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2016.06.04 Saturday

「祈り」について、たらたら考えた(7)

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     今日は、祈りについて、たらたら考えたことの最後の部分として、お願の祈り、というか請願の祈りというか、祈願の祈りについて少し書いてみたい。

    お願の祈りについて
     お願をする祈り、即ちこの種の祈りを、どうも、 prayer of petitionというらしい。このことについて、ナウエンはWith Open Handsで次のように書いている。ナウエン自体は、この請願の祈りというのか願いの祈りを否定していないが、それをどう祈るかが問われているという。まず、祈りの定義というか分類に関して次のように書いている。
     
    Sometimes we regard it(引用者註 prayer of petition) as less noble tha prayer of thanksgiving and certainly less noble than a prayer of praise. A prayer of petition is supposedly more egocentric because we are putting our own interests first and trying to get something for ourselves. (With Open Hands, p.67)
     
    時に、祈願の祈りは、感謝の祈りに比べて品性の書けるものとみなされる場合がありますし、賛美の祈りに比べて あきらかに品性の欠けたものと見なされることもあります。願いの祈りは、かなり自己中心的なものと思われています。なぜならば、願いの祈りでは、自分たちが関心のあることを最も重要なことにしてしまっており、自分自身にとって利益が生まれるような何かを得ようと思っている祈りだからです。(ミーちゃんはーちゃんによる日本語変換)
     たしかに、願いの祈りには、こういう部分はある。自分たちの関心が第1になっており、神の主権性が大きく失われている例が少なくない。ちょうどノビタくんが、ドラえもんにお願いするような祈りに近い部分がある。あるいは、神様を顎で使っているのではないのか、と思われるような祈りも時に見られる。個人的にそれはどうかと思う。

    では求めてはいけないのか?
     では、聖書は求めることを禁じているのだろうか?求めてはいけないということではない、とも思う。お願いの祈りが劣るものとか、品性において劣るものともいわない。実際に個人としてそう祈ったことが何度あったことか。そもそも、確かに聖書は、次のように言っている。(以上、引用者による日本語変換)
    【口語訳聖書】
    マルコによる福音書
    11:24 そこで、あなたがたに言うが、なんでも祈り求めることは、すでにかなえられたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになるであろう。

    ルカによる福音書
     11:9 そこでわたしはあなたがたに言う。求めよ、そうすれば、与えられるであろう。捜せ、そうすれば見いだすであろう。門をたたけ、そうすれば、あけてもらえるであろう。
     11:10 すべて求める者は得、捜す者は見いだし、門をたたく者はあけてもらえるからである。
     
    ルカによる福音書
     12:31 ただ、御国を求めなさい。そうすれば、これらのものは添えて与えられるであろう。
     12:32 恐れるな、小さい群れよ。御国を下さることは、あなたがたの父のみこころなのである

    ヨハネによる福音書
     15:7 あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたにとどまっているならば、なんでも望むものを求めるがよい。そうすれば、与えられるであろう。
     15:8 あなたがたが実を豊かに結び、そしてわたしの弟子となるならば、それによって、わたしの父は栄光をお受けになるであろう。
     但し、我々が忘れてはならないのは、何かを得ることが中心ではないということだと思う。あるいは、何らかの状態を確実なものとすることを求めることが中心ではないということである。とりわけ、ここで引用した聖書箇所の最後の二つ、ルカによる福音書、ヨハネによる福音書の中のことばに注目してもらいたい。「ただ、御国を求めなさい」「 御国を下さることは、あなたがたの父のみこころ 」「 あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたにとどまっている 」「 わたしの父は栄光をお受けになる 」つまり、ここで引用した聖書が主張しているのは、自分の願いの実現を求めることは一概に望ましくない、とは言わないが、それより優先すべきことがあること、本来われわれの願いの祈りの先と言うのか奥にあることは、神が栄光をお受けになる、ということであろう。祈りとは、とりもなおさず、神と我らが一つになる(個の聖書のカ所での、「私につながっている」とは、私のことば(つまりイエス)が人間に共にいることである、つまり、インマヌエル(神が我らと共に在る)が人間に実現しているということへの賛美の声があげられている、という理解ではないだろうか。つまり、神がすべてのものへのケアに与える者であり、その全地万物に関する権能を保有するお方が、それにふさわしいものとして、我々との関係を回復するところにかかっているような気がするのだ。

     我々は、この実際社会における現実ないし状態が、確実に自分自身が望むとおりになることを望みやすいものではないか、と思う。それは人が鼻で息するものであり、所詮、土塊に過ぎないからであるとは思う。その意味で仕方ないとは思うが、祈る時に、自分の思い通りに現実がなることにより、神に栄光が帰されるというような思い違いをしているとしたら、それは適切なのだろうか。

    祈りでの重要な方向性
     祈りにおいて目が向けられるべきかもしれない対象について、ナウエンはさらに次のように書いている。
    The important things about praer is not whether it is classified as petition, thanksgiving or praise, but whether it is a prayer of hope or of little faith.

    The prayer of little faith makes us cling to the concrete circumstances of the present situation in order to win a certain security. The prayer of little faith is filled with wishes which beg for immdediate fullfilment. This kind of prayer has a Santa Claus naivete about it and wants the direct satisfacition of very specific wishes and desires. When this prayer is not heard, that is, when we don't get the presents we wanted, there is disappointment, even hard feeling of bitterness.
    (同書 p.68)

    With this prayer of little faith, the concreteness of the wishes eliminates the possibility for hope.
    (同書 p.72)
     
    祈りにおいて重要なことは、それが、お願の祈り、感謝の祈り、賛美の祈りのどれかに分類されるということではなく、むしろ、それが、希望に根差した祈りなのか、信仰の薄さに根差した祈りなのか、ということではないだろうか。
    信仰の薄さに根差した祈りは、現在の状況について、あることが確実に 実現することにこだわらせるものであり、それは、ある種の保証を勝ち取ることと深くかかわっているのだろう。信仰の薄さに根差したいのりは、すぐに実現するように願うような個人的な願に満ち満ちている。ちょうど、この種の祈りは、サンタクロースにお話をすぐに信じるような単純さに根差しており、自分自身の希望や願いがそのまま願った通りに実現するよう思うことでもある。そして、祈りが聞かれなければ、つまり願った通り実現しない時には、失望が生まれ、そして、神に対する苦々しい思いを生み出しかねないのだ。

    信仰の薄さに根差したいのりでは、この希望が確実に実現するということにより、神にある真に希望を持つことができなくなってしまうかもしれないのだ。(ミーちゃんはーちゃんによる日本語変換)
    所詮人間は信仰の薄い者たちなのだと思う。弟子たちもそうであったように。
    【口語訳聖書】
    マタイによる福音書
    6:30 きょうは生えていて、あすは炉に投げ入れられる野の草でさえ、神はこのように装って下さるのなら、あなたがたに、それ以上よくしてくださらないはずがあろうか。ああ、信仰の薄い者たちよ。

    マタイによる福音書
     16:8 イエスはそれと知って言われた、「信仰の薄い者たちよ、なぜパンがないからだと互に論じ合っているのか。
     16:9 まだわからないのか。覚えていないのか。五つのパンを五千人に分けたとき、幾かご拾ったか。
     16:10 また、七つのパンを四千人に分けたとき、幾かご拾ったか。
     16:11 わたしが言ったのは、パンについてではないことを、どうして悟らないのか。
     薄い信仰に根差したいのりがまずいのは、ミーちゃんはーちゃん風に言うと、祈りにおいて主客が逆転するからではないかと思う。つまり、薄い信仰に根差した祈りは、神が中心になるのではなく、人間の希望、勝手な願い、あるいは、クイックフィックスと呼ばれる、瞬間的に実現するような願いの実現、あるいは人間そのものや人間そのものの願望に中心性が移ってしまい、本来神の御思いが中心となるべき、最優先になるべきなのだが、人間の思いが祈りにおける中心や最優先になってしまうという価値の逆転現象が起きるのではないだろうか。

     そして祈っても自分の夢や願いがかなわない(より正確に言うならば、自分の思い通りにならない)と嘆くことになる。こうなると、本来神に向かうべきところが、自分に、そして自分の内側に向かっている人たちになりかねない。そして、自分を責めることになる。

     より具体的には、自分が罪深いから、祈りが聞かれなかったのが(自分が罪深いから、自分の思い通りにならないのだ)とか自分自身の聖書の理解が足らないから、祈りが聞かれないのだ(と突然聖書を意味も分からず読み始め、ある気間に聖書を読んだ量をこなすことに向かい始め、時に消化不良を起こし、聖書理解が混乱する)、とか自分自身の祈りの熱心さが足らなかったから、祈りが聞かれなかったのだ(と突然長時間、徹夜したり、断食したりしながら、神に向かって必死のアピールをして、「主よ主よ」と意味もなく呼びかけるようなり、しまいには何を祈っていたのだかわからなくなる)というような状況を経験した人も少なくないのではないだろうか。

     つまり、自分の素晴らしいものだと思い、願った理想状態にまっすぐ向かうレールを神に敷設することを求めるような祈りになってしまっている場合があるかもしれない。そして、その自分の理想状態にまっすぐ向かうレールを曲げられたりすれば、突然その起きた状況に対して怒り始めたり、人間には理不尽に見える突然の神の介入があると、それに対して怒り始めたりすることが多いのではないか。それは、神が自分と同じ思いを持っていないとその同じ思いを持っておられない神に、苦情を申し立てる様に怒りを示したりはしないだろうか。

     詩篇などには、そのような表現が時に見られる。しかし、そのような人間の欠点も神はご承知でありながら、土塊に過ぎない我らを神の子供として受け入れてくださっているのだとは思う。そして、神を顎で使うような人間の姿すらも容認しておられるのかもしれない。

     しかし、そのような関係は、神と神の子供として適切か、というとどうなのだろうか、と思う。だからこそ、神の国をまず求めなさい、ということをイエスは教えておられるのではないだろうか。その意味で、祈りの向いている方向性が神であることを、イエスは何度も繰り返して、教えられたのだと思う。そして、そのことが、新約聖書に記載されているのだ、と思う。


    神に期待する祈り
     祈る時には、それぞれのキリスト者が、全ての世界の支配者であることを認識しつつ神に対して祈るのであり、そこには神の主権性、あるいは支配者であることを認めた祈りになっているはずだと思う。そこで、祈りの中で何が中心になっているのか、ということに目を向けるべ器か、ということに関してナウエンは次のように言う。
     
    When we live with hope we do not get tangled up with concerns for how our wished will be fulfilled. So, too, our prayers are not directed toward the gift, but toward the one who gives it. Our prayers might still contain just as many desires, but ultimately it is not a question of having a wish come true but of expressing an unlimited faith in the giver of all good things.  (同書 p.73)

    神に期待して生きているときには、自分自身の願望が満たされたかどうかということに振り回されることはない。であるからこそ、我々の祈りは、神から与えられる賜物に向けられるのではなく、その賜物を与えられる方に向かうのである。祈りは多くの願望を含んでいるかもしれない。我々がかなうことを期待している希望を持っているかどうかではなく、全ての良きものの与え主に対する限り無い信頼を表明しているかどうかに究極的にはかかわっているのである。

    If you pray in hope, all those concrete requests are ways pf expressing your unlimited trust in God who fulfills all promises, who holds out for you nothing but good, and who wants to share goodness and love with you.  (同書 p.74)

    期待を持った祈りを祈る時、このような確固たる要望に言及することは、神が全ての約束をなされる方であることに関する限り無い信仰を表明することとなり、神は、あなたにとって良きものだけをくださることを、神ご自身が良きものをあなたと分かち合いたいと思っておられることを、あなたを愛しておられるということを表明することともなるのだ。
     ここで、ナウエンは祈る時に、何がそこの中心であるのかをまず考えてみられてはどうか、と勧めているようである。

     自分が理想とする状況が与えられることなのか、自分の思いがかなうことなのか、自分がほしいと思ったものが手に入ることなのか、それはどうなのだろうと問うているのだ。この話は、実はモーセ先輩がシナイ山でもらったとされる10のことばと深い関係があるかもしれないと思っている。

     自分自身の思いが優先するというのは、自分の思い通りになることではないだろうか。人は無理にでも、自分の希望が叶うことを願うからこそ、人は殺したり、盗んだり、うらやんだりするのではないだろうか。つまり、モーセ先輩がもらったという10のことばは、極論すれば、神に期待をしなさい、神に信頼しなさいということなのだろう、と思う。

     もし人が、自分の希望を思うのではなく、神そのものが希望の根源であるということを認め、神に希望を置く(それが信仰だとミーちゃんはーちゃんは思うが)とき、そして、神の御思いがなることを求めるとき、それは希望の祈りになり、いろんなことが起きた、起きなかったと一喜一憂することに縛られることから解放されるのではないか、と思う。その希望は、今日、明日のことではなく、かなり長期間、数十年、数百年のスパンのことではないかと思うが、人間は弱いので、この数日、数週間、数か月のことに振り回されるのかもしれない。


    ショートメッセージで祈りを送ったら、すぐ答えられるかなぁ?

     人間には理解することのできない、人間は歴史の全貌を知ることはできない。過去についても完全井は知りえないのだ。それを思うとき、自分の数日、数週間、数か月のことに一喜一憂するというか、そのことにとらわれて生きることにいかほどの意味があるのか、と思ってしまう。それらを握り締めるのをやめ、両手を神に向かって開いていくこと(身体的に両手を開く、という意味ではなく、神の介在に期待して神のもとに神の御思いがいずれ明らかになることを求めること)が何より大切なのではないか、と思っている。たとえ、現状が不幸で、痛みがあるにせよ。どうしてもそこに目が行くにしても、その先におられる神が希望の神、死を超えた神であることを考えることが大事なのかもしれない。

     
    とりあえずのまとめ
     まぁ、これまで思うことをたらたらと書いてきたが、案外この祈りというのは、非常に奥行きの広い世界であり、また、キリスト者の霊性にとって重要なことであるけれども、どの程度教会の中で考えられているのか、といえばどうなんだろうと思う。また、どの程度説教の中で、あるいは信徒の成長のために祈りについて触れられているか、というと、少し疑問かもしれない。もう少し、教会の中で、幅広いディスカッションというか、祈りについて考える機会があればいいのに、と思っている。



     
    評価:
    Henri J. M. Nouwen
    Ave Maria Pr
    ¥ 836
    (2006-04)
    コメント:薄いけどお勧めです。

    評価:
    アンリ J.M.ヌーエン
    サンパウロ
    ¥ 1,296
    (2002-10-07)
    コメント:日本語訳

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