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2016.06.08 Wednesday

2016年夏号のMinistryを読んだ(2)

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    前回に引き続き、しばらくブログ記事は、最近読んだ雑誌特集をしてみたい。


    本日は非暴力コミュニケーションに見るリーダーシップとは、と題された久保木さんのお書きになられたものと、これまで楽しみにしてきた中道さんの礼拝「ことば」 学 ゼミナール「礼拝を司る言葉」からご紹介したい。


    久保木さんのお書きになられたものから
    久保木さんは、非暴力コミュニケーションのセミナーに行ったときの体験記からお書きである。非暴力的なコミュニケーションを考えようとする人たちが何を考え、どう行動しているのか、ということを考えるために開催されたセミナーへの参加記である。一応、非キリスト教的なセミナーではあったようだが、久保木さんの記録を通して、改めて考えたことを少し書いてみたい。

    現代社会には、様々なコミュニケーションがある。言語によるコミュニケーション、武力によるコミュニケーション、金銭によるコミュニケーション・・・・と数え上げたらきりがない種類のコミュニケーションが日常的に、複合的に行われているものの、かといって適切なコミュニケーションが成立しているとは限らない。つまり、相手に相互の意思がきちんと通じているとは限らないのだ。しかし、ややこしいのは、相手が自分の意思を受け取っているのは当然だ、と思う人が世の中多すぎることである。

    下記の動画は、映画Thirteen Daysというキューバ危機を題材にとった映画であるが、この映画は、コミュニケーションが裏テーマであり、どのように相手とコミュニケーションを取ろうとし、言葉の奥底にある相手の真意を探るかの、非常に冷徹なコミュニケーション・ゲームが隠しテーマとなっている映画である。まるで、聖書解釈のように様々な解釈を相手の行動の端々から読み取ろうとする努力、あるいは、真実とやや違った情報を流すことでコミュニケーションが行われ、まぁ、結果としてキューバ危機が回避されるということが隠しテーマとなっている映画ではあった。


    映画 13daysのワンシーンから、マクナマラ国務長官が海軍総督に向かって、これはソ連との誰も聞いたことがないコミュニケーションをしているのだ というシーン

    裁きの背景にあるもの
    さばいてはならない、判断してはならないということは、神ならぬものが神のかたちである人と全人格として他者と向かい合うということと深い関係にあると思う。Aさんの好きな部分だけは欲しいけれども、Aさんの嫌いな部分だけは欲しくない、ということはできないのである。しかし、他者に不満がある時、自分に不都合なことや、不具合があると他人の悪いところを必要以上により大きく見て、批判する(悪意を持って他者を裁く)ことを我々はしがちではないだろうか。我々はある現象の一部、表面的なものとその一部だけしか見ていないにもかかわらず、他者の自分の意にそぐわないことを見て、安易に批判してしまう(他者を裁いてしまう)のである。。そのあたりの事に関して、久保木さんはセミナーで次のことを学んだという。
     ホルヘさんの一連のワークショップのテーマにも取り上げられた「相手へのジャッジメント(判断・評価)は嘆かれていない痛み」というフレーズです。主イエスのことばに「裁くな」とありますが、私たちはついつい相手を裁いて(ジャッジして)しまいがちです。(中略)主イエスも嘆き、パウロも嘆きました。嘆きから希望に至るのです。希望に至るなら裁く必要はありません。それに対し、私は現実生活では嘆くことを省き、裁き、失望しているのです。そして裁くことで相手との関係を悪化させ、かつ自分自身も苦々しい思いをし続けていることにも気づかされました。(p.15)
    ここで、相手が口にする言葉、批判的な言葉、批判的評価が混じった言葉は、その人の内心の知られることのない痛みの反映、ということを思うと、「あぁ、それはあるあるかもなぁ」と思う。そして、自分自身を冷静に振り返ることがないと、そして、それをめんどくさがっていると、結局相手が悪いという議論に簡単にしてしまって、自らを省みる時間や反省もなく、相手への判断や批判で終わってしまう。そして、それに安心してしまう部分があるのではないか、と思った。

    こないだのスーザン・フィリップスの安息日に関する講演会

    2016年6月4日の関西牧会塾の参加記録(1)

    2016年6月4日の関西牧会塾の参加記録(2)

    でも、立ち止まって自分自身の内部にある悲しみと痛みを見ることの大切さが示されていたように思う。

    コミュニケーションの目的
    先に紹介したキューバ危機を題材とした"Thirteen Days"でも表れていたが、コミュニケーションとは何のためにするのだろうか。

    コミュニケーションは互いに現状より、よりよい均衡状態に達するのではないだろうか。そうでなければ、一時的にしかコミュニケーションの成果は続かないのではないか、と思う。しかしながら、一方の側のみに都合の良い状態を生み出すためだけのコミュニケーションがあり、あるコミュニケーションの結果一方の側に飲み有利な条件となるような状況が成立したとしても、その状態は長続きしないのではないだろうか。その意味で、相互にとってよりよい状態に到達するために行われるのがコミュニケーションだと思う。
    "考え"を聞かないないとすると、相手から何を受け取ればよいのでしょうか。実は、これがNVCの中心的な考え方でもあるのですが、相手の(あるいは自分の)気持ちと「必要(大切にしていること、ニーズ)」に焦点を当てて聞いてみよう、ということなのです。(p.15)
    この表現を見ながら、ミーちゃんはーちゃんは、ヴェネツィアのレパント海戦を描いた塩野七生さんの書かれたどの書物であったかは忘れたが、ベネツィアの商館長が言った趣旨を思いだした。「戦争を回避する外交とはガラスのボールをお互い投げ合うことと似ている」(その心は、相手が受け損なうような投げ方をしてもいけないし、あまり強く投げすぎてもいけない。相手の動きを見ながら、また相手の必要を見ながらどのボールをどのように投げるかを考えながら投げる必要がある)。

    コミュニケーションとは、本来そういうものではあるはずであるが、何を勘違いしてか、一方的に一方の側のみが有利にするために、コミュニケーションをしながらも、何らかの力(物理的な力、暴力、権威など)で他人をねじ伏せようという人々も出てくる。それを、ハーバーマスはSystematic Distorted Communication(システム的に歪められたコミュニケーション)と呼んでいて、本来のその人の意思が反映できないようなコミュニケーションが起きていて、社会というか社会における公共圏を良好に保てない環境ができていることを指摘している。

    実にコミュニケーションとは難しい。

    敵対関係と協力関係
    先にも述べたように、Systematic Distorted Communication (システム的に歪められたコミュニケーション) が起きるのは、水平的な議論の環境ではない。そこに何らかの力を背景とする参加者が、自己に一方的な有利な条件でコミュニケーションを行う場面で起きる。その何らかの力とは、経済力かもしれないし、軍事力かもしれないし、名誉とか、その他の価値かもしれない。それで、容易に良好なコミュニケーションは崩壊するのだ。

    では、どうすればよいのだろうか、ということに関して、久保木さんは次のようなことを学んだという。
    「つながってしまうと、解決はほぼおまけのように起こる」も印象的な言葉でした。前述の本( 引用者註  NVC 人と人の関係にいのちを吹き込む法(日本経済新聞社))のあとがきに、NVCの目的の一つとして「互いの中に人間性を見出し、『敵というイメージ』を持たない関係性の質をつくること」が紹介されいます。(p.15)

    キリスト教用語を援用して言えば、他者(相手)の中に、本来同じ被造物としての神のかたちを見出すのではなく、「悪意」や「敵意」を作りあげ、敵というイメージを持ってしまうことによるのかもしれない。そして、それがコミュニケーションを困難にするのではないだろうか。

    他者は自己とは同一であり得ない。だからこそコミュニケーションが必要なのだ、と思う。自己と他者の違いはどのような形であれ、少なくとも何らかの違いがある。なぜならば、神がそのように造り給うたからだと思う。しかし、その神が喜んで与え給うたその違いを享受することなく、他者との違いを喜ぶことなく、自分とは違うから、自分とは別だから、と否定し、享受できなくしているのが人間の姿かもしれない。他者のことを否定しまくり、何かつまらない違いを見つけ、あなたの目の中にあるチリをとりのけさせてください、と相手に上からおっかぶろうとする人が少なくないプロテスタントの福音派の片隅に居るミーちゃんはーちゃんが言うのは可笑しな話ではあるが、聖書を読みながら聖書を読んでいないなぁ、と感じて、がっかりすることも少なくない。もうちょっと、神が創造された人格を持つ神のかたちとして、他者と向き合えばいいのに、と思う。しかし、そういうことを言うと、すぐに「エキュメニカルだ、なんだ」とか言ってすぐまた否定されにかかってしまう。実に残念なことである。

    講師が助けを求める講演会
    その講演会での特徴として、次のようなことを久保木さんは書いて居られた。
    するとそれ(引用者註 多くの参加者の講義の理解が不十分であったこと)を受け止めたホルヘさんは涙を流し、嘆き始めたのです。体調不良で教えられなかった時間もあるので、その分を補おうとして急いでしまったこと。そして、昨晩の自分の講義に対し、裁こうとしている自分がいることも正直に語りました。また、今の自分が共感を必要としていると認め、会場に居るNVC経験者に教官の言葉をかけてくれるように頼み、やり取りが行われました。講師が会場の聴衆に助けを求める、そんなことがあるのでしょうか?しかし、そこから会場の雰囲気が激変しました。(p.16)
    うーん、自分自身でもこういう授業をやってみたいなぁ、と思うけど、ちょっと無理ではないか、と思う。とは言いながら、最近は昔みたいにがっつり講義ノートを準備して、それに基づいてしゃべることはやめていて、意図的にややカジュアルなスタイルの授業、対話型の授業をしているので、教室の皆さんの助けを求めるという形にまぁ、ちょっとは近いかもしれない。

    確かに、こういう対話型の授業をやってみて、最近思うのは、従来型の授業は、講義ノートに従って淡々としゃべればいいという意味で楽であるのに対し、対話型の授業では対話能力ということと、他者性を受け入れる能力が要求されるなぁ、ということである。教会でこういう対話型の説教みたいなことはやってみたいなぁ、と思うが最近説教をするような機会はほとんどないし、教会ではこういう対話型の説教形式は日本の明治以来の教室モデルを維持している教会が多いので、案外、受け入れにくいかもしれない、とは思っている。

    しっかりと嘆くこと、自分と向き合うこと 
    自分自身を丁寧に見つめるということを、そして、しっかりと嘆き、理論武装を解く、ということの重要性を 久保木さんは おっしゃている様だ。以下のような記述が目に留まった。
    しっかりと嘆いて、理論武装を解き、相手を支配するつもりでないのなら、自分の感情を表し、その感情から自分の根源的なニーズに気づくことが大切であることを思い知らされました。(p.17)
    いろいろ学生とか学会などで他の方々と対応して思うのは、ある人にある場で対話するときに臨む際に、かなり理論武装して議論に臨む方が多い。そういう方は、ちょっとどこかで自分自身に対する自信がない方が多いように思う。自分自身が攻撃されたくないからか、いろんな他者の理論を借りてきて、それこそ鉄壁の防御態勢の上に、さらに、防備を完全にするか、最初から重火器で攻撃するような熾烈な攻撃を挑むかの様な態度で臨んでこられることが多い。そして、むちゃくちゃな論理でも、相手の戦意を喪失させるというか、相手をまずぼこぼこにして従わせてしまうことが多いのかもなぁ、と思う。それでも相手がひるまない時には、相手がその権威性を認めているかどうかは別として、突然だれかの権威性を借り出してきて、この権威に従わないのか、それを無視するのか、とか訳がわからんことをおっしゃることもある。実にかなわないことである。

    自分自身を見つめ、自分自身の弱さ、不足を見つめていれば、そして、その不足を知っていれば、それが他者に明らかにされることについての怖れがなければ、別に何ともないのだと思うが、多くの人には、人前でよい格好したい、優れた人物と思われたい、とか言う色気があり、そうしようと思うからこそ、理論武装して何とかごまかそうということになるのではないか、と思うのだ。でも、それは、傍目に見ると、実に格好が悪いことが多い。

    こういうことを書きながら、この方のことを思っていた。もっと素になっていたら、きっと違う楽な生き方ができたかもしれないと。



    立派でなければならないリーダーのつらさ でも何のため?
     リーダーとフォロワーの関係というのは、案外難しい。リーダーは理論武装や肩書とか自分を防御するものや、社会的立場を捨てたいと思っていても、フォロワーがそれを赦さないし認めない部分がある。というのは、フォロワーの中にリーダーが存在し、それにつき従っていることで、そのフォロワーが何らかの利益を得る部分がある人々がいるのだ。コバンザメのような生き方をすることで利益を得ている人たちである。このようなコバンザメ型の生き方をしている人に取って、リーダーがその立場や武装を解除してしまうと、フォロワーさんがリーダーに従っているときに、存在するだろうと思っていたフリンジ・ベネフィット(リーダーのフォロワーをしていることで副次的にフォロワーさんに発生する利益というか濡れ手に粟状態で入ってきて、得すること)がなくなってしまうし、そうなると困るので、リーダーをやめさせないように、してしまう部分がないわけではないと思う。例えば、有名な政治家のコバンザメをしているような人などは、まさにそうである。
     
    リーダーはフォロワーと心が真実につながっているのかも問われます。肩書や立場、理論、知識などで自分を防備するのではなく、弱く傷つきやすい自分を差し出し、真実なつながりが育まれているか。NVCは今日の教会でのリーダーシップに多くのヒントを提示しているように思わされました。
    しかし、この部分を読みながら、イエスは、十字架の上で、弱く傷つきやすいご自身の姿をさらして、そして、支えられる立場をとられたのだなぁ、そして、それを信じるものが支えるスペースを作ってくださったのかなぁ、と改めて思った。その意味で、ナウエンの著書のWounded Healer(『傷ついた癒し人』)や『イエスの御名で ─ 聖書的リーダーシップを求めて─』などとも深い関係があるのかなぁ、と拝読しながら、思いを巡らしていた。

    まぁ、パウロも次のように、言っているし。
    【口語訳聖書】
    コリント人への手紙 第2
     12:5 わたしはこういう人について誇ろう。しかし、わたし自身については、自分の弱さ以外には誇ることをすまい。
     12:6 もっとも、わたしが誇ろうとすれば、ほんとうの事を言うのだから、愚か者にはならないだろう。しかし、それはさし控えよう。わたしがすぐれた啓示を受けているので、わたしについて見たり聞いたりしている以上に、人に買いかぶられるかも知れないから。
    (中略)
     12:9 ところが、主が言われた、「わたしの恵みはあなたに対して十分である。わたしの力は弱いところに完全にあらわれる」。それだから、キリストの力がわたしに宿るように、むしろ、喜んで自分の弱さを誇ろう。
     12:10 だから、わたしはキリストのためならば、弱さと、侮辱と、危機と、迫害と、行き詰まりとに甘んじよう。なぜなら、わたしが弱い時にこそ、わたしは強いからである。


    中道さんの連載(今回が最終回)から
    いや、今回の中道さんの連載も、めちゃ面白い。これは、どこの教団でも、どこの教会でも起こりうる、その教会独自の、こうであらなければならない、という思い込み、あるいは、伝統というよりは、慣習、観衆が行き過ぎて文化になって、ある形やある言葉の表現に凝り固まっているのではないか、ということを実に鮮やかにご指摘であった。そして、それについて、どう考えることができるのか、何を考えたらよいのか、ということについてのご指摘がなされていたからなのだなぁ。


    マニュアルに支配される教会?
     その教会独特の様式を守ろうとする教会もおありになる。そして、その様式のみをかたくなに守ろうとする一種の教条主義というのか頭の固さが生み出す、一種の悲喜劇をいくつか紹介されていたがその中で最も秀逸だったのが次のエピソードである。
    礼拝出席十数名の礼拝で、いつものメンバーであることが一目でわかるにもかかわらず、恐らくマニュアルに「新来会者がいないかどうかを確かめる」とあったがために、「新しく来られている方はいないでしょうか」と尋ねるという奇妙な場面に出あったこともありました。これもマニュアルに縛りつけられた結果ではないでしょうか。(p.29)
    こういうのは、実はあるあるではないか、と思う。誰それ先生が、こういったから、もうなくなったこの教会を開拓伝道でお建てになったアメリカ人の伝道師の方がこうおっしゃっていたのでこうでなければならない、とか、こういう議論が結構教会には多いと思う。こういう事例について、工藤信夫さんなんかとお話していると、「あぁ、その教会にはまるで亡霊が住んでいる様ですねぇ」とニコニコしながら、話している。大体、「こうしたら」と過去にいった誰それ先生や、その教会を開拓したアメリカ人宣教師は軽い気持ちで、まぁ、「こんな感じでどうかなぁ」といったかもしれないことに、後付けで聖書根拠を聖書から切り貼りして、聖書のことばでガチガチに理論して、鉄壁の防御システムを構築しているのではないか、と思うことも時にある。ちょっと残念だなぁ、と思う。

    何でそうなるの?
     なぜ、そんな風にマニュアルに縛られるかに関して、礼拝というプログラムを取り上げながら、中道さんは次のように言っておられる。多分それは、我々が礼拝で何故しているのか考えずに、惰性でとは言わないまでも、ある形に従い、盲目的にしている部分があるのではないか、あるいは、何故、礼拝ということをこのようにするのか、という意識もなくなしているのではないだろうか。そして、お客さん意識である教会で生まれた様式で実施していて、いつもと違うと、あるいは少し変えようとすると、文句の一つも言いたくなるような精神性があるからではないか、と思うのだ。
     
    あまりに余分な言葉は語られず、オルガンの演奏で礼拝が導かれて行く教会もあります。礼拝の中に流れが生まれると招詞によって招かれ、祝祷によって派遣される礼拝を一つの出来事として経験することができます。
    どの形式が正しいとか、礼拝のことばをシンプルにする方がいいという問題ではなく、礼拝者が一体自分たちは何をしているのかという理解と、その礼拝に積極的に参与しているという自覚と姿勢が必要です。(p.29)
    礼拝の意味を考えるとき、礼拝が違って感じるとき、そこに神の語り欠け、他者性を通して神が語りかけられる部分があるのではないか、と思うのだ。それを単に「自分たちがなれている礼拝と違う」「自分たちと方法が違う」と直面した時、他者の聖書理解や礼拝理解に耳を傾けることなく、すぐ勝手に、異なった火をささげた、といって批判したりするのである。
    【口語訳聖書】レビ記
     10:1 さてアロンの子ナダブとアビフとは、おのおのその香炉を取って火をこれに入れ、薫香をその上に盛って、異火を主の前にささげた。これは主の命令に反することであったので、
     10:2 主の前から火が出て彼らを焼き滅ぼし、彼らは主の前に死んだ。
    大体、異なった火をささげているのであれば、祭壇からジェットエンジンのアフター・バーナーのような火が出るはずなのであり、それが出ていない以上、神の容認の手の内にあると考えた方がいいのかもしれない。

     その意味で、自分たちがなしていることを習慣としてではなく習慣であっても、その意味に深く思いを巡らせながら、丁寧に礼拝に参加していくことは大事なのではないか、と思ったのである。


    海軍戦闘機のアフターバーナー(こんなんが講壇から出たら怖いなぁ)

    印刷された聖書の文字に縛られている教会
     今年の3月ある教会で説教奉仕をさせてもらった。その時に、その日読みたい聖書箇所を旧約聖書から、新約聖書から上げて、これでやるからお願いできますか、とお願したら、聖書箇所は一つにしてください、とお願されてしまった。アングリカンコミュニオンで、いつも参加しているところでは、旧約聖書、新約聖書から引用があるので、気軽に、結構な分量の引用箇所を引用してしまったのだ。

    なぜ、聖書箇所は一つなのか、という理由を聞くと、目の不自由な信徒さんがおられるので、聖書を開けるのが一苦労の方がおられるし、そもそも聖書は声に出して読むものだと理解している、ということをお聞きしたので、まぁ、若干ゆっくり、繰り返して読むから、お知らせしたなん箇所かの部分の聖書を読むのは、申し訳ないけれどもお願い、ということで折り合いを付けてもらったのだが。

    どうも日本では、信者でありながら、聖書を持っていかない、聖書がぱっと開けないことがある、というと、時々、あれ、という顔をされる方が教会にはおられる。また、分厚い聖書を持っていく代わりに、持っていくのがパソコンだったり、スマートフォンで対応していることが個人的には多いのだが、そういうことにも変な顔される人が時におられる。パソコンとかスマートフォンだと、Webベースのインターリニア―で、現代語訳と聖書テキストの底本となったギリシア語やヘブライ語との対比がすぐにできるので、楽でいいのだが。まぁ、しかしそういうものを聖書の代わりに持ち込むと、あんまりいい顔されないのは、聖書を読んでいるのか、別のことをしているのか区別が付かないからかもしれない。

    余談に行ったが、日本の教会には、読まれた聖書を丁寧に聞くという習慣がないのは確かだ。アメリカでも、似たようなものだった。近代の学校教育が住んでから、誰でもが聖書に触れるような文化が普及した結果、帰って教会で聖書を丁寧に聞きながら思いを巡らせるという文化が消失したかもしれないと思うと、ちょっと残念な気がする。
    日本語のように同音異義語が多い言語では、やはり字を、特に漢字を見た方が意味を正確に理解できます。(中略)それで、日本の教会では聖書が読まれる時には、会衆は必ず聖書を開きます。それゆえ、聖書朗読の際には頁数とか聖書のどのあたりであるということを言う必要が出てきます。ところが、ドイツの礼拝では、聖書を開く人はいません。礼拝には自分の聖書を持ってこなければならない問うような信仰もありません。教会で聖書を借りるわけでもありません。聖書(み言葉)は「聴く」ものであるという意識が強いのです。
    それは文化の違い、言語の違い、伝統の違いであって、ドイツの教会の方が正しいというわけではありません。ただ、聖書を聞くということをもう少し意識してはどうだろうか、と思います。(p.30)
    そもそも、文字文化が庶民に届くまで、文字認識が初等教育の中で、教育されるまでは、聖書は確かに声を出して読まれるものであったし、そもそも、新約聖書の手紙はギリシア語でかかれていた段階では、読み手がいなければいけないほどの、ものであったこと、そして そもそも、聖書を読むにしても、他のものを読むにしても声を出さずに読むという行為自体が異常であったということが、『新約聖書よもやま話』で紹介されている。

    昔のギリシア語の写本は、スペースや句読点の全く入っていない、こんな感じの大文字のギリシア文字の羅列であった。

    https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Papyrus_23_-Jam_1.10-12-POxy1229_III.jpg
     確かに、声に出して読む聖書ということを考えてみると、案外新しい見え方がするかもしれない。

    礼拝について考えることの大事さ
     案外、忘れられているかもしれないと思うことに、教会のかたちや教会の礼拝のスタイルは、ふつう思われるほど安定的でなかったかもしれないと思うのだ。自分が持っている礼拝形態は、その個別教会の礼拝形態だけのことかもしれないし、この100年とか150年くらいの伝統しかないことなのかもしれない。

     しかし、人間の人生は、旧約聖書でモーセのことばではないが「われらのすべての日は、あなたの怒りによって過ぎ去り、われらの年の尽きるのは、ひと息のようです。われらのよわいは七十年にすぎません。あるいは健やかであっても八十年でしょう。しかしその一生はただ、ほねおりと悩みであって、その過ぎゆくことは速く、われらは飛び去るのです。」(詩篇90篇)であり、数百年の歴史は見ることができないので仕方ないのかもしれない。しかし、現在のかたちにたどり着いたものと、他の伝統の礼拝のかたちを比較して知ってみると、先人たちが創造性を非常に発揮して時間をかけ関与し作りあげていった礼拝のことばをどう考えるか、ということに思いをはせることができるのではないか、とも思う。
    このゼミナールにおいて強調して来たのは、礼拝のことばにいかに聖書の言葉を取り戻し、その言葉を現代に通じる言葉として私たちが語るかということです。そこで、私たちは聖霊の働きを感じることができます。
    礼拝について考えることは、聖書と私たちの現実を結び付けてくれる創造的な作業です。是非、牧師ひとりが考えるのではなく、いろいろな人がかかわり、共に作り出していくプロセスを大事にしてください。(p.31)
    たとえ、古い祈祷書のことばであっても、古い讃美歌のことばであっても、その意味をそれぞれの時代の中で生きるものとして再解釈する作業は少なくとも必要ではないか。そこに表されたことが何であるかを考えることが必要ではないか、と思う。そして、神への礼拝、神と人が一つになる経験を礼拝でしていく中で、自分たちの神への礼拝がどういうものかを、どう考えた結果であるのかを、そして自分が口にする言葉の意味が、どのような意味であるのかを信徒ひとりひとりが、味わい、思いを巡らすことが重要なのかもしれない。




     
    評価:
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    Image
    ---
    (2013-11-20)
    コメント:非常に良かった。日本語訳は、『傷ついた癒し人』である。

    評価:
    ヘンリ・ナウエン
    あめんどう
    ¥ 1,026
    (1993-04-01)
    コメント:非常に良いです。

    評価:
    伊藤明生
    いのちのことば社
    ¥ 1,296
    (2008-09-03)
    コメント:非常によろしいです。お勧めしております。

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