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2016.06.06 Monday

2016年6月4日の関西牧会塾の参加記録(2)

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    本日は、先週の土曜日に開催された、関西牧会塾の講演会の後半(午後からの部)をお知らせしたい。なお、()内は、ミーちゃんはーちゃんによるツッコミである。

    午後からの講演
    午前中は止まること、静止することを中心にお話した。
    これからしばらくは、静止することから、あること(していること、神に対する注意を散漫にするもの)から離れることについて話したい。


    立ち止まり、静止すること


    現代の神への注視を散漫にさせるもの

    安息と神への注視を妨げるものとの関係
    【口語訳聖書】  イザヤ書
     58:13 もし安息日にあなたの足をとどめ、わが聖日にあなたの楽しみをなさず、安息日を喜びの日と呼び、主の聖日を尊ぶべき日ととなえ、これを尊んで、おのが道を行わず、おのが楽しみを求めず、むなしい言葉を語らないならば

    このイザヤ書には、我々が神への注視を散漫にさせるものから、立ち去るべきことが書かれている。例えば、自分自身の思いを追い求めること。自分の関心のあることに仕えること、自分の関心を追及することから離れることを進めている。その意味で、如何に自分が関心を持っているものから離れて、神に向かっているか、ということが重要なのではないだろうか。

    律法(出エジプト記、申命記)の中のものは、安息日には、あることから離れることが示されている。それはいったいなんだろうか。あるいは、安息日にしてはならないことで最初に思い浮かぶのは何か。

    まずは、仕事をしてはならない。これはそのとおりであろう。しかし、それだけだろうか。

    それと同時に安息日には、ヒエラルキー構造から、使うものと使われるものという関係性から離れるということでもある。その意味で働いている人は、ヒエラルキー構造から離れ、解放され、すべての人は休む。家畜もヒエラルキー構造から離れるということが大事なのだ。
    【口語訳聖書】出エジプト記
    20:8 安息日を覚えて、これを聖とせよ。
    20:9 六日のあいだ働いてあなたのすべてのわざをせよ。
     20:10 七日目はあなたの神、主の安息であるから、なんのわざをもしてはならない。あなたもあなたのむすこ、娘、しもべ、はしため、家畜、またあなたの門のうちにいる他国の人もそうである。
     20:11 主は六日のうちに、天と地と海と、その中のすべてのものを造って、七日目に休まれたからである。それで主は安息日を祝福して聖とされた。

    (安息日は、神に向かう日であるということを考えると、それは、神と人間の関係が回復する日、神の義と平和と和解と解放がこの地において実現する日でもあるはずである。そう考えると、単に休みの日などと安息日を軽々しく考えてはならないのではないか、と思う。その日、被造物の人間は、神のかたちを、本来の神が創造された最高の私、あなた、あの人、この人が回復される日のはずなのだ。詳しくは、 『神が造られた「最高の私」になる』を参照されたい。)

    安息日を考えるときに、聖餐式のテーブルを考えてほしい。このテーブルではすべての信者が等しいのではないだろうか。確かに、牧師や長老たちが配餐をするが、しかしそうであっても等しいのだ。
    (そもそも牧師や長老たちの配餐は、本来は、「信徒に仕えること」ではないだろうか、と思うのだ。司牧や長老、信徒代表が一般信徒よりもその上位につくものである、というよりも信徒に仕えていることを表すはずなのだ。このあたりの事は、へブル書におけるイエスの大祭司記述をどう解釈するかであるが、あくまで、
     
    【口語訳聖書】 ヘブル書(以下同様)
    2:17 そこで、イエスは、神のみまえにあわれみ深い忠実な大祭司となって、民の罪をあがなうために、あらゆる点において兄弟たちと同じようにならねばならなかった。
    とか
    5:1 大祭司なるものはすべて、人間の中から選ばれて、罪のために供え物といけにえとをささげるように、人々のために神に仕える役に任じられた者である。
     5:2 彼は自分自身、弱さを身に負うているので、無知な迷っている人々を、思いやることができると共に、
     5:3 その弱さのゆえに、民のためだけではなく自分自身のためにも、罪についてささげものをしなければならないのである。
    という部分をどう考えるのか、ということが問われるのかもしれない。)

    ところで、ローマ人は働くことをしない日をとることが理解できなかったし、聖餐の場で、社会的秩序をいったん留保することはできなかった(基本的にローマは、元老院議員、騎士(有力商工業者)、市民、奴隷という階層を前提とした多階層社会構造からなる社会構成になっており、その身分の階層構造が崩壊すると社会が崩壊し、ローマ帝国が崩壊する危険性と可能性があったのだろうと思う。ローマ訂正初期でのキリスト教排撃は異教であり、ローマ皇帝崇拝をしないから、というよりは、むしろ、この社会的階層構造をキリスト教の聖餐論やキリスト教の概念が崩壊させない危うさを教会そのものの在り方の内に感じたからではないか、と思っている)



    上から(元老院議員)(騎士階級)(平民ないしローマ市民)(自由民、ないし解放奴隷)(奴隷)

    (なお、ローマ時代の奴隷は、現在われわれが意識している奴隷というよりは、戦争に負けて身代金が払えない為に奴隷になった人々や、借金をしてそれが返済できずに、労働力で借金を返すまで、奴隷にとどまった人々がメインである。なお、奴隷貿易時代に米国に強制連行された奴隷も、形式上、アフリカの送り出し元の王や領主に対しての借金があるとされたうえで、その借金を奴隷船での奴隷業者が肩代わりした形になっていて、名目上、その借金をさらに農場主が最終的に肩代わりしており、その金額が奴隷にされてしまった人が生涯働いても返済できないということから、死ぬまで奴隷になっているとされていたが、その部分が後年忘れ去られて、アフリカ系アメリカ人は生涯無償で奉仕する存在という理解が生まれたのではないか、と思う。)

    なぜ、安息をとるのか…道具主義からの脱出
    道具主義的精神性(Instromentality インストロメンタリティ)で安息日をとらえてはならないのではないだろうか。ある面、安息日をとることについて、何かをするためのそなえの時間として考えたり、実際にそのように用いたりしてはならないといえよう。実際、ギリシア哲学者のアリストテレスは、休息をとるのは、よりよく働くために時間をとれ、休めといっている。また、ユダヤ人の思想家の一部にもそういっている例は見られる。世俗的な安息の考え方は最も効果的に働く人は、休息が必要とする現代の思想家の概念による影響を強く受けた考え方である。

    安息日があるのは、何かのために、例えば、一生懸命働くためのものだというこのように様々な時代に見られたが、それは聖書的ではないだろう。聖書的な安息日は神様との関係だけを重視するところにあり、安息日の主たる関心は、神にこころを向けるための日である。その意味で、安息日に対する体力の回復、と言ったような道具主義的な考え方をやめたほうがよいだろう。そして、神の前に向かうべきである。

    個人的な関心をそらすものがあるのではないだろうか。安息日を守ることで、それが何か、わかることもあるだろう。では、安息日あるいは日曜日の奉仕をどう考えるのか、という疑問もあるだろう。しかし、神への礼拝そのものは、ある活動をやめて、神にこころを向けていくということが、本来の礼拝の姿だろう。そして、神にこころを向けていくことと、安息と一致しているかどうかを見つけないといけないのではないだろうか。

    具体的な例で行けば、小児科の医学部教授の方が教会に居られるのだが、彼は、教育が仕事の中心となっており、実務家として子供の患者の診察をすることはなくなっている。それもあるのだろうが、彼が安息日として実施していることは、教会の育児室でボランティアすることなのである。育児室のボランティアは仕事ではないし、大学の仕事のような階級関係といったものはない。完全な喜びでしていることで、彼にとっては礼拝の一種である。安息日を経験し、自分に取って、神との関係に向かわせ、喜びをもたらすものが何かを見つけることは重要なのである。

    神に向かい、自己に向かい、
    他者に開かれていくための安息日

    神にこころが開かれていることは、自分自身を他者にたいして開くことであり、自分自身に対しても開いていくことでもある。ちょうど墓に訪ったマリアのように、イエスに対して声をかけ、イエスから声をかけられ、自分自身に対して心を開いていくことで、自分自身のかなしみに気づきが生まれたように、自分自身に対して向き合う(Open to oneself)、他者への開き(他者に対して向き合う)に導かれていくのが、振り返るということではないだろうか。

    クリスチャンの伝統的な祈りがあるが、Hesychiasticという。静まりの祈り、あるいは心からの祈りという。(これが、最初聞いた時にはわからなかったのだが、後刻調べたところによると、正教会の伝統にある祈りらしく、Stillness、つまり神にしっかりと心を向けていく祈りらしい。この後の語源もギリシア語にあるらしい)

    神の前にこころ静まっていのるということであり、日々の生活の中で祈ることもできる。先に紹介した、困難の中にあっても、どんな状況の中にあっても、神の前に向き合う時間の中における祈りを持つことは大事であろう。

    安息に招かれていくということは、もう一度振り向くことにつながっている。あることから立ち返っていく。立ち戻っていくことと深い関係にあるのだ。しかし、気持ちをそらすものは、すぐにやってきてこの祈りに集中できなくなる。モーセの燃える柴の木も、モーセが行っていた遊牧という作業から別のものを見させていると考えられるのではないか。

    長い時間、神に向ける時間というのを持てる人はそう多くはない。いろんな思いが去来して、何度も曲がりくねって生きながら進む大滑降競技のようなスキーのようなものである。いろいろな思いが去来しながら、それでもある目的地、ないしは方向、あるいはどこかに向かっていくこととよく似ている。そして、一種のリズムを持ったものといえるだろう。安息日を守ることをはじめたら、気がとられてしまい、神にこころを向けなくようにすることが何であったのかを書きだすこともいいかもしれない。それは気づきになるだろう。また、静まりの祈りをする中で、心から祈る時、神に関心を向けることをすることになる。そのような祈りをすることは、心の中に、神と共に共存する神へのスペースを設けることになるのだ。

    注意を向けるということは、心を傾けていく、心が傾いていくということと深い関係にあるだろうし、キリスト教の伝統(恐らく正教会系のキリスト教の伝統にはこれがある)でもそう理解されていた。その意味で、静まりの祈りも神に傾いていくということと理解できるであろう。

    静止して思いめぐらす体験
    まず、とりあえず、練習をしてもらいたい。静止して、いろいろなものからいったん心が離れること、そして、神に向かっていくことを経験してもらいたい。これからの実験では、数分かかるが、手のひらを上に向けて、体の前に出し、膝の上においてもいいが、その段階で目を閉じて、とりあえずそのまま静粛にしてほしい。目を閉じてほしい。

    (ということで、4分くらい静まるということを体験しました。そして、目をつぶっているときにチョコレートをSusanさんは掌においてくださいました。おそらく、これは、神からの賜物を受け止めるためには、神に対して心を閉ざした状態では無理で、神に対して心を開いた状態、自らの思いや自ら何とかしようとする思いを捨てて、神の方に手のひらを広げて向けていく、ということを体感的に理解してもらうためにそうしたのだろうと思います。このあたりは、With Open Handsの最初の部分をご参照されたい)

    この数分間がどんなものだったのかを書いてもらいたい。

    こういうことをすると居心地の悪さを少し感じる人もいる。自分自身が何かをもらえないのではないか、と不安に思う人もいるだろう。あるいは、もらったものが何かわかった時にがっかりする人もいる。逆にほっとする人もいるかもしれない。
    静まりの祈りは、ちょっとの短い時間、他のものから離れるときであり、神の神秘の中に入っていくことでもある。一つの練習なのである。

    静まっているとき、何を聞いているか、ということもあったでしょうが、静まりの中にいるとき、何らかの感覚があったことでしょう。それは安息日の中に入っていく感覚と同じようなものかもしれません。

    (この部分は、霊性におけるリトリート(退修)という訓練そのものであり、イエスも実際にしょっちゅう荒野や静かなところ、湖のそばに退いては、弟子たちや神との時間を持っておられる。
    【口語訳聖書】 マルコによる福音書
    1:35 朝はやく、夜の明けるよほど前に、イエスは起きて寂しい所へ出て行き、そこで祈っておられた。
    そういう意味で、このような霊性における退修は重要である。このあたりの事はナウエンの『静まりから生まれるもの』、を参照してほしい。)



    ある面、そこで静まっているときは、イエスの死後に弟子たちが経験したようなものと同じような経験かもしれません。絶望であったり、悲しみであったりしたでしょう。そして、ある人たちは、心を神への注視を妨げるものに向かっていった人人もいました。ある人々は、イエスの死後、別のこと、漁を再開しようと思ったのです。


    ここでQ&Aとなった
    午後一回目のQ&Aから

    Q安息日においていろいろなものから離れていくことについての質問したい。旧約聖書の律法での安息に入るのに休むのは、階層構造からも離れるということであったが、それは、主人が休まないと、使用人も休めないし、家畜も休めないからだと思っていたが、そうではないのか。

    A
    安息日に、どんなものであれ神への注視を妨げるものから離れていくということは非常に大事かもしれない。現代人は、ある種、ワーカホリックなコンセプトに毒されているのかもしれない。安息日には、ユダヤ教の世界では全部休むことになっている。しかしながら、ユダヤ人の社会では、異邦人は働く、ということはある面容認されてきた側面がある。そのようなやり方はいいかどうかはわからない。在留異国人も本来は休むように規定されている。
    (たしかに、イスラエルで金曜日の日没から土曜日の日没までは、ユダヤ人のタクシー運転手はよほどリベラルな人でない限り運転したりはしないらしい。エレベータのボタンも厳格派のユダヤ人となると、安息日中には押さない(押せない)らしいし、安息日には冷蔵庫のランプがつくと、それは火を使うことと等しいこととなり、仕事をしたことになるので、厳格派のイスラエル人は、冷蔵庫のランプを緩めて庫内灯がつかなくなるようにするらしい。ある日それをするのを忘れた厳格派のユダヤ人のおばあさんが、安息日前に庫内灯を緩めるのを忘れたので、留学生の日本人にそれを安息日に頼みに来た、ということが事実としてあったらしい)
    調理の話があったが、イスラエルでも、また、昔のヨーロッパの伝統でも、安息日の前日に調理して、多めに作って、それを共に食べるという習慣があった。

    Q 教会でも、職場との上下関係などは無視できないのではないか。

    A
    敢えて、職場の階層関係を意識することからも離れることが大事だろう。日常の仕事の関係性から離れることは大事なのだ。そういうことから、離れることが重要である。そのための気づき、神にこころを向けることの中で、そこに中心性を持っていくことが大事なのではないか。
    ある面、現代社会は、仕事に向かっていて、仕事で分類されることに関心がありすぎるだろう。何をしているのか、どんなことをしているのか、どんな社会的立場なのか、が重要な釈迦になっている。その意味で、仕事が何であるかによって、その人のアイデンティティとされるような社会であり、人に対する価値基準というか、判断基準もそうなっている部分が強いであろう。
    しかし、その中であっても、安息日は同じテーブルに集まって、そういう社会が与えた外生的なカテゴリーから離れる場所であるはずである。

    (でも、日本の教会は仕事とかの関係性とか、社会的な関係性を持ち込んでいるような気がする。それって、個人的にはどうなんかなぁ、と思う。それは日本社会が階層性、この人はえらい、この人はえらくないということを無意識に判断する社会になっていて、それが教会でもある部分、そうなっているようなきがする。植村正久の「我が教会には車夫や工員の類は要らない」発言なんか、典型的かもしれない。)

    Q 東アジア的な文化の中では、牧師と信徒の間で、上下関係がかなり強いが、アメリカにおいてはどうでしょう。また、日曜日においては、その牧会者と信徒といった関係から離れるべきなのだろうか。とりわけ、聖餐を考える際にどうお考えになっておられるのでしょうか。

    A
    もちろんアメリカで、そのような関係性を持っている教会もある。それぞれの教会があり、それぞれに伝統や文化はあるので、一概に何とも言えないけれども。今の質問は次の話に行くための適切な導入になっているので、休憩後その話を続けたい。

    (この部分は余談であるので、是非読み飛ばしてほしいが、思ったので書いておく。
    日本社会は、ある面、この社会的な階層、序列を重視する社会であり、年功序列という言葉、長幼の序という序列関係的な関係の重視が何をするにも要請される社会であったし、今なおそういう社会である。他者を見る際に、まず序列順位が重要になる社会なのである(犬、オオカミかサル山のサルの世界である。ちなみに、野生のサルでは序列順位はメスザルが決めるのであり、男性系のボスザルが生まれるのは飼育環境下でのみのことらしい)。教会の中でも、世俗の序列関係が持ち込まれたり、牧師と信徒という関係が持ち込まれたりするのは、ある面ユダヤ教以来の伝統が、あるいは旧約聖書がきちんと理解されていないということなのではないか、と思うのだ。ある面、へブル書の誤読が起きているような気がする。イエスは、人間から離れて大祭司職をしているのではなく、あくまで人間の中で大祭司職を務めているというのが、へブル書におけるイエスの大祭司職理解だと思っているし、そのような大祭司理解がされていないとすれば、下手をすると、受肉という神秘すら、日本のキリスト教会はある面捉えていないことになるのではないか、と思う。

    ある若い友人が、(将来実現する)神の国とメイド喫茶の関係をとらえて、メイド喫茶は神の国であるということをほとんど冗談として主張していたが、あたっている面もないわけではない。メイド喫茶は世間からは少し異なった祝祭空間であるし、教会や神の国は本来祝祭空間である。また、メイド喫茶では、世俗社会の社会的肩書が取れて、等しく、「お嬢様」「ご主人様」という一種水平化された社会が生まれている。そして個人が大切にされている・・・という暴論を語っていたが、暴論であっても、ある部分に関しては、いい線をついているとは思った。

    元に議論を戻すと、本来、教会は、Sanctuaryであり、聖域であり、世俗の権威、警察権すら、人物としては受け入れても、その肩書や公権力の執行ですら排除できる別世界であったのであるが、そこに、世俗の関係性が持ち込まれるとすると、ろくでもないことになるのではないか、と思うのだ。

    ディズニー映画のノートルダムのせむし男のシーン 2分6秒あたりに教会の聖性を主張するシーンとなる

    世俗の技術や文化、世俗の社会の在り方や概念をとり込むこと、世俗社会と共に生きることにある面否定的な目を向けながら、あるいは世俗社会とは違うとは言いながらも、一方で世俗の社会的な関係性は排除できない、あるいは排除しようとしない日本のキリスト教会は、本当に聖書をもとに考えている、といえるのか、という素朴な疑問がある。聖書を切り貼りして読んでいるとしか思えない部分も多々ある。それは、欧米の教会もまたしかりという部分もないわけではないが。教会の中では、世俗の関係性が切り離されるアジールないしサンクチュアリとしての性質を強く持ってほしいと思う。但し、教会を世俗世界への窓を開いたまま。世俗世界に窓を開いているからこそ、アジール、ないしサンクチュアリとしての意味があるとは思うのだが。ちょうど旧約聖書の逃れの町規定と同じように。)




    エマオの途上から安息を考える
    もう一つ、復活の後のできことを考えたい。

    先ほどと同じように、静止すること、あることから離れること、そして別のものに向かっていくことを考えたい。それは、ルカ24章13-36節にかかれているエマオへの途上の話である。この話も、墓に訪問した時のマグダラのマリアと同じ構造を持っている。

    そしてマグダラのマリアから、イエスからの伝言としてエルサレムを離れないで、と伝達されたはずであるにもかかわらず、彼らはエマオに向かっている。概ね、11キロ余りのの距離だとされているが、彼らは、エマオへ向かう道すがらヒソヒソ話しながら歩いていたのではないかと思う。まず、思いだしてほしいのは、この二人のリーダーでもあったナザレのイエスが、彼らに取って、また全世界の人々にとって約束されていたはずの王であり、救い主であると思われていたにもかかわらず、ローマの権威によって刑死させられるという経験をした人たちであったということである。追われる身でもあり、自分たちのそばに知らない人がいるのはつらかったのではないだろうか。そして、他人に聞かれないように二人は努力していたかもしれない。イエスは話しかける前にかなりの時間をかけて一緒に歩いていたのではないだろうか。少し考えてもらいたい。この出来事の前に大事件として、ものすごく焦点を浴びた人物、人々の注目の対象であったイエスがそばを歩くということは、彼らが目立ってしまうということでもある。そもそも、エマオに向かっているこの12弟子でもない人たちが、自分の願ったエルサレムにとどまらず、そこから離れようとしているのにつき合っているイエスがいるのである。おびえているかもしれないこの二人と一緒にいても、イエスは彼らが違和感を感じないように旅をしている。

    ところで、我々はイエスと似たようなことをするだろうか。復活したら、フェースブックに、復活したと投稿するかもしれないし、有力者に復活したことを継げ、自分の力を見せびらかしたり、ツィッターでつぶやいたりするかもしれないが、イエスはそうはしなかった。他の聖書箇所で名前が出てないような、あまり重要でない人にそっとよりそって、かなりの時間を過ごすということはしないだろう。

    マグダラのマリアがイエスと墓場で出会ったとき、最初は自分の心に目を向けたが、イエスは、他の人に関心を向けるように、他の人々に言って告げなさいといっている。また、イエスは他者としてのマリアになぜ泣くのか、といって関心を向けてもいる。また、他者であるこのエマオの二人に「何を議論しているのか」と関心を向けている。イエスは他者性を持つ他の人に関心を向けたのである。

    そして、このエマオの二人に「何を話し合っているのか」と聞いた時の最初の反応は、どんな反応だっただろうか。彼らはまず、立ち止まったのである。静止したのである。聖なるものの登場が、彼らを立ち止まらせたとも考えらえるのではないだろうか。恐らく、彼らは悲しんでいる顔、暗い顔していたのだろう。ちょうどマリアがそうであったように、立ち止まった時に初めて自分たちの悲しみに向き合った。そして、自分自身のより深いものに向かい合うことになったのである。静止する時にそして心が乱されるものから離れてから、イエスは、彼らに関心を向ける。それも、ちょっと気にかけるというような関心の向け方ではなく、全き心からの関心(Full Attention)を向けていくのである 彼らのこころを開き、復活のイエスに向かい合ったとき、彼らに重要なことを話しはじめたのである。そして、聖書についても話しはじめられた。村に到着した時、イエスは何をしておられただろうか。

    イエスには確固として先に進む、という決意に基づいた様子を見せているあるわけではない。イエスはいくふり、様子を見せて居られた。ギリシア語で調べてそういう感じの語になっている。実際にこの話をした時に、神学生たちは、聖書のインターリニアで調べていたのだが、実際にもそう書いてある(ギリシア語では、προσποιέω そのような意向を見せる、ふりをする)。なぜ、イエスはいくようなふりをしたのだろうか。

    彼らは何かこの人をひき止めたいという気持ちがあったのではないか。そしてイエスが語ることで、この二人にそういう気持ちを起こさせたい、というように彼らの心を開かれたのではないか。イエスと共に居たいという思いを。

    イエスは無理強いをしようとしたのではないし、イエスは一緒に居続けるということを押し付けなかったが、このエマオへ向かう二人は、喜んでイエスを迎える彼らはホスト役、即ちイエスを招待する側になろうとしたのである。そしてパンを裂いて渡した時に彼らはイエスだと分かった。そうしたら、すぐにイエスは彼らの目からは見えなくなった。しかし、その時に彼らは変わったのであり、以前は逃げるようにエマオに向かっていたのだが、そこからは変わってしまったのである。彼らは、喜びに満ちあふれて、これまでエルサレムから来た道を急いで引き返した。そして、イエスが生きていたという福音を友人と分かち合った。彼らがエルサレムに帰る道は、困難で、つらいものではなくなっており、もはや距離の長さや大変さは関係がなかった。そして、喜びと共にエルサレムに帰っていったのである。

    (こういう高揚感というか、祝祭感が日本の教会の日々の礼拝の中でどこまで、演出されずに実現しているのだろうか、ということを考えている。ちょっと前にテーマパークでのキリスト教の祝祭の日本での受容を扱った論文を紹介したが、毎週日曜日は、教会の人々にとって、真に福音を示す、全身で神が地上にきたことを、キリストが復活したことを喜んでいる祝祭、その喜ばしいことを伝える祝祭になっているだろうか、ということを考えている。こういうことを書くと、大抵出て来る批判は、十字架はそんな祝祭というものではなく、神の深い憐れみを示している厳粛なものでなければならない、というようなものであろう。しかし、厳粛さだけが追及され、祝祭の側面がなければ、よほど陰気なことが好きな人しか、教会になじめないではないか、と思う。厳粛さから、祝祭への転換があって初めて、福音が著されているといえるのではないだろうか。だからといって、ディズニーランドや、USJの様な御祭り騒ぎ、パレードを教会でしたり、やたらとにぎやかな歌舞音曲を入れるべきだと主張しているのではない。あるいは、シャウト型の賛美を導入したり、妙に明るい讃美歌の導入をしようというのでもない。祝祭の場である、喜びがここにあるという説教もさることながら、あるいはそれを形で表すことが可能な聖餐は結構重要なのかもしれない、といいたいだけである。聖餐は、本来祝祭への意向となる出発点になりうるのではないか、と思うのだ。自分自身の罪深さを思い、神との和解、そして、他者(隣人)との和解を成立させた神の存在を覚え、そのうえでの祝祭としての聖餐である。普段の食事とは違う聖餐であるからこそ意味があるのではないか、と思うのだ。)

    高挙ということと安息
    安息日の最後の動きは、イザヤ58章に現われる、高いところに神がある人を置いてくださる、神が高挙して(Exaltation)くださることである。

    復活後の弟子たちは、高挙される経験を味わったのではないか。引き上げられるという経験をしたといえるだろう。聖書の中では、高挙されるという表現ともいえる。それは神によって高く引き上げられる、という経験である(このあたりが先に触れた礼拝の祝祭性ともつながると個人的には考えている。ディズニー映画のノートルダムのせむし男では、このあたりの祝祭性について、考えさせられるシーンをいくつか含んでいるが、その中で最も典型的なのは、このノートルダムのせむし男であるコジモドがKing of Foolsというコンテストで優勝する点である。普段は見向きもされない一人の人物が祝祭空間の中で、王としてまつりあげられ、文字通り高挙される。そういう価値転換を示すのが祝祭なのである。とはいえ、神ならぬ彼は、その直後人々から呪われる存在となる。ところで、彼もあの映画の中では、クライストフィギュアとなっている)。人々はいろんな意味で、高く引き上げられることがある。例えば、名誉や地位や、富とかである。また、ある人々は、自分を引き上げようとする場合もある。しかし、この種の高挙は神から与えられるものである。

    しかし、イエスとエマオに向かう道にであったあの二人は、高挙そのものを求めていなかった。また、悲しむために出ていく中で、引き上げられる。マリアも、高挙を求めたわけではない。イエス自身も高挙を求めてはいなかった(イエスは神の高挙、神の名が高挙されること、皆が崇められることを求めたのである)。イエスは自分自身に目を向けるのではなく、イエスは他者である人々に目を向けていた。ペテロ、トマス、マリア・・・しかりである。

    高挙は、止まって、離れ、神のもとに向かっていくときに経験しうることではないか。高挙という経験は常に起きるわけでないし、自分たちが起こせるわけでもない、苦しみが必要だとも限らない。高挙と苦しみは必ず一緒であるということではないが、一緒のこともある。それをイザヤ53章の苦難の僕として知られているイザヤ預言である。

    エマオの途上の最中にイエスは、このイザヤ預言の中のことを解き明かしたと思われるが、このイザヤ預言はイエスの姿を示している。

    この苦難の僕は苦しめられて、さげすまれ、そして、高挙が起きた。パウロは、ピリピ書でもそのように書いている。
    【口語訳聖書】ピリピ人への手紙
     3:10 すなわち、キリストとその復活の力とを知り、その苦難にあずかって、その死のさまとひとしくなり、
     3:11 なんとかして死人のうちからの復活に達したいのである。
     3:12 わたしがすでにそれを得たとか、すでに完全な者になっているとか言うのではなく、ただ捕えようとして追い求めているのである。そうするのは、キリスト・イエスによって捕えられているからである。

    彼らは悲劇的な苦しみを経験し、厳しいつらい道を歩むことになった。しかし、その中で、神の高挙を経験する。そして、高挙は忠実に歩む人々の人生の中には起きる。苦しんだ人の一部には、高挙を経験することがある。

    神のGoodnessが
    神のかたちを通して示されるときに現わされる高挙

    Last Innocent Blood Shedという本が出版されているが、その書籍の内容はフランスの第2次世界大戦中の出来事である。3000人の住民が、良きことの陰謀Conspiracy of goodnessに加担したといわれることもある。その村では、プロテスタントの牧師に導かれ、3000人のユダヤ人の子供たちや青年を救ったのである。ユダヤ人の子供たちを家に隠し、ユダヤ人子どものための学校を作ったのである。多くは農夫たちであったが、ユダヤ人の若者たちを自宅に受け入れたのである。それは、見せびらかしたり、自慢したりするためでなく、そもそもそれをすることは、隠した人々にとっても危険なことであった。彼らがそれをしたのは、イエスが貧しい人にしたことをしているだけだ、といってこのような取り組みを行ったのだ。実際、ある人たちは、それで罰された。

    ある夜、その事実を知ったドイツ軍はその牧師を逮捕するために兵隊を派遣した。アンドレ・トレックメAndré Trocmé という牧師である。ゲシュタポがきた時、牧師は不在で、牧師の奥さんが応対した。その時にも、二人のユダヤ人が壁の後ろにいたのである。ちょうど、食事の時だったので、逮捕死に来たゲシュタポにも、奥さんは夫の牧師が戻ってくるまで一緒に食事をしようと招いたのである。そして、牧師が返ってきたとき、牧師に「逮捕する。その後強制収容所に収容するので、簡単に荷物をまとめるように」と命じた。そして、車でゲシュタポの指令所まで連行する最中にも、村中に、牧師逮捕の一方が広がっていく。当時は戦時中でもあり、極めて物資不足が深刻な経済状態で、トイレットペーパーといった日用品も入手が極めて困難な時代であった。その中でも村人は牧師が収容所で必要とされるようなものを少しづつ供出し牧師館に持ってきて、それらのものが集まりはじめたのである。ろうそく、マッチ、トイレットペーパーと。ドイツ兵は牧師館で出された食事を食べられなかった。なぜなら泣いていたから。眼前に繰り広げられる後継のその美しさに泣いてしまったのである。

    逮捕され、牧師が車で司令部に連行されるときに、牧師と一緒に村中の人が歩いていった。みかみは我がやぐらなりという讃美歌を歌いながら。我らは、神の中に生き動き、我々が神の礼拝所だと歌い始めたという話である。(調べてみたら、1943年に逮捕され、戦後解放された後、国際和解委員会International Fellowship of Reconciliationの事務局長をしたり、アルジェリア戦争の時にはメノナイトの人々の援助を受け、支援グループを立ち上げている。)

    神は我が櫓なりという讃美歌


    BBCによる事件の概要を報道している動画

    あるアメリカの哲学の教授が話している機会にスーザンさんが参加されたことがあったそうであるが、この物語に関する映画をこの哲学の教授は参加者に見せたのである。もともとは、宗教的なものに反対し、キリスト教に反対した哲学者とみられていた人物が上映したのではあるが、その場にいて映像を見た全員が泣いたのである。この哲学の教授がル・シャンボン村での出来事に関する映像を見せたのは、合理性を超えた何かがあるということを示すためであった。それと同時に、苦難の道を歩んだものの、このフランス人の牧師は、その苦難の道を歩むことを通しても、高挙されるという経験をしたといえるのではないだろうか。

    私たちも同じようなことを経験しているのではないだろうか。神は、愛であるが故に我々を高挙されるのである。社会学者もElevationということで、人間社会の中での高挙を認めている。それはある面、高められていくElevationとよばれている。我々が、人間の中にある良さGoodnessまた、よい行いを見た時に、こういうエレベーションの経験をするだろう(N.T.ライトも『クリスチャンであるとは』の中でそのようなことを行っていたように思う)

    同じようなことを日常生活の中で経験するかもしれない。スーザンさんがバークレーのある交差点の止まれの標識のところで車を止めていた時、スーザンさんのいる交差点のところで、アフリカ系アメリカ人の老女がカートを押しながら道路を渡っていた。その時、彼女がこけ、彼女が支えの代わりに使っていた手押しのカートと共に倒れたとき、ある自動車がやってきて、自動車を横に停車し、この女性を助けた。車の中から出てきたドライバーは白人の青年だった。その救出劇が行われている時、みんなクラクション鳴らしたりせずに、じっと待っていた。それは、ある種、エレベーションという経験だった。良いものに出あうときにエレベーションが起きるのだ。社会学の研究によれば、人々は良いものを見たときに、よりよくなりたいという思いになり、より親切になるという傾向があることがわかっている。良きことGoodnessの体験は神がしておられることを人間がじっさいにしてみせるかたちによる、別種の体験のではないだろうか。(人間の中にそもそも備わっていた本来の神のかたちの回復が起きるのだろうということではないか、と思う。この種のことを描いた映画に、Pay it forwardという映画があるが、是非ご覧になられることをお勧めする。)

    映画Pay it Forwardの予告編

    ある面、安息日に留まり、我々を神の側から遠ざけるものから離れ、神に向かっていくときに、その中で引き上げられる、高挙という経験をするだろうし、高挙が神のものであることを考えると、それは神からの贈り物である。その贈り物を受けることは霊的修練の一つの結果ではないだろうか。

    最後のQandAから

    Q エマオの途上のお話は、一種の霊的同伴Spiritual Companionshipであったと思いますが、それについてどうお考えですか?

    A
    Spiritual Companionshipは重要な一つの側面で、人々と共に歩むことである。神はその中で働いておられます。また、Spiritual Companionshipは、スピリチュアルガイダンスの一種であって、ガイダンスを受けている人が、その人の中にある神の働きや働きかけへの気づきへ招くものであり、神がその人への関与しておられることを気づかせものです。その関与に関する気づきから、その人を生き生きさせ、元気にさせる。心が燃えるようになるようにするのが、スピリチュアルガイダンスではないでしょうか。


    Q 今日の良きことGoodnessといわれたことは、我々がよきサマリア人であることを求められるようにも思うのですが。

    A
    弟子たちは復活後にイエスのことイエスのGoodnessを他者に語った時に繰り返し語ることで、また改めて教えられていたのではないでしょうか。アメリカでは、世俗化が進み、こういう経験を分かち合わない文化が出来上がっていますが、スピリチュアルディレクターとクライエントがはなすときに、そういう機会ともなり、良きサマリア人のようなGoodnessを他の人であるクライエントに伝えることができ、そこにその人が持っているGoodnessの気づきにもかかわるのではないでしょうか。

    Q 教会でも忙しくしていて、安息日は大事だと分かっていても、安息日を過ごせない、若い母親の方などは教会に来ても説教を聞けないことなどがあるが、そのあたりをどう感が手たらいいのでしょうか。

    A
    安息日を守れない文化の中に生きていて、特に若い人が守ることは困難だと思います。そして、安息日を偶像化し、安息日を絶対のものとして他者に強要することは避けないといけないと考えます。
    安息日を守ることは、ユダヤ・キリスト教的伝統の中にあることであり、維持されてきたものである。安息日を守るというのは、単なる提案ではないし、むしろ神を礼拝するものとして、神に対してどういう態度で向き合おうとするのか、ということをまず考えることが大事だと思います。

    また、教会の全体として安息日に関してディスカッションしてみる。全体でやってみるとか、みんなで考えていくなかで、本当の安息日を守るとはどういうことか、ことは可能ではないか。個人だけでやるのではなく。教会全体で取り組んでみることで違ったものが見えるのではないだろうか。

    個人的感想
    以下、今回参加した感想めいたものを少し書いてみたい。

    質疑応答の質問の中で受けた印象であるが、参加された日本のキリスト者の皆さんの多くは、「安息日は即ち教会に行く日」という読み替えの解釈が教会内に非常に強く定着していることである。あるいは、レビ記における律法規定に関する安息日順守というと、金曜の日没から土曜日の日没まで、何も仕事をしないことという理解が非常に強くイメージされていることである。あるいは、キリスト教が否定しようとしたユダヤ規定を守ろうとするような反動的な理解ではないか、という思い込みの強さである。

    その意味で、参加された方のそれも一部の方の発言という偏ったサンプルから得た印象に過ぎないかもしれないが、日本の多くのクリスチャンたち、牧師の方々が、ある種固定概念に縛られており、それからなかなか脱却できていないという状況にあるのではないか、という疑念(あくまで、疑念)である。つまり、形式や時間や、自分たちのこれまでの知識に縛られ、それから離れて考えるという柔軟性のなさ、あるいは、自分自身で聖書テキストに向かい合っていき、その精神に基づいて自分たちの理解を組み替えていく柔軟性のなさがあるのではないか、という印象である。もう少し、厳しい言い方をすれば形式にとらわれ、安息日の本質を見ていないキリスト教の関係者が案外少なくないかもしれない、という印象をもった。

    そもそも、安息日とは何か、ということであるが、ミーちゃんはーちゃん風の理解で言えば、土塊に過ぎない人間が神の前に、神に意識を向けて立つことで、土塊から人間に戻っていく時間を持つ、つまり神と関係を持つ土塊として神に意識を集中していくことで、週に一回、規則的に人間になる時間だということであり、安息日の規定通り守ることを順守すること(偶像に化すこと)をするのではなく、金曜日の日没から土曜日の日没に限られることではなく、週のうちどこでもいいので、規則的に神に向かい合う時間を、排他的に神と向かい合う時間をとるということの大切さをどう考えるか、ということが問われているのだろう。

    そもそも、安息とは全身で神が与えられた世にあって、神と共に喜ぶことではないだろうか。つまり、安息は、神と共にいることを喜ぶこと、全身でその喜びを感じ、表すことなのではないか、と思う。その表し方は様々であろう。美しい風景を見ることでそれを表す人もいるだろう、あるいは、神のことについて思いを巡らすことで表す人もあるだろう。あるいは、音楽を奏でて表す人もいるだろう。異言を語ることで表す人もあるだろう。どのような表し方が適切か、という議論よりも、神と共にいる、他のことから外れて神に向かう時間をたっぷりととり、神との関係の美しさに、そして、その良さないし善なること(Goodness)を味わうことであろう。

    しかし、現代の日本のプロテスタント教会の中で、どこまでこのような取り組みがなされているのか、そのような時間がとられているのか、あるいはそのような時間のとり方があることがきちんと提示されているか、と問われれば、このような理解は、現段階でまだほとんど広がっていないのではないか、と答えざるを得ないとおもう。

    その背景には、教会に来ることにおける教化、教育という意識があまりに強いのではないか、と思う。ある面、教室モデルが教会のモデルになっているような感じがある。聖書の理解を教え、聖書からどのように生きるのか、を教えることに、キリストという方を言葉で伝えるということにあまりにも集中しすぎているのではないか、と思う。

    しかし、考えてみれば、これは構造が逆転しているのではないか、と思う。現在の学校は大学はまず、教会の付属教育機関の修道院や神学校をモデルにしているし、初等中等教育における学校のモデルは、基本的には教会学校や日曜学校運動で構成された教育システムをモデルとしており、日本の教育システムは日曜学校運動の教育システムの影響を受け構成された英国モデルをもとにしている。しかし、今、多くのプロテスタント系の教会では教会から出ていった学校モデルないし教室モデルに支配されており、教室内での主導的立場の教師に対応する形で、教会内での主導的立場としての牧師が捉えられ、教室内での従属的立場の生徒に対応する形で、教会内での従属的立場に立つ信徒という形が現実的に標準的な姿として暗黙に認識されているのではないかと思う。そして、その結果、知識の伝達の場としての教会となっており、教会の礼拝の本来の目的である土塊に過ぎない人間が神に向き合うことで人間となっていくということが忘れ去られているのではないか、と思う。そして、本来のその目的があまり意識されていなければ、人の要望に応えるために、あるいは教会に来てもらう人を増やすために、人に来てもらう場所としての教会という認識になり、本来の人間性の回復が忘れられてしまうことになり、牧師も信徒は、人を集めるためのイベントに追いまくられ、神の前の神のかたちを取り戻すという本来の人間性の回復、取り戻し、解放、平和、神との和解が忘れされているのではないか、と思うのである。それが、今回の質問からは多く感じられた。

    そして、それは、日本のプロテスタント教会ではある面厳粛さの方が重視され、教会の人は、人生のことに深く思いを巡らし、悩んでいないといけない様な雰囲気に包まれがちな傾向はないだろうか。あるいは、喜んでいることを良しとしない、あるいは喜んでいることをあまり表明できない雰囲気にも、あるいは素朴に喜んでいる、そしてその喜びをシェアする、というよりは、無理やり喜びに神の何らかの関与をこじつけたような、あるいは喜ぶことにも何らかの神の関与や聖書のことばを無理やりにでも関連付けなければならないような、一種の胡散臭さとつながっているように思う。もっと単純に楽しんだらいいのに、とは思うが、それを赦さない何かが教会の中にないだろうか。そして、日本のプロテスタント派の教会では、聖餐が行われる回数が少ないところも多いようだ。そうなってくると本来聖餐が持っているはずの祝祭感、特別感を経験することの回数は減るのではないかと思うのだ。聖餐は、通常のスペースが、その派手さの程度があるにせよ、一種の本来祝祭空間となるのではないだろうか。その祝祭性のなさや説教があまりに重視されている点が、プロテスタント教会に対して、一般の方のイメージとして、教会は日曜日もお勉強をするところ、というイメージにつながるのではないかとおもう。まぁ、実際、ある非キリスト者の方がミーちゃんはーちゃんに素直に語ってくださった表現につながるように思うのだ。まぁ、説教の時間を減らせともいわない、また、聖餐を増やせばいいというものでもない。それは各個の教会が形成されていく中で形成されてきた教会固有の文化があるからである。それは軽視しない方がいいと思う。しかし、それに縛られてしまうのもどうかとも思う。

    実は、この講演を聞きながら思いだしていたある本の箇所がある。それは、先にも紹介した、N.T.ライトの『クリスチャンであるとは』の第4章の内容である。そこから少し引用してみたい。
    もし、霊的なものへの渇望の背後に真理があるなら、人間は単に自分たちの生活の「霊的」次元が深まるだけで満足するのか、あるいはその例的な仕方でしか知ることのできない別の「存在」との関係のために創られているのかが問われるだろう。関係、かかわりについて言えば、関係の「真理」は、関係そのものの内にある。即ち互いに対して「真実」であることである。(中略)
    「知る」ということが何を意味するかも、同じようにさらに調べる必要がある。既にほのめかしているが、より深い心理を「知る」とは、人を「知る」ようなもので、長い時間がかかり、多くの信頼が必要であり、試行錯誤が求められる。町中に行くバスが正しいかを「知る」野とはわけが違う。それは、主体と客体がおりなされているものを知るようなことで、純粋に主観的か、純粋に客観的かといえるようなものでは消してない。
    こうした、より深く、より豊かな意味で知るということは、より深く、より豊かな真理を伴うことを意味するが、それを一言で言い表すなら「愛」である。しかし、そこに入る間に深呼吸し、ある物語の中心に飛び込まなくてはならない。その物語は、クリスチャンの伝統に従えば、私たちの希求する儀、霊的であること、美、そしてまさに真理と愛に意味を与える。そのためには、神について語ることから始めなければならない。(同書 pp76-77)

    ある面で、ここで展開されている表現によれば、「霊的」であるとは神との関係性の中にあることとN.T.ライトは考えているかのようである。そのために、神との関係性の中に入る時間、伝道とか、人と話すこととか、人に理解してもらうことからも離れ、神との関係性の中に入る時間である「安息日」を守ること (日程や実施開始時刻は別として) 、自分が神に生かされていること(活かされているといってもよいだろう)を定期的に外生的な基準(天体運航の基準)に従って守るということで表明する神との豊かな関係性の中に入っていくことと深くかかわりがあるのではないか、と思ったのである。

    以上で、今回の参加記は終わり、今夕、Ministryの最新号から紹介したい。



     
    評価:
    ジョン・オートバーグ
    地引網出版
    ---
    (2015-11-10)
    コメント:これは名著であり、非常に参考になる。

    評価:
    ヘンリ・ナウエン
    あめんどう
    ¥ 972
    (2004-09-01)
    コメント:おすすめします。まず、この本が手がかりになるでしょう。

    評価:
    来住 英俊
    女子パウロ会
    ¥ 810
    (2007-06)
    コメント:霊的修練の方法の入門として最適かもしれない。

    コメント
    昔通っていた教会で、安息日は何があっても守らないといけなかったので
    古くからの友人の結婚式に行けなくて絶縁された人とか、
    運動会に参加できないのが分かっているのに
    練習には出ないといけなくてストレスで髪が抜けた子供とかがいました。
    自分の家族はスーパーでの買い物もあまりよくないと言われたり。
    まさに安息日が偶像化されていて、何のための安息日かと思いました。
    礼拝では電灯やエアコンを使い、ガスで教会のお昼の食事を作るのに、です。そのインフラを管理している人は安息日も何も関係がありません。

    安息日を特別に選び、神様との関係を喜び見つめなおすことには
    大賛成で自分もそのようにしていますが、例えそれが安息日内での
    ほんの短い時間だけであったとしても、それでも神様は「安息日を
    特別な日として選んだこと」を喜んでくださるのではないかなと
    思っています。
    だから仕事の前や行事のあとで個人や家族の礼拝になったとしても
    私はいいと思っています。
    • ぽん
    • 2016.06.07 Tuesday 12:43
    ぽんさま

    ご清覧、コメント、ありがとうございました。

    >昔通っていた教会で、安息日は何があっても守らないといけなかったので
    >古くからの友人の結婚式に行けなくて絶縁された人とか、
    >自分の家族はスーパーでの買い物もあまりよくないと言われたり。

    あ〜〜、あるあるですね。それ。私が長くいたところもそんな感じでした。

    >礼拝では電灯やエアコンを使い、ガスで教会のお昼の食事を作るのに、です。そのインフラを管理している人は安息日も何も関係がありません。

    そうなんですよ。若い信徒さんが就職の際に、そんなインフラ産業に就職するとか言おうものなら、寄ってたかって説得された感じはありました。

    実際にご幼少のころから、警察官になるのが夢だった青年が、洗礼を受けたがために、その夢をあきらめられた方もおられます。

    まぁ、何が幸せなんだかは人それぞれだと思いますが。

    >安息日を特別に選び、神様との関係を喜び見つめなおすことには
    大賛成で自分もそのようにしていますが、例えそれが安息日内での
    ほんの短い時間だけであったとしても、それでも神様は「安息日を
    特別な日として選んだこと」を喜んでくださるのではないかなと
    思っています。

    神様に喜んでもらうためだけではなくて、人間が人間になること、それを神と共喜ぶという感じかもしれませんねぇ。曜日は日曜でなくても、別の日でも、それも長さも、そこまでこだわる必要がないと思います。

    メンバーも、あまり固定的に考える必要がないかもしれませんね。自分の教会でできなければ、他の教会でも、という柔軟性があってもいいかもしれません。牧師先生には、それを喜ばれない方もおられるかもしれませんが。

    コメント、ありがとうございました。
    • ミーちゃんはーちゃん AKA かわむかい
    • 2016.06.07 Tuesday 21:51
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