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2016.05.28 Saturday

「祈り」について、たらたら考えた(4)

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     これまで公的な場における祈りの実際の場で見てきたことから、公的な祈り、とりわけ自由祈祷を素材に考えてきた。今日は、成文祈祷について考えてみたい。その前に自分の祈りの歴史をもう少し書いておこう。

    ミーちゃんはーちゃんと祈りの背景とその風景
     ミーちゃんはーちゃんは、自由祈祷しかしないキリスト者集団で育った。主の祈りを教会の中で、全員で声を合わせて唱えるなどということもしたことがないし、詩篇交読なんかもしたことがないほどであったのである。レクティオ・ディヴィナに関して言えば、40歳に至るまで、知らなかった。射祷という概念も知らなかった。なぜ、このような固定された祈り、繰り返しするような祈りをしないような理解になったかと想像するに、恐らく、この部分からの発想があるのではないか、と思う。

    【口語訳聖書】マタイによる福音書
    6:7 また、祈る場合、異邦人のように、くどくどと祈るな。彼らは言葉かずが多ければ、聞きいれられるものと思っている。


     ここには、繰り返しという言葉はない。意味もなく長く祈らないように、意味もなく熱心に見えるよう祈らないように、神の全能性があるにもかかわらず、人間側の熱心によってあたかも神が突き動かされるかのような思いを持って祈らないように、という教えではないかと思うが、同じことを繰り返して祈ることはだめだ、という理解がいつの間にか広まったようである。

     まぁ、この背景には、仏教の一部のグループでの読経や御念仏のイメージと、繰り返しの祈りが表面上、様式論的に似ている、あるいはカトリックのロザリオの祈りが似ている、というあたりの事からの誤解によるものではないか、と思う。つまり、成文祈祷をそのキリスト教者集団ではしていないがために、成文祈祷の経験がなく、それがもたらす意味も、あるいは射祷と呼ばれる短い祈りのもたらす意味も、また、その重要性も十分理解ができていないが故の無理解というか、誤解に基づく言説ではなかったろうか、と思う。

     なお、ロザリオに関しては、カトリック世界の中では、かなりの文化伝承がある模様だが、そこまで詳しくない。大河ドラマとかで、キリシタン大名が変なロザリオを持っていたりすると、テレビ局や考証をしている人に苦情の通報が入る模様である。


    http://365rosaries.blogspot.jp/2012/05/friday-prayer-requests.htmlから

    成文祈祷に触れた時に
     しかし、最近、成文祈祷をするキリスト者集団とのお付き合いが始まり、少し考えるところがあるので、それに少し触れてみたい。

     最近かなりの頻度で通っているアングリカンコミュニオンの礼拝で、祈祷文の中で、時々次のような祈祷文を祈ることがある。この祈祷文を聞きながら、そして他の信徒の皆さんと一緒に口に出して言いながら、自分自身を思いめぐらすことがあった。
    Most merciful God,
    Father of our Lord Jesus Christ,
    we confess that we have sinned
    in thought, word and deed.
    We have not loved you with our whole heart.
    We have not loved our neighbours as ourselves.
    In your mercy
    forgive what we have been,
    help us to amend what we are,
    and direct what we shall be;
    that we may do justly,
    love mercy,
    and walk humbly with you, our God.
    Amen.
    https://www.churchofengland.org/prayer-worship/worship/texts/newpatterns/contents/sectionb.aspx
    B37から

     個人が勝手に翻訳していいのかどうかはよくわからないのだが、祈祷書の日本語版を持ち合わせていないのと、英語ではちょっという方もおられようかと思うで、ちょっと個人訳してみる。
    もっとも恵み深い神よ
    我らの主、イエスキリストの父
    我らは、罪を犯しました。
    思いにおいても、言葉においても、行いにおいても
    私たちは、私たちの心のすべてを尽くしてあなたを愛しませんでした。
    また、私たち自身の様に私たちの隣人を愛しませんでした。
    あなたの憐れみにおいて
    私たちがこのようなものであることをお許しください。
    私たち自身が今ある姿を正すことができるようお助け下さい。
    また、私たちが将来においてもあるべき姿となるように導いて下さいますように
    公義を行い、
    恵みを愛し、
    私たちの神、あなたと共にヘリ下りの内に歩むことができるように
    アーメン

     この祈祷文(英語)を声を出し、祈りとして発音しながら、何を思ったかというと、自分自身の罪深さをここまで真面目に思いながら祈っただろうか、ということを考えたのである。

     もちろん、自分自身でも教会において人々の前で祈り(自由祈祷だけど)をしてきたことは少なくない。特に聖餐式の開始祈祷なども何度もしてきた。しかし、基本、神の御名を賛美し、罪深いものでありながら、神との関係の回復が、人間としての回復あったことを喜び、この時間を神の手にゆだねること、って感じの祈りをしていた。

     ある面、自分が所属していた自分の所属するキリスト教グループで、大抵の場合そのような祈りを他の信者さんがささげて居られたからであるし、それが、そのキリスト教グループの伝統であったからという側面がある。

     そんなミーちゃんはーちゃんが、最初に英語で
    Most merciful God,
    Father of our Lord Jesus Christ,
    we confess that we have sinned
    in thought, word and deed.
    We have not loved you with our whole heart.
    We have not loved our neighbours as ourselves.

    を祈った時には、あぁ、自分自身、また信者であっても罪深いものであるとは祈ってきたが、ここまで考えて祈ったことはなかったし、確かに罪深いということをきちんと書くとこうなるよなぁ、と思ったのである。

     思いにおいて、口にする言葉において、そして行いにおいて罪人だ、と頭で理解してはいたし、聖書からお話するときにもそのようにお話はしてきたが、ここまできちんと罪深いということを想いながら祈ったか、というと個人の経験としてはなかった。

     さらに、罪をこの祈祷文では、

    私たちは、私たちの心のすべてを尽くしてあなたを愛しませんでした。
    また、私たち自身の様に私たちの隣人を愛しませんでした。


    と祈っているが、まさにこれこそ罪の本質的な部分なのではないか、と気付いたのである。これに関する聖書箇所は、律法学者とイエスの対話の中で、イエスが律旧約聖書を2つに要約した内容を基礎にしている。
    【口語訳聖書】 マタイによる福音書

     22:34 さて、パリサイ人たちは、イエスがサドカイ人たちを言いこめられたと聞いて、一緒に集まった。
     22:35 そして彼らの中のひとりの律法学者が、イエスをためそうとして質問した、
     22:36 「先生、律法の中で、どのいましめがいちばん大切なのですか」。
     22:37 イエスは言われた、「『心をつくし、精神をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ』。
     22:38 これがいちばん大切な、第一のいましめである。
     22:39 第二もこれと同様である、『自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ』。
     22:40 これらの二つのいましめに、律法全体と預言者とが、かかっている」。
     まさに、新約聖書において、旧約聖書の根本である神から与えられたモーセの律法と神から与えられた預言者、即ち旧約聖書全体において、律法が大切にしていること、神が預言者を通して言わせた買ったことは何か、ということを示していることが反映されていることに気づき、あぁ、単に罪深いと告白はしていたが、その中にこの部分まで含まれていると思わずに祈っていたことのいかに長かったことか、と思うようになったのである。

     そして、本来の聖書の我ら人間への求めが神の前に立ち返ることであり、神の前に神との関係を正すことを、神に約束する(約束したってできるわけがないのだが、祈りの中でこういう表明をする方も時にはおられるような気がする)のではなく、神にそうしてくださることを求める、ということで神の主権性をものすごく求めるというところがある。

     さらに、神と共に歩むという神が求めておられることが人間にできるように、これまた土塊として人間が神にその介在を求めている表現の祈りのことばで締めくくっている。

     同様のことは、主の祈りに関するN.T.ライトの論文というかエッセイを巣鴨の教会の隣の工房で行われたN.T.ライト読書会で主の祈りの解説を読んだ時であった。それまでは、基本呪文に近いんじゃないか、祈りのテンプレートとしてのみ理解してきたが、そんなものでは済まない凄みを主の祈りが持っている(当たり前であるが・・・)ことは考えたこともなかったし、そういうお話を聞くこともなかった。それまでの教会生活での聖書からのお話の中で、主の祈りだけについて、何回かにわたって詳細な解説を聞いた経験を個人的には持ち合わせていなかっただけのことであるかもしれないが。

    個人が強く前に出ない
     成文祈祷の祈りでなくても、自由祈祷でも同じ内容は言えるはずであるし、言って祈っているはずなのだが、どうしても自由祈祷だと、言葉遣いの特性があったりして、その結果、代表祈祷で祈っている人とできるだけ同じ思いだと思い祈りはするが、なかなかそうはならない部分もある。それと、自由祈祷の場合、どうしても本来ふさわしいのだろうかというような祈りの内容とか表現が入るのは避けられず、うーんちょっと違うかもなぁ、と思うことも少なくない。

     成文祈祷のばあい、司祭(司式者)も信徒も同じこの祈りを共に口にすることになる。多少、祈っているときの思いや例の動きは違うかもしれないが、言葉が定まっており、また非常に練られており、余分なものがなく、また、基本聖書にもとづいた内容で祈っている。確かに、ある種の祈りの表現の多様性がもたらす豊かさ、味わいというものはないかもしれないが、こういう属人性を排除した祈りは、一種の骨太のものを感じることは確かなような気がする。

     神のことばに基づくだけに、この祈りの文言に違和感はないし、「まさに」、「そのとおりである」(アーメン)とミーちゃんはーちゃんはいえるのである。


     最初にこの祈りを英語で唱えたとき、本当に鳥肌が立ちそうになるような驚きというか、そこに込められた意味を考えながら祈る時、何とも言えないこれまで感じたことのないさされる思いを感じた。

    共同体としての祈り
     ミーちゃんはーちゃんがつい最近までよく通っていたキリスト教の信仰者グループでは、一緒に祈ることはあったが、それも祈る時は一人づつ祈るのであり、同じいのりの文章を一緒に読むという経験はあまりしなかった。一緒に祈るといいながら、フリーメソディストのある教会では、それぞれがてんでバラバラの内容をてんでバラバラの表現で祈る(小さな声で祈る)時間が設けられていたことも経験したが、このタイプの祈りも経験してこなかった。それぞれがてんでバラバラの内容を祈る時には、沈黙の内に祈るのが常であった(これもまたミーちゃんはーちゃんが長らく集った教会群が聖公会から引き継いだ伝統のようであるが)。

     しかし、全会衆が一緒に同じ祈祷文の文章をもちいながら、同じテキストを声を出して祈る良さはある。というのは、そこに共同体性の空間が生まれるのだ。一種讃美歌を全員で歌うことと同じである。つまり、会衆に祈りをするという参加、関与の機会が生まれるのである。個人的には、男性でもあるので、公の祈りをすることは推奨されていたが、ミーちゃんはーちゃんの教会歴としては最も長い教会では、女性が祈ることは良しとされていなったし、否定的であったといってもよいと思う。女性は、ひたすら敬虔にへりくだった心で祈ることしか許されていなかったし、その意味で、女性が教会に主体的に関与、参与できるのは、讃美歌を歌うときだけ、というところで育ってきた。ところが、共同祈祷を定型祈祷でするなら、それに声を合わせることができるのだ。

     その意味でこのような定型祈祷を共同体全体として男性女性の区別なく声に出していい、述べるとき、女性も参加できるのであり、それ女性も男性も区別なく参加できる一種讃美歌と同じ構造となっているということを、家人から指摘されるまで気にしたことがなかったのである。その不明を反省している。

    暗唱聖句と祈り
     教会によっては暗唱聖句と称して、その日の聖句を共に教会全体の共同体として祈る教会もあるが、それは一種の定型祈祷といってもいいのではないか、と思う。特にテクティオ・ディヴィナという聖書を覚える祈りと暗唱聖句は案外深い関係にあるのではないか、と思う。

     個人的には、子供のころ、暗唱聖句を間違わずに言えるようになるのが大嫌いだった(なんでそんなこと間違わず、言いよどまず言えるようになるために努力をしなければならないのだろうか、と思っていた。暗唱聖句を強要されるのは罰ゲームでしかない、と思っていた)。しかし、年齢と教会での経験が積み重なるとともにこの暗唱聖句の効能がわかってきたのだ。というのは、老眼になっても、たとえ、目が見えなくなっても、この暗唱聖句は生きるのだ。聖書が読めなくても、頭の中にある暗唱聖句を引き出して、神の御思いを考えることができるようになるということを考えると、暗唱聖句や聖書が暗唱できることに別の意味が見いだせることになったのであった。ただ、言いよどまないようにするため、只々間違えない様に手早く暗唱するのではなく、一言一言その言葉を味わいながら、神の御思いを訪ねるタイプの暗唱聖句ではあるが。

     聖書が読めないとお嘆きのお年寄りの信徒の方には、「そんなねぇ、量を競い、速度を競うような形で必ずしも聖書を 大量生産大量消費の様なモードで読まなくてもいいのかもしれませんねぇ。何のために聖書を読まれるのですか、その理由を是非お考え下さいね。聖書を読む意味は、神の御思いを考え、聖書から探ることでしょう。そうだとしたら、数こなしたことで満足しないで、一日に数節、それさえ厳しければ、1節でもいいので、繰り返し繰り返し言葉を味わうように読まれたらいかがですか?」とお話することにしている。

     そういうのんびりとした聖書の読み、というのはある面、ご高齢の方には向いている様な気がする。

     次回、もう少し成文祈祷の良さに触れてみたい。



     
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