掛けや祈りの中で、神と向かい合う中で神と出あっていく、ないし神の御思いを探り求めていくことと関係していることや、改革派の伝統にある人間の艦善悪の問題、絶対的な神からの離れている完全な罪による神との完全な断絶を言うことと完全な神の救済ということがあるのだが、それとどうかかわるのか、という問題に話が行き、物語的な聖書理解では、旧約世紀の創世記の初めから、神との断絶が始まり、完全な救済としてイエスの十字架の死、そして復活がクライマックスとしてあり、そして、それ以降、神が人とともにおられる和解がなされ、そして、将来の終末における完全な回復に向かっていくという理解であるなどというお話が出て、それが福音の再発見で、マクナイトが言っていることなのだが・・・あるいは、NTライトが言っていることとも関連があるのだけど、とちょっとステマをしてしまった。

     

    それと、正教会系の伝統では、人間は完全に壊れているわけでない、回復可能な”神のかたち”であり、一部欠けのある”神のかたち”であるので、完全に打ち捨てられているわけではなく、神ご自身がその欠けのある”神のかたち”を回復させるよう,我が子よ戻ってこよと、おっしゃっておられるところなど、正教会の伝統(東方教会の伝統)との関係性もあるし、その意味で神のかたちをどう感がるか、ということや、三位一体論と神のダイナミズムやシネルギアをどう考えるか、そして、その中に招き入れられようとしている人間などという側面も重要である、というお話をした。

     

    また、ナラティブとストーリーが混乱している、というお話もあって、混乱してしまって、理解がしにくいという話があったので、

    ナラティブは、基本、一人称語りで、個人の視点から語られたものであり、聖書の中で言うと、詩篇とか、ヨブ記とか、出エジプト記は、もともとは、モーセの一人称語りであるナラティブが基礎になっている可能性があるが、そののちの編纂過程で整えられていったことであるし、現代では、祈りとか証とかが、ナラティブであるといえるのではないか。反対に、ストーリー:かなり長い時間軸やかなり広い空間領域で起きた出来事のシーケンスとその中での神の関与を示すことができるであろう。また、ヨナ書は一種のストーリではあるけれども、その中では、神のナラティブもあるし、ヨナのナラティブもある。また、歴代誌、列王記はどちらか東夷とストーリーではある(ただし、ナラティブも一応含まれる)。

     

    祈りを考えるとそれは神との対話だし、リレーションだし、神をどう置くか、と考えることが重要ということになっているわけで、その意味でオープン神論と、改革派神学的な枠組みとは、必ずしも相矛盾するものではなく、相補的な物のような気がする。

     

    そんなこんなを対話していると、あっという間に終わってしまった。

     

    全体会議での話題

    全体分科会の話題神の立場と人の立場があって、物語神学になると、その神の立場としての主権性が危うくなるのではないか、ということが話題に出た感じであった。そして、その話を聞きながら、個人的に思ったこととして、神の神秘は完全に文字化できるのか、あるいは理性で完全に説明できるのか、ということを考えたほうがいいかもしれない。ただし、合理性をもとに神の神秘にどれだけ理性で接近できるのか、ということを考えてみることは大事だが、それで分かったことにはならないかもしれない。しかしながら、合理性で迫れる範囲についてその理解を書こうとしたカルヴァン派があり、それがウェストミンスター振興問答などにまとめられるのだろう。

     

    さらに、大事なこととして、神が50%人間が50%という形ではない。そこに着目するのではなくて、神と人が協力するというのではなくて、神の指示のもとに実現していくのだ、神の御思いがなっていくのだ、という点は変わらない。神のご計画に参与していくのだ、という世界観を持っている。

     

    なんかわかりにくい説明だったので、それをビビッドに説明するために、映画の登場人物をする役者としての一人ひとりのキリスト者を考えてほしい。個別の役者が何をやるのかは、個別の役者に任されており、映画の全体構想を考え、そして撮影者に指示し、そして一つの作品を統合的に取りまとめていく映画監督かプロデューサーのような神がおられ、すべての作品に関する責任を取る役割、まとめ上げていく役割を果たされる神がおられると考えると、なんとなくコンセプトわかってもらえるかもしれない、とご説明した(この辺はN.T.ライト先生のあるところで書かれている五幕劇のパクリ 今回Cライトさんは、それを6幕劇に講演の中で微妙に変更してたけど)。

     

    ミーちゃんはーちゃんが忘れてて、大Z先輩が触れたのは、監督が役者とが時々一緒にご飯を食べたりしたり、 この監督は、映画に出演しちゃう(ミーちゃんはーちゃん注 クリント・イースト監督・主演のグラン・トリノ みたい)。つまり貫入する。その極みが、 人となり十字架にかかられたキリスト、そして、我々への究極的な、クライマックスとしての関心と愛を示される、ということであった。

     

    女性の神学生の方がお話しされていたのですが、声が小さくて何をおっしゃってたか全くではないが、ほとんど単語しか聞こえなくて、総括というのか、おまとめにも反映できませんでした。ごめんなさい。

     

    物語神学とは言うけれども、聖書霊感から言えば、今は見ることのできない聖書原典における聖書記者を導いた神の霊、キリスト者が読むときの神の霊の働きを分けないと、神の主権性が危うくなるのではないか、という至極まっとうなご批判も出た。まぁ、従来の神学の参照枠から言って、その批判は甘んじて受けなければならないが、ただし、もし、我々に働きかける神の例、神の息吹が、同じ霊だとすれば、説明のわかりやすさのため、便宜上そういう分析的な方法論でなされるのはわかるが、それをあえて分ける必要はないかも、というような趣旨の発言もした。

     

    なんか大Z先輩からのご依頼で、大体、本来は別のプロジェクトに行くはずだったのだが、頼まれたので、このプロジェクトに来ることになったのだが、挙句の果てに捕捉とか、日本語通訳とか、モデルの組み換えをその場でしての再提示とか、いろいろやらされた挙句に、突然、何のメモも取ってない状態で、各チームのメモも全く見てない報告して来い、と言われて、そんな何も書いてないんですけど、いいんですか、ほかの人がメモ取って記載しているんじゃないんですか、他のグループの方の議論の情報はなんもないですよ、それでもいいんですか?と聞いたら、それでいいと全体司会の大Z先輩がおっしゃったので、分かりました。じゃ、やります。ただ、知りませんよ、と念押ししたうえで、記憶だけに基づいて、報告した。

     

    すべて、私の不徳の致す処…

    そのため、各サブサブグループの方のご意見の反映が十分でないところがある。それは、まことに

    「すべて、わたくしの不徳の致すところでございます。」

    でしかない。

     

    中村橋之助バージョン

     

     

     

    桂文枝バージョン

     

    とはいえ、何をやるかわからずに、とりあえず来てくれと言われ、いきなり言われて書記でもないのに書記をやらされて、メモを取ることなく、それでも精いっぱい努力して、時間内に収めたのが、あの報告である。ご了承賜りたい。とはいえ、事前の打ち合わせも何もなく、メモも作らずに受けてしまったのは、

     

    私の不徳の致すところ ではあった。この場を借りて、関係各位、ご尽力いただいた関係各位には深くお詫び申し上げる。

     

    なんとなくの感想

     結局、大Z先輩が冒頭に近代という時代にはやった神学や哲学、あるいは西洋の神学世界は分析志向であり、分析して、人間の体をバラバラに分けてそれぞれの部分部分の挙動を細かく記述し、分かったことにするという世界観を持っている。1960年代までのアポロ計画までのシステム理解は、この種の世界観を持っていたし、それは人類を月に送ったといえる。まぁ、本当に月面に行ってなくて、ハリウッド映画の技法で地上で映像を作ったのではないか、という疑念があるが、それはどうでもいいことである。

    しかし、アポロ計画の途中で、一般システム理論がどうも限界を見せているのではないか、これまでの分析的な近代科学思潮的な世界観、パラダイムでは分析だけしていて、それでいいのか、本来分析し対象を研究した後、統合(Synthesis)をして、もう一度全体像の適合性を検討しなければいけないのではないか、という反省が、近代科学、近代哲学の中で生まれてくる。その延長線上に、ホーリスティックなものとして、部分の寄せ集めでないものとしての有機的なもののつながりを見ようとする志向、哲学が生まれてくる。つまり、バラバラにして、部分部分でしてしまうと、部分部分の有機的なつながりが生まれないのであり、その有機的な思考や概念を大事にする点では、霊性の話と関係しているのであって、Open神論や物語神学は、近代という時代を支配した聖書理解のアンチテーゼというよりは、もう一つの可能性を示すものであり、対立概念ではなく、相補的な存在とご理解いただくのが一番なのではないかと思う。近大はあるものをTrue真とするとき別のものをFalse偽とする2項対立的なバイナリ世界が支配した社会でもある。本当は、そのバイナリ(2項的な判定のみでいいのか、ということに関する疑問、あるいは2項判定的な世界観以外の世界観を内包しうる包摂的な世界観が、古代イスラエル的な世界観でもあるし、それがポストモダンにおいて、落ち着きがいい世界なのかも知れないと愚考する。
     

    コミュニケーション理論の観点から

    それと、今回のプロジェクトというものは、一般システム理論の射程の延長線にある、ユルゲン・ハーバーマスの言うコミュニケーション理論に関する壮大な実験でもあった。それに参加できたことは面白かった。参加者間の平等な意見表明を可能にし、それをもとに討議を行う公共圏をどう実現していくのか、ということに関する、神学の世界で宣教をテーマとした公共圏に関する壮大な実験であり、それに参加させてもらえたのは面白かった。しかしながら、公共圏を支えるべきはずのコミュニケーション技術とその討議システムの吸い上げが、基本従来の分割して吸い上げる形の意見集約システムを用いたことと、このサブグループの司会をした大Z先生が意見集約システムとその限界に関するその認識が割と薄かったこともあり、結果としてはうまく集約できずに終わった。それは、真ぁ、今回の大きな反省点であろう。

    次回、名古屋で日本宣教会議をやるとすれば、今度はもうちょっと大きなラウンドテーブルの中での、参加者の公平で平等な意見交換ということに関する意見交換システム、コミュニケーションシステムに関する習熟度を運営側、リーダーやサーバントのみならず、全体の参加者に徹底しておき、比較的新しい概念のコミュニケーション理論と公共圏での討議ということに関する事前の習熟を図っておくべきか、と思う。そもそも、この種の会議体、合意形成システムは、理念系では可能であっても、現実にそれを成立させて行くのは、困難なことは、これまでこの種の実験を何度かしてきたものとしては十分熟知している。

    まぁ、その辺は次回への課題でいいのではないかなぁ、と思った。

     

     

     

    ユルゲン・ハーバーマスさん(最近は宗教に関しても発言が多い)

     

     

    以上報告終わり。

     

     

     

     

     

     

     

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    (2009-09-16)
    コメント:よろしいかったです。是非ご覧を隠されたキリストを見てください

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