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2016.06.15 Wednesday

「福音と世界」6月号と5月号 を読んだ

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    もう、福音と世界7月号が店頭に並んでいるころなので恐縮なのだが、Ministryの紹介記事を書いているうちに遅くなったが、今回は、福音と世界6月号と5月号のご紹介をしてみたい。

    最近面白い『福音と世界』
    数年前から、表紙がきれいに、そして明るくなったのが何より良い。手に取る気にさせる。



    この号は、非常に面白かった。最近のこの雑誌は、非常に面白い。今回の特集は、聖書と食(上の写真では隠れている)というテーマでお取り組みであった。そもそも、プロテスタントでは、聖餐共同体という概念とそこでの水平な社会が構成されるという部分が聖餐式の回数が少ないこともあり、かなり薄くなっているが、本来、キリスト教は聖餐共同体であったはずなのであるし、ハリストス正教会、カトリック、聖公会およびキリストの教会やキリスト集会など一部のプロテスタント派に分類される教会群では、その聖餐共同体という位置付けは保存されている。どの程度、信徒さんにそれが意識されているかは別ではあるが。

    食と教会、聖書を巡る諸々
    今回の6月号では、教会闘争(この言葉自体がもう、ヲワコン感が漂う言葉であるが…)的な概念で考えると社会派に分類される方々が、炊き出しということでお考えのことが強く打ちされた渡辺論文や、池袋の朝やけベーカリーを事例として、素朴に神の国の義をもたらすことを取り組んでいることについての中村論文もあった。

    そうかと思えば、教会の仕組みの中に、意図的に食事を含めるようにした背景と共食を考えた賈論文もあり、それぞれに興味深かった。とりわけ、境界(バウンダリー)の存在とそこで起きる共食という指摘は非常に重要で、境界を扱うこともあるミーちゃんはーちゃんの世俗の仕事と関連の深い地理学的な立場から考えてみても面白い視点であるようにも思った。もうちょっとコミュニケーション論的に考えると、もう少し何か言えそうだ、という気はしたが。

    そして、星野論文では、食を担っている農村、その農村での農村伝道のリアルを描きつつ、農村伝道とはどのようなものかを再考しつつ、農村伝道に結びついた固定概念の問題を取り上げておられるが、これは、現在の教会全般にも言える、現状の教会や伝道の”かたち”を無批判に是とする姿勢というか、そのような固定概念という意味では、多くのキリスト者にもあるようにも思うが。
    (紹介は順不同)

    なんちゃってハラール認証の実態も
    最近のインバウンド消費を狙ったかのようなあざといハラール認証とそのいい加減さを扱った前野論文も、非常に印象的ではあった。そもそも、イスラム世界については、日本人はあまりに鞭で、ハラルをどう考えるのか、ということをあまりに知らないようにも思う。ハラルかどうかは、神(アッラー)とその個人との間の関係の中で判断されるべきものであるものを、消費を喚起する、利用者を困らせないためのものにしてしまうのはどうか、というムスリムの側の理解もないわけではないらしい。

    とはいえ、大学院生時代に、日本に初めてきて留学生を何人かお世話したことがあるが、彼らからスーパーに連れていってくれと頼まれたので、ご案内したことがある。そして、日本のスーパーに行った学友のイスラム関係者、ヒンドゥ関係者がラーメンの袋についたかわいらしい豚のデザイン画や牛のデザイン画を見ながら、真剣に悩んでいる姿から、彼らにとっては、宗教的禁忌に触れないかどうか、ということが非常に重要なのだ、ということを記憶した出来事を思いだしはした。懐かしいことである。一応、当時も今もアラビア語もヒンドゥ語もウルドゥ語もできないので、英語で必死になって説明した記憶がある。

    30年前近くにはなるが、そもそも日本には、大学生協の食堂では、如何にいい加減であれ、ハラル食の提供すらも、考えられもしなかったため、食事に関しては自炊派が大半であった。

    埼玉大学生協食堂だそうです。 http://www.foodrink.co.jp/foodrinkreport/2014/06/17172644.php から 


    池田先生の語り口炸裂!!
    今回何より個人的には面白い、と思ったのは、池田論文である。まぁ、学部時代に当時茨城キリスト教短大でご教鞭をとられていた池田先生の古代オリエント史入門という授業をとった時のあの感動がよみがえってきた。やせた感じの背がひょろ高い先生が、250人教室にでっかいラジカセもって入ってきて、いきなり、以下の動画のような古代風エジプト音楽を流し始めたのだ。




    当然の如く学生は動揺する。ざわざわ感が教室中を駆け巡る。そして、開口一番、しずかでありながらも、そして、明白な声で

    「お静かに」

    教室は次第に、静まっていった。そして

    「古代オリエントの地中海の海賊は、このように船長を捕まえては言ったのであります。ところで、このような音楽を聞きながら、クレオパトラは、古代のエジプトの舟に乗ってナイル川を航海したのでしょう。」

    そこから授業である。面白くないはずがない。1時間半3か月の授業であったが、実に楽しみな授業であった。

    池田論文 「旧約聖書と食」から
    池田論文はこんな感じで始まる。
    もてなし(ホスピタリティ)と神の友
     その日の昼下がり、アブラハムは、マムレの歌詞の林のそばに張った天幕の入り口に座っていた。ふと目をあげると、前方に旅人らしい3人の男の姿があった。アブラハムは立ち上がると、走っていって彼らを慇懃に迎え、是非自分のところで休んでいくように頼む。
    (旧約聖書創世記18章1-5引用)

     異人に対するアブラハムの態度が極めて慇懃なのは、ひょっとして自分がもてなしているのは神のみ使いかもしれないという思い(へブル人への手紙13:2)からである。実際、異人を「神の祝福」として歓待する「もてなし」の精神は、ネゲブや市内の荒野の遊牧民(ベドウィン)たちの間で今なお生きており、彼らは通りかかった旅行者たちに声をかけ、是非自分の天幕によって茶を飲んでいくように勧める。(同誌 p.38)
    ここまで生き生きとあたかも見てきたかのように旧約聖書を語る説教に20歳の時まで不幸にして触れたことがなかったので、もう、ミーちゃんはーちゃんが一発で心酔したのは、言うまでもない。ビビビ・・・ときてしまったのだ。

     なお、イスラエル在住の 山森 レヴィ先生によると、ベドウィン出身のイスラエルの大学生は、大学に来ても、新しく知り合ったパーティばかりをする人が少なくないので、成績があまり芳しくない方がかなりおられるとの由である。彼らは、いまだに、彼らの先人、アブラハムと同じような生活を、近代的な大学という組織においても、お続けの模様である。数千年続けられてきて、民族に沁みついた身体性はそうは簡単に消えないのかもしれない。
     
    彼はまた、旅人を神の使いの様に慇懃に温かく迎え、自ら客の給仕をする「もてなし(ホスピタリティ)の鑑」でもあった。まるきり欠点のない人間ではなかったアブラハムが「神の友」(関連個所は引用者により省略)と呼ばれた理由の一つも、そこにあったであろう。
     この呼び名はイスラム教でも大切にされ、アブラハムゆかりのヘブロンのアラビア語名はアル=ハリール「(神の)友」である。(中略)
     旅人を温かくもてなす心は、即ち、民族や宗教の枠を超えて、差別なくすべての人を同じ「神の友」として迎える心である。(同誌 p.35)
    ここで、「民族や宗教の枠を超えて、差別なくすべての人を」とあるが、こういうことを書くと、すぐ「エキュメニカㇽにかぶれて…」とか、「社会派的だ」とか、「リベラルな考えにかぶれている」とかおっしゃる方があるが、本当にそうだろうか。池田さんは上記の引用文の後、箴言25:21を引用しておられるが、旅人をもてなすということを考えたとき、福音書からも考えた方がよいかもしれない。
    【口語訳聖書】マタイによる福音書

     25:34 そのとき、王は右にいる人々に言うであろう、『わたしの父に祝福された人たちよ、さあ、世の初めからあなたがたのために用意されている御国を受けつぎなさい。
     25:35 あなたがたは、わたしが空腹のときに食べさせ、かわいていたときに飲ませ、旅人であったときに宿を貸し
     25:36 裸であったときに着せ、病気のときに見舞い、獄にいたときに尋ねてくれたからである』。
     25:37 そのとき、正しい者たちは答えて言うであろう、『主よ、いつ、わたしたちは、あなたが空腹であるのを見て食物をめぐみ、かわいているのを見て飲ませましたか。
     25:38 いつあなたが旅人であるのを見て宿を貸し、裸なのを見て着せましたか。
     25:39 また、いつあなたが病気をし、獄にいるのを見て、あなたの所に参りましたか』。
     25:40 すると、王は答えて言うであろう、『あなたがたによく言っておく。わたしの兄弟であるこれらの最も小さい者のひとりにしたのは、すなわち、わたしにしたのである』。
    しかし、イエスは、エキュメニカルだったり、社会派だったり、リベラルだったりするのだろうか。そうかもしれないし、そうでないかもしれない。

    (一番いいところは、是非お買い上げになって、お読みください)

    そして、この論文はこう結ばれる。
    預言者は、人間も動物も菜食戻り、同じ「神の友」として仲良く生きる、平和な共生が回復する終末論的救済の時の到来を予言した。
     狼は子羊と共に宿り、
     豹は子山羊と共に伏し、
     子牛と若獅子と肥えた家畜は共にいて、小さな少年がそれらを導く。
     雄牛と熊は草を食べ、
     相共に伏すのはその子ら。
     獅子は牛のように藁を喰らう(イザヤ11:6-7)
    平和と共生を愛する思いは、知者も同じ――
     野菜一品で、そこに愛があるほうが、肥えた牛の料理と、そこに憎しみがあるよりも良い(箴言15:17)
    (p.40)

    実は5月号「特集 聖書とお金」もよかった

    『福音と世界』5月号は、特集が「聖書とお金」というテーマであった。似たようなタイトルの本『お金と信仰』を高橋先生が書いているので、ちょっと面白くて、違いがあって面白くてよかった。

     長谷川論文「旧約聖書とお金」はユダヤ社会の通貨の変遷を考古学的に追った後、旧約聖書の世界の中での金利の考え方や、それがヨーロッパに拡がる中で、反ユダヤ主義とのつながりなどを解説していた。金利をとらない金融は、イスラム金融と同じであるが(息子君のイランの経済研究につき合って勉強している)、実際には、手数料という価値での金利(というよりは、債券での利回りの設定がなされる、あるいは手形の割引のような形で金利をとる)が行われているのは、まぁ、なるほどなぁ、と思った。

     「恵みとしての献金」と題された佐竹論文は、ギリシア語でどのような語が献金に用いられているか、ということで、献金について、そしてその当時のキリスト教会の姿って、こんな風だったかも、ということを指摘している。その中で、印象的な一部だけを紹介するにとどめる。
    人間の目指すことの多くは金銭の不足によって挫折し、経済の安定を約束すれば将来に明るい展望が開かれるかのように人々は錯覚する。これは世俗社会においてのみ起こる錯覚ではない。教会にも一つの共同体としてこの社会の一隅で営みをはじめた当初から、この錯覚はついて回った。(同誌5月号 p.17)
     山口論文では「タラント」の譬えについて再考を促す。やや読み込み杉かも、と思われる点が皆無ではなかったが、イエスの教えが社会秩序を覆しかねないものであったこと、ローマ帝国の社会秩序とぶつかったという指摘と、現代社会の中で、神の国の正義を求めてどのように生きるのかを聖書から考えるべきではないか、という指摘は、N.T.ライトさんの指摘の一部とも重なる指摘だなぁ、と思った。

     「地球温暖化時代21世紀の経済活動」と題された東方論文では、地球の管理者としての人間の生き方をどう考えるか問題を取り組んでいるが、スチュワードシップという語を鍵概念にしながら、論文が広がっていくが、アーミッシュや、アッシジのフランチェスコの様な生活様式の重要性を説くが、これを追及した結果、地球の人口はおそらく現在の人口の100分の1しか養えない現実をどう考えるのか問題とのバランスをどう考えるか、そして、現実的な意向をどうするのかは問われるかもしれないと思う。また、失業者を嚢号に参加させるというのは、アメリカでは20世紀初頭から取り組まれてきたことであるが、アメリカという土地がかなり広大で政府保有地がかなりある状況下でもことごとく失敗した社会実験の一つでもあることを考えると、どうかなぁ、という素朴な感想を持った。

     梅津論文「神と富との間」では、ピューリタニズムと職業観や取引と隣人愛を考え、17世紀のイギリスという背景の中での富の再分配をどうするのか、などのピューリタンの考えを紹介している。そして、ピューリタンたちが「富を、神のために良き業のためにお金を用いる」ことに腐心した、ということが指摘されていた。

    資本主義に生きる教会…で、どうする?
     今月号で一番意外な論文で、一番面白かったのは、「資本主義に生きる教会」という南野論文であった。南野さんは、メノナイト・ブレザレンという、ミーちゃんはーちゃんがもともといた教派とは聖書的理解が本来的に近しい関係にある集団の神学校の先生でもあり、大阪聖書学院でも教鞭をとっておられるいわゆる「福音派」の方である。その方が、「福音と世界」にご寄稿とは…。

    資本主義とは何か、を簡単に振り返った後、キリスト教と資本主義の関係、影響について論じ、そして、「キリスト教会が訴えてきた倫理には資本主義との親和性が認められてきた」と西洋での資本主義とキリスト教倫理との関係を指摘した後、しかし、弱者の開放という聖書の基本姿勢(これが、『神のデザイン』のテーマの一つ)であることを指摘し、抑圧するものへの抑圧の放棄を迫っていることを指摘しておられる。さらに、次のような反省は重要だなぁ、と思った。この時代の宣教について、当時の時代背景とのかかわりもある、と言ったら、「宣教師の先生方の宣教は純粋なものであった、それを汚すとは何事か」とかいって怒りだす人がいるので困るのだが(そして、実際にミーちゃんはーちゃんに対してそのような苦情を言ってきた人もおられた)。
    実際、宗教改革前後の西ヨーロッパ教会の海外宣教は商業資本と結びつき、産業革命後は産業資本と結びついた宣教が欧米を起点に行われた。それは教会と資本との相互依存的な関係の中で遂行されたと言えよう。(中略)例えば、第2次世界大戦後、キリスト教会の世界宣教に資本から期待された役割としては、社会主義から資本主義を守ることも含まれていた。(p.38)
    と南野さん、実に手厳しい。さすが、預言者的性質を重視しておられるメノナイトのお方である。
    福音の内実を軽視し勢力拡大に注力する教会は、資本主義の横暴を黙認することになる。それは大きな歴史の問題というだけではなく、本質的な福音理解にかかわることである。(中略)
     教会もこのような、資本の論理を唯一とする考えにさらされている。実際、数的成長を自らの柱におく教会は、このような論理を無意識に自らのものとし、教会内外の関係を数的成長に一元化する(それは時に、献金を通じて商品経済に組み込まれていく)。(p.38)
    とか
    では資本主義が原因と思われる佐々間奈々出来と碁や苦しみを放置しておいてよいのだろうか。「何もできない」ということが、神と人との前で教会が何もしないことの口実になるのだろうか。教会に与えられている「他者に仕える」使命(宣教)はそのような口実を赦してくれないように思う。(中略)ここでは、現実への抵抗をその視座に置きたい。(p.39)

    とこれまた、実にメノナイトらしいのだ。とはいえ、ラウシェンブッシュの主張とも実に重なる。そして、近代と個の問題を最後で取り上げて居られ、そもそもの意味合いの違う個という語が、近代の資本主義と、市民社会においてで共通に用いられることが実は大きな誤解と問題を生み出しているのか、という指摘は重要だなぁ、と思った。
    そして、まとめの部分で次のようにもお書きである。
    ヤハウェの価値観やイエスの福音が時代を超えて意義のあることを認め、その実現・浸透に努めたい。そこに現代の資本主義に生きる教会の宣教の意義がある。(p.41)
    「キャー、かっこいい」とふざけている場合ではない。これは、メノナイトの皆様だけでなく、すべての教会に問われていることではないか、と思う。その辺、ライトの「クリスチャンであるとは」でも触れられている。

    また、この『福音と世界』の連載陣がすごいのである。そして、安定のクオリティである。

    ということで、なかなか充実の2冊でした。なお、この記事が公開される頃には、7月号、その特集は「 聖書と難民 」である。ドマンナカをついてきている。


     
    評価:
    高橋秀典
    地引網出版
    ¥ 1,620
    (2014-05-10)

    評価:
    エルマー マーティンズ
    福音聖書神学校出版局
    ¥ 2,700
    (2015-07-01)
    コメント:非常によろしかったと思います。構造として、旧約聖書をとらえる訓練になりました。

    評価:
    ウォルター ラウシェンブッシュ
    新教出版社
    ¥ 6,588
    (2013-01-07)
    コメント:高いけど、重要。特に福音派からのコメントが面白い。

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