<< 「祈り」について、たらたら考えた(2) | main | 「祈り」について、たらたら考えた(4) >>
2016.05.25 Wednesday

「祈り」について、たらたら考えた(3)

0


    Pocket

    これまでの2回は、公的な場での代表祈祷みたいな祈りを取り上げてきたが、今日は、公的な場における祈りが誰に向けられたものなのか、誰とのものなのか、という観点から少し思っていることを書いてみたい。

    神に向かう祈り
    ミーちゃんはーちゃんの個人の見解であるが(本来、そもそも論として本ブログの基本スタンスであるので、改めて述べる必要もないと思うのだが)、祈りは神に向かうものであるのだろうと思っている。そして、神ご自身の存在を覚え、神ご自身の栄光を想い、その栄光に満ちた神が、本来土塊に過ぎない人間である、この私にさえ関与されるというその奇跡を覚え、そのことが本当にありえないことであると思い、感謝し、そればかりでなく、土塊(アダムの語源と深いかかわり)に過ぎない人間と共に神が共に居たいという思いに、ある面惧れを感じつつ、そのことに感謝しその意味に思いを深く巡ら、そして他者性を持った神の思いとは何か、を聖書テキストをもとに思いを巡らせるのが祈りの第1義といってよいのではないか、と思っている。つまり、他者性を持ち、我らに臨在される神との出会いの日常の場、ライト先輩風の言い方を使えば、天と地が交わるインターロッキングする場所、あるいは、Thin Place(薄いベールで隔たれたような場所)神と人とが近い関係にある場所、旧約風の言い方をすれば至聖所ということであろう。

    まぁ、祈りとは、携帯電話で話すようなことと思えばいいのかもしれない。そう思っていたら、こんな面白い漫画があった。



    無線で話するのは、新しいことじゃないよ。あたし何か75年も(有線回線なしで)祈っているし
    http://www.glasbergen.com/?s=christianから

    インターロッキングの話が出た(出したので)ので、しょっちゅうあちこちでお会いするお友達の大頭さん作詞とその友達(ミーちゃんはーちゃんは面識がない。一度お会いしたいものだと思っている)の岩渕まことさん作曲のインターロッキング音頭(おふざけが過ぎ…人のことを言えた義理ではないが)もご紹介しておこう。なんか最近英語版も制作しているらしく、結構まぁ手広く展開中の模様。


    岩渕まことさんが歌う夜明けの歌(インターロッキング音頭) 字幕は大頭さんに頼まれたので、ミーちゃんはーちゃんが付けた


    ミーちゃんはーちゃんにとってのインターロッキングは、この工法の方が印象が強い。

    本来は、神に向かうものであり、神に向かってのものであると思うのだ。人に聞かせる、あるいは、聞いてもらうためのものというよりは。そもそも、恐らく旧約聖書の祈りに関する初出例は、
    【口語訳聖書】創世記
    4:26 セツにもまた男の子が生れた。彼はその名をエノスと名づけた。この時、人々は主の名を呼び始めた。
    という部分であり、神に向かって呼びかけをする、ないしは神に向かって語ってくださるよう願う、ということであったように思うのである。基本的にもこの聖書箇所でも神の主権性が表れていると思う。まぁ、この段階で始めて出てくるということを考えると、それまでは、神と人はもっと近い状態であったのであり、今よりははるかにインターロッキングな状態であったのであろう。まぁ、エデンの園自体、確かにインターロッキングな状態であるといえば言えなくもない。

    キリスト者における祈りは、特定の神に向かって、あるいは聖四文字YHWHと呼ばれる方に向かって、その名を呼ぶ、という行為であると思っていいかもしれない。祈るという行為自体が、神の実在性を前提とした人間の側からの呼びかけであり、漠然とした祈願をなんだかわからないものに向かって実施するというものではないようである。

    エノスが生まれたころの人々が何語で祈ったのかはよくはわからないが、まだこのころはバベルの塔を建てていないので、言語は同じ言語であったのかもしれない。旧約聖書によれば、バベルの塔を建てたときに、神の介入があり、その結果、現在でもそうであるが地には多様な言語が生まれたようであるが。

    人に向かう祈り
    そもそもは、祈りは神に向かうものだと思う。聖霊が祈りに関与するのは、聖霊なる神が遍在し、我々に内在し、我々のいうに言えない思いをさぐられ、そして、父なる神と我々の接続というか、バッファというか、コネクターの役割を果たしてくださるのではないかと思う。だから、
    【口語訳聖書】ローマ人への手紙
     8:26 御霊もまた同じように、弱いわたしを助けて下さる。なぜなら、わたしたちはどう祈ったらよいかわからないが、御霊みずから、言葉にあらわせない切なるうめきをもって、わたしたちのためにとりなして下さるからである。
     8:27 そして、人の心を探り知るかたは、御霊の思うところがなんであるかを知っておられる。なぜなら、御霊は、聖徒のために、神の御旨にかなうとりなしをして下さるからである。
    となるのであろう。

    ここで案外忘れがちなのは、『 神の御旨にかなうとりなし 』であって、なによりも神の御思い、主の支配が中心であって、『我々のみ心』や 『我々の野望』や 『我々の願望』 ではないのである。あくまで、主の祈りのように、神の御思い、すなわち 神の御旨がなりますように、というところがポイントなのだと思う。

    必殺祈り攻撃がある、ということを「いただいたコメントから、キリスト者2世問題をまたまた再考してみた」というブログ記事で書いてみたが、この中で親心からとはいえ、ある個人に対して、聞こえがよしに祈る方がおられるということを記事にした。これは経験があるし、それに近いことを聞いたことがある。 例えば、ある高校生の方の大学進学の希望などが語られたとき、ご本人が進路選択で悩んでいる様な時に、一緒に祈りましょうというのは良いが、その中で例えば、「ご本人の思いはあるでしょうが、この教会に使わされたものとして」とか、「この教会にも若者が必要です。どうぞ、主よ、○○さんが、地元の大学に合格しますように」とか祈られたりすることも全く皆無、というわけではないようである。ミーちゃんはーちゃんの知り合いのあるキリスト者の方は、70年代のフォークブームの時に長髪にしていたら、宣教師から、「兄弟祈りましょう」といわれ、暗に長髪を切るように勧めているような祈りをされたことがあるらしい。

    今60歳前後のおぢさま・おばさまたちの40年前のお姿
    (恐らく新宿フォークゲリラと呼ばれた皆さん こちらもご参考に http://ameblo.jp/nyarome007/theme-10005819956.html
    なお、この時期ゴスペルフォークというものが流行った )
    http://www.sound-cafe.jp/so-net/folk.php?folk_arc_id=080522 から


    ゴスペル・フォークの一例(アナウンサーの声や歌唱法がいかにも70年代的・・・うちの息子なら、『めっちゃ昭和や』といいそう)

    若者が信仰告白を迷っているときに、その本人の目前で、「神様、この子はこのままでは滅びます。どうかあなたの力強い御手によって、この子が回心し、神と共に歩むものになりますように」とか、「この子が滅びませんよう、あなたの御力をお示しください」「今日悔い改めがなりますように」とか、本人を前にしていのられた日には、ただでさえ、家庭内環境の中で力の弱い子供としては、「悔い改めます」「イエス様を信じます」といわざるを得ないではないか。何がこれがつらいかというと、こういうことを口にしてしまっては見たものの、悔い改めを理解しているわけではなく、青年期には自分自身は悔い改めをしているふりをしているのではないか、と自分自身に疑いを向け、自分自身の信仰のなさにへこみ、自己嫌悪に陥る場合もあるかもしれないのだ。

    また、本人を目の前にして、「どうぞ本日お越しの方が神の前に今、この祈りの時に決心されて、祝福にあふれた神の道を歩まれますように」ならまだましではあるが、「本日お越しの方は、神の前から失われております。ですから、どうか地獄の苦しみを見ることがないように、今決心なさいますように、お導きください」とか祈られた日には、信仰を持たなければ滅びるぞ、と脅されているようなものである。まぁ、こういう祈りのことばを軽く無視できるほどの人ならいいが、気の弱い人なら、祈りが終わった後、信じました、とかいうかもしれない。そう考えてみると、こういう祈りは、普通の人の感覚からすれば、祈りではなく、呪いに近いのではないか、と思う。

    祈りとコンパッション ナウエンから
    今、主催しているナウエン研究会では、With Open HandsというHenri J.M. Nouwenという人の本を英語で読んでいる。その中にいくつか印象深い表現があった。
    To pray means to stop expecting from God the same small-mindedness which you discover in yourself. To pray is to walk in the full light of God and to say simply, without holding back, "I am human and you are God" At this moment, conversion ocurs, the restoration of the true relationship. (With Open Hands, p.90)

    祈るということは、あなた自身の内にある同じようなケチな思いを神に求めることではない。祈るということは、神の完全な光の内を歩むことであり、「私は人間にすぎませんが、あなたは神です」と一歩も引きさがることなく素直に言うことである。このように表明するときに、神のみもとに戻ること、すなわち、(人間と神との)本来の関係がとりもどされる。(ミーちゃんはーちゃんによる日本語変換)
     ナウエンは、人間性、もともとの人間性の回復を神と人とが話し合う関係、エデンの園で起きていた関係の中に見ているようである。人間が人間、即ち土塊に過ぎないことを認め、神の優位性を認める時、即ち祈りの時に、その関係が回復することであり、それが、改心というか、霊的な変革、神のもとに戻ること、あるいは改心が実現すると理解している様である。

    その意味で、キリスト者は1回こっきりの回心経験を経験するのではなく、祈りの中において、心の中を示され、その心の中が示される中で、神との本来の関係に入り、そしてそれが完全な形で回復するまで、この地上で歩む日々の中で深めていくと理解している様である。

    また、ナウエンは次のようにも書く。
     
    When you pray, you discover not only yourself and God, but also your neighbor. For in prayer, you profess not only that people are people and God is God, but also that neighbor is your sister  or brother living alongside you. For the same conversion that bring you to the painful acknowledgemnt of your wounded human nature also bring you to the joyul recognition that you are not alone, but that being human means being togather.

    At precisely this point, compassion is born. The compassion is not covered by the word "pity," nor by the word "sympathy." Pity connotes too much distance. Sympathy implies an exclusive nearness. Compassion goes beyond distance and exclusiveness.

    Compassion grows with the inner recognition that your neighbor shares your humanity with you. This partnership cuts through all walls wich might have kept you separate. (同書 pp. 91-92)

    あなたが祈る時、あなたは、あなた自身の姿を見いだすとともに、神をも見いすのだ。そのため、いのりの中では、あなた自身は、人は人にすぎず、神は神であると認めることになるのであり、そればかりでなく、あなたの隣人はあなたと共に生きる家族のような存在であることも認めざるを得なくなる。そして、あなた自身が傷ついた人間としての性質を持っていることを認めることにもなる(霊的)。神のもとに戻ることは、あなた自身が一人孤独でない(みな同じ状況を持っている)という喜ばしい思い、人間であるということは、共に生きるものであるという喜ばしい思いをあなたにもたらすのだ。

    まさにこの点において、コンパッション(共感)は生まれる。コンパッション(共感)は、哀れみという言葉でそのすべてを表すことはできないし、シンパシー(同じ気持ちになる)でもそのすべてを表すことはできない。哀れみの場合距離が存在するような感じがする。シンパシーの場合、入り込む余地のなさという感じがする。コンパッション(共感)は距離の存在や余地のなさを貫き通してしまうものなのだ。
    (ミーちゃんはーちゃんによる日本語変換)

    ここで、ナウエンは、コンパッション(共感 同じ方向を見、共に歩みながら同じように喜びも痛みもともに分かち合うという思い)を持つこと出の、祈りの重要性を解いており、人間は孤独なように見えて、同じような痛み、苦しみ、喜び、楽しさ、感動を共有するものであり、その共有がすべての人類に及ぶものであることを示しているように思う。つまり、神の存在を認める時に、人間の限界を認識し、そして、そこで被造物である自身の姿を見ることで、他者への思いを持つことができるということを指摘しているようである。それは、ある面、祈りは共にあることだ、とでも言いたげなほどである。決して、高みから第3者を教えようとか、自分自身の思いを理解してもらおうと言ったようなケチな思いなどが祈りに入り込む余地がないのではないか、といいたいのではないか、と思われるほどである。
    And yet, compassion is possible when it is rooted in prayer. For in prayer, you do not depend upon your own strength or on the good will of another, but only upon your trust in God.  This is why prayer makes you free to live a compassionate life even when it does not evoke a grateful response or bring immediate rewards.(同書 p.96)

    コンパッション(共感)はあなたの隣人があなたと同じ人間性を持っているという心の内側での洞察を成長させる。仲間である、ということは、あなたを他者と分け隔てするすべての壁を崩し、壁を通り抜けていくことになるのだ。

    さらに、ナウエンは、祈る時は、自分を含めすべての人間が人間であり、全ての人間が被造物であり、土塊に過ぎないこと、そして、祈ることは神の存在と、神が神であると認めることになり、その意味で、多少の違いはあっても土塊に過ぎない、そして死を迎えざるを得ないという意味において、人間は同一であり、それゆえに共感を持つことが可能になると指摘している。

    その意味で、祈りは水平的なもの、大小の差、あるいは高低の差、といった違いを志向するPity(憐れみ 憐れむ側と憐れまれる側、祈る側と祈られる側)という構造を持つものでもないし、同情とも訳され、同じ心の動きをしているために他者を排除するようなものでもなく、水平に広がるものであるということを主張しているように思えてならない。しかし、人間は利己的で、他人よりちょっとでも抜きん出ようとする(ミーちゃんはーちゃんは毎朝の通勤をするときに自分自身が性懲りもなく、椅子に座って楽をしようとするために、他人より先に抜きん出ようとするところがあるので、毎朝、反省を迫られているが、それでも、これは改めることができないという愚かな土塊、アダムの息子に過ぎないなぁ、と思う)ろくでもないものなのだ。しかし、そのろくでもないもの連盟というか、ろくでもないもの倶楽部をつなぐ存在として、ろくでもないものの姿をとってキリスト、即ちメシアが来られた。だからこそ、我々は祈ることができるのかもしれない。

    こういうことを考えると、我々が祈る時に他者に対してウエメセで祈るとか、自分が祈ったように必ずなるとか、自分は神に近い存在だと思って祈るとか、あるいは、人に聞かせ、人を自分の思うようにさせようとか思って祈るのは、なんかどっかバランスを欠いているのではないか、どっか違うのではないか、どっかナンセンスなのではないか、という気がしてくる。そのことが、この種の人に聞かせようとする祈り、とりわけ、人の思いを操作するような祈りのことばに、なんとなく違和感を感じる原因になっている様な気がする。

    次回成文祈祷と自由祈祷について少し考えてみたい。










     
    コメント
    コメントする








     
    Calendar
    1234567
    891011121314
    15161718192021
    22232425262728
    2930     
    << September 2019 >>
    ブクログ
    G
    Selected Entries
    Categories
    Archives
    Recent Comment
    Links
    Profile
    Search this site.
    Others
    Mobile
    qrcode
    Powered by
    30days Album
    無料ブログ作成サービス JUGEM