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2016.06.13 Monday

2016年夏号のMinistryを読んだ(4)

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    教会が「居場所」を回復するためにという教会と地域福祉フォーラム21の記録からである。

    この”教会と地域福祉フォーラム21”のシンポジウムは「若者と居場所」をテーマとして開かれ、ニートや引きこもりなど、若者たちを取り巻く現状と、居場所を回復するために地域と教会がいかに連携できるかについて話し合ったそうである。
    その中でいくつか気になった面白い発言をひろってみたい。

    教会側と若者の思いのずれ
     そもそも、このフォーラム21の設定であるニートや引きこもり、ということが問題視されていること自体、個人的にはどうか、と思う。それもまた、現代における若者の在り様の一部でしかないものを問題視するのは、自分たちの生き方と違う、ということを受け入れていないだけ、あるいは、教会に若者が来てほしいというしたごころが、こういう視線にあるのではないか、と思った。
     

    小倉さん(若者関連のNPOのスタッフさん)
    面白いなと思ったのは、若い人たちに問って「居場所はありますよ」「遊びに行くところなんていっぱいあるよ」と。だから教会は、その優先順位だけが低いだけ。「居場所がない」なんて言われ方をするのは、ちょっと心外だと。(p.43)

    この小倉さんのご発言というのは、重要なことをご指摘ではないか、と思うのだ。実は若者は居場所はあるのだ。従来の在り様と違う形で居場所を持っているだけではないか、と思う。小金がある人たちは、喜んで、ディズニーランドや、USJに行くのだ。あるいは、そこまで金がなくても、友達とカラオケをしにもいくし、もうちょっとかねが無い人たちは、デニーズやガストなどのファミレスでたむろする方法もあるし、もうちょっとおカネがないとコンビニでたむろしている。これから夏に向かうと、コンビニの明るい光に引き寄せられるように、関東某県では、ちょっとやんちゃなバイクに乗ったお兄さんがたが、コンビニの駐車場にたむろなさるし、日曜日の朝は、だいぶとうの立ったお兄さんがたに混じって、パチンコ屋に門前列をなすというところに加わる方もおられれば、コミケと呼ばれるうっすい本を販売するイベントの開会前に列をなす人々もいれば、AKBとかの常設劇場やイベント会場に列をなす人々もいる。あるいは、冥土カフェ(メイドカフェ)と呼ばれるところに行く人々もいる。まぁ、おカネがなくても、市立図書館とか、公共施設に入り込むことはできるのである。

     以下に示す図は、AKBの東京ドームコンサートでのグッズ販売に並ぶ人々の列である。しかし、これだけ教会が若者を動員できたら、と思う半面、イエス様が生きて居られた時の群衆というのは、まさにこのノリであったのであろうし、この群衆を空腹で家に帰すにはさすがに忍びなかったのではないか、と思う。確かに、観客動員数という意味では、教会はAKBには勝てない。なんとかグラハムさんとかがわざわざアメリカから来られても、無理に動員された人の方が多いように思うのだ。すくなくとも、何とかグラハムさんより、動員しなくても集まってしまうAKBさんの方が、ビジネスとしては何枚も上手であると思う。


    AKBのGoodsを求めて、東京ドームに列する人々 http://p.twipple.jp/ZtGqg から

    そういう意味で言うと、結構おカネさえある程度あれば、若者にも行くところ、行きたいところはあるのだ。その意味で、ここで若者からのちょっと批判的な発言にあるように、居場所がないというのは、心外だ、というのは、大人(というよりは高齢者)が抱く若者像というのか、若者の理解である「若者はまずしい、行き場がない」という自分自身の経験に刷り込まれた意識、ないしは、オトナ側の思い込みに対する正当な批判であろう、と思うのである。それって、メサイア・コンプレックスじゃないか、と思うのである。

    キリスト教のリアルで関野さんが、御自身の教会でカフェをしようとしたら、年配の信徒の方から、「教会でカフェとは何事か」というご批判を最初は頂いたらしい。もし、教会が若者に居場所がない、というのであれば、教会でパチンコ台を置けとか、AKBのコンサートをしろとか、メイドカフェをしろと無理筋はいわないけれども、人と人が出あう場所としてのカフェとして教会の一部を提供するのに云々とかいうのは、どうなんだろうと思う。もし、教会が若者の居場所になろうというのであれば、「教会側の論理にすべて従ってください、そのうえでお越しください(あなた方が来ていいのはこの時間帯だけです。それ以外は来てもらっては困ります)」というのは、運営者側の論理としては理解できるとしても、居場所を求めている若い人からすれば、「なんだ、銀行や役所より対応悪いじゃん」となってしまうのではないか、と思う。

    さらに言えば、「若者に居場所がない」「若者に行き場がない」と、困っている若者がいると認識されておられるのであれば、どうしてその人のところに訪問しないのだろうか。イエスみたいに。イエスは寄ってくるものは基本的に対話は拒まなかったし、イエスは、イエスを必要とされる人のところに行っておられるような記述が福音書には結構あると思うのだが。ただ、イエスは、無理やり、来てほしくない、と思っておられる方のところに押しかけたりはしなかったのも確かだが。

    若者を愛してないのに若者に来てもらいたいという教会!?
    割とショッキングな表現だったのが、野田さんの次のような表現であった。教会は笑顔で接しながら、教会も牧師も若者のことを実は愛していないかもしれない、ということに関する指摘であった。

    野田さん(青山学院女子短大講師)
    反省点は、笑顔で接しながらも、実は若者のことを愛していないのでは無いかということです。これは牧師も、教会もそうですが、そもそも私たちがどこかで若者を煙たがっていれば、簡単に見透かされています。(p.44)

    しかし、若者を愛していないのに来てもらいたいというのは、どこぞの国の政府が移民の方々を愛していないのに、一時的な移民は移民労働者を入れようとしている政策の検討と似ていて、本音と建前の世界を垣間見るというよりは、本音としては、「自分にとって都合の良い若者だけに、自分たちの都合の良い時に、自分たちの都合で教会を支えるために(あるいは労働者となってくれる)若者(移民の方々)にだけ来てほしい」ということがこの発言や政府の政策には、現われていると思う。

    時限的な移民労働者と同じような扱いであれば、期間を限っての来会者として教会が若者を受け入れるのであれば、時限的な移民労働者が数年単位でご卒業いただくということと同様に、教会3年卒業説も、ある面で当然ではないか、とは思ったのである。

    なお、コミュニケーションとは、表面的な言葉や顔の表情だけではない。ボディ・ランゲージや声のトーンでもコミュニケーションしているのだけれども、言葉では来てくれてうれしいとか言いながらも、言葉の端々や、ボディ・ランゲージや声のトーン、対応の様子で人は歓迎されているかされていないか、を微妙に感じ取っていると思う。

    あるいは、
    佐々木さん(宗教法人「ホッとスペース中原」設立者)
    実は若者に来てもらうことで交わりをして、かかわることで、私たちの喜びや成長となる。若者とかかわることが本当は益なんだということを、しっかり自覚していないと、若者なんて本当は来てほしくないとというのが本音の部分であるのかなと。(p.45)
    という発言を見てても、同じことが感じられる。若者とかかわることで喜びや成長や益になるかどうかはその個別の教会によって異なるとは思うが、本音のところでは、「 若者なんて本当は来てほしくない 」と思っている教会は少なくないだろうし、自分たちの教会は自分たちの教会であってほしいと思っている教会や教会員が多いのではないか、と思う。そのあたりが、以下の動画の50分辺りからも垣間見える様な気がする。これは、若者を単位を根拠に半ば強制的に送り出す側の学校からのご意見であるが。


    『キリスト教のリアル』出版記念トークイベント「ゆとりボクシですがなにか」
    54:45辺りから、今のキリスト教会とキリスト教学校の若者のかかわりについて(週報偽造事件57分あたり、とかも面白い)
     
     Ministryのこの記事そのものを読みながら、そして、このMinistryのこの号の全体を見たときに素朴に思った感想は、「教会や教会員は、そもそも、自分たちが変わりたくないのではないか。変わっていくことに恐れを抱いているのではないか」ということである。そもそも、教会が固定しているということは、かなり暴論であるということは十分承知の上であるが、「変わっていないということは、ある面、教会は死んでいる」ということであるのではないか、と思う。あるいは、教会や教会員は、若者が教会にやって来て、教会が自分たちがなじんだものから変わっていくのに耐えられないのではないのか、とも思う。無理に教会が「生き生きしているぶりっ子」をする必要もないだろうし、教会員にも「生き生きしているぶりっ子」を強いる必要もないとは思う。しかし、変わっていく教会こそ、生きている教会の姿であるとも思う。その意味で、もっと普通の構えで、変わっていくという姿を受け止められる教会員と教会が増えるといいなぁ、とこのMinistryのこの号を思いながら思った。

    教会と教会の外部組織 
     教会は、教会をどう見ているのだろうか。自分たちの教会の建物の中だけが教会なのだろうか。自分たちの教派の教会とその周辺だけが、教会なのだろうか。それとも、他の教会の教会とその周辺を含めて教会なのだろうか。教会とクリスチャンだけで形成されるのが教会なのだろうか。そのあたりのプロテスタントとカトリック教会間の比較をしながら稲垣さんは次のようにまとめる。
    稲垣さん(東京基督教大学教授)
    ここで結論的なことを言うとしたならば、プロテスタントとカトリックの教会間の違いが、セッションを通じて感じられ、私たちプロテスタント側が学ぶべきものが、カトリックの側にたくさんあるということを確認できました。(中略)教会の中でできないことを、教会の外でJOC(カトリック青年者労働同盟)がやる。教会の中で活動することもできたけれども、最近の教会はカギがかかっている。そして様々な行事やルールがあって、他者への奉仕のようなことで精いっぱいで、自分たちのことを話す場がないと。これが教会の現状だと話されました。だから教会の外に居場所を作って、そこで青年たちが自分のことを吐き出して、問題を共有しながら、自己を改革していく。そういう場としてJOCが機能している。そういう場所としてJOCが機能している。ある意味で、それを成り立たしめる大きな教会感というものを私は感じました。
    (中略)
    そういう広い意味での教会というものをとらえたときに、神様の愛というものが、制度としての教会ではなく、その壁を乗り越えて、有機的な神のエクレシアというものを作っていく。そのような広い教会間を、私たちプロテスタント側が学んでいくということも大切ですね。その両方が車の両輪の様にして、神さまの宣教というものが進んでいくのではないかと。

    実はプロテスタントにも潜在的にあるんです。SCFの働きもそうだと思うんです。狭い意味での制度化された教会の外にそういうものを作って、さらにそこから教会へ人を送り、教会が人を育てて、またそう言うところに派遣する。(p.46)

    この稲垣さんのご発言は、案外教会理解を考える上で、非常にチャレンジングな問いをしておられると思う。つまり、地上にある神の国の実現の一部としての教会が、神の国の義をどのようにもたらそうとするのか、というチャレンジを受けたような気がする。そして、教会とは、教会員だけからなるものなのか、ということを考えた。

    そして、このことを考えながらも、先日大阪のハリストス正教会を何人かの多様な教派の牧師さんや教会員の方とともにお訪ねした。松島司祭にハリストス正教会をご案内していただいた後、聖堂とは別棟の集会室のようなところで2時間半以上お話を伺って、帰りの時、その集会室がある別棟の入り口が、小さな小学校低学年の子供たちの靴があふれるようにならんでいた、(そして、その一部は乱雑にあっちとこっちにと、わかれて置かれていたのがなんとも子供らしくてかわいかった)ので、えぇぇ、こんな光景を見たのはいつの日以来ぶりだろう、と正直思った。なんと、「キリスト教徒でも知る人があまりない、ハリストス正教会に、それも礼拝以外の平日に、こんなに子供が集まっているなんて、恐るべしハリストス正教会」と正直思ったのである。

    そう思ていたら、松島司祭はニコニコ笑いながら、「あぁ、それは、ここの3階の集会室でやっている公文に集まっている子供たちなんですよ。場所をお貸ししておりましてね」とおっしゃったのである。そのお話をお聞きし、「なぁ〜んだ」とは思ったが、でも、これも神の国を人々に分かち合うことの一部とも考えられるのではないか、とも同時に思ったのである。

    その公文の教室の運営者が教会員の方であるかどうかはお聞きしなかった。「別に、その必要もないなぁ」とミーちゃんはーちゃんは思ったのだ。そこにこだわる必要もないと思ったのだ。地域に開かれた教会の使われ方の一つかもしれない、と素朴に思ったのである。とりわけ、正教会のような儀式の実施とそれへの参加を伝道であるという理解に立つ教会であればこそ、このようなコミュニティの中に生き、動き、存在する教会の在り方は重要だと理解したからだ。ことばだけで語るのではなく、儀式をこの地上において執り行うことで、地にイエスがきたことを指し示し、神の国が地に及び、天と地が交わっていることを示すことこそ、福音伝道であるという立場故の一種の強みかもしれない、と思ったのだ。

    教会は、キリスト者だけで構成される、神のご計画は神を信じる人々だけによってしかならない、という概念に縛られておられる方も居られるだろう。それはそれで、お考えとしては尊重したい。

     しかして、旧約聖書を見るとき、あるいは新約聖書を見るとき、聖書はそのようにしてきているだろうか、とふと立ち止まって考えたのだ。旧約聖書での異邦の民や国々、バビロンやアッシリアですら、イスラエルの民が神のもとに立ち返ることのために用いられたのではなかったか、あるいは、次の聖句を思いだして、一種神のご計画の深さに恐ろしさすら感じた。
    【口語訳聖書】マルコによる福音書
     9:38 ヨハネがイエスに言った、「先生、わたしたちについてこない者が、あなたの名を使って悪霊を追い出しているのを見ましたが、その人はわたしたちについてこなかったので、やめさせました」。
     9:39 イエスは言われた、「やめさせないがよい。だれでもわたしの名で力あるわざを行いながら、すぐそのあとで、わたしをそしることはできない。
     9:40 わたしたちに反対しない者は、わたしたちの味方である。
     9:41 だれでも、キリストについている者だというので、あなたがたに水一杯でも飲ませてくれるものは、よく言っておくが、決してその報いからもれることはないであろう。
     9:42 また、わたしを信じるこれらの小さい者のひとりをつまずかせる者は、大きなひきうすを首にかけられて海に投げ込まれた方が、はるかによい。

    多分、我々のマインドセット(考え方の根拠というか前提)がどこかでくるっていて、上で紹介した聖書のことばを忘れているのかもしれない、とその時素朴に思ったのだ。その意味で、神の国をもたらすこと、神の国の御業をもたらすことの器ということの大きさを、感じずにはおられない。

     なお、今回号のMinistryには、今回意図的に紹介しなかった記事がいくつかある。それらも非常におすすめである。是非、お買い上げをお勧めする。


     


     
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