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2016.08.31 Wednesday

一致とは何か?一体になるとは何か?を考えてみた(1)

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    今回は長くなりそうなので、連載化がすでに決定してしまった。

     

    前々回の記事を受けて
    前々回の記事(学的フランケンシュタインの登場は要らないかも )から勝手に発展している大変面白い議論がフェースブック上で行われていたのだが(学生の学会報告論文対応で手がとられていたのと、MSさん、MMさん、時々OさんのMMOトリオ、中でも、おもにMMデュオの議論が夜型で行われているので、翌日辺りに修養会に出かける際に運転手予定の人間としては、眠たくて寝てしまって以降、完全に議論についていけないまま放置しているけど(MSさん、MMさん、Oすいません。修養会先でも、学生の論文対応に追われている始末。学会報告論文対応は、一応修養会初日の昨日の深夜に終わりました)、ここでの議論のポイントは、霊性にしても、それ以外の部分にしても、カトリックを代表とする伝統教派(ぞれ以前のものや他のものも含む)が継承してきたものがプロテスタントに移植、ないしプロテスタント的な理解とプロテスタント的な聖書理解の概念体系を維持しつつ、どの程度融合可能か、とうい話題と関係していると思う。

     

    まぁ、石を投げた私も、MMデュオのお二人もこのMMデュオを含む、MMOトリオの皆さんも公式見解のような結論を出そうとか、白黒決着付けましょうぞ、というタイプの議論ではなくて、どのような側面があるのかを考えるという対話のノリで(時々それにしてはキッツいなぁ、と思う文体もあるが)お話されているだけであるが、結構触発される部分が大きい。

     

    今回シリーズのポイントは?
    要するに他のキリスト教の集団の(とりわけプロテスタントが離れていったというか、それは違うんじゃないかといって分離していった元の教派とか、その分離した教派の前の教派が分離したところとかのキリスト教世界の伝統に属する)理解が生み出したもの(件の霊的フランケンシュタイン云々の記事ではロヨラの系譜に属する『霊操』やナウエンの著書に代表されるようなキリスト者の生き方の理解を具体的な事例や話題として取り上げたのだが)との付き合い方というか取り入れ方というか、取り組み方が、取り入れそのものがその人のそれまでの聖書理解を維持したまま、全く変容させずに可能であるのかということの対話が行われていた(いる)のであり、そのことを考えてみたいと思ったのである。

     

    もう少し焦点化させていうと、自分たちの諸伝統をそのままにしたまま、自分たちの諸伝統の聖書理解を全く変容させずに、ガムテープで無理やり貼り付けるような形で、他の教会群の伝統にある概念をその個人とか教会での信仰生活の中に持ち込む(あるいは、結合)ことが可能かという議論である。

     

    MSさんは、プロテスタントとしての方向性を維持しつつ、他派の聖書理解をそのまま取り入れるのは、そもそも論として無理であり、本格的にやるなら、中途半端なことをせず、他のキリスト教世界の伝統を保持する集団の一員に変わるべき説、ないし、他の伝統に属するキリスト者集団の一員に変わることを覚悟の上でやるべきというご主張だし、MMさんとOさんは、プロテスタントとして従来のその人々の教会の伝統をかなり濃厚かつ強固に維持しつつ、他の伝統に属する理解を現在のグループの一員としても可能ではないだろうか説のご様子である。

     

    ミーちゃんはーちゃんは、個人を根本的に変容させずに他の伝統の理解をそのまま持ち込むことは厳しいと思う。但し、個人の理解や思想を、聖書理解などが柔軟に変容させられる方であれば、以前の理解や思想を完全に残したままというのは無理だけど、他のキリスト者集団に転会したりしないまでも、ある程度の受容は可能であると主張したい。ただ、別の概念を受容した瞬間には、その人の理解や思想そのものが変わってしまう可能性があるということを書いたつもりである。

     

    いつも文章のボリュームが多く、長くてくどいのは十分承知しているので、本当に申し訳なく思っているが、重要なことをするのに簡単にさらさらとは表現できないので、このシリーズはいつも以上に文章がくどくなってしまうことはお許しいただきたい。

     

    より正確に考えると、この問題は、教会とは何か、教会の現実として起きていることとは何か、と深く関係しているようにも思う。もう少し丁寧にいうと、教会と信徒との関係、信徒の生き方、信徒と聖書とのかかわり、あるいはある教会(地域に存在していて、日曜日に礼拝が行われている教会ないし、それが関係している各個教会同士の連携機関、いわゆる教団とかいうものが代表的)が伝統としてきている聖書理解や信仰生活のスタイルといった部分と信徒の生き方とのかかわり(関係性)と、今後自分がある教会とどうかかわっていくのか、教会との関わり(関係性)を変えていくのか、維持するのか、個人の信仰と教会の信仰理解との間に関して、どう距離をとるのかという問題とかかわっているように思う。

     

    現実には一人ひとり違うので
    まぁ、どのような個人としてキリスト教の世界とかかわっていくのかは、お一人お一人違うはずではないか、と思う。より具体的には、既存の特定の教会や教会群(いわゆる教団)とのかかわりにしても、一キリスト者として、一教役者として、あるいは一教会役員として、かかわっているのかといった教会の関わり具合とか、お一人様キリスト者として、信仰生活にかかわっているのかによっても個人とキリスト教世界のかかわり方は違うだろう。

     

    あるいは、信仰期間が長いものとして、信仰期間が短いものとして係っているかによっても違うはずであるし、どのような教会群(いわゆる教団)にかかわるのか、あるいはそのなかでのある特定の教会にかかわっているのかによっても違うだろう。その意味で、どのような状態でどのような教会と、関係があるのか、という観点によっても、問題の見え方(NTライトの言葉を使えば世界観、あるいは、その個人によって語られるストーリー)が違うということはあると思う。

     

    同じグループに属しつつ、

    その中にあるストーリーの多様性
    このように、信仰者にも様々な属性があり、一般化しにくいのではあるが、やや一般化するためにやや遠目にして、理解の精度を意図的に粗くして考えてみるけれども、ある教会群で、別の教会群での信仰生活と個別教会がもってきた理解とのかかわりがどのような形であるか、そのストーリーがどのようなものかであるかによって、他の教団が保持し、育み、生み出してきた伝統をどう向き合っていくのかは違うものになるだろう。

     

    とはいえ、ミーちゃんはーちゃん個人としては、ある範囲の中で、別の教派群の信仰生活や聖書理解を個人限定のレベルで、それまでその人が保持してきた聖書理解とは一定程度の融合可能ではないか、ただ、その結果、ある個人の方が持ってきたキリスト教理解の枠組み(NTライトさんの用語を借りれば、ストーリー、世界観、仮説、・・・)から別のキリスト教理解の枠組みに移行することがあるえると思う。まぁ、ミーちゃんはーちゃん個人は、NTライトの世界観というか聖書理解のアプローチに触れて、かなり自分自身の理解が変容したために、それまで維持してきた聖書理解の一部を大胆に捨てることになった。

     

    しかし、それは悪魔の手先に落ちることでも、悪いことでも、犯罪行為でも、一貫性がないことでもな意だろうなぁ、と思う。新しい仮説が出てきて、それで聖書全体の読みに矛盾が出てきたために、別の仮説(個人的にはスコット・マクナイトが言う救い派の仮説)を捨てざるを得なかった。まぁ、ミーちゃんはーちゃんは変節してしまったと批判されても仕方がないが、もともと持っていた聖書理解の割と根幹をなす部分で読み解いていくと聖書全体の理解と矛盾が生じてしまったので、そんな矛盾しているものには、同意ができない(間違っているとは言わない。あくまで同意できなくなっただけ)のだからしょうがないと思っている。

     

    まぁ、変節したとかいって批判されるべきことでもなく、特段、何も悪いことではない、と思う。但し、そこに一貫して神と生きたいという思いがあるならば。そして、その神が、聖書で言う唯一の神であるのであれば。人間はどんな優秀な人でも、結局は神ではなく、なに、神からは息を吹き込まれたものであり、鼻で息するものにすぎず、適当に正しくて、適当に間違っていると思うからである。そしてその鼻で息するものが集まっている教会も、完全無欠の教会等というものはそもそも論として存在せず、適当に正しくて、適当に間違っているとは思う。

     

    変節と硬直
    なお、敢えて、意図的にしょっちゅう場当たり的に変節するのもおかしいが。それは何も考えていませんということを吐露するようなものではないかと思う。

     

    人は、自分が考えている様に見られたい、他者から評価に値されるものであると認めてもらいたい場合、敢えて自己の主張にしがみつき、こだわり、変節しないことで、あるいはそれがすべてであると信じることで、あたかも考えている、考えている人だと思われたい、という欲望の結果、あることに強くこだわる場合がある。

     

    あることに強くこだわり、そのことを守ろうとしているからといって、必ずしも、その人が深く考えていてそうしているわけではないことは、覚えておいた方がいいかもしれない。水や水分たっぷりの糠やケチャップのような超柔軟で可塑性が高いもの(すぐに変形するもの)も場合によっては困るが、無きゃ無いで困るし、超硬度合金のようなほぼ可塑性がないもの(強力な外力をかければ、曲がったり、折れたりはするから、可塑性は多少ある)も摩擦ばかり起こして火花をまき散らすので、場合によっては困るが、ほぼ可塑性がないものもこれまた、無きゃ無いで困る。両方いるのだね。やはり。

     

     

     

    可塑性の説明

     

    http://www.nikkei.com/content/pic/20130806/96958A9C93819696E2E3E282E48DE2E0E2EAE0E2E3E1E2E2E2E2E2E2-DSXBZO5804633002082013000001-PN1-12.jpg

    超硬度合金の製品例

     

    考え方がころころ変わるのは困りものだが、まぁ変節ということもできようが、それは成熟とか、変容ということもできるのではないだろうか。時間をかけつつ、じっくりと熟成していって変容していくこと、それこそ、神の霊の導きによるものではないか、とミーちゃんはーちゃん個人は現段階で考えている。


    さて、人間が鼻で息するものであるに過ぎなくて、その諸属性が多様なのであれば、一定の参照枠(ストーリーとか、世界観とか、仮説とか…)の中で、多様性が存在していいはずだし、多様性は実際には存在するはずだと思う。大体パウロだってこういっている。

    【口語訳聖書】コリント人への手紙 第1
     3:1 兄弟たちよ。わたしはあなたがたには、霊の人に対するように話すことができず、むしろ、肉に属する者、すなわち、キリストにある幼な子に話すように話した。
     3:2 あなたがたに乳を飲ませて、堅い食物は与えなかった。食べる力が、まだあなたがたになかったからである。今になってもその力がない。
     3:3 あなたがたはまだ、肉の人だからである。あなたがたの間に、ねたみや争いがあるのは、あなたがたが肉の人であって、普通の人間のように歩いているためではないか。
     3:4 すなわち、ある人は「わたしはパウロに」と言い、ほかの人は「わたしはアポロに」と言っているようでは、あなたがたは普通の人間ではないか。
     3:5 アポロは、いったい、何者か。また、パウロは何者か。あなたがたを信仰に導いた人にすぎない。しかもそれぞれ、主から与えられた分に応じて仕えているのである。
     3:6 わたしは植え、アポロは水をそそいだ。しかし成長させて下さるのは、神である。
     3:7 だから、植える者も水をそそぐ者も、ともに取るに足りない。大事なのは、成長させて下さる神のみである。

     

    あと、まぁ、聖書でもほかの場所でも、こう書いてある。

    【口語訳聖書】コロサイ人への手紙
    3:15 キリストの平和が、あなたがたの心を支配するようにしなさい。あなたがたが召されて一体となったのは、このためでもある。いつも感謝していなさい。

     

    一体であるが、同一だとは、この聖書に所収されている書簡の著者は言っていないように思うが、違うだろうか。一体ではあるが、同一といっていないのではないか。ナウエンの本「今、ここに生きる」(あめんどう刊・お買い物はあめんどうブックスで、是非)では、あるレストランにかけてある車輪から着想を得て、ナウエンがキリスト者とキリスト者の関係、キリストとキリスト者との関係とは、キリスト教とは車輪のようなものではないか、ということを書いている部分がある。大変興味深いので、是非お読みいただきたい。

     

    参加中の修養会の冒頭のセッションで
    ところで、たまたま今参加している修養会の最初のセッションで、これに類似することが話題となった、「これまでのキリスト教」と称されるでは、信徒が一種の戦闘集団的で、均質な多様性のない伝道を中心とした集団が、北朝鮮の軍事パレードに見られるように、一糸乱れず、大規模軍団型の指揮官の号令に従って全軍団が動くようなものであり、さらに、そのキリスト教の教会内の信徒間の関係は、相互の補完関係もなく、交流も十分でない状態であり、一糸乱れぬ行進の邪魔になる存在は排除していく、そういう方向性を持った教会の在りさまではまずいのではないか、ということが話題になった。そして、それはまずくて、それ以外の教会の在り方「これからのキリスト教」では、もう少し別の組織概念、教会形成概念を持たないといけないのではないか、ということも話題になった。

     

    北朝鮮の軍事パレード

     

    なお、全ての日本のキリスト教と呼ばれるものの教会がこうだとも思ってないし、事実そうなってはいないが、こういう教会像を理想とするキリスト教会が過去に存在したし、今も存在する可能性があることをミーちゃんはーちゃんとしては、否定しない。実際に20年前、ミーちゃんはーちゃんがある修養会(学び会)でカナダからの宣教者が、教会がこの北朝鮮の軍事パレードの様であれば素晴らしいのに、といったことが忘れられない。現場でも聞いたし、録音テープでも聞いたから、同趣旨のことを言っていたことは間違いない。

     

    これまでのキリスト教と、これからのキリスト教
    個人的には、この修養会の最初のセッションで話題となった「これまでのキリスト教」というくくりはあまりにおおざっぱすぎていかがなものか、とも思っているところはある。ソフトウェアの開発番号の系譜番号スタイルを利用すれば、この修養会で話題となった「これまでのキリスト教」は、「日本型のプロテスタントタイプのキリスト教2.0」といっていいと思う。あるいは、全世界的なキリスト教の総体から考えれば、キリスト教2.5.E.12.J.3くらいだと思うが)に対して、「これからのキリスト教」(より正確には、日本型のプロテスタントタイプのキリスト教2.2 あるいは、キリスト教2.5.E.12.J.4程度だと思うが )では、多様性を持ち、多様性を持つ信徒が多様に集まりながら、信徒ひとりひとりがよく考え、思いめぐらし、さらに教会運営においては信徒ひとりひとりが相補的に(お互いに相手を思いやりながら、相手の動きを見ながら全体としてよくなるような形で)活動しつつ、神を中心とした礼拝者の共同体を構成してはどうか、ということはだいじになるかもしれない、といったことが話題になった。まぁ、一種の理論的な世界における理論的仮説としては非常に理想的だとおもう。現実はそう甘くはないこと位は知っているが、今のままでよいとも思っていない。もし、こうなれば、確かに今よりはだいぶんマシなキリスト教会の構造ができるかもしれないと思う。理論的には。

     

    しかし、それと同時に、その場で出たのは、そのような教会形成というか教会の在り方に到達するのは、ほぼ絶望的ではないか、という話題にもなった。なぜかというと、「これまでのキリスト教(日本型のプロテスタントタイプのキリスト教2.0)」で割とよく見られて、これまでの教会で前提とされてきた信徒像としての概念、即ち。牧会者の指示に素朴に従い、一斉行動をすることになれていて、それを好み、それを理想とする信徒の人々をどうすればいいのか、ということになったのであり、それを考えると気分が暗くなるからもうやめよう、とかいう話になってとりあえず、あとは茶話会。

     

    しかし、世の中うまくできていて、ある教会の会員を考え、教会員一人ひとりの方について考えてみるとき、確かに実際には様々なタイプの方がおられる。しかし、その教会員の方が自動的に全部協力して動いて、理想的な教会が理想的な状況を維持されるようには、現実、なっていないのである。この1年間、教会を西へ東へあっちこっちの諸伝統の教会に何回か参加させてもらったものとしての実感である。ただ、やはり、自分の聖書理解と接合可能かもしれないと思う教会もいくつかはあったし、一応キリスト教の枠内だけれども、自分の聖書理解と相当無理をしないと不適合を起こすだろうな、というような教会もあった。

     

    ただし、ある教会(教団)に属する人や、その教団の教会にとっても、よその教会(教団)が実際以上によく見えるもの、という部分はあると思う。従って、「隣の芝生は青く見える」現象が教会でも現実に存在するのである。なぜならば、当目で見ると細部の細かいポイントには集中できなくなるので、細部のあらは見えなくなるからである。とはいえ、フィット感に違いがあるものもあるようには思う。

     

    従って、個人のキリスト者一人をとっても、他派の伝統や他派の状況、ということにどうしても関心を持ってしまうし、よそが何をやっておられるのかは、ものすごく気になるのであろう。それは教会でも同じではないか、と思う。そして、それをとり込もうとしたり、気の迷いで取り込んでみてはどうかと軽軽しく思い付きでいう人たち(ミーちゃんはーちゃんは、この軽々しく思い付きで言うタイプの人間で、教えの風に吹きまわされ、信仰の破船は確実であろうし、地獄行き決定だと思われている方々がおられるのは十分に承知している)が一定の割合で存在するし、では、実際に取り込むとなり始めた時に、それを取り組むのはどうか、ということが話題にならざるを得ない。他派の伝統の結合を行うに際して、教会内で「それをもちこむのは無理ではないか」というご意見を巡って議論が巻き起こる場合があるはずではあるし、実際に巻き起こった事例にこれまでも何回か立ち会ってきたし、今回もロヨラ風の霊操が現代の日本型のプロテスタントのグループに取って可能であろうか、ということを素材にした対話がMMOさんのトリオの中で起きた、ということではある、と思っている。

     

    今回の記事では、他の教会の伝統をどう考えるか、ということに視点を置きつつ、自分が今いるキリスト教をどう考えるか問題について触れた。


    次回以降(ってもう既に3回以上になりそうな予感・悪感が…)は、では他のキリスト教とその伝統をどう考えるのか、というあたりに触れてみたい。

     

    次回へと続く。

     

     

     

     

     

     

     

     

    評価:
    H.J.M.(ヘンリ・J・M) ナーウェン,太田和 功一
    あめんどう
    ¥ 1,944
    (1997-09-20)
    コメント:よいと思います。

    コメント
    み〜ちゃんは〜ちゃん・かわむかい先生へ

    >たまたま今参加している修養会の…

    韮山でのことですね。

    ほんの少し?ですが、その時の雰囲気が、ほんの少し伝わってきました(^-^)
    工藤先生始め、ちょっと知ってる?(笑)皆さまのお顔を思い浮かべながら…♪
    このたび、6月に転職したばっかりに有休を無くしてしまい、今夏初参加断念になりましたが、相当レベルの高いお話を、みなさんなさってたご様子に…来年、私は、涼しい韮山には行けたとしても、静養することに専念〜!にしとこう〜と(笑)
    今夏は、軽井沢参加も遠い遠いこととなり…。

    先回の、神学校での学び会で、工藤先生からお借りしたナウエンの著作を、少しづつ読ませていただき、穏やか〜な、静か〜な心持ちと共に「自分の存在を丁寧に感じ思う」と言う一時を味わわせていただいてます。

    6月からの転職で、意外な現実と、予想した通りの現実、の狭間に立たされ、私はいとも簡単に「ここでは働らかれへんわ」と二度も宣言(笑)
    同僚であり上司?でもある友人に、思いっきり引き止められて(快感〜(笑))やっと今、新職場にて、3か月が過ぎます。

    「嫌われる勇気」や「幸せになる勇気」の著作も最近、読む機会あり、ナウエンの著作を読むのにかなり、アドラー心理学の考えが役に立ったな〜と思うことしきりでした。

    どう役に立ったか?と言葉で表せ、となるとかわむかい先生のように言葉をつらねることできず!で大変歯がゆいですが!
    たった一人の人との「人間関係」で、地上での生活を台無しにされるなんて…そんなアホらしい生き方無いやんな〜嫌われていい、幸せすぎていい、とにかく「自分を我儘に生きる」……………図図しい年齢になったんやな〜なんて思い、ほくそ笑みながら…工藤先生始めとする皆様の、韮山での、真摯なお話しあいの場面を楽しく楽しく想像させていただいてました(*^^*)
    なんのこっちゃ?長くなって…すみません♪「韮山修養会」の一部分の分かち合いに感謝を込めて♪
    • あい
    • 2016.09.01 Thursday 00:16
    >>たまたま今参加している修養会の…

    韮山でのことですね。

    いえ、そっくりですけど違います。韮山ではなくて、「蒜」山 (ひるぜん)

    >穏やか〜な、静か〜な心持ちと共に「自分の存在を丁寧に感じ思う」と言う一時を味わわせていただいてます

    いいですね。大事ですよ。それ。

    >たった一人の人との「人間関係」で、地上での生活を台無しにされるなんて…そんなアホらしい生き方無いやんな〜嫌われていい、幸せすぎていい、とにかく「自分を我儘に生きる」

    それも大事。そもそも、旧約のイスラエルの民は、うなじの強い民と呼ばれたほどの超わがままな人たちなので。だって、神と戦うわけでしょ。だから、イスラ(戦う)エル(神)なわけで。

    蒜山(くどい!)の修養会の部分は、
    "参加中の修養会の冒頭のセッションで"
    "これまでのキリスト教と、これからのキリスト教"
    の…茶話会に

    辺りまでです。まぁ、面白かったので、ご紹介をば。ケースはちょっと生々しくて…。一つだけご紹介できそうなのがあるので、それはまた後日。

    よい週末と主日を。
    • ミーちゃんはーちゃん AKA かわむかい
    • 2016.09.01 Thursday 20:14
    >蒜山(くどい!)

    アハ…大変な間違いです?!(笑)
    失礼しました…(+o+)

    >イスラ(戦う)エル(神)

    そうでしたか〜今まで知らなかったことを恥じ入ります…(-.-)
    …で、もっと堂々と「うなじの強い民」でいます(^^)v

    再会を楽しみにしております♪

    • あい
    • 2016.09.04 Sunday 00:09
    あぁ、蒜山に関してはうちの家人もあの漢字読めなかったんで、しょうがないですよね。関西には難読地名も多く、十三(どうやって?)放出(どうやったらそう読める?)とかめちゃ多いですもんね。

    イスラエルとか、あれ、伝わるように訳してほしいなぁ、とか思いますよね。だいぶご努力の後は拝見してはいるのですが…

    まぁ、その人をそのように創造された方ですから、それを楽しまれたらよろしいのではないでしょうか。

    それではまた。どこかで。良い主日をお過ごしください。
    • ミーちゃんはーちゃん AKA かわむかい
    • 2016.09.04 Sunday 08:08
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