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2016.08.27 Saturday

神学的フランケンシュタインの登場は要らないかも

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    怪獣もいろいろ

    シン・ゴジラは見に行っていないが、ゴジラは太平洋のどこかで放射能汚染で突然変異が起きて、ゴジラになったという設定のはずである(メカ・ゴジラは違うとかいわないでね)。まぁ、ビキニ環礁での水爆実験があり、第5福竜丸事件があり、世の中公害問題が非常に悲惨で、メディアなどに取りあげられ始め、公害等の社会的外部性の問題が経済学でも意識に乗り始めたころ、そして、世間が何となく環境破壊に敏感になり始めたころ、カリフォルニア州で道路上に空き缶などのゴミの投げ捨てに罰金が科されるための検討が行われたり、今の排ガス規制の原型がカリフォルニア州で議論され始める遥か以前にゴジラの原作が登場したはずである。その意味で、突然変異種がゴジラであるが、フランケンシュタインという怪物は突然変異種というよりは一種の改造人間であり、昔のアメリカ映画で広くそのイメージが定着したように思う。


    1931年版 映画「フランケンシュタイン」

     

    これが、日本に来ると、完全に人間が機械になっていくサイボーグ化するから、面白い。例えば典型的にはミーちゃんはーちゃんが子供だったころのアニメ、8マン(ハチマンとか八幡ではなくて、エイトマン)やキカイダーなんかがその典型である。

     

    8マン(短銃の射出初速の方が新幹線より早いとは思うが、新幹線とかけっこしているのは御愛嬌)

     

     

    人造人間 キカイダー

     

    オブジェクト指向プログラミングと人造人間

    最近でも使われているソフトウェアの開発技法の一つに、オブジェクト指向プログラミングというのがあるが、これは、簡単に言ってしまえば、部品化による開発手法の発想であり、計算機ソフトウェアを一貫したものとして最初から全部コードとして書き上げてしまう(80年代前半までの昔の開発手法はそうだった)のではなく、入力と出力を定めておいたうえで、様々な部品(オブジェクト)に分け、部品化して部分化したものを組み合わせてプログラム全体を作りあげる手法である。コードのエラーの間違いが見つけやすいとか、開発工数が少なくて済むとかいいことも多いのだが、エラーが出たときの追及が難しくなることもある。

     

    この手法は、ある意味でブロックをくっつけていって、非常に大きなプログラムを作るような方法論であり、大きなプログラムでも、きちんとした部品をつないでいき、必要に応じて、必要なブロックの部品のような感じで、ブロックを持ってくればよいので、割と簡単に大きなプログラムというか必要なことができるのだ。

    Legoを使って作ったピザ

     

     

    キカイダーとか、エイトマンとか、ほとんど人体をオブジェクト化しているといってもよいかもしれない。部品の具合が悪くなれば、具合の悪いオブジェクト(部品)を取り換えれば済むことになる。ある種、モダニズム、近代の思想というか世界観が非常に良く反映されたアニメーションというか、特撮ものだと思う。人間に関しても最近の医療は、悪いところを取り換えて、灰以上終わり、とか言うところもあり、全体との適合性の問題も生んでいる場合がないわけではないように思う。

     

    ところで、現在も時々ご依頼に応じてシステム開発することがあるのだが、その時にもこのオブジェクト指向型の手法で開発することは多い。ただ、基本的に、オブジェクトに引き渡す変数や変数値がきちんと定義されていて、変数と変数名の使い方に混乱が生じないという条件はあるのだ。その意味で、変数を引き渡すやり方(インターフェースといってもいい)がきちんと定義されていて、それが問題ないことが必要なのだ。例えば、レゴ同士のインターフェースはきちんとしているからこそがちっとつながるが、レゴと違うくっつけ方の基準(くっつけ合わせるためのピンの感覚や太さやサイズ)といったものが微妙に違うブロックは、たまたまくっつくことはあるだろうが仮にくっついたとしても非常に不安定で、すぐに外れたり、ガタガタしたり、そもそもくっつかないことの方が多い。そうなると子供たちは、粘土を持ってきたり、テープを持って来たりで、くっつけようとする。

     

    実は、日本とアメリカでボルトとナットの企画が違うのだ。アメリカは、インチが基本寸法になっているので、インチねじと呼ばれるねじが使われ、日本では、メートル法なので、メートルねじが用いられ、パッと見その違いはわからないが、ねじがはまらないとか、ちょっとだけは止まる感じがするのだが、どうもうまくはまらないとか、結構不具合を起こすことが多い。このように、基本的なインターフェースが違うと、ねじのような簡単だと思えるもの(ねじの製造事業者や関連事業者に言わせると、そんなに簡単なものではなく奥の深いものらしい。確かにものすごい種類のねじがあるのは知っている)でも、合わないし、うまく接合しないという問題が発生するのだ。

     

    霊性についてのFacebook上でディスカッションから

    で、何が言いたいか、というと、先日、『舟の右側』と『Ministry』という雑誌で霊操というものが取り上げた記事 『Ministry Vol.30』と舟の右側 Vol. 32 を買ってきた をいつものようにFacebookで取り上げたところ、結構反応があって、霊操は大事だ説とか、軽々しく取り入れる人はいないのではないか説とか、霊の飢え渇きが無いとだめ説とか、ちゃんと指導者は、時間をかけて簡単にできるとは言っていない説とか、プロテスタントの中でも福音派でも、そこで育まれた霊性があるはずだ、とか、そもそもプロテスタントがこの霊操に取り組めるのか説とか、基本的な霊性が違い過ぎていて無理ではないか説とか、軽々しくこういう大事なことを雑誌に乗せるべきでない説とか、まぁ、いろいろあった。非常に活発なご議論が行われたのだが、皆様のご発言とご議論、大変参考になった。コメントをくださったみなさま、またご清覧くださった皆様、ほんとうにありがとうございます。

     

    教派間の違いとレッテルの張り合い

    それで、いろいろ皆様のご意見を拝聴しながら思ったことがあるのだ。確かに、現在のプロテスタント(マクグラス先生が福音派と呼ぶ範囲)側の霊性の関心には、これまでの方法論での不具合があるのだと思う。メインラインの教会の影響の強い教会では、社会派と教会派に分かれ、教会内で政治闘争(外部者からは、教会内の政治的闘争に見える)を行い、この200年で多様な教派が生まれ、発展してきたいわゆるファンダメンタルとメインラインの皆様からラベルがはられるような福音派(ミーちゃんはーちゃんは、もともと、ここで過ごした時間が長い)は、福音派内ではなんとなくちょっと緊張感を走らせながらも、そこそこ仲良くしている様なふりをしているような気がする。さらに、この200年の間に成立した福音派(新興プロテスタント)の人々は、メインラインの皆様にリベラル、悪魔の手先、頭でっかちというレッテル張りにいそしむような人も中にはおられ、さらに、カトリックの皆様に対しては、悪意を持った発言を繰り出し、偶像崇拝的だとか、あらぬ批判を浴びせかける人々もおられる。対話するのではなく、相手に対する敬意というものを一切払わず、その価値を認めず、いきなり折伏というのか、折福(相手の理念が折れるまで、福音と称するものを問答無用で浴びせかける)するのが伝道だ、という方もおられる。そして、自分と意見が一致しないと、悪魔の手先扱いとか、悪霊につかれていると簡単におっしゃってくださる方もある。

     

    カトリックに拒否反応を示す福音派の方も

    ところで、実際、私が関係したことで、このような経験をしたことがある。ある方の書かれたものにカトリックの司祭が書いたものが大量に出てくるので、この人は話手として適切ではない(それは、カトリックの方の引用が多いその講演者の著書が、 その人にとってのこれまでの信仰生活との間に不適合を起こしただけだと思うのだが)と苦情をつけだし、別の教会で行う予定だったあるイベントがお流れになったことがある。個人的には、いろいろ事前に調整して回っていたので、イベントがお流れになったのは非常に残念だったし、まぁ、ちょっとめんどくさい経験もした。

     

    まさに、このイベントが不幸な結果で終わったことにより明らかになったように、この苦情を付けた方の福音派的(新興プロテスタント的)な信仰のインターフェースと、講演者の著書に含まれていた信仰のインターフェースが合わず、不適合を起こしたのだ、と思う。生体臓器移植でも、誰かれの臓器を持ってきても適合しないタイプの臓器もあるように、下手をすると聖書理解においても、別の伝統で育まれてきた概念というのか、聖書理解というのか、霊性(ここでは霊操)の移植は案外簡単に行かないのではないか、と思うのだ。この信仰のインタフェースの不適合を起こした方は、不適合にとどまらず拒否反応を示されたのであろう。

     

    かなり違うキリスト教諸派の霊性

    基本、サクラメント、聖餐や祈りに関する概念が、かなり違うところがあるのは、実際に、礼拝の場に出席させていただく中で思うし、また、プロテスタント諸派、とりわけ福音派の諸派の礼拝というか説教に参加させてもらいながら、同じプロテスタントといってもだいぶん違う。若い人しかいない教会の訪問記 若い人しかいない教会参加記 や  若い人しかいない教会で気づいたこと  で以前書いたように、ノリノリでウェーイ風の教会もあれば、説教が極めて学問的な教会もあるし、高齢者の多い教会もある。実に多様なのである。そしてその多様性は、無論、霊性にも及ぶ。

     

    ところで、以前、教会移譲式をめぐってちらっと考えたで福音派の教会からコプト正教の教会堂に委譲された会堂委譲式に参加した記事を書いたが、クワイヤーというよりは聖歌隊といった方が近いような方々が歌う讃美歌と、アラビア・中東風の音楽に近いコプト正教の讃美歌では、全く違うし、儀式を重視するオーソドックス系の教会と、アジテーションとまではいかないけれども、結構テンションの高い福音派の教会では、教会の構成が違うし、そこに働く霊性もかなり違うような気がする。その辺すべてを含めて、その教会の系譜につながる伝統に加え、その個別教会のこれまでの蓄積した霊性が違うこともあるので、慎重さが求められるように思う。

     

    レクティオ・ディヴィナ、何それおいしいの、という人々が、いいといっている著名な人がいるから、雑誌で紹介されているから、ちょっと指導を受けたから、といって霊操を簡単にやったところで、消化不良を起こす様な気がする。あるいは、さきに紹介したカトリックの引用が多い著者の人に信仰プロテスタント派の信徒さんが、拒否反応を示したように、拒否反応を起こすのがせきの山であろう。

     

    霊操をする以前に、霊操を支えている精神世界、あるいは、世界観、ストーリ、仮説というか前提条件まで含めて受容し、考慮し直し、自分自身の聖書理解を作り変える必要があり、何が、どこで、どんな風に、根本的に違うのかということを熟知しておいた方がいいと思う。 カトリックの霊性を表面的にものまねするのは無理があると思う。

     

    ところで、前回の記事でも書いたように、霊操とかは、一人で勝手にやるとおかしくなることも多いものでもあるので、きちんと指導ができる方で、もし可能であれば、プロテスタントの表現方法で、カトリックの理解が通訳してお話できる人を指導者と長期間にわたって体験的に習得するのが良いとは思う。プロテスタント(とりわけ新興プロテスタント派)の用語と用法と意味とその周りの意味合いとカトリックの用語と用法と意味とその周りの意味合いは、日本語と英語以上違う印象がある。その意味で、カトリックの世界観をプロテスタント派のことばで説明できる人とは出あうのは相当難しいかもしれない。とはいえ、できれば、両方の霊性をかなりご存じの方の指導を受けながら、心の中で神のことばを静まりの中で見つめつつ神との対話をしていくことができればいいと思うが、下手するとそこに至る前にこういう方法論への拒否反応が出る人の方が多いような気がする。

     

    そのようにうまく調整できずに物まね、ポイントだけ表面だけ剽窃し、そして、くっつけるような形で実施しようとすれば、霊性というオブジェクトに対するプロテスタント諸派の多様性が存在するインターフェースと、カトリック諸派のインターフェースの違いが存在するので、うまくくっつかないと思う。それでも、敢えて無理やり、ガムテープや粘土のようなものでブロックをつなぐ様にしてつなぐこともできなくはないだろうけれども、それは、ご自分の信仰と、霊操とかいったカトリックの霊性のオブジェクトを無理やり維持でもつないだような形になってしまうのではないだろうか。人造人間キカイダーやエイトマン程度の接合状態ならまだしも見るに耐えられるが、フランケンシュタインがまだかわいらしく、きれいに見えるような非常に無様な何かが出来上がると思うのだが。してはならないとは言わないが、どうせやるなら、きれいに接合できるよう、急場しのぎではなく、慌てず、焦らず、じっくりと取り組まれることをお勧めしたい。その結果、プロテスタント(とりわけ、新興プロテスタント)の信仰ではなくなるかもしれないことを覚悟の上で。

     

    借り物で霊性は育つか?

    そもそも論として、以前のライトさんの「新約聖書と神の民」で遊んだ記事N.T.ライト著 『新約聖書と神の民』を読んでみた(12)でもご紹介したが、基本的なストーリーというか理論というか仮説というか世界観に矛盾が見つかると、借り物のストーリー(理論、仮説、世界観・・・)を利用させてもらって急場をしのぐことはできるが、それは、その人全体が持っている個人としてのストーリー (理論、仮説、世界観・・・) と拒否反応を起こしてなければまぁ、急場くらいはしのげるし(一応、一時的なものに過ぎないことに注意)、いろいろやっているうちに、借り物のストーリーやその人全体が持っているストーリーが変わってくることもあるのだが、借り物は借り物であり、ある人の霊性にとっては異物に過ぎない。うまく接合できず異物になってしまった時に、それをどう見直していくのかが問われることになる。

     

    この時に、別の体系(たとえば、カトリックで育てられてきた体系)で行われていること(たとえば霊操)を批判的にとらえつつも、自分自身の中に取り込むにあたって、かなり時間をかけ、急場しのぎでなくなるように、自分自身の聖書理解を場合によってはかなり変えつつも、その人のストーリーと適合的に見直していく必要があるように思うのだが。

     

    個人の信仰の大きな変容を迫るかもしれないという意味で、いつも遊んでくださる津のH先生がご指摘のように、霊操とか、一般のクリスチャンに取って18禁(R18指定)どころか、C4プラスチック爆薬のような危険物指定にし、有資格者の取り扱いを必須にするとか、劇薬指定にして、鍵のついた金庫においておき、有資格者でないと取り扱えないようにしておかないといけないものであるように思う。それは、個人の信仰と聖書理解を破壊的に変えてしまう可能性があるからである。

     

    とはいえ、それを、『Ministry』とか、『舟の右側』が紹介してはならんか、というと、そこは別ではないか、と思う。何とかに刃物を渡すな、という議論はわかるが、刃物という概念が存在することは、公共的な知識として重要だと思うし、それを知らない人々にそのようなものがあるから、それに関して長時間かけてでも指導を受けながら研修することの意味はある、ということ位を示すのは大事だと思うし、まぁ、まともな指導をされるかたは、「1日や2日研修を受けたくらいでは済まないものなのですよ」ということはきちんとおっしゃるし、そういう関連の本には、そのあたりのことがきちんと書かれている。その意味で、 『Ministry』とか、『舟の右側』 で紹介された別のストーリー(仮説、世界観、伝統、概念)をこれを機会にきちんと学ぶ機会にしさえしていただければいいのではないかと思う。そして司牧も信徒も十分な時間をかけた、信仰生活の歩みと見直しというご研鑽をおつみいただきたいのである。

     

    3歳児が運転する連結トレーラートラック並みの場合も

    しかし、問題は、そういう十分な自己研鑽並びに指導者の下での十分な研鑽を経ずに、勝手にやりだしてしまう人々の存在である。これは、どのようにしても排除し切れないし、そういう事例がプロテスタント系、ないし米国経由の新興プロテスタント系の牧会者と呼ばれる人々には時々おられるように思うのだ。神学校と呼ばれるような機関での研修期間が長ければ長いほどよいというものでもないが、神学校でも、短いものでは2年でそれも通信課程とか、下手をすると、単立教会ではほぼOJT(現場に彫り込んでの実践教育)が1年ほどだけで、司牧と人様から呼ばれる役割を果たす人もおられる。こういう人がすべて、司牧としてふさわしくないと主張する気はないし、まともで、大きく用いられた方がおられるのは熟知している。さらに、イエスの弟子だって3年半OJTだけだったではないか(これは違うと思うが。彼らはイスラエル人として、旧約の教育は当然受けている)という人々のご意見も分からないではないが、この200年前後の新興プロテスタント派を見る限り、その結果としてろくでもない事案がかなり発生したことにも現われていると思う。むろん伝統教派でも問題が発生していることは否定しない。

     

    少なくとも500年の伝統があるものと、それを支えた1500年の伝統があるものをいきなり無視して、表面だけ繕うのは、弥縫策といわれても仕方がないし、先述したように、フランケンシュタインがかわいらしく見えるほど、奇怪なものを生み出すと思う。それをまた、聖書しか読まない、あるいは読むことをゆるされていないような信徒が軽々しくあつかっていいものではないように思う。そもそも、聖書は共同体で読むべきものであり、それをかってに個人が読んで、その一部だけを切り取り、あぁ、そうか、そういうことを言っているんだ、と思いこむような人が霊性の問題に手出しするのは、足漕ぎのおもちゃの自動車(アンパンマン号)すらまともに扱えない3歳児に20トンのフル積載のコンテナをダブル連結した大型トレーラーのキーを渡して、ほら、勝手に乗って遊んでいいよ、というようなものである。危なくて仕方がない。

     

    アンパンマン号

     

    20トンのダブルコンテナ結合したトレーラー

     

    霊性は大事だけれども、誰に指導を仰ぐか(指導者との相性もあるので)、誰と共同体を組んでやるか、どんな本(なんでもいいわけではない。本に関する選択眼が重要だと思う)を読むか、自分がどんな霊性を持っているのかをきちんと把握しつつ慎重にやらないと、まさに3歳児が運転する20トンコンテナを多重けん引するトレーラートラックが走り回る中状況の中にいるようなものだと思う。そのような3歳児が運転する20トンコンテナのダブル連結トレーラートラックが走り回る中にいるかの様な状態に、身をゆだねる(ほとんど経験がないその人の生き方にかかわる霊性の指導者に一生身をゆだねる)ということは、大きな事故に巻き込まれない奇跡を願うことをほぼ意味するようなものではないか、と思う。

    まぁ、そういう環境の中でも、神が守ってくださる、経験が浅くても私たちの指導者は素晴らしいという強烈な信仰というか確信をお持ちの方には、何も申し上げることはございませんが、どうぞろくでもないことになりませんように、と心からミーちゃんはーちゃんは祈念しております、と申し上げたいと思います。

     

     

    この項、前々回記事の補遺で単発である。

     

     

     

     

     

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