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2016.07.18 Monday

2016年7月17日の大阪正教会での聖書勉強会 山上の説教と終末論の記録

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    以下は、大阪正教会で2016年7月17日に行われた講演会の記録である。この日は朝から蒸し暑く、朝4時頃に目が覚めてしまい、シャワーを浴びて、午前中はアングリカンコミュニオンの聖餐式に出て、そのあと大阪に向かったのであるが、待ち合わせの時間がギリギリになったので、駅から駅の間を走って行ったりしたので、暑くてしょうがないこともあり、ちょっと疲労が来ていた。そのせいか、途中意識が飛んだところがある。もし、誤解や無理解に見える表現があるとすれば、その責は、記録者であるミーちゃんはーちゃんにあることをまずお断りしておく。

     

     最初は、松島司祭の自己紹介から始まった。

     

    山上の説教と文字どおり実施

     

     

    山上の説教の中には、

    【口語訳聖書】マタイによる福音書
     5:27 『姦淫するな』と言われていたことは、あなたがたの聞いているところである。
     5:28 しかし、わたしはあなたがたに言う。だれでも、情欲をいだいて女を見る者は、心の中ですでに姦淫をしたのである。
     5:29 もしあなたの右の目が罪を犯させるなら、それを抜き出して捨てなさい。五体の一部を失っても、全身が地獄に投げ入れられない方が、あなたにとって益である。
     5:30 もしあなたの右の手が罪を犯させるなら、それを切って捨てなさい。五体の一部を失っても、全身が地獄に落ち込まない方が、あなたにとって益である。

    というような、現実には実現できないような、ことも記載されている。

     

    昔、この山上の説教に書いてある「一方の頬を打たれたら、他の頬を打たせよ」を実践しようとして、不良少年を集めて、世話をしようとした人がいて、殴られっぱなしになり、そして、更にその暴行が加速し、若者に襲われてなくなった人がいることが報道された。(どうもこういう文字通り実現しようとする精神性を持つ人は福音派である程度はいそうなような気がする)亡くなった方は、聖書のことばを実現できたとして、自分は信仰を示せたと思われたかもしれないが、結果として、何人かの少年が殺人犯となることになった。このころされた人はその少年の人生が狂ったことに関して、責任が取れていないのではないか。このような人を生んでいるという意味で、人類が持つ文書の中で、最も危険な過激な文書が聖書であるし、イエスのことばであろう。

     

    山上の説教についてのさまざまな理解の方法論があるが、冒頭の「罪を犯させるのなら、手を切り捨てよ」といった表現は、神の思いの重要性を主張するための誇張表現として理解できるのかもしれない。とは言いながら、天の父が、完全である様に完全になれ、という表現もあるし、このような点を強調すると、精神的にある意味追い詰められてしまい、精神がおかしくなる場合も出てくる。


    この人間を追い詰めかねないかのような山上の説教に対する戸惑いは、多くのキリスト者、神学者たちの戸惑いでもあった。この厳しいイエスのことばをどう理解すべきかを考えてみたい。

     

    3つの解釈のアプローチ
    代表的な解釈のアプローチとして3つあるが、それは完全主義的な解釈、実行不可能説的な解釈、中間的倫理的解釈の3つである。以下順次触れていきたい。


    完全主義的な解釈
    この解釈は、イエス自身の発言にあるのは、律法学者を排除するためではなく、律法を成就するところに強調を置いた主張となっている。当時のファリサイ派の人々は、教条主義や些末なことにこだわり重箱の隅をつつくような考えにはまり込んでいたようである。そして、彼らの理解とその細目的な行動基準を守らないイエスを批判していた。

     

    マタイ23章には、重い荷物を人々の背に乗せるけれども、指一本も貸そうとしない存在としてファリサイ人たちが描かれている。このような言葉は、司祭みたいな仕事していると突き刺さってくる言葉である。ある面、聖書の根本的な理解が忘れ去られているという問題を示しているといえよう。律法とその精神が全うされなければならないと突きつけているかのようである。


    また、あなた方の義が律法学者やファリサイ派の義に勝っていなければならない、ともイエスは言う。当時のファリサイ派の人々は、言うだけで実際には実施しない人々であった。

     

    ところで、山上の説教の岩の上に家を建てた人のたとえ話は、レビ記の精神と同じであり、

    【口語訳聖書】レビ記
    18:5 あなたがたはわたしの定めとわたしのおきてを守らなければならない。もし人が、これを行うならば、これによって生きるであろう。わたしは主である。

    を言いかえていると考えることもできよう。根本的な神の戒め、神を愛せ、隣人を愛せに尽きるところに根本を置いて、聖書を理解し直せといっているかもしれない。

     

    この主張の激しさ故に、聖書や教会に躓いて、こられなくなる人々がいるもしれない。

     

    実行不可能説
    実行不可能説は、この山上の説教を守ることは、普通の人には無理なので、そもそも人間が実行不可能であるので、神に頼るしかないという立場であり、ルターとその後継者の立場であるといえるだろう。

     

    イエスは自分が弟子たちを戒めているこの戒めを守れないのはそもそも承知の上で、この峻厳な言葉を説教された、とする立場であり、自力では救われないとする立場である。キリストの救いの必要性を求めるために、人間が人間の罪がわかるための鏡としてこの説教をしたという立場である。つまり、人間の罪の深さの途方もなさを知り、その罪深さについて、全身全霊を以て受け止めるかのような理解のために突きつけられたのがこの解釈であるといえる。

     

    律法規定には、安息日は、仕事をしてはいけないとある。当時のユダヤ人は、仕事とは何か、という定義を突き詰める方向で議論していった。その体系がファリサイ派の理解の概要様である。そして、休みの日に休めない人を鼻であざ笑う人も出てくる。イエスは、それに対して、安息日に休めない人たちをあざ笑う者たちに対して、確かにあなた方は安息日の律法をパーフェクトに守っているかもしれないが、それを守れない人々を鼻であざ笑うことは、神の律法の根源である他者を愛することをできているのか、と問うている。

     

     

    そういう面で言うと繁文縟礼的なユダヤの律法は、まだまだ軽く、山上の説教の方が人間を苦しめるというところがある。そして、山上の説教から、自分たちの不完全さに気づいたのか、ということを問い、神にすがるしかできない、という面を問うている。そして、その不完全な人間のために、イエスの十字架と復活が神に近づく道を開いたので、それを信じよう。これはほっとする解釈であるといえるだろう。イエスの教えをローマ帝国に伝えていった使徒パウロは、主を信じる信仰こそが救うのだ、という主張をしている。


    律法の役割を信仰によって義とされるための養育掛だともパウロはいっている。イエスの完全な信仰が地に表わされた以上、養育掛の下に居る必要はないというのがパウロの主張のように見える。

     

    しかし、山上の説教はパウロの信仰義認の片鱗すら見られない。パウロは、律法理解の一面だけを取り上げているのではないか、とも言えるかもしれない。しかし、山上の説教は、神が完全であるようにあなた方も完全であれ、ということも主張していることを考えると、この理解は問題があるように思われる。(このあたり、NPPともかかわる問題だろうと思う。)

     

    しかし、実行不可能説の様な神のあわれみによる逆転があるということをイエスがいおうとしたわけではない説がある。

     

    中間的倫理的理解
    シュバイツァー(アフリカに医療伝道に行ったり、史的イエスを提唱したりしているマルチな人物)の解釈が代表的であるが、実際には、この世の終わりが近づいているという中間的な期間の間にだけに当てはまる解釈であるという立場である。イエスが言ったことは、そもそも神の国の福音であるということを考えることは重要であるとしている。マルコ1:15などを見ても、神の国が人間の手に届くところまで来ているという理解ではないだろうか。神の国に入れるように悔い改めて、福音を信じろというのがイエスの主張といえるだろう。その意味で、神の国がすでに来ているという状況であると理解する。

     

    さらに、終末は、単なる終わりではなくて、新しい時が始まるための破壊の時であるという理解であり、イエスの死と復活により、現代の悪との全面戦争状態が始まった。最後の決定的な局面での緊急の命令が山上の垂訓であるという理解である。ある面、余裕がない状態であるのだから、死人のことは、死人に任せておけばよい。そして、いろんなものを捨てて、神に従っていけばよいとする立場であり、天国はそこまで来ているのだから、そこに全部のものを捨てて神のもとに行けという理解である。

     

    たしかに、パウロは今の危急の時という表現をしている部分はあるが、イエスの表現にはあまり現在は切迫している危機の時だといっていない印象がある。その意味で、この解釈には課題はあるし、おそらく普遍的にどのような状況にあっても、イエスの弟子たち、イエスに従う者たちに与えらえれたものとし、守るべきものとしてこの山上の説教は語られているのではないだろうか。

     

    終末と終末論をどう考えるか

    古代のギリシア文化であるヘレニズムの中で、一種時間や歴史は、夏があり、秋があり、冬があり、そして春があり、また夏が巡ってくるような、永遠に循環し続け繰り返されるものとして理解されていて、これは、ユダヤ的理解以外の社会や文化ではかなり普遍的である。(このあたりは、小山晃佑さんの「富士山とシナイ山」でも触れられている)


    ところが、ヘブライズムでは、始まりと終わりが基本的にあり、出発点である起源と到着である終わりが明確に存在し、それに向かって行く、一種の直線的(一方向的?)なものとして理解されている。


    なぜ、ヘブライズムとその影響を受けたキリスト教、ムスリムの世界観では、始まりがあって終わりになる方向に向かっているかというと、それは、神からの啓示があったことによるのであり、神が始まりを設定され、そして終わると告げられたからである。

     

    終末とは、聖書の世界では、新しい天と新しい地であるが、そこで実現するのは、人と神が共にいるという状態である。それが、もうすぐそこまで来ている、といったのがイエスである。終末というのは、主の日とも、神の国ともいわれるが、裁きの日といういい方もあり、何かが総決算されるという概念がある。

     

    イザヤ書から見る終末

    例えば、旧約聖書で言えば、預言者イザヤは、

    【口語訳聖書】イザヤ書
     11:6 おおかみは小羊と共にやどり、ひょうは子やぎと共に伏し、子牛、若じし、肥えたる家畜は共にいて、小さいわらべに導かれ、
     11:7 雌牛と熊とは食い物を共にし、牛の子と熊の子と共に伏し、ししは牛のようにわらを食い、
     11:8 乳のみ子は毒蛇のほらに戯れ、乳離れの子は手をまむしの穴に入れる。
     11:9 彼らはわが聖なる山のどこにおいても、そこなうことなく、やぶることがない。水が海をおおっているように、主を知る知識が地に満ちるからである。

     

     12:4 その日、あなたがたは言う、「主に感謝せよ。そのみ名を呼べ。そのみわざをもろもろの民の中につたえよ。そのみ名のあがむべきことを語りつげよ。
     12:5 主をほめうたえ。主はそのみわざを、みごとになし遂げられたから。これを全地に宣べ伝えよ。
     12:6 シオンに住む者よ、声をあげて、喜びうたえ。イスラエルの聖者はあなたがたのうちで/大いなる者だから」。

     


     2:4 彼はもろもろの国のあいだにさばきを行い、多くの民のために仲裁に立たれる。こうして彼らはそのつるぎを打ちかえて、すきとし、そのやりを打ちかえて、かまとし、国は国にむかって、つるぎをあげず、彼らはもはや戦いのことを学ばない。

    といったような形で、終末の状態が預言されており、 2章では、武装は姿を変えられて、平和な農具に作り替えることが預言されている。

     

     

    この内容を実際に実現するのが、メシアであり、油(膏)注がれたものであり、それをギリシア語に翻訳すると、キリスト(ハリストス)である。つまり、メシア、キリスト、救い主は同じものである。しかしながら、ユダヤ教の人にとっては、イエスは、キリストではないことになっている。

     

    ところが、キリスト教では、イエスの十字架とその死と復活によっていのちをえたことが救いであり、このイエスの死によって、世界と人類は救われたといっているし、死者を復活させるとも言っているが、それが未だに起きている状況がないので、神の国が来ているとは言えない。

     

    非常に不完全な例ではあるが、日露戦争のことを考えてもらいたい。日本海海戦でバルチック艦隊は統合艦隊により殲滅状態になり、ロシアは対日本戦益を続ける意識を持たなくなっており、実質的に日本は勝利したが、それが法的に国際的な承認を得るかたちで実現したのは、ポーツマス会談であり、その段階で終戦処理が完全なものとなった。もちろん、そのようなモデルは実に不完全なものであるが、そう考えるとわかりやすいかもしれない。神を信じる者が完全なものとされるのが審判の時である。

     

    このことは、聖体礼儀で必ず唱える、ニケア・コンスタンチノープル信仰告白(信経)の最後に出てくる部分である。

     

    我、認む、一の洗礼、以て罪の赦《ゆるし》を得《う》る、を、
    我、望む、死者の復活、
    並びに来世《らいせい》の生命《いのち》を
    アミン

     

    それはある面で言うと不完全なものが完全になるという理解である。

     

    3つの終末理解

    終末理解にも3つあって、それは未来終末論であり、もう一つは現在終末論であり、もう一つが、終末開始論である。

     

    終末未来論

    最初に取り上げる終末未来論は、自動車で、神の国が来るので、悔い改めよ、という放送をして回る人々が代表的な立場で五、やがてくるものとしての終末としての理解である。つまり、この世の終わりは、まだ来てないこれから来るという理解であるといえよう。

     

    (この立場に立つと以下のような絵が描かれることが多い)

     

     

    しかし、こう考えてみると、宮崎アニメには、終末論的な設定が多いような気がする。

     

    ラピュタ

    風立ちぬ

    ナウシカ

    未来少年コナン

     

     

    終末現在論

    終末現在論は、実は終末はすでに実現したものであり、キリストの到来でその受難と死を受け、復活されたことにより、目には見えるかたちではないけれども、現実のものになった、という理解である。


    マラナタは、一般に主の到来を望むと理解されているが、マラン・ナタ (主は来てくださった)とも理解できることがある。


    C. H.ドッドの『使徒的宣教とその展開』では、現在終末論に立ってかかれているが、この立場で終末的理解を体験的に表しているのは正教会の聖体礼儀である。と同署の中で指摘されている。新約聖書内には、イエスの到来により、何か全く新しいことが始まったこと(たとえば、闇の中に光が輝いている、など)が示されている。

     

    キリストにあって、とキリスト者は手紙の文末に書くことがあるが、それは、ギリシア語でのエン・クリストス、英語だと、In Christであるが、これは、キリストのうちにあって(正教会的には、教会にあって)という意味である。これが起きたのは、イエスの来臨以降からである。

     

    開始された終末論

    最後の開始された終末論であるが、終末としての神の国はすでに始まったのであり、それはキリストにあって開始されて成熟しつつあるという理解である。今は見えてないが、だんだん見えるようになってくる。神の国はパン種のようなものとか、からしだねの木という譬えで語られているのは、そのあたりのことを示しているのだろう。

     

    どれか一つでない正教会の終末論

    ところで、正教会の終末論はどれか、ということであるが、どれは言わないのであり、概念規定することを正教会は極めて回避しようとするところがある。全部の考え方を包含した概念であり、特定のものとしない。様々な聖書理解を排除しない。断定的な教義化をできるだけしないところに特徴がある。それが正教会の神学の特徴であるといえよう。

     

    (個人的感想

     どれか一つにしてしまわないというのは、実にヘブライ的伝統を継承していらっしゃるのではないか、というか、包摂的というか、と思った。なかなかこういうどれか一つに意図的にしないという知恵というのはもう少し近代時代を経て、真理は一つという概念に毒されている日本のキリスト教会で知られていいのではないか、と思った。自分と考えが多少違う人々の話を聞くと、こころのシャッターをがらがら、と下してしまい、「あんた異端、私こそが正統」ということを平気でいう人々には、少し考えてほしいと思う。)

     

    比較的最近に生まれた終末議論

    終末論自体、19世紀の中ごろから使われ出したに西洋で作りだされたことである。正教会では、あなたは救われましたかというような聴き方はしないし、それは、非常に落ちつきが悪い質問となる。正教会側からすれば、救いが約束されているというのは、今も救われ続けているという側面を持っているので、救われたとは言わない。それと同じように、終末も、すでに実現し、今も実現しつつあり、やがて実現しつつある、というのが近似的な答えといえば答えになるかもしれない。

     

    (個人的感想

    この終末理解を巡る問題は、ディスペンセイション説を巡って出現するようになったのではないかと思う。まさしく、ジョン・ネルソン・ダービー君が言いださねば、不幸な終末論理解での教会内対立といえば聞こえがいいが、神学的どつき合いはなかっただろうし、もうちょっと平和だったかもしれないが、まぁ、これが無くても、別の理由で内ゲバしていたかもしれない、とは思う。あの時代に終末論が流行ったのは、西ヨーロッパ各国で王政が崩壊し、アメリカは宗主国に向かって独立戦争を仕掛け、それまでの古い社会システムと社会秩序が崩壊し、世も末状態が西ヨーロッパ諸国で起きたからではないか、と思われる。)

     

    メイエンドルフ(アメリカの正教会の神学者)の『ヴィザンティン神学』という本が在るが、その中に、サクラメントに終末の機密は示されている。というような表現がある。永遠の次元の中に移っていることを日々の礼拝(聖餐式、サクラメント)の中で、体験しているという考え方である。とは言いながら、正教としては、世の中を正しくしていくことにはあまり関心はない。信徒として出会う人々(隣人)に愛を注ぎ、奉仕するという概念はあるが、教会が社会変革の担い手になろうという発想はない。(日本基督教団では、社会派というグループが存在し、社会変革の担い手になる方がよいとご主張の向きもあり、戦争責任や社会とのかかわりをめぐって、1960年代には教団の中での闘争により分裂したことがあるらしい。)

     

    正教会の終末理解

    終末は終わりではなく、ある種の完成ではあるけれども、さらなる完成に向けて変わり続けていく世界である。それを、力動的終末といい、ある種ダイナミックに変革があることを想定した終末であり、静的なものであるとは指定はいない。100%の完成から次の100%の完成へと限りなく変容されていくものである。その理解は、栄光から栄光へと主と同じ姿に変えられていく、といったパウロの言葉などにも表れている。絶えず変化する完成が終末といっていいかもしれない。

     

    終末は、正教会の伝統で言えば、無限上昇していく世界であり、人間とすべての被造物との力動的状態、終わることのない愛の力動的上昇、新しい愛の一致を見ていく社会である。そして、永遠のものにここで終わりという限界はないと考え、三位一体のように、限りなく一つになっていく動きが終わらない状態のことを考えている。果てしのない終末へ向けての始められた終末であり、たどり着くことのない終末を考えている。

     

    アナフォラ 聖体礼儀の祈りがあるが、その表現の中に、今ここにある終末として、全てのことを行いつくしてくださいました、という表現や、再臨を記憶して問う表現があり、それらのように、これから到来することを記憶するという表現がある。

    アナフォラの祝文(抜粋)
    あなたとあなたの獨生子《ひとりご》とあなたの聖神《せいしん:聖霊》は、言い表すことも、思い描くことも、見ることも、把握することもできない永遠不変の神であり、私たちを無から創造し、あなたから離れ落ちた私たちを再び引き上げ、その上に天にまで登らせて、来るべきあなたの王国の到来まで、全てのことを(いま、ここに)行いつくしてくださいました。

     

    私たちは救いを与える主の戒め、また渡した著のためになされたすべてのこと、即ち、十字架、墓、3日目の復活、天に上ること、父の右に小指になったこと、そして、その再臨を記憶して、あなたの賜《たまもの》をあなたの僕たちから、全ての民に、一切のためにあなたに捧げます。

     

    キリストは、人となった神の姿と正教会では理解している。その人になった神の御姿を見て、伝わり、それを信じた。そして、神の御姿を目に見えるものとして私たちもみた。人の本来の在り方をハリストスにおいてみたと考える。そして、ハリストスご自身がこのような終末に向かっての生き方を生きなさいと戒められたことが山上の説教である。その意味で、山上の説教は、言葉による神の似姿のイコンであると考える。

    (正教会系で、イコンを作るのは、人としての神であるイエスを見たからであるという理解があるらしい。そのことが書かれている本を当日ほかの方にお貸出ししたので、ここで引用できないのが残念であるが…)

     

    とはいえ、ハリストスによって山上の説教が示されても、それを生きるものとして生きる生き方をはじめていない。私たちの古い自分に死に切っていないから、古い人が存在しているために、実行不可能としか思えない。

     

    (個人的感想

    この部分を聞きながら、

    【口語訳聖書】ローマ書
     6:5 もしわたしたちが、彼に結びついてその死の様にひとしくなるなら、さらに、彼の復活の様にもひとしくなるであろう。
     6:6 わたしたちは、この事を知っている。わたしたちの内の古き人はキリストと共に十字架につけられた。それは、この罪のからだが滅び、わたしたちがもはや、罪の奴隷となることがないためである。
     6:7 それは、すでに死んだ者は、罪から解放されているからである。

    という場所を思い起こしていた。)

     

    神の御言葉通りの、そういう生き方をした聖なる人々の存在に触れていないとどうしても、実行不可能であり、この山上の説教を文字通りに実行するのはまずくて、そのような神のことばに純粋に従っていくような行いを希望する人のためには、正教会では、修道院がある。その修道院の優れた長老たちの姿の中に、実行不可能と思われたことを実際に可能にした人たちの姿を見ることができると考えるし、誇張があるにせよ、聖人伝をみる中に、実際にこういう生き方をした人、即ち山上の説教を実際に生きた人がいたことを示すことによって、信徒はそれに倣うことができるかもしれないという励ましを受けるのである。教会の伝統の中で、そのような人の姿に触れ、こういう人間の聖なるものに触れていないと、山上の説教の姿を見て感じる一種の絶望感からは脱出できないのではないか。

     

    洗礼の時に、その道に立たされたのではないだろうか。神が私たちを赦したのにもかかわらず、赦せないのであれば、天の父の赦しを分かっていないことになるのではないか。悪人の上にも善人の上にも同様に神が雨を降らせているのであれば、そのような恵みを示し、神が愛していることに倣って、私たちも敵を愛することができるのではないか。愛するのが無理であっても、せめて敵のためにも祈ることはできないか、ということが問われているのだろう。

     

    (個人的感想

    この理解を聞きながら、次の場所が迫ってきた。

    【口語訳聖書】マタイによる福音書
    18:23 それだから、天国は王が僕たちと決算をするようなものだ。
     18:24 決算が始まると、一万タラントの負債のある者が、王のところに連れられてきた。
     18:25 しかし、返せなかったので、主人は、その人自身とその妻子と持ち物全部とを売って返すように命じた。
     18:26 そこで、この僕はひれ伏して哀願した、『どうぞお待ちください。全部お返しいたしますから』。
     18:27 僕の主人はあわれに思って、彼をゆるし、その負債を免じてやった。
     18:28 その僕が出て行くと、百デナリを貸しているひとりの仲間に出会い、彼をつかまえ、首をしめて『借金を返せ』と言った。
     18:29 そこでこの仲間はひれ伏し、『どうか待ってくれ。返すから』と言って頼んだ。
     18:30 しかし承知せずに、その人をひっぱって行って、借金を返すまで獄に入れた。
     18:31 その人の仲間たちは、この様子を見て、非常に心をいため、行ってそのことをのこらず主人に話した。
     18:32 そこでこの主人は彼を呼びつけて言った、『悪い僕、わたしに願ったからこそ、あの負債を全部ゆるしてやったのだ。
     18:33 わたしがあわれんでやったように、あの仲間をあわれんでやるべきではなかったか』。
     18:34 そして主人は立腹して、負債全部を返してしまうまで、彼を獄吏に引きわたした。
     18:35 あなたがためいめいも、もし心から兄弟をゆるさないならば、わたしの天の父もまたあなたがたに対して、そのようになさるであろう」。

     

    赦し、ということを考えるとき、やはり、この場所は欠かせないのではないか、と思う。また、ここでは、赦すというのは、全て水に流すということではないことは、1万タラントの負債のあった人が後に許されてないことからも分かるのではないか、と思う。ここで祭司を売るという表現があるが、借金を払えなかったら、妻子が奴隷として売られるということを意味し、奴隷というのは、一種借金が返せなかった人への措置とういのもある様だ。もちろん、自分自身も奴隷になるのは当然のことであるが。)

     

    山上の説教と終末理解

    その意味で、山上の説教は終末から読み始めると分かるのではないか。至福、即ち終末で実現する福音の姿として、山上の説教を読む。永遠に終わらない終末において、神が完全であるように、自分も完全なもの(テオシス)なものに神がしてくださり、三位一体の神の似姿にしてくださる。こう読むときに山上の説教は我々を落ち込ませるものではなく、福音になるのではないか。


    正教会では、三位一体を非常に大事にするが、その三位一体こそが、神の似姿の本質を示すものであり、お互いの中での分かち合いというか、相互内在性を持つものなのだろう。そして、お互いが喜んで生きているのが教会ではないか、ということが言えるだろう。

     

    感想とまとめ
    この勉強会に参加して、一つ分かったことは、正教会では、基本的に人間の不完全さを認めていて(全的堕落というような壊れ方をしているのではなく、回復可能な形で堕落しているという理解だそうだが)、人間の努力だけではどうにもならず、神の力に依存している中で、本来終末において回復することの一部を示す人々が出てくるのであり、修道院という指導者(師父)たちと共に生きるという特殊な社会の中で、これからやってくる終末おける神のかたちが部分的に回復した人々の姿を見ることで、自分たちもその様に終末において完成に向けて動いているということを考えるという意味で、聖人というものを、信仰の先輩としてみている、一つの自分たちの生き方のサンプルになっている、ということで励ましを受けているという理解であることがおぼろげながらわかってきた。

     

     

     

     

    ドッド,平井清
    新教出版社
    ---
    (1997-03)
    コメント:なかなか良いらしい

    ジョン・メイエンドルフ
    新教出版社
    ¥ 5,076
    (2009-04)
    コメント:なかなか良いらしい。注文しました。

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