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2016.06.11 Saturday

2016年夏号のMinistryを読んだ(3)

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    これまでの2回も、Ministryからご紹介してきたが、今回もまた、Ministryから少し、ご紹介してみたい。今回は、これまで、日本のそして海外の高名な説教者の説教原稿をもとに、それがどういう構造を持っているのか、そこで言えることは何か、ということを探ってきたMinistryの看板連載であった(とミーちゃんはーちゃんは勝手に思っている)ので、「それが終わるのか…」と思い、しょげ返っていたら、なんと、説教鑑賞復活である。まさに、イースターの前後の違いの様に復活しているではないか。驚いた。

    それが、「平野克己の説教道場」である。

    そこで記念すべき、開始第1回目は、ある所で何度かお会いしたことがある田信さんの何年か前のイースターのときの説教を鑑賞してみましょう、ということであった。

    復活祭の説教ならでは
    クリスマスもそうだが、イースターも結構、主題があるため、説教者にとっては、説教するのが悩ましい日の一つなのである。なおかつ、人々を説教で語ろうとする世界をシェアするための信頼関係を作るためには、両者の世界が違いに意識をある程度向けないといけない。その為、説教者と聞き手の間にどうしても共通の土台、共通の前提知識、共通の部分を見つけ出さないといけないので、結構つらいのだ。

    クリスマスはその意味で、日本社会の中に社会の暦の中の一部としてすでに定着しているので、ある程度の共通土台があり、それを前提に説教を考えることは比較的容易であるため、まだ、説教者と聞き手との間に共有部分を作るという上では、考えやすい。しかし、イースターになると、これがこれまではあまりなく、まずイースターを聞き手の方にイメージしてもらうために、過去にも悪戦苦闘したことが多かった。特に年長者の多い場合、イースターはある面「ハイカラ」すぎるため、多くの人々に、なかなか、イースターを身近に感じてもらうことがしにくい日でもあった。

    ところが、ここ2〜3年は、いろいろな業者、特にコンビニ業界関係の皆様方が、ビジネスチャンスと思ったらしく、イースターをお取り上げいただいているようになり、なんとなく日本でも認識されるようになってきた。まぁ、2月という流通にとっての暗黒月(日数が少ない上に寒いので、売り上げが激減する)時期に売り上げを貢献してくれる可能性、単にバレンタイン・デーの後の消費喚起のためにイベントとしてのイースターには新規性があり、ある程度消費を喚起する形として流通業者にとって利用することが可能な形の祝祭の日として、イースターにも最近、目が向けられただけのことに過ぎないと思っている (この辺すごくブラックで冷徹でしょ、単純に、キリスト教の世界が日本でも一般化したとか単純に喜べない、マーケティングの世界にも首突っ込んでいる黒ミーちゃんはーちゃんがいたりします)。


    AEONさんのイースターフェアの画像
     
    ということで、田さんの説教をまずご紹介。田さんの説教を拝読しながら、ミーちゃんはーちゃんが思ったことを述べてみたい。説教鑑賞ではない。
    イースターは日本語で言えば復活祭です。死からの復活を祝うのです。十字架で死刑になった人が、三日後に死からよみがえったこといわいます。これではなかなか絵になりません。あまりに現実離れしていて、ウサギや卵を前面に出さずには直視できないのです。(p.48)
    ここで、イースターの持つ陰惨性とその陰惨な世界からの回復という祝祭の概念が同居していることについて、田さんは触れられておられる。これは案外大事なことではないか、と思うのだ。この両者が一つの儀式に込められているのが礼拝であり、聖餐だと思うのだ。以前の当ブログの記事

    『現代文化とキリスト教』を読んだ(5)

    でもご紹介したが、神への賛美のかたちとして様々なものがあり、現代の賛美のかたちとして、テゼのような静粛性を重視する、こころの痛みを見つめる様な静謐さを求める賛美の在り方と、逆に若者しかいない教会での、クラブと間違うような縦ノリの動的な賛美の在り方に至るまで幅広い賛美の形態がある。いずれも賛美であるということには間違いはないと思う。なぜ、このような両極端があるのか、ということを最近ある家人に問われ、考えてみたら、結局、礼拝(ないし聖餐)がそもそもこれらの二要素を併せ持っているからだと思う。礼拝の前半の静謐さの中に自分自身を見つめ直し、そして、その中に見出す傷をキリストの十字架上での傷と重ね合わせる時間(静謐さと深い関係がある)と礼拝の後半部、とりわけ、聖餐に与ることよってあらわされる十字架の死を通して神との和解が成立したことを喜ぶ動的な喜びの部分、神への賛美が向けられている部分を共に内包しているのではないか、と思うのだ。

    なぜ、同じ賛美でありながら、ことほど左様に両極端な賛美の様式論があるのかと考えてみれば、静謐さに走るグループは、礼拝前半の自らを見つめ直し、そして、キリストのコンパッションないしスプラングニゾマイに重ねていくことに関心があるのではないか、と思うのだ。逆に、動的な賛美に偏るグループは、霊はいん後半部分の神との和解とその喜びの部分に強調があるあまり、静謐さが軽んじられるのかもしれない。まぁ、もちろん、動的に傾いているグループでも、説教の部分やお証しの部分、献金の部分が静謐であり、それでバランスが取れている、というのはあるかもしれないが。この部分は、イースターから思い付いたことではあるが。

    余談に行き過ぎたので、元に戻すと、実はイースターというのは、バプテスマのヨハネの斬首事件と並んで、日曜学校で幼児に教えるのが一番難しい部分の一つでもある。だって、下手すれば、血みどろのスプラッター映画もどきの世界を語ることにもなりかねないからである。あるいは、イタリア絵画のこの分野の巨匠が描く様な残酷な画像の部分をどうするか、ということも考えないといけないが、しかし、如何に名画といえども、まさかイタリア巨匠風の絵画を幼児向け教材資料として用いるのは、ちょっと憚られてしまう(たぶん、父兄から確実に苦情がつきそう)。


    例えばこんなの https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Alessandro_Turchi_002.jpg から

    キリスト教と死と復活
    イースターの日の説教ということもあるが、この日の説教の中で、本来聖書の主要テーマである死と復活が実に丁寧に取り上げられていて、キリスト教の根幹にあるものが何であるのか、ということを田さんは実に丁寧に、かつ、明快に説いておられる。それは以下のような表現でもおわかりいただけるであろう。この説教道場のところで取り上げられている説教は素晴らしいので、是非、Ministryをお買い上げいただいて、全編をお読みになられることをお勧めしたい。
    この死という厳粛な真実に対して、キリスト教信仰は本当に助けになるのでしょうか。もし素晴らしい人生哲学、人生訓だけであるならば、それは死に対して全く無力です。(p.48)

    ここでは死んだ人のことを眠った人、と表現しています。私たちは良く、『やすらかに永遠の眠りについた』とか「永眠する」という言葉を耳にします。しかし聖書が教えているのは、死は決して「永遠の」眠りではない、いつか目覚めるときが来るのだ、ということです。ここに私たちの希望があります。(p.49)

    しかし、イエス様が確かに復活されたのだから、私たちも確かに復活するのです。死に対する勝利、これが私たちの救いであり、希望です。(p.50)
    この時の田さんのイースターの説教でミーちゃんはーちゃんが一番気に入ったのは、「 死は決して「永遠の」眠りではない、いつか目覚めるときが来るのだ、ということです。ここに私たちの希望があります。 」というこの部分である。

    そうなのだ、いつか目覚める、ということなのではないか、と思う。天国と呼ばれる所に行くでもなく、いつか目覚めるなのだ。この概念は非常に重要だと思う。先年、義父がなくなって葬儀説教を頼まれたので、葬儀説教をしたのだが、その時に繰り返し強調したのも、「いつか目覚めるときが来るのだ 」ということだった。それがどういう形であるか、その時どうなるか、といったことではなく、いつか目覚めるときが来るということを、新約聖書にある復活にかかわる表現からお話した。

    新約聖書で復活とかよみがえりとか訳されているギリシア語には二つあり(アナスタシアとエゲイロー)、それがいずれも静かな状態から、眠っている状態から朝になって起きる、活動的になる、または、目が覚めるということと深くかかわっているのだ、ということをまた改めて思いだしたからである。最初にこのことを教えてくださったのは、日本基督教団で牧師をしておられる沼田さんという方であった。そして、沼田さんから教えてもらった日に、家に帰ってから調べてみると確かにそうであったので、それ以来このことに思いを巡らしていた。そして、そのことを葬儀説教でも触れることにしたのだ。

    また、死は安息日の延長上にあることもお話した。イエスが十字架の死の後、安息日に墓の中で安息日をとられたことを。そして、そのあとにある、目が覚めるということを経験されたことも。そして、我らがそれに倣うことであることも葬儀説教で触れた。このあたりは、ナウエンの「ナウエンと読む福音書」のイエスの埋葬の部分のモティーフを借りた。

    誤解されている可能性のある救いの指摘
    日本(あるいはアジア)での宗教が、何らかの犠牲を持って、信仰の対象に訴えるという性質をそのどこかに含む。御念仏を百万遍とか、お百度を踏むとか、お神酒を献上するとか、榊を飾るとか、人柱ないし人身御供を差し出すとか、まぁ、いろいろある。


    京都大学の北東の角にある百万遍の交差点(京都大学の北西の向かいの交差点の端から、南西方向を望む写真)

    お百度石( http://p-lintaro2002.jugem.jp/?eid=852 から拝借)



    湯布院の夜神楽でヤマタノオロチの前に人身御供にされる姫のシーン
    (http://www.geocities.jp/jh5ozi/index/yufukagura/kagura.htm から)


    日光神社の中にある神社をかたどった酒樽保管施設と お供えされた 酒樽(http://my-nikko.com/kenshu-taru/ から)

    ここで、田さんは、キリスト教の救済と人間の側の行為に関して、次のように優しく語りかける。
    私たちがクリスチャンらしくなれたら救ってくださるのではありません。教会の礼拝に毎週通ったから、たくさん献金したから救ってくださるのではありません。神がイエス・キリストを通して救いを与えてくださいました。(p.51)

    神の愛の声が聞こえなくなる時、受け入れてもらおうと自分で走り回ることになります。神に喜ばれようとします。クリスチャンならば、奉仕をしたり、礼拝出席に励んだり、聖書を読んだり祈ったり、つまりもっと「クリスチャンらしくなろう」として頑張るかもしれません。しかしそのような頑張りは、むしろ神が悲しまれることです。私たちがどうであろうと神の愛は変わりません。「私はあなたを愛している」という声はいつも響いています。キリスト者の生活とは、何よりも、この神の愛の声に耳を傾けるところから始まります。
    私たちはその声をどこで聞くのでしょう。一人で静まって祈る中で聞くこともあるでしょう。しかし何よりも神の家族である教会で聞くのです。教会とは、神の愛の声を共に聞き、そしてその愛に生きたいと願い人々の集まりです。(p.52)
    これだと思うのだ。でも、案外、人が救われるということを日本人の神仏理解に合わせて、「 私たちがクリスチャンらしくなれたら 、(中略)教会の礼拝に毎週通ったから、たくさん献金したから救ってくださる 」と主張して、献金を神への誠意の表明のような形で救いと関連付けて語るような教会もないわけではないように思う。それでは、エリヤが対峙したバアルの神官と大してく割らないではないか、と思う。実に残念なことであるが。

    しかし、それは明らかに違う、ということをこの説教では、会衆に明白に印象付けているところが実に素晴らしい。そして、次の引用部の中でも、「 クリスチャンならば、奉仕をしたり、礼拝出席に励んだり、聖書を読んだり祈ったり、つまりもっと「クリスチャンらしくなろう」として頑張るかもしれません。しかしそのような頑張りは、むしろ神が悲しまれることです。 」と明確に述べておられる。実に清々しい。一方的な神の恵みを主張しておられるその表現に、某元首相ではないが、「感動した」の一言に尽きる。

    そして、神の愛のことばを聞く場所として、教会の中に招き、教会がどのようなものであるかについて、建物でも、儀式でもなく、「 教会とは、神の愛の声を共に聞き、そしてその愛に生きたいと願い人々の集まりです。 」と実に明快に述べておられる。そして、その神のことばを聞くための日が、安息日であり、共同体の中で神のことばを聞くのである。しかし、その日が、教会が礼拝とか、説教と呼ばれるものが行われる日だけに限って設定されるべきものか、というとそうとは限らないと思っている。

    ただ、現状では、社会システムが教会の暦法でもある7日システムの中で、今の日曜日が休む日に、国教会化したキリスト教の中で定着してしまっているので、日曜日が安息日と無意識に読み替えられている傾向はあるのではないか、と思っている。そして、安息日の読み替えとしての日曜日の礼拝厳守を無批判に受け止め、そして、日曜日の礼拝厳守を偶像に近い形でしいている人々もいるのではないか、と思う。しかし、神の救いがそういう日曜日には教会に熱心に主義そのものとは無縁だ、と説教の中で、語っておられるのは極めて印象的であった。

    教会員の役割
    信仰共同体(それは時間を超え、空間を超えた共同体であると思っている)における信徒(教会員)の役割りとは何か、ということについて、田さんは次のように説明している。
    教会員の皆さんに大事なことをお伝えしなければなりません。すでにバプテスマを受け、神の家族の一員である皆さんは、今度は新しく加えられる家族を養う側になっていただきたいのです。(p.53)
    まぁ、それはそうなのだが、実は新たに加えられた信仰者が、長い月日を教会で過ごした信仰者を支えていくという側面もあると思うのだ。それはまれであるかもしれないけれども。あるいは、新たに生まれた信仰者が、年月と風雪を経た信仰者が何とも思わずに過ごしていることへの気づきを与えるということもあるとも思うのだ。その意味で、教会員同士、お互い支え合う関係だろうとは思ったけど。

    (後日修正:どうもこの時にはこの教会固有の状況があったらしく、一般的な意味ではなく、特定のコンテキストがあった模様。確かに、文章だけで見てしまうと、ここらの改宗と説教者で作られる説教の部分が抜け落ちています。その点は、田様には大変失礼な表現となってしまいした。心よりお詫び申し上げます。)


    平野さんのツッコミ
    で、詳細はMinistryの本旨をご覧いただきたいのだが、田さんの説教をもとに実に興味深い対話が展開されている。
    「なぜでしょうか」と、聞き手に問いを投げかけることから説教をはじめています。(中略)教会員に向き合っています。この説教で<対話>しようとしているのがわかります。
    福音派、一方通行では相手の心には届きません。福音が届くためには、相手の心が開かれていなければなりません。だから聞き手との対話が必要です。そのことをあなたはよく知っていますね。(p.47)
    どの教会でも通用する普遍的で抽象的な説教ではなくー実際には、そのような説教は現実の聞き手には届かないことが多いのですー、今日、説教を耳にしている人の中で実現する説教(ルカ4:21を読んでみてください)を語ろうとしているのですね。それは大切なこと、とても素晴らしいことだと思います。(p.48)
    実は、この辺の聞き手との関係づくりというのは、実はミーちゃんはーちゃんに取って、あまり得意ではない。個人的には、まず聖書主題箇所を読んで、そして、やおら、「今お読みした聖書の箇所は…」とかやるほうが得意なのである。この辺のことを平気でやるから、学校の授業みたいとかいうご批判を受けやすいことは十分知っているが、個人的にはテキストと格闘してみたいというところもあるので、ついこんな風になってしまう。もう、これは個人の特性というものかもしれない。

    その意味で、最近経験した教会のことを思いだした。現在アングリカン・コミュニオンのある教会を中心に据え、近くのさまざまな教会巡りを自己研さんのためにしているのだが、その中である友人に勧められた教会に行ってみた。すると、その教会の教会員の皆さんは、よくご存じだけれども、キリスト者業界では超有名人でもないし、世俗社会でもみんなが知っているという方ではない方のお話が延々続いたのだ。もう少し具体的に言えば、説教40分くらいのうち、30分くらいを占めていて、その人の信仰深さだとか、あんなことがあった、こんなことがあった、とかという詳細なお話を礼拝説教として拝聴させていただく機会があった。

    たしかに、その教会の信徒さんにとってはおなじみの方なんだろうけれども、その教会に初めてきた人にとっては、全く知らない方の、あまりに具体的人物(お二人)のことをああだこうだ言われても、きょとんとするばかりであった。さすがに、途中で退席するという失礼なことはさすがに控えたが、もし私が信仰をもっていなかったら、間違いなく、足の裏のチリを払って退席したかもしないなぁ、とは思った。同じ、信仰を持っているといっても、共有していないものもあるのだ。この辺、説教においては、会衆の様子を見たバランス感が問われるのかもしれないなぁ、とその時思った。

    教会外を落として、内部を高らしめるというのはどうよ?
    教会外に否定的な目を向けさせ、そして、自分たちはどうだこうだというレトリックというか構造は、実際あちこちの教会でも見られる。プロテスタントの一部では、自分の教会外全部に否定的な目を向けさせ、自分たちだけが正しいとかいう論理構成でいろいろお話をしておられる教会もないではないと聞く。どうもカルトとまでは言えないけれども、カルト風、カルト化に向かいつつある教会では、実にかなりよく用いられる論法のようにも思う。

    一度、この論理で家人の一人が私に言い募ってきたことがある。

    私が車である所で説教奉仕(クリスマス会の説教奉仕)に向かっている途中に、その家人が私がナウエンとかの研究をしているのを知っていながら、あえて、「カトリック教会の人には救いがない」と根拠のない一般化した話を延々繰り返したことがある。やめてくれ、といっても、その話を繰り返しするので、「このままその内容を話し続けたいのなら、車から適切な駅で下してさしあげるので、どうぞお降りになってください。この話を繰り返されると、事故を起こしそうですし、今日の説教にも影響しそうなので」とお願したことがあったし、二度めには本当に家人を駅におろそうと思って、高速道路から一般道に向かいかけたことがあった。そのことを今回の平野さんの記述を見ながら思いだした。
    まず、<説教でよく用いられる言い回し>をよく吟味してください。
    例えば、説教の導入部です。
    「クリスマスに比べ、イースターは市民権を得ていない」、「クリスマスキャロルや装飾で街を彩るクリスマスに比べれば、ほとんど知られていない」というのは、説教でよく用いられるよう言のように思えます。恐らく、あなたはどこかで聞いてきた言葉を繰り返したのではないでしょうか。
    というのは、私自身こうした言い回しを何度も聞いたり読んだりするからです。クリスマスになれば、再びよく似た言い回しが用いられます。「街のクリスマスはイエス・キリスト抜きのお祭り騒ぎをしています」とはじめ、しかし私たち教会では…」と繋ぐのです。
    これらの使い古されたものいいに共通するのは、教会の外側を貶め、その落差を利用して教会の内側を高める方法です。
    (pp.48-49)
    カトリック教会の方に向かって、私の家人がしたようなことをした記憶がないが(記憶がないだけかもしれない)、世間の皆様に対しては過去にやったことがある。それは大変失礼なことであったと反省しているが、言ってしまったものは仕方がない。世間の皆様も神のかたちであることを認識していなかった、そのような誤解のトラップにはまり込んでいた(はめた人がいたというのはもちろんあるが、それを責める気にはなれない)からこそできたことではあるが。

    平野さんが言うように、外を落としその反動で自分たちを高い場所におくというのは神の領域侵害(高挙を自分自身でなしているからである)であり、この方法はまずいと思う。そして、それは、カルトが使う方法の一部でもあるようにも思えるのだ。そして、その方法は、神のかたちをどう考えているのか、ということがばれてしまう瞬間でもある。

    しかし、その論法を「使い古された」と平野さんがおっしゃっておられるところが面白い。

    根拠聖句として聖句を用いる説教
    先に紹介した出来事の家人が軽蔑の目を向けてやまないカトリックの司祭のお一人である晴佐久司祭がいるが(時々ついていけないと思うことがないわけではないが)彼の本に福音宣言という本がある。福音とは、神が 語ろうとしておられる ”喜びのできごと”そのものであり、司祭を含む司牧はそれを宣言しているのではないか、問うことを主張した本である。それは、ある面、説教の重要な面を指摘しているとは思った。そういえば、マクナイトも基本的に福音とは宣言であるということを『福音の再発見』の中で書いているし、N.T.ライトもどこかの講演だったか本の中で、神の一方的な提示として福音をとらえているような表現があったように記憶している。記憶違いかもしれないが。

    同じようなことを、平野さんもここでコメントして以下のように書いて居られるように思った。
    説教 ー特に復活を中心主題にする説教ー は、教えることよりも告知することが中心になるのではないか、と思うからです。
    この説教で、聖書テキストに直接かかわる言葉が語られるのは、27〜55行目と60〜81行目です。しかもその間、説教者と聞き手、蟻は、聖書と聞き手が対話することばはほとんど出てきません。つまり、この説教では、聖書のことばは、説教者が提出した命題を支える<証拠聖句>の役割を果たしているのです。(中略)
    聖書を<証拠聖句>、つまり、明大や教理の根拠を示し、教える素材として扱う場合の最大の弱点は、聞き手の問いが封じられてしまうことにあります。(p.50)
    じつは、ミーちゃんはーちゃんは、根拠聖句として聖書箇所を開くのが結構好きなのである。聖書のあちこちを言及し、聖書を開きまくってもらうような説教スタイルが個人的にはお気に入りなのだが、やはりそれはまずいよなぁ、と思うのである。ここで平野さんが指摘するように「 聞き手の問いが封じられてしまう 」部分があることを認めざるを得ないし、聞き手の聖書との向き合いや思いめぐらしまでが封じられてしまうという側面は否めない。20代頃からの癖であるが、説教を聞いているときには、説教とか、その日の聖句として上げられた聖書のことばと他の聖書箇所の関係を考えながら思いめぐらしていることが多い(すいません、説教者の皆さんの話に集中していなくて)。そして、そのノリでつい説教するときも、ここからはああだ、こうだとやりたくなってしまうのだ。

    そのような、次々聖書箇所が明けられるような説教では、聞いている信徒さんの側は、聖書を開くのに追いまくられて、聖書のことばを思い浮かべ、味わうことが十分にやりにくいのかもしれない、というのは、聞く側に身を置く機会が増えてから、改めて思ったことではある。

    ところで、前回の記事 

    2016年夏号のMinistryを読んだ(2)

    の中道さんの最後の連載記事の中の記述ではないが、日本のキリスト教会では、聖書を聴くものということが失われており、その結果、信徒は聖書を開きまくることを特段、説教者は求めていなくても、求めていると思って開けちゃう信徒の方というかそういうのが習い性になった信徒の方もおられるので、この辺悩ましいなぁ、と思う。

    特に「開けなくてもいいですよ、聞いてくださるだけで十分です」とは何度も言ってきたのだが、隣のひとが開けていると遅れないで開けなきゃいけない気になるらしい。この辺、説教と聖書の関係って悩ましいなぁ、とは思う。

    整い過ぎている説教
    落語の話で恐縮だが、 名人と呼ばれた落語家にはいくつかのパターンがあるらしい。

    関西落語で育ったので、関西の落語家しか知らないが、名人の中にも桂米朝さんやその弟子の桂枝雀さん(初期のころ)、そして、笑福亭仁鶴さんなどは、いつ聞いても安心できるような、整った落語をされる方々といってよいと思う。その意味で安定の品質の名人芸という名人であるように思う。しかし、名人の中でも、破れをもった名人もおられる。笑福亭松鶴(先代)の落語はそんな感じだったと弟子の笑福亭鶴瓶が以前どこかで語っていた。40点の時もあれば、100点以上の時もある、品質は安定していないが、面白い時にはむちゃくちゃ面白いというタイプの落語家である。恐らく、笑福亭鶴瓶や桂枝雀と同時期の桂米朝の弟子である桂ざこばは、後者の破れを持つ系譜に属する落語家ではないか、と思う。

    本来桂枝雀は前者の安定の品質を持つ完成された落語を語ろうとするタイプの落語家であったように思うが、後期には、その安定の品質、完成された落語の目指すタイプであることを意図的に離れようとして必死になっていた時期がある。ミーちゃんはーちゃんは、この時期の落語を大変たくさん見た。つまり、当時の枝雀師匠は正統的な古典落語の世界からの脱出を試み、本来の自分の姿ではない異形の落語家、破れを持つ落語家を目指したのではないかと思うし、それが彼を苦しめ、最後には自死にまで追い込んでしまったのではないか、と思う。なお、落語は仏教での法話(仏教の僧侶による解説)を人々が聞くようにするために生まれた芸能であるらしい。なお、この部分は余談である。
    この説教原稿はよく整っています。しかし、整い過ぎていているようにも思います。そのために、キリストという復活の異常なリアリティを伝え損なっているように思います。(p.53)
    確かにこの説教原稿は整っている。そして、よく考えられているともう。素朴にいいなぁ、と思えるある種の美しさはあると思う。そして、 信徒は説教をそのまま受け取れるという安心感にあふれた説教であることは平野さんの言う通りだ、と思う。しかし、それと同時に破れというか、信徒が入り込める余裕のなさ、説教が話される言葉のスピードにもよるが、ミーちゃんはーちゃんが、説教者のことばを聞きながらも、その説教から離れ、聖書のことばを思い浮かべて遊ぶような、というか、聖書のことばをふらふら楽しんで、次これが来るのではないだろうか、自分ならこの聖句を持ってくるが…という遊びはしにくいかもしれない、とは思った。大体、そういう不真面目な聴き方をミーちゃんはーちゃんがするから、教会でいろいろ言われてきた、のかもしれないと思う。

    ところで、先ほどの落語家の話に少し戻すと、落語家が40点や30点の時もあれば、100点の時もあるという破れというか、乱れのある落語家の落語を聞く場合は、聞き手が落語家のオチとかを補う必要があるし、そのような信頼関係が話者と聞き手の中にあるようになれば、破れがあっても名人ともいわれるようにもなるのだろう。今日は100点に出あえるかもしれない、という喜びを見つけるためにその人の落語をライブで見に行くのではないか、と思う。

    音楽でもそうだが、ライブにはライブ演奏の良さがあり(一期一会的な良さ)、録音には録音演奏の良さがある(安定の品質の良さ)。説教が説教と会衆でつくりあげるものであるというロイドジョンズの主張(どの本に書いてあったか忘れたが確か、説教と説教者であったと思う)は、ある面そのとおりとも思う。もちろん、ロイドジョンズが説教に膨大な時間をかけていたことは有名であるとは思うが。平野さんの最後のことばは、ロイドジョンズの説教に向かう姿を思いださせるものでもあったし、聖書の中に聴衆を招いていくことをお書きになられたいのだなぁ、と思うことになった。
    あなたは、あなたの説教者としての課題について、「聖書と共に聴衆をも十分に解釈すると書いていますね。本当にそれが私たちの課題ですね。そしてそのことは、きっと、聖書の外側で聴衆を解釈するのではなく、聖書の内側に聴衆を新しく発見することからやってくるのです。(p.53)

    同様のことは、同誌同じ号で、牧師のことばが若者に届かないのか〜の連載の中で、朝岡勝さんも同じ趣旨のことを書いて居られる。その部分を引用して終わることにする。
    ボーレン先生は、『説教学』の中で、聖書を「第一のテキスト」といい、聴き手を「第二のテキスト」といい、この第2のテキストである聴衆についても、釈義し、黙想せよという。(中略)
    しかし、「第二のテキスト」である聞き手たちについてはどうだろうか。説教者が聖書を繰り返し読み、詳しく調べて、祈りの中に思いめぐらすのと同じくらいに、神のことばの聞き手たち一人ひとりのことをちゃんと黙想して釈義しているだろうか。(p.59)
    こういうことを言うと、「教会はいつものメンバーのためだけのものでない、きたことがない人をどうして聞き手として釈義できるのか?」という表面的なご批判をおっしゃる方がおられるが、それはあまりにも浅いお考えではないか、と思う。そもそも、教会は、神を求めるすべての人(新しい来会者であり、その教会に取って他者性(追記・補足 レヴィナスの意味での他者性、排除されるべき他者ではなく)を持った人を含む)のものなのではないだろうか。誰かという顔が浮かんでないにせよ、来られるかもしれない(それがどんな人かもわからない)人を含めて、説教準備の中で、さらに、祈りの中で、黙想し、釈義する中で聖書説教の中に反映されることになるのではないだろうか。少なくともミーちゃんはーちゃんが説教準備をしていたころは、それは心の端にはおいていたことである。

    ということで、今日の記事はこれでおしまい。

    次回、教会が居場所を回復するためにという特集記事から紹介する。しかし、今回紹介する以外にも非常に重要な示唆を与える記事が満載されている。実に攻めている雑誌だと思う。お買い得であると思う。この号もお勧めしたい。





     
    評価:
    ヘンリ・ナウエン
    あめんどう
    ---
    (2008-04-30)
    コメント:この本、めちゃくちゃいい。おすすめ。聖書が読めなくなっている人に、諸般の事情で、教会に出られなくなっている方に、お勧めしたい。ちゃんと聖書も大量に出てくるし。

    評価:
    晴佐久 昌英
    カトリック淳心会 オリエンス宗教研究所
    ¥ 1,512
    (2010-01-20)
    コメント:非常に参考になった。

    評価:
    D.マーティン・ロイド・ジョンズ,小杉克己
    いのちのことば社
    ---
    (2000-08)
    コメント:内容は、非常に良かった。リバブックスは印刷が貧困で、読めればいいという感じなので、あまり好きではない。

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