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2016.06.04 Saturday

2016年6月4日の関西牧会塾の参加記録(1)

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    大阪クリスチャンセンター2Fで本日 2016年6月4日に開催された牧会塾関西のSusan S.  Philips女史の講演記録をご紹介したい。
    まず、豊田さんからの概説があった後、ご講演になった。なお、以下はその講演の速記録であり、()で小さめのフォントの部分は、ミーちゃんはーちゃんのツッコミである。なお、速記録でありご本人に一々確認していないので間違いがあるかもしれない。それはミーちゃんはーちゃんが悪いのである。

    スーザン・フィリップスさんの背景
    エジプトを訪問した時、神学校で話したのですが、エジプトでのクリスチャンがマイノリティであり、そのマイノリティであることに私は、興味が非常にありました。日本でもクリスチャンは同じようなマイノリティだと理解しています。その意味で、皆さんからもいろいろ学べればと思います。


    http://www.susansphillips.com/index.htmlから

    現在米国に住んでいる米国でクリスチャンがメジャーであるために、キリストに従うという点で課題を抱えています。現在、New College Barkleyで教えていますが、Berkleyでも、ある面、マイノリティとしてのクリスチャンとして生きることになります。

    (そら、即物主義的なITベンダー(アップルやオラクルとかもご多聞に漏れずであるが…)やスティーブジョブスがはまった禅やヒンドゥ的な思想が蔓延するのが、ある種バークレーの文化の一部ではあることは間違いない。)

    スーザンさんは、UCBarkleyで社会学を学んだが、その時代の社会学部は、マルクス主義の影響が強い時代であった。その意味で、キリスト教に対して敵対的な環境の中で学問生活を過ごしてきた。最初のころは、社会学者として働いてきたが、最近は神学校で教える機会が増えてきた。そして、新ガッコで教えるとともに、倫理学、心理療法にかかわる人に教えている。クリスチャンスピリチュアリティという言葉は、バークレーで学んでいた時代にはもちろんなく、スピリチュアリティは、学問分野でも、教会でも珍しい用語であった。クリスチャンになる方法は教えられてきたが、クリスチャンとして、どう生きるか、ということを教えられていなかった。そして今は、クリスチャンとしてどう生きるのかの倫理の問題と併せて、キリスト教の霊性を合わせて教えている。霊性に関する教育を行っている代表的な人物には、リチャード・フォスター、ダラス・ウィラード ユージン・ピーターソンが霊性を教え始めている。


    リチャード・フォスター
    http://www.spiritualityandpractice.com/explorations/teachers/view/45/richard-j-foster から

    ダラス・ウィラード
    http://www.dwillard.org/biography/ から


    ユージン・ピーターソン


    我々が生きている時代と安息日
    われわれは、復活後の時代に生きている。日々の生活の中で、どこにキリストを見出せるか、ということが課題となる時代である。霊的訓練を教えている中で、安息日を守ることを大事にしているし、安息日を守ることは霊的訓練の一環と理解している。しかしながら、アメリカでは、安息日を守ることは重視されなかった。

    (ドイツや古いイングランドでは、安息日には第2次世界大戦前くらいまでは、日曜日には商店は締まり、様々なビジネスが動かなかった時代があるのは知っている)

    ユダヤ教からキリスト教への移行していく中でも、大切な霊的修練として安息日を守るという習慣があった。

    アラブの春事件のあたりでエジプトの神学校で教えるために滞在していたとき、カイロ(エジプト)の神学生は、安息日を守ることに関心があった。そして、社会がアラブの春事件で混乱しているときにも祈りに関心があった。さらに、そのような混乱の中でも、安息日を守ることは、一種の規則リズムを果たすことで役に立ってきた。(まぁ、ムスリムが幅を利かせ、イスラム圏であるので、安息日にあたる ヤウム・アッ=サブト(يوم السبت)があるので、ある面当たり前である。SBTという子音字もヘブライ語と同じので、興味があるというのは当たり前だと思う。一応、イスラム圏ではユダヤ用と同じように、金曜日の日没から土曜日の日没までのはず

    スーザンさん自身は、安息日(文字通りの金曜の日没から、土曜の日没までというユダヤ的、またイスラム的な意味ではない)を守ることを15年くらい自身では行ってきたが、この安息日を守ることは、霊的訓練の一環として重要だった。そんなことはなされてはいなかった。本日は、復活後のキリスト教の中で、安息日に関する運動について話したい。

    霊的修練と静止すること、静まること
    霊的修練のポイントは、いったんすべての行為を止めて静止し、神に向かわせることである。英語には、Reで始まる言葉、もう一度、Return Refresh Retreat など数多くの言葉があるが、これは向きを変えていくことである。ある面で、留まって、向きを変えて、神に立ち返る、神と向き合うことがそのポイントである。ある面で言うと、我々の心を神に向けて広げていくことでもある(このあたりに関しては、『ナウエンの開かれた手で』、あるいは、あめんどうの 『 静まりから生まれるもの ─信仰についての三つの霊想 』あたりが参考になろう)。

    まず、一度立ち止まることが大事である。安息日を表す Shabath  שַׁבָּת  というヘブライ語があるが、それは、文字通り止まるシャバト   שָׁבַת 、という語から派生している。現代社会において、全てのことを止めることは、カウンターカルチャー的な行為である。現代社会では、常に動いている、常につながっていることが重要とされる文化である。これは世界的現象でもある。

    (この話を聞きながら、電波の届かないところで年休を申請して、取得してリトリートしてきたときに、携帯電話がつながらないと苦情のメールと激怒の電話を入れてきた世俗の仕事での同僚の話を思い出した)

    どこ行っても携帯電話やスマートフォンを持っているのが当たり前とされる社会であり、常に何かの活動に参加しているし、常につながっていることを求めている社会ではないだろうか。

    御言葉は、我々に、まず止まったうえで、静まれ、といわれている。 ダイアナ・ロスとシュープリームスが歌った歌の中に、Stop in the name of loveというポップスの曲(アフロ・コンテンポラリィ?)があるが、その中にも、とりあえずやめて、もう一度考えてよ、といっている歌詞がある。それと似ているかもしれない。神との関係を持つために、止まるということが案外大事なのではないか。(アメリカで50代以上がいるところでやれば、きっと受けたとは思うが残念ながら、文化が共有されてないので、不発に終わった)



    Superimesの皆さんで、Stop in the name of Love

    現代において安息日を守る意味
    安息日を守り始めた時、それは簡単ではなかった。神はまさに、講師のスーザンさんに向かって、この曲のようにStop in the name of Loveといっているように感じたそうである。15年前の当時、教会の中では、安息日を守ることは語られていなかった。そして、それは十戒の中で、他のことは守られなければならないが、この部分だけは、単なるお勧めだと考えられていた傾向があったように思う。

    (そういえば、最近見た大草原の小さな家のあるエピソードでは、ローラのお父さんのチャールズが、日曜日に畑を耕して云々というエピソードがある。下記の動画の18分05秒あたりで、奥さんのキャロラインにチャールズパパ、怒られている)

    安息日を無視してしまって畑耕して、キャロライン・ママに怒られるチャールズパパの回(18分辺りから)

    この安息日規定は、クリスチャンの歴史の中で、長く守られてきたが、近年の教会では無視され始めてきた。なぜ、これが有効か、ということを考えるのだろうか。現代のカルチャーからの圧力に対抗するために重要である。ユージン・ピーターソンは、ある雑誌の記事の中で、私たちは、ひかりの天使たちによって堕落させられており、安息日を破ることを徳性の高いことと考えている。我々は我々の文化に誘惑されていて、そんなに必要ではない。安息日さえ犠牲にすることを誇ってきた部分がある。

    とりわけ。アジア文化は、つながりが大切で、なんでも、急いでいる文化の中にいるのではないだろうか。香港の銀行の会議室で講演した時の話であるが、主に、牧師たちに話したのだが、彼らは安息日を大切だと思っているが、守れていないといった。その意味で、イザヤ書の安息日を踏みにじる文化の中に生きている。イザヤ書58章からイエスも言及している部分を読んでみたい。

    イザヤ書58章における安息日
    以下、いずれも口語訳聖書 イザヤ書から
    58:6 わたしが選ぶところの断食は、悪のなわをほどき、くびきのひもを解き、しえたげられる者を放ち去らせ、すべてのくびきを折るなどの事ではないか。
    58:7 また飢えた者に、あなたのパンを分け与え、さすらえる貧しい者を、あなたの家に入れ、裸の者を見て、これを着せ、自分の骨肉に身を隠さないなどの事ではないか。
    58:13 もし安息日にあなたの足をとどめ、わが聖日にあなたの楽しみをなさず、安息日を喜びの日と呼び、主の聖日を尊ぶべき日ととなえ、これを尊んで、おのが道を行わず、おのが楽しみを求めず、むなしい言葉を語らないならば、
    58:14 その時あなたは主によって喜びを得、わたしは、あなたに地の高い所を乗り通らせ、あなたの先祖ヤコブの嗣業をもって、あなたを養う」。これは主の口から語られたものである。

    ここで、イザヤは、社会正義に言及したその後に、安息日を守ることに関して言及している。安息日を守ることは、復活後のクリスチャンの生活と深い関係にある。その中で、まずは止まること、そして、立ち返ること、あることに向かうこと、そして、神によって高挙Exaltationされることである。なお、高挙、あるいは、高く上げられることは、神からのものである。

    現代社会において、安息日を守ることは、現代文化に対抗することになる。つまり、霊的修練は立ち止まることを要請する以上、それは現代社会で重視されるものからのdistraction(自らの意識を神から遠ざけるようなもの)を避けさえることと関係している。

    我々は現代社会の中にある多様なものから、安息日が守れないような誘惑を受けてるのである。そこから外れることが大事ではないか。アメリカでよく見るバンパーステッカーに Jesus is coming  Look busy と書いてあるものもあり、これは少し問題ではないだろうか。

    デザインの元ネタは、英国の戦時中のポスター Keep Calm and Carry On 



    その元ネタ


    ルター派の教会での面白説教題 Jesus is coming Look Busy


    あるいは、現代文化では、How are you?というあいさつに対して、Fine(調子いいよ) ではなく、 Busy(忙しかったねぇ)と答えることが多くなった。その意味で、現代語におけるFine(調子いいよ)は、Busy(忙しい)という語でもあるといえるほどではないか。

    忙しくない人が直面するアイデンティティ・クライシス
    現代では自由な時間をたっぷり使えるという人々は、一種のアイデンティティ・クライシスを経験しているということではないだろうか。忙しくなければ、アイデンティティ・クライシスに悩むのが忙しい現代人の姿である。例えば、病人、退職者、失業者、というのは、自分自身であること(つまり、神がつくられた“その人”という神のかたちで存在すること)が難しい時代ではないだろうか。

    Spiritual Guidanceは、ある面、昔からの霊的修練であるが、Eugene Petersonは、これが心理療法などに変わってきたのではないか、と指摘している。しかしそうなると、それは神が無い世界での指導や訓練になってしまう。(多分、この辺の怪しさが、教会の中での十分な訓練、霊的修練を踏まえていないカウンセリングに付きまとうような気がするし、20年から30年前に教会でのカウンセリングを行うことへの忌避感の直感的背景にあったのではないか、と考える。なお、ミーちゃんはーちゃん個人としては、教会でのカウンセリングには賛成でも反対でもないが、どちらかというと、訓練を受けてない人が軽々しくやっている例が多いので、やや否定的な視線を向けていることは否めない。)

    霊的同伴とは、その人の魂に目を止めていくことである。スーザンさんが霊的ガイダンスの中でよく聞く言葉は、“忙しい”であり、それを告白として語る人は案外多い。そういう人は、忙しくない時は、植物状態であり、テレビをボーっと見ることやネットサーフィンをだらだらと意識せずにやっていることが多いようだ。絶えず活動にかかわっているか、何も考えてない状態か。それはちょうどサーカスのようだ。サーカスは、演じる人と観客にわかれる。サーカスではいいかもしれない。人生がそうなってしまっていいのだろうか。

    聖書の中で、庭というイメージがいろいろなところで出てくる。特に、このイザヤ書の中では、水があふれる庭のイメージが出ている。ある面で、神との関係から目をそらせようとするもの(Distraction)から外れ、神のもとに立ち戻るなら、人生はうるおいのあるものになることをこの部分が示しているのではないだろうか。

    ヨハネの20章から復活後のキリスト者の姿
    愛する指導者であるイエスが十字架上で残酷な死を迎えた後、反対者たちも、安息日を守っていたし、弟子たちも安息日を守っていた。彼らは、家族で集まり、イエスの死を悼んでいた。そして、安息日が明け、陽が登りかけたイースターの日曜日の朝、一部の弟子たちは墓にやってきた。その時の記述を見てみたい。
    口語訳聖書 ヨハネによる福音書

    20:1 さて、一週の初めの日に、朝早くまだ暗いうちに、マグダラのマリヤが墓に行くと、墓から石がとりのけてあるのを見た。
    20:2 そこで走って、シモン・ペテロとイエスが愛しておられた、もうひとりの弟子のところへ行って、彼らに言った、「だれかが、主を墓から取り去りました。どこへ置いたのか、わかりません」。
    20:3 そこでペテロともうひとりの弟子は出かけて、墓へむかって行った。
    20:4 ふたりは一緒に走り出したが、そのもうひとりの弟子の方が、ペテロよりも早く走って先に墓に着き、
    20:5 そして身をかがめてみると、亜麻布がそこに置いてあるのを見たが、中へははいらなかった。
    20:6 シモン・ペテロも続いてきて、墓の中にはいった。彼は亜麻布がそこに置いてあるのを見たが、
    20:7 イエスの頭に巻いてあった布は亜麻布のそばにはなくて、はなれた別の場所にくるめてあった。
    20:8 すると、先に墓に着いたもうひとりの弟子もはいってきて、これを見て信じた。
    20:9 しかし、彼らは死人のうちからイエスがよみがえるべきことをしるした聖句を、まだ悟っていなかった。
    20:10 それから、ふたりの弟子たちは自分の家に帰って行った。
    20:11 しかし、マリヤは墓の外に立って泣いていた。そして泣きながら、身をかがめて墓の中をのぞくと、
    20:12 白い衣を着たふたりの御使が、イエスの死体のおかれていた場所に、ひとりは頭の方に、ひとりは足の方に、すわっているのを見た。
    20:13 すると、彼らはマリヤに、「女よ、なぜ泣いているのか」と言った。マリヤは彼らに言った、「だれかが、わたしの主を取り去りました。そして、どこに置いたのか、わからないのです」。
    20:14 そう言って、うしろをふり向くと、そこにイエスが立っておられるのを見た。しかし、それがイエスであることに気がつかなかった。
    20:15 イエスは女に言われた、「女よ、なぜ泣いているのか。だれを捜しているのか」。マリヤは、その人が園の番人だと思って言った、「もしあなたが、あのかたを移したのでしたら、どこへ置いたのか、どうぞ、おっしゃって下さい。わたしがそのかたを引き取ります」。
    20:16 イエスは彼女に「マリヤよ」と言われた。マリヤはふり返って、イエスにむかってヘブル語で「ラボニ」と言った。それは、先生という意味である。
    20:17 イエスは彼女に言われた、「わたしにさわってはいけない。わたしは、まだ父のみもとに上っていないのだから。ただ、わたしの兄弟たちの所に行って、『わたしは、わたしの父またあなたがたの父であって、わたしの神またあなたがたの神であられるかたのみもとへ上って行く』と、彼らに伝えなさい」。
    20:18 マグダラのマリヤは弟子たちのところに行って、自分が主に会ったこと、またイエスがこれこれのことを自分に仰せになったことを、報告した。

    ここにあるのは、まず、止まって、そして、心惑わすものから離れて、別のあるものに向かっていく豊かなストーリーになっている。つまり、神に向かっていく姿である。この別のことに対して、関心が深まる時間がある。

    ここには、いくつかの『見る』という語が出てくる。英語でも日本語でも同じ『見る』という語として翻訳されているが、ギリシア語の中では、3つの違う言葉が用いられている。

    1節では Blepo  βλέπω 見る 目を通して見るという語で、これは、表面しか見ない、という語である。

    11節では、 Theore  θεωρέω であり、Theoryなどの語根となった語である。ここでは、わきまえていくとか、見ることにより、理解するに近い語であり、 理解がより深いところに行ったことを示している様だ。

    18節では、 Orao  ὁράω という語が用いられており、より深い霊的ところに目が行っているという語である。そして、この後の時に、マリアは復活の主を見て、驚きを持って復活の主を見ている感じがする。

    このような深化が起こることをギリシア語テキストでは、違う語を用いることで示している。

    つまり、立ち止まって、心向けるときに深まりが起きるといえるのではないか。霊性を考えるとき、心と頭脳と、理性と霊など人間のさまざまないろいろなところがつながっていることの反映であろう。目で見て、頭で理解して、心で受け止める、という全体像でとらえていく。イエスが、私たちの子のような部分の全体を統合するように招いているかのようである。

    この墓のシーンでは、天使とイエスがマリアと出会っている。 なぜ、あなたは泣いているのかとイエスも天使も聞いていることに着目したい。泣いているのか、ということ場をかけられたことで、マリアは内面の深い願いに目を向けるようになった。急いでいる文化にはないものである。なぜ、泣いているのか、と聞いてもらう経験は日常でも教会でもないのではないか。魂の状態を聞く質問が聞かれているだろうか。他者の心の願いを聞いたことがどれくらいあるだろうか。現代社会では、そのような時間や場所をもっていないであろうし教会でもそうなのではないか。イエスは何度もこういう時間を持っていることが聖書には書いてある。このようなイエスの質問が、マリアの行動をいったん止めさせ、その心をイエスに向かわせ、さらにイエスからもう一度、名前を呼ばれて、もう一回イエスに向いている。この場面は、モーセの燃える柴の場面との類似性があるのではないだろうか。

    マリアが墓に来た時には、墓の主人に対して、遺体の引き取りをねがいでることだけでマリアはいっぱいいっぱいだったであろう。しかし、その関心事と異なって、マリアが本来向かい合うべき心に注目を向けるように助けているのではないか。そして、それでマリアは止まるが、実際には、忙しい社会の中で、このような完全停止は難しい。

    マリアは、いったん止められることで、自身の悲しみの深さに気づきが生まれたのではないだろうか。

    がんで80歳の奥さんを最近無くした方がおられて、その人に電話したら、最近は極力、忙しくしていると電話でおっしゃっていた。忙しくするのをやめると悲しみがやってくるからだと50年以上付き添った配偶者の方が言われたそうだ。今日スーザンさんがお召しになっておられたドレスには、蝶のデザインがついているが、そのドレスはその女性のものだったらしい。あなたの記念に日本に持っていって切るというお話をしてくださった。

    ちょうど、イエスの死はバタフライのようである。蝶が姿を変えるように(変容するTransform)ことをマリアは心でも、頭でも、そして見ることでも理解したのではないか。

    イエスを見る、イエスと出あう、
    他者としてのイエスと出あう

    イエスを見たといったが、イエスを見ることで、恵みを経験して、恵みがあふれるばかりに常時流れていることをマリアは経験したのではないだろうか。そして、イエスと出会ったことを他の弟子たちに急いで伝えに行っている。

    聖なる方と出あうときに恵みはあふれるばかりに流れていく。韓国で、伝道についてお話をした時に質問があり、伝道をどう考えるのか、という質問であった。伝道とは、まさにここに書かれたことであり、福音(イエスが復活したという事実の大きさ)に触れ、その奥底に触れた人は、その人の中で、その事実への驚きと喜びが。そして、その福音が他の人に流れていく。言いたくて仕方がない状態になるのではないか。そのことをOraoという語であらわしているのではないか。そして、そのことを聞いた弟子たちにも、それを伝えたマリアにも、深い平安があったのではないだろうか。

    指導者の軽視という考えられない状況という非常に厳しい状況の中では、イエスと人間的なコンパニオンシップが失われたといえるだろう。それぞれの弟子たちの身にも危険が及びかねない中でも、神の恵みに出会い、そして、Oraoという経験する。Ps 63の中でも、Oraoは、経験されたことが書かれている。

    より具体的に言えば、私の魂は脂肪で満ち足りるという表現である。Oraoとは豊かさFullnessを味わったことを示す。

    しかし、復活のイエスに出あうということは、時に衝き刺されるようなものであることがある。

    ペテロに3度愛するかと聞いたしーんがあるが、それは、ペテロにとっては痛むことでもあったであろう。復活のイエスに出会うことについて、ある人は炎だといった。例えば、パスカルの経験によれば、イエスと出あうのは、炎のようなものだった。ダマスコ途上のパウロも突き刺される経験をしているし、その上、彼は、目が見えないという非日常の世界に追いやられている。あるいは、パウロは第3の天に引き上げられたとも表現したこととも関係している。

    立ち止まって、我々の意識を神から遠ざけるものから外すと、神に出あっていく経験になる。(たしかに、彼は視覚がふさがれることを通して、自分の弱さに向き合い、そして、神に向き合うようにされたように思う。)そうなるように、何をやめるのか、ということは、神の前に静まり、立ち止まる時に見つかることもあるので、まずはいったん立ち止まって、自ら立ち止まらせないようにするものとは、何かを考えてほしい。そして、立ち止まった時に何を経験するのか、ということを考えてほしい。

    (個人的には、レクティオ・ディビナを実践する中で経験していることである。何もない部屋、また、他の騒音やテレビ、あるいは、自分の気が散るものを一切排除し(完全にはできないが、少なくとも意識しないようにし)、そして、数節の聖句に繰り返し10分から15分くらいそれに思いを巡らし、その聖句に向かうという経験をするとき(個人的には祈りの一種だとも思っているが)、レクティオ・ディビナの経験がない時の最初のころは結構他のことが気になるので大変なのだが、慣れてくると割とどこでもその世界にすっとはいることができるようになる。それと同じような経験のことではないか、と聞きながら思った。)

    ところで、安息日を守るとは、神の前に立つということ、あるいは、立ち止まるということが安息日を守ることである。毎週24時間、活動をやめる日を一日、週一回持つのである。創世記の創造の時に神が安息をとられたその事例を聖書に見ることができるではないか。安息日を守らない時代に生きている。そして、安息日を守るコミュニティに我々は属していないのである。

    現在スーザンさんが参加しておられる教会では、共同体として、何もしない、神に集中し、神を中心として考える、という意味での安息日ということを守ろうとしている。牧師の方も安息日を守ろうとしているがそれはできないとおっしゃっておられる。

    日没という他者性の世界
    スーザンさんは、土曜日の日没から、日曜日の日没までを安息として、それを守っている。その24時間を神に向かっている時間として取り分けている。その意味で、始める時間も第女かもしれない。特に、日没から、日没までの安息日という習慣は大事かもしれない。なぜならば、日没は人間にはどうしようもないからである。(ヨシュアは例外かもしれないが)
     
    口語訳聖書 ヨシヤ記

    10:12 主がアモリびとをイスラエルの人々にわたされた日に、ヨシュアはイスラエルの人々の前で主にむかって言った、
    「日よ、ギベオンの上にとどまれ、
    月よ、アヤロンの谷にやすらえ」。
    10:13 民がその敵を撃ち破るまで、
    日はとどまり、
    月は動かなかった。これはヤシャルの書にしるされているではないか。日が天の中空にとどまって、急いで没しなかったこと、おおよそ一日であった。
    10:14 これより先にも、あとにも、主がこのように人の言葉を聞きいれられた日は一日もなかった。主がイスラエルのために戦われたからである。

    大半の霊的修練は、自分でいつ始めるのか、修練をはじめるのかどうかさえ決められる。祈る時間、聖書研究の時間や安息に入るのか、はいらないのかなどは始められるが、もし、神に依存することを学ぶのであれば、神の支配の中にあるものに依拠するしかない。

    安息日の聖性と共同体性
    安息日を聖とするというヘブライ語は、夫から妻に向かって語られる約束の様な言葉関係性における聖性をしめすようである。じっさい、安息日に入る時間帯のユダヤ会堂では、結婚式で花嫁が入場してくるときのような興奮がある。この15年刊安息日を守ってみると、日が沈むときにスーザンさんは、ある種の興奮を覚えることもあるそうである。

    イスラエルでは、共同体として安息日を守っている。しかしながら、現代の社会では、家族全体として安息日を守ることですら大変である。安息を守るというのを今スーザンさんが参加している長老派の教会ではあまりしていなかった。教会でスーザンさんの本が出たので、みんなで、レントの時に、その本を読むことにした。

    40くらいのスモールグループの全員がその本を読んだが、牧師が、本の中のいくつかのことを実践するように勧めた。40日間、安息日を守ることをすすめた。一つの共同体でやった。安息を守ることが難しいかがわかる。

    マリアが遺体をどう引き取ろうか、どう墓場を守っている日tに説明しようか、ということを考えることを一旦やめたときに、自分自身に深く向かい合い、深く考えることになった。多くの人の場合、如何にもっと働きたい、動きたいということを願っているかということを気が付いた人が多かった様だ。しかし、安息日を守ることが仕事になるのは、本末転倒であるとは思うが。そして、このように、何らかの共同体で、安息日が守るということは有益であろう。安息日を守ろうとするときのお互いに誘惑について話し合うことになる。

    午前中の質疑応答から

    Q大宣教命令では、行けということと停止する、止まるということがどう関係するのか。

    A
    神は6日に働いかれた。常に動き続けるのは、産業時代の特徴ではないか。農業時代には、家畜も土地も急速が与えられていたのである。現代人は、人間を一種の機械としてみている。燃料を入れれば、動き続けるものととらえているのではないか。福音を伝えることと、安息日を守ることは矛盾しない。

    (現在行っているアングリカンコミュニオンの教会では、あなた方はこれから神と出あったことを職場や、家やあなたと出あう人に伝えるために戻っていくのだ。といった後、司祭がGo in Peace, in the name of Father, Son, and Holy Spiritと祝福してくれている。個の会上での質問を聞きながら、日本のキリスト教会では、聖書を伝えるのは教会、というイメージがあまりに幅広く普及しすぎているのではないか、と思った)

    Q 安息日を守っておられるといったが、セブンスデー・アドベンティストではないので、土曜日に守る意味がないのではないか。それはスーザンさんの個人的な主張ではないか。ユダヤ教とキリスト教に関して違いがあるのではないか、という質問が出た。

    (あまりに攻撃的な質問だったので、セブンスデー・アドベンティスト云々の話は翻訳しなかった)

    A
    律法の中で、最も重要な命令は愛である。実際、イエスももちろん安息日を守ることは大事であると主張したが、一方中身のない安息日を守ることや神への愛と関係のない安息日順守を問題にした。安息日順守規定も偶像化される可能性もあるがそれは避けないといけないだろう。安息日をとることは、神に近づくためであり、形式化した安息日を守る一種の偶像化した状態では、たとえ安息日を守っても、神に近づける手段とはならない。安息日を守ることは、神に近づいていくことであり、宣教とは矛盾していないことなのだ。

    Q 日本では、牧師に対してもお忙しいところからすいません。安息日順守をしたくてもできないのではないか。教会では毎週日曜日が最も忙しい日であることも多い。ある面、宣教に出ていって、アイデンティティを取り戻す。そのために忙しくする。あるいは、すべて疲れた人は、休むために教会においでとは聖書の主張であるが、教会に来てしまうと忙しくなる。そして、教会は教会を休んだ人に来いというところがある。そう考えるとき、教会を休みことは大きな変革をもたらすのではないか。アメリカでもそういうことがある。
    A
    日曜日の教会の忙しさは、じっさいアメリカでも問題になっている。日曜以外にも忙しい牧師たちも多い、そのこともあり、日曜日以外を安息日にしているひともいる。例えば、ユージン・ピーターソンは、月曜日を安息日にしている、という。しかし、礼拝を導いていることが、安息日に等しいと考えている人もいる。マーバ・ダンという学生も安息日について書いている。彼女は、礼拝を導くことは安息日の一つであるといっている。

    個人の考えではないか、という質問に戻りたいが、現代の社会では、共同体で一緒に守ることはできないことが多い。その場合、私にとって安息日を守ることは何なのか、と考えないといけないのではないだろうか。そもそも、現代において安息日を守ることは、カウンターカルチャー的行為である。安息日を守ることがカウンターカルチャー的行為であったのは、ローマ帝国でも同様であった。ヘブライの指導者たちは、ローマの支配者と安息日を守ることを常に議論していたことが知られている。

    エイブラハム・ヘッシェルという安息日を書いたユダヤの神学者がいる。(日本語訳では、『シャバット』という名で翻訳が出ている) 安息日は時間の中でのカテドラルのようなものだ、とヘッシェル入っている。ナチやローマ帝国も壊せなかった心の中のカテドラルである。奴隷になろうが、強制収容所に入れられようが、捕囚であっても、安息日を彼らは守ったのであり、安息日はその意味で魂のためのカテドラルであるという。日本のクリスチャンの歴史の中にもあったのではないか。Takashi Nagaiさんの1931に改宗した、当時医学生だった人がいるが、彼はクリスチャンが安息日(日曜日)を守っていること、貧しい人に仕えるキリスト者であることを見て、信仰を持った。迫害期においても、安息日を守ることは魂の休息になった。迫害されていなかったら、そういう守りをすることの経験はできないかもしれない。仕事や日常生活の忙しさは、そういう安息から我々を引き離すものとなっているのかもしれない。

    Q 日本ではデボーションを毎日するが、それと安息日との関係はどうか。

    A
    これは、両方とも大事である。新約時代とその直後のころの人々は、何度も祈りの時間を持った。1世紀のクリスチャンたちは、イに父に3から5回くらいクリスチャンは共に集まって祈っていた。そのうえで、さらに、安息日を守っていたのである。一度、実際に体験されてみてはいかがだろうか。それを体験すると、この両者の違うイメージが表れることを体験できるでしょう。日々のデボーションは、安息日の中にあるとは限らないのです。しかし、日本のクリスチャンたちがデボーションを持っていることは非常に興味深いですが、この日本の習慣をアメリカのクリスチャンが聞いたら非常に良い習慣である、ということでしょう。

    (個人的な感想であるが、日本で”デボーション”と呼ばれるものにつき合ったことが何度かあるが、そこでは、自分の感想とか、自分が聖書から思ったことといったこと、自分の思いを神の前に出すこと(これは必ずしも悪くないが、時と場合によっては、神の主権性が侵害されている場面に何度かであったことがある)であり、自分自身が、他者性を持った神と出あうという経験というよりは、むしろ、自己の中心性が強いような気がする。個人的には、安息日(ミーちゃんはーちゃんは世俗の仕事の関係と諸般の関係で月曜日としていることが多いが、これまた農繁期の現在のような状況だと、いろんな依頼が急きょ入るので、なかなか守れないが…)は、神の思いに集中し、長めのレクティオ・ディビナを早朝にしている。その時の思いとデボーションと呼ばれるときに臨席させてもらって感じることは、だいぶん違うような気がする。まぁ、あくま悪魔で気がする程度の事なのだろう。)

    というあたりで午前中のセッション終了
    評価:
    ヘンリ・ナウエン
    あめんどう
    ¥ 972
    (2004-09-01)
    コメント:本の厚みは、薄いけど、めちゃいいです。おすすめ。

    評価:
    Henri J. M. Nouwen
    Ave Maria Pr
    ¥ 835
    (2006-04)
    コメント:絶賛おすすめ中。今、明石市でやっているヘンリーナウエン研究会で読書中。

    評価:
    アンリ J.M.ヌーエン
    サンパウロ
    ¥ 1,296
    (2002-10-07)
    コメント:日本語がぁ…だけど、日本語で訳してある分だけまし。英文でこう書いてあるのかな、と英文を想像しながら読んだ。

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