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2016.06.01 Wednesday

「祈り」について、たらたら考えた(6)

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    祈りについて、たらたら考えた、というシリーズをはじめてしまったが、あともう2回くらいで一応の小休止としたいと思う。今回は、祈りと身体性という問題である。これは案外大事ではないか、と思うのだ。

    暴論であるといわれるのを覚悟の上で、申し上げると、個人的には、呼吸することも祈りであると思っている。土塊から形作られ、神からその鼻に神の息吹、息を吹き込まれて、はじめて人間になったのであり、人間は神の息吹(神の霊と呼んでもよいとは思うが)を呼吸することで人間本来のかたちをとり返す、と思うのだ。そして、それが神の願いであるとも。つまり、神のものであるという意識の下、息を吐きだすことは、極端な理解であることを承知の上で申し上げると、神のものを神の世界に返すものであり、神との関係の回復がなされているという意味で、言葉を用いなくても祈りの一種に近いのではないか、あるいは神への礼拝の一種と呼びうる可能性を含むものではなかろうか、と思う。言葉だけで表現されるものが、日本語だけで表現されるものが、あるいは英語だけで表現されるものが、あるいは異言だけで表現されるものが祈りのことばと呼んでいいのだろうか、とも思う。あるいは言葉による祈りが祈りであり、それ以外のものは祈りではないと限定的に考えてよいのであろうか、という疑問はミーちゃんはーちゃん個人としてある。

    身体性とは何か
    祈りは、全人格、一人の人間の一体性を通して表現するものではないか、と最近思い始めている。もちろん、民族による違いもある。ちょうど民族や言語によって表現方法が異なるように、身体性も異なるのではないか、と思う。もちろん、個人による新体制表現の違いもある。子育て中に観測したことであるが、同じ環境におかれていても、音楽への反応は二人とも違う。一人は音楽がなりだすと、本人が意識しているのかどうかはわからないが、自然に手や足が動くタイプであるが、もう一人は、そんなこともなく、なんかうるさいなぁ、という顔をしていたことがあった。さほどに違うのだ。


    繰り返しの身体性と舞踏
    宗教的行事において、この身体性を伴った、繰り返しの行為が行われることがある。皆さんご存じの盆踊りが典型である。同じリズムの同じ歌を聞きながら、ぐるぐると繰り返しエンドレスに踊るというか日常的に慣れ親しんだ動作がいくつか組み合わされた上で、繰り返されるのだ。


    風の盆での踊り

    炭鉱節による盆踊り

    イスラエル兵の踊り

    ロシアにおけるユダヤ人を取り上げたニュースらしい。
    ロシア語がわからないので、何とも言えないが、いろいろなロシアのユダヤ人の祈りにおける身体性が見られる

    カナダでのアッシリア風のギリシア式結婚式でのダンス


    ギリシア正教会式での結婚式(オーストラリアのパース)式文は英語 会堂内で聖卓の周りを円形に回る儀式がみられる


    イスラムスーフィズムの回る修行僧(トルコ、イスタンブール)
    ここに「回るダービィッシュ Whirling Dervishes」という語があるが、このDervishというのは、喜捨によって生きる 一種の ムスリム修行僧ないしムスリム遊行僧を表すペルシャ語由来のことばで、日本発の野球選手テキサス・レンジャーズのダルビッシュの名前の由来と思われる。


    http://akasannz.com/supports/darubiltusyu-kinniku-toreningu-syokuji/ から

    マオリの結婚式で行われたハカ

    以上余談

    文化人類学的研究によれば、この円環及び回転の問題というのは極めて重要で、円環が終焉がないこと、しかし、終焉がないことで、永遠を現すのだという。例えば、最も典型的な例としては、仏教やヒンドゥーにおける輪廻思想は、永遠の輪廻を表すのに円環を用いる。結婚指輪が円環でできているのも、これまた、永遠性を表すということがあるらしい。その意味で、これらの円環ないし回転を持つ儀式は一定の意味を身体性を通して表しているようである。

    祈りにおける身体性
     祈る時の手のかたちにもいろいろあり、非常に印象深い。人々は様々なポーズで祈る。日本にはない、あるいはかつての日本人はしたかもしれないが、今の日本人にはないポーズがある。ポーズ自体にも意味があるように思うのだ。そして、様々なポーズに人々は意味を込めていると思うのだ。

    平たくした手を合わせる形


    手を握り合わせる形


    手を開いて神の祝福を受けようとする形

    ではからだのポーズとしては、どんなものがあるかといえば、これまた種類が多いし、信仰形態においてどのポーズが好まれるか、ということは異なるようである。様々なポーズを集めていた写真があったので、ここに紹介する。

    様々な祈りの形態

    ムスリムの祈りの代表的なポーズ

    ある面、ポーズも祈りであるようにも思う。どのポーズが望ましいとか、どのポーズが適切だということを主張したいわけではない。それぞれの人がそれぞれ神の器として、というか神がつくり給いし者としてあるポーズをとることで祈りをささげているのではないかと思うのだ。

    家人が友人何名かと一緒に、ガイド付きで最近イランを2週間ほど旅行した。その時付いたあるガイドは、かなり世俗的なイラン人であるにもかかわらず、可能限り、祈りの時間の時には公の場でも、どこでも、定められた方法で祈っていたらしい。それを見て、身体性を伴った信仰の姿を見た感じがした、という印象を語っていた。その話を聞きながら、自らの信仰生活を顧み、身体性にまで沁み込んだ信仰ではなく、まだまだ、ことば中心の、頭や心中心の信仰生活でしかないのだなぁ、と改めて思い知った。まぁ、身体性にまで沁み込むと、文化と信仰が識別しにくくなるという問題を含むので、それはそれで厄介ではあるけれども。

    また、娘の同僚に、インドネシア系の女性がいるらしいが、一緒に研修出張で行った出張先から帰る特急電車の中で、祈りの時間が来てしまい、電車の中で祈るのに大変苦労していたらしい。こういう話を聞くと、律法的ととるか、身体性と一体化したととるか、身体性を含む文化となった信仰ととるか、まぁ、それぞれとり方は一様ではないと思うが、個人的には、ある面、祈りと身体性の問題を深く問われている。

    あるいは、十字を切るという習慣をミーちゃんはーちゃんは自分自身の無理解の故に十分に考えてこなかったが、あれも一種の祈りであり、身体性による祈りであると考えると、その重要性は一概に無視できないように思う。
     
    これらの身体性を伴った祈りは、ある面自分自身の信仰の身体性を伴った表明でもあるし、どのような所作が求められるか、望ましいかはそれぞれおありだとは思うが、その細かな部分の議論はいったんおいておいて、その身体性を伴った行為(身体性を伴った祈り)の先にあるものは、ある面、自分自身が信仰するものがあるということの表明であるということを考えると、非常に重要なことではないか、と思うようになっている。

    プロテスタントが軽視してきたもの
    というのは、先日、イクメン編集長とお話する機会があって、そこでの話でも少し出たのだが、近代日本に伝わったキリスト教が宗教改革を経たキリスト教であったので、ある面、書いているかどうか、ということが重要なキリスト教の側面が強いし、そして、その中で出版という事業があるなぁ、ということを思ったのである。

    そう思っていたら、今週東京に向けて出発した牧師先生と難波のメイド喫茶(牧師先生のたっての希望)でお話しているときに、思想としての編集者というお話が出てきた。まぁ、ある面、編集者たちが神学的思想を書いたものを見出し、そして、それを編集者とのやり取りで書籍と消化する中で、神学的思惟が固定化され、固定化されることで他者に伝達可能なものとしてなっていくというような趣旨の話をメイド喫茶でしていたが、ある面、明治期以降の日本におけるプロテスタントが軽視してきたものは、思想や聖書理解そのものであり、その結果としての身体性、言葉では伝わらない身体性を失っていったのかもしれない、と思っている。本来、思想と神体と、霊性というのは分解できないものであるはずだし、それを分解できるとしたところに、近代思想や近代の理解の体系に無理があったのではないか、と思うのである。まぁ、この分解の思想こそ、ギリシア的な科学哲学の行きついた先というか、行きついた結果というか、ある面、それを推し進めたところに近代の悲劇が生まれる種となったのではないか、とは思うが。
     
    ある面、近代は科学に支配されてきたし、科学による支配を社会として容認というか是認してきたように思う。そして、その風潮をキリスト教にも仕込まれ、本来分けてはならないもの、失わない方がよかったものまで、分けてしまった挙句に捨ててしまったり、失ってしまったりしたのではないだろうか、とも思うことがある。

    近代で失われた身体性
    昔、別冊宝島でオウム事件に絡んで、確か山崎哲氏だったと思うが、オウムが若者に受けたのは、科学性に支配された現代社会が身体性を軽く見ていたのではないか、身体性を失った、ある意味実感を失った現代の若者に身体性を通して確実性があるものとしての何かを与え、そして、身体性を通しての何らかの実在という認識を与えることができたのが科学では十分説明できない神秘主義的な側面をも体系の中に含むヨーガであったり、修行であったりしたのではないか、と思われる。その意味で、オウム真理教は身体性が失われゆく中での近代社会の中に生きた若い人々、とりわけ、技術系や理工系での仕事を求めた人々の叫びに応えたという側面があったのではないか、と思う。

    一応、次回、お願の祈り、祈願の祈りと呼ばれるものに触れて、いったん本連載を閉じたいと思う。その書籍等の紹介の後、再開するかも知れないが。

     



     
    深井智朗
    新教出版社
    ¥ 2,570
    (2011-06-24)
    コメント:読むべき本かもしれないという意味でメモである。

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