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2016.05.30 Monday

「祈り」について、たらたら考えた(5)

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    今日も、前回に引き続き、成文祈祷について考えてみたい。

    形だけ成文祈祷にしてもナンセンス
    成文祈祷は、目前に拡がる世界があまりに悲惨で、あるいは凄惨で、言葉を失うとき、あまりのショックに言葉を失うとき、茫然自失状態にあるとき、あるいは何を祈ったらわからない時、その時であっても祈ることができる祈祷である。

    ただ、こういう特徴を持つので、全く問題がないか、といわれると、必ずしもそうではない。気を付けておかないと、成文祈祷をかたちだけ祈っておけばいいのだろうと、祈りがいい加減になる可能性はないわけではない。そして、意味も考えずに、成文祈祷の表現の表面だけをなぞる場合や、そういう人が出て来ることを防ぎえない。主の祈りを一語一語味わるようにして、その文字や表現の奥にある意味を考えながら祈る人々は、どの程度あるのだろうか。

    問題は形ではなく、その奥側にあることなのではないか、と思う。

    自由祈祷でも、祈りの言葉を口にする場合であっても、どこまで神の主権性や神との関係を考えているか、あるいは祈りの表面的なものに注視してしまい、言葉の奥というかその先にあるものを把握せず、その表現だけをなぞる場合もあるだろう。

    異言の祈りは経験がないのでよくわからないが、自由祈祷の場合で、通常の言語において祈っている本人は何を祈っているのかをある程度意識して祈っているであろうし、また、その祈りを聞く方も、その内容に思いを巡らせるのではないか、と思う。あるミーちゃんはーちゃんのお知り合いで異言の経験がある方によれば、祈る言葉がない時に異言での祈りが出ることがあるという。それはそれで、個人と神との関係であるので、それに何か申し上げるつもりもない。

    要は、代表祈祷がなされているときに、どの程度その言葉の奥に心を向けて、そこの奥にある意味を感じ取り、その奥のものを自らのものとして共有していくことなのではないかなぁ、と思う。その意味で、祈りの中における神と私たち、そして、神と私の関係が重要なのであり、異言がどうのこうのとか、自由祈祷がどうのこうのとか、成文祈祷だからどうのこうのとかではなく、そもそも祈祷とは、神に向けての祈りであり、そこで何が述べられようとしているのか、また、何が共有されようとしているのか、という部分に目を向けるべきではないか、と思う。

    確かに成文祈祷のことばは練られている。しかし、それだけにその言葉の奥に思いを向けるというか、霊において祈るというか、形に表されつつも、形を超えた何かがあるような気がする。

    成文祈祷の多様性
    成文祈祷がいいと思う部分があるとかお話すると、ちょっと血相が変わったような形で「そんなことはない。自由祈祷が一番だ、同じ言葉を彼らは呪文のように繰り返し祈っている」とかおっしゃる方がおられる(実際にお会いした時に言われたことがある)が、本当にそうなのだろうか。このような成文祈祷に対する批判的なものいひは表面的な現象をとらえた、実際を知らない批判であり、どこかで誰か(たいていの場合、その人にとって尊敬に値するえらい人)がした発言を再現されているだけのことが多いようである。実に残念な傾向であると思う。こういうことをおっしゃる方には、「実際に成文祈祷がなされている、同じ教会に何度かお出ましになったことがありますか?」「成文祈祷をなさっているような教会の司祭や牧師の方とお話されたことがございますでしょうか?」と聞くことにしている。

    ところで、同じ内容の祈りであっても、実に多様な祈りのパターンというか種類があるようである。また、同じ内容の祈りでも、表現が違うものが何系統かあり、また、それぞれを祈りながら、そのわずかな違いに違った思いというか、霊性の違いを感じることがある。ある面、聖書翻訳の違いがあり、その違いを読み比べる中で、その意味がおぼろげながら見えてくるということもあるように思う。
     なぜ、そんなことを思ったか、というと、成文祈祷の代表的なものとして新約聖書に記載がある主の祈りに何系統かの祈りの表現が英文ではあり、ある時、アングリカン・コミュニオンの聖餐式の中で、ある本訳の主の祈りを一緒に声に出して読みながら、そこで罪の本質というものに気が付いたことがあったからである。英文での主の祈りには、
     
    現代的なもの
    Our Father in heaven,
    hallowed be your name.
    Your Kingdom come,
    your will be done,
    on earth as in heaven.
    Give us today our daily bread.
    Forgive us our sins
    as we forgive those who sin against us.

    Lead us not into temptation
    and deliver us from evil.
    For the kingdom,
    the power and the glory are yours
    now and forever.
    Amen.

    もあるが
    伝統的なもの
    Our Father, which art in heaven,
    Hallowed be thy Name.
    Thy Kingdom come.
    Thy will be done in earth,
    As it is in heaven.
    Give us this day our daily bread.
    And forgive us our trespasses,
    As we forgive them that trespass against us.

    And lead us not into temptation,
    But deliver us from evil.
    For thine is the kingdom,
    The power, and the glory,
    For ever and ever.
    Amen.
    もある。太字にしたものをご覧いただきたい。日本語のプロテスタント役として知られている主の祈りでは、
    我らに罪をおかす者を、我らがゆるすごとく、
    我らの罪をもゆるしたまえ。
    とされている部分である。

    現代的なものでは、sinという言葉が日本語での罪を表す言葉として用いられているが、伝統的なものでは、trespassという語が用いられている。つまり、正当な権利を持つものでないものが他人の権利を侵害する、あるいは神の権利を侵害しているという構造が罪という言葉を表現するものの中に、表れている。また、他の現代語訳の英文聖書ではsinに変わってdebtsが使われているものがある。実にこのあたりのことば選びがある面、極めて深い陰影を残していると思う。

    普遍性が支配した近代という社会で広く普及した機械的な翻訳が可能であるという前提には、全ての言語における単語は一対一対応するという近代的なトンデモの仮定があるように思う。世の中そうはいかないのである。ある言語にあって、ある言語にない単語、ある言語で一語で表せる内容を他の言語ではどうやっても一語で表現しにくいと認めざるを得ない言葉もあるように思う。

    そう思っていたら、英語ネイティブでもなぜ、trespassを主の祈りで使うのかに関して疑問に思う人がいたらしく、アメリカのカトリック教会関係の雑誌のウェブサイトでその質問に答えてあった。

    http://www.catholic.com/quickquestions/most-bible-translations-use-the-word-debts-in-the-lords-prayer-so-why-do-we-say-forgi

    まぁ、詳しく知りたい人は、こちらをご覧になっていただけるとよいか、と思う。中でウェブスターの辞書の内容である、道徳的または社会的な倫理に反すること、という語が引用されて、それが罪の本質ではないか、ということが書かれていた。

    主の祈りをこのTrespassという語で祈った時に、罪とは、それは神が定めた状態に反することであろうし、それは、神の御思いと神の権利関係の侵害である、ということを思ったときに、あぁ、確かに罪の本質をうまく言い表せている、と思ったのである。

    もちろん日本語でもこのようなことは可能であるとは思う。以前覚えていた主の祈りでは、「我らの負い目をゆるしたまえ」と英語のDebtsに近い翻訳(文語訳かなぁ)のものもあったし、このあたり、日本語聖書の異なる翻訳を読むということで見えてくるものもあるのではないかと思うのである。


    ギリシア語での主の祈り
    (しかし、この動画の提供先がすごい Center for Nonharming Ministriesって、ねぇ。どんだけミニストリーと呼ばれるものが人を回復させるのではなく、人を傷つけてきたことの表れのようにこの組織の名前が指し示しているように思われて仕方がない)

    なお、我らに罪をおかすものを…の部分は、カヤフェッシィミンタァ と聞こえる0分38秒くらいからのところである。


    主の祈り http://www.stprohor.org.au/the-lords-prayer-2/ より(どうも正教会系のサイト)

    その短さと覚えやすさ
    基本的に成文祈祷は言葉が練られていて、必要なことを非常に短く表現するようにできている。長期間にわたって改訂が続けられているが故の部分もあるのではないか、と思う。成文祈祷の成立の歴史などは全く無知なので、だいぶんいい加減なことを書いているようには思うが、長く祈られてきた表現であるという側面を考えると、あながち外れてないかなぁ、と思う。

    必要な事項がぎゅぎゅぎゅとコンデンスミルク(練乳)の様に詰められて、入っているのが成文祈祷である。味が濃いというかまさに詰まっているという感じがする。


    コンデンスミルク

    言葉が練られていて詰め込まれているという意味でも、成文祈祷はコンデンスミルク的な祈りであるの出はないか、と思う。その点、自由祈祷は、牛乳のようなさらさら感があるし、以前の記事でも触れたように、時々祈りの中に他者に聞かせるための文言のような別物を混ぜて祈られる方もおられる。こうなると水で薄めた牛乳に近いような気もしなくもない。なお、それが悪いということを主張しているのではない。ミーちゃんはーちゃんが思うところと少し違う、というだけである。

    成文祈祷は短い。その中に思いが込められている。そして、覚えやすい。その意味で、祈りのことばを覚えるという意味においても、自由祈祷派の皆さんの中でも、この種の成文祈祷としての祈祷文を参考にすることぐらいはできるのではないか、と思う。まぁ、以前、このブログ記事でも紹介したニーバーの祈りも、一種の成文祈祷といえなくはない。非常に良いと思うので、ここでもう一度上げておく。
    ニーバーの祈り

    神よ、あなたの恵を私に与えて下さい
    静穏のうちに変えられないものを受け入れ
    変えるべきものを変える勇気を
    そして、変えられないものと変えるべきものを
    峻別する知恵を私に与えて下さい

    一日を瞬間瞬間生き、
    一瞬を瞬間瞬間楽しみつつも、
    平和への小道としての困難を受け入れることができるように。
    ちょうどイエスがその小道をたどられたように、
    この罪深い世界をそのままに受け入れることができるように、
    私が罪深い世界を自らの世界とすることがないように、
    あなたが全てを義とされる方であることを、私が信じることができるように、
    あなたの御思いに身を委ねることで、
    私が受け取るにふさわしいしあわせな人生を過ごせますように、
    そして、あなたの隣に私をおらせ、
    これからも、これ以上ないしあわせを永遠に味わうことができますように。
    (以上 個人的日本語変換)
    韻がもたらすリズム
     日本語では、韻文もあるが、韻文とするためにはかなりことば選びをしないといけないし、韻文そのものが声に出されて読まれる習慣がない。どうも日本の現代の文章は、声に出して読まれるというよりも視覚的に読まれるようにできているように思う。そもそも、日本語に韻文に近い文化が無いし、リズムを文章に与え、そのリズミカルな文章を語ることで、聞いてもらうことを前提に文章を書くという習慣がないとおもう。詩やCMのキャッチフレーズ(セブン・イレブン・いい気分は韻を踏んでいる)を除いては、であるが。基本、日本語の文章は散文が中心な気がする。まぁ、科学技術論文とかで、韻文で書かれた日には…ということもあるので、実用的な文章では、基本的に韻文となっていないのである。

    自由祈祷で、韻文で祈るというのは、英語でもかなり厳しいであろうし、さらに言えば、日本語ではもともと韻を文章中に踏むというその文化が無いので、ほぼ無理ではないか、と思うのだ。

    先ほどの覚えやすさとも絡むのだが、韻文というのは覚えやすいように思う。文章にリズムがあるし、そのリズムに乗って覚えることが可能であるのだ。リズムといえば、ラップが典型的にリズム重視であるが、調べてみたら、ラップで主の祈りを唱えているものがあったので、ご紹介だけしておく。なお、ミーちゃんはーちゃんの霊性とはだいぶん違うけれども。

    ラップでの主の祈り

    そして、韻文は心に響くのだ。韻文としての伝統が無い日本でも、韻文は心に響くし、心に残るのだ。聞いていて気持ちがよいのだ。従って、CMなどではよく用いられる。以下にいくつか例をあげておく。


    タンスにごんのCF たんすにごんごん ・・・ねん という関西方言で、韻を踏んでいる


    AUのギガとネギが(ね ギガ で韻を踏んでいるが厳しい)をかけたCM
     
    韻文がCMなどのキャッチフレーズ以外で日本にないのは、実に残念と思うこともある。どうしても、だらだらとなりやすいし、覚えにくい。主の祈りも英語でもギリシア語でも韻文であるようなので、それを通常の韻文を嫌う日本語にした瞬間にちょっと覚えにくいし、なんとなく味わいが違うと思うのは、ミーちゃんはーちゃんだけであろうか。

    また、特に賛美歌(ワーシップソングなども含む)においても、もともとの英語だとおさまりがいいのに、それが日本語に翻訳されて、日本語化した瞬間に意味は変えられてしまうし、韻はなくなるし、そういうこともあり、日本語訳歌詞が全体としてのおさまりのわるさというか、調子が悪さが残るようなきがする。もともと、言語に対する感性というか、音に関する感性などを含んでいるため、原歌詞のそのままのような表現とならないのは、この辺の文化的差異だと思う。

    なお、関西方言では、犬のチャウチャウ種にかけた言葉遊びとして
    「あれ、チャウチャウ」
    「チャウチャウちゃうんちゃう?」
    「ちゃうちゃう。チャウチャウちゃうんちゃう?」
    「チャウチャウちゃう。チャウチャウちゃうちゅうねん」

    という韻を踏んだ言葉遊びの文化があるが、この辺は面白いなぁ、と思う。あるいは、東北方言、津軽方言もある面で言うと韻文を生みやすいかもしれない、と思う。この辺、日本語であっても、韻文を生みやすい方言と韻文を生みにくい方言があるのではないか、と思う。なお、落語のオチないしサゲには、この辺の親父ギャグともいわれる韻文の影響が感じられるものがある。

    本シリーズは、もう数回だけ続ける。次回は祈りと身体性について。





     
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