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2009.10.01 Thursday

日本での伝道活動の諸問題

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     Cururuでであったある方(foceさん)から寄贈されて、2冊の

    本を一気に読んだ。

    1冊は、
     新井英子著 ハンセン病とキリスト教 岩波書店 (1996)

    もう一冊は、

     宮坂道夫著 ハンセン病重監房の記録 集英社新書 (2006)

    である。

     この2冊の本を読む中で、明治以来のキリスト教会の持って

    きた限界というのか、課題を見たような気がする。非常に知的

    な刺激を受けた。そして、おそらく日本社会の中でキリスト教

    が受け入れられなかった理由がなんとなく整理できたような気

    がする。ハンセン病という特殊な事例、あるいは極端な事例を

    通して、そこに潜む問題とそれを弱めてはいるけれども構造的

    にキリスト教会の中に内在した問題である。

     おそらく日本社会でキリスト教が受け入れられなかったのは、

    啓蒙思想 − パターナリズム − メサイア・コンプレック

    スの複合意識であり、それに対する違和感であろう。つまり、

    上から目線の伝道、上から目線で語られる『正義』や『真理』

    に対する違和感なのではなかろうか。それが、いかに『聖書』

    と呼ばれる啓示の書に基づいた理解から出発しているとしても。

     啓蒙思想の場合、啓蒙する側(ヨーロッパ文明・本当にそう

    であるかは別として学があるとされる側)と啓蒙される側(非

    ヨーロッパ文明・学がないとみなされている側)に分かれ、

    パターナリズムの場合当人の利益のためという大義名分を掲げ

    ながらも、保護する側(国家とか保護者)と当人の意思を無

    視して
    保護される側(国民とか子供とか)にわかれ、メサイア・

    コンプレックスの場合、救う側(助けたいと一方的に思う側)と

    救われる側(助けられる対象に本人の意思とは関係なくみなさ

    れる側)に分かれてしまう。人々は、啓蒙される側、保護され

    る側、救われる側であることを望まない場合がある。しかし、

    近代を突き動かした社会構造においては、この両者は分かれ、

    この社会構造があると理解する立場に立つ以上、啓蒙される側、

    当人の意思とは関係なく保護される側、救われる側という対象

    を必要としてしまう。一つの教会という社会集団の中でも、

    この構造が発生する。その結果、共同体に分裂が生じる。

     本来、キリスト教は、共同体の宗教あるいは精神性を持つ社

    会である。ほかの宗教もそうであるように。しかし、17世紀を

    経て啓蒙思想が社会的な思想体系として幅を占める中(科学の

    分野では科学中心思想が理想化されていく中)、この啓蒙思想

    が聖書理解に大きな変質をもたらし、聖書理解を歪めていった

    ように思う。その行きつく先が、神学の場合、自由主義神学で

    あったように思う。あるいは、その反動としてのニュー・エイ

    ジ思想もその影響を免れていない。

     共同体としてのキリスト教会を再定義し、再構築していくた

    めに、聖書理解の中に隠されたこの

    「啓蒙思想 − パターナリズム − メサイア・コンプレックス」

    という一連の連鎖の再検討が必要だろうと思う。その再検討の

    際の手がかりになるのが、個人的には、ヘンリー・ナウエンの

    著作であり、ジャン・バニエの著作であると思う。いま、ジャン

    ・バニエ(うちの娘からは、ジーン・ビニールって誰?と言われ

    てしまったが。フランス語を知らないのでしょうがない。)をい

    くつか読みはじめている。

     いただいた本を読む中でのもう一つの発見は、新井氏が指摘し

    た「信仰と人権の2元論」である。これは、日本信徒の「神学」

    で隅谷三喜男氏が指摘した2階建ての教会(日常の霊性と主日の

    霊性が完全に分離した教会の問題)とおそらくパラレルである

    と思われる。同じ構造が2つの別の対象に共通して見られる。

    つまり、新井氏はハンセン病者への対応の中に、この問題を見

    出したし、隅谷氏は日本のキリスト者の生活の中にこの問題を

    見出したのだと思う。この問題は、深刻な問題であると思う。

     この信仰の二元論のもたらす影響は、教会運営にあらわれる

    ように思う。具体的には、日本人の牧会者が、無意識の中にあ

    る構造として、教会を疑似日本社会とした時に牧会者を疑似天

    皇とする父権的構造を教会の中に作り上げてしまう問題も、こ

    のうちに含まれてしまうような気がするし、また、その構造を

    これまた無意識のうちに作り上げてしまう信徒のうちにある日

    本人の霊性というのか精神構造の問題があると思う。

     その面で、ダグラス・マッカーサーが早期の段階で、GHQの

    指導者を下ろされたことは、日本にとって、幸運だったかもし

    れない。歴史家には許されない質問であるが、もし、マッカー

    サーが長期間GHQのトップであり続けるならば、彼と彼の価値

    観を中心としつつも、微妙に日本風に解釈しなおした思想体系に

    依拠する国家が出来上がっていたかもしれないと思うと、

    ちょっと考え込んでしまう。(今でも十分そうだ、というところ

    はありますが、もっと大規模に影響したでしょう。)

     この問題に対する解決策は、今の私にはないので、少し困って

    いる。ひたすら、この問題を具体的な教会の中でどう考えるのか、

    具体的な行為、聖書解釈を明らかにする行為を行っていく中で、

    考えていきたいとおもっている。そして、自己を批判的に眺めつ

    つ、聖書から語ることの意味と、そのアプローチを考えている。

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