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2016.05.21 Saturday

「祈り」について、たらたら考えた(1)

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     このところ、日々「祈り」をいろいろ考え思いを巡らしている。

     というのは、ここのところ紹介した『現代文化とキリスト教』という論文集のテゼの祈りに関する部分の記事 『現代文化とキリスト教』を読んだ(5) でもちらちらと出ていること、また、主催しているナウエン読書会で、With Open Handsを読んでいること、参加させてもらっているFacebookのN.T.ライト読書会で今読んでいる「クリスチャンであるとは」がちょうど祈りのところなので、「いのり」ということを考えている。

     このあたりを読みながら、「祈り」そのものよりは、教会における祈りについて、どう考え、それにどう取り組んでいるのだろうか、と思う。なお、ミーちゃんはーちゃんにこれといった考えがあるわけでなし、ああでもない、こうでもないと考えてみているだけである。あくまで現在の考えを示したものに過ぎない。そうああでもない、こうでもないと考えていることに、皆様方をお付き合いしていただくのはどうか、とも思うが、祈りについて少し観察してきたことをもとに考えたことを問題提起として少し述べてみたい。

    ミーちゃんはーちゃんと祈り
     ミーちゃんはーちゃんが所属してきた教会では「祈りましょう」といわれることが多い。「毎日祈りましょう」「定期的に祈りましょう」とは言われる。あるいは、「熱心に祈りましょう」「力強く祈りましょう」ともいわれてきた。 しかし、その割には、具体的にどう祈るのか、祈りとは何か、具体的な祈りの文言や祈りとはどういう意味を持つものなのか、ということに関して、あまり明確に教えてこられなかったようにも思う。祈りそのものを、聖書から解き明かされた機会は極めて限られていたといっても過言ではないように思う。 信仰歴は、30年以上になるが、他の信仰者の方から祈りとは何か、祈りとはそもそも何か、どう考えるのか、ということもあまり聞いたことがなかった。ミーちゃんはーちゃんが、そういう子供のような単純な質問をしたこともなかったからではあるからではあるが。
     教会の中の聖書研究会とか、特別な話手を招いてする機会で余り学ぶことがないため、自分で聖書テキストから考えたり、本を読んだりして、祈りについて思いを巡らせてきた。とはいっても、なかなか容易ではなかったし、今でも、そのあたりへの関心は濃いとはいえない。とはいえ、いくつか読んできた本の中で参考になったのは、ナウエンのWith Open Handsとレクティオ・ディビナに関する本である『 目からウロコ 聖書の読み方―レクチオ・ディヴィナ入門 』であった。

    ある訪問した教会での祈り
     ある教会にご訪問した時には、小学校の標語のように、「一日に3回祈りましょう」というような自作と思しきポスターが掲げてあって、あぁ、ここはこういうタイプの精神性を持った教会なのだ、ともおもった。メソディスト系の教会であったが。

     そのポスターが掲げてあった教会で、礼拝の終わりごろに代表祈祷をしたあるご高齢の女性信徒の方がおられた。その代表祈祷をされた方の後ろに、たまたまミーちゃんはーちゃんは座っていた。
     礼拝終わりの代表祈祷されたこの女性は、だいぶご高齢なので、信仰暦は相当お長いのではないかと思ったが、代表祈祷で緊張しておられたのか、祈りの文言を全部書き上げたと思われる数枚の紙を手にしながら祈っておられた。その方が祈るうちに、その神がガサガサがさと音を出し始めたのだ。まさか、神様は聖書の中で、以下の漫画のように、祈りの内容を書け、ともいっておられないように思ったのだけれども。




     「あれ、ここクェーカー系の教会だったけ?確か、メソディスト系の教会だったはずだが・・・」と思っていたら、祈りに合わせて、リズムをとるために体を揺らしているのではなくて、明らかに声が枯れ、声が震えておられたようだ。どうも、間違いがないように祈らなければならないからか、皆さんの前で祈る機会が少ないからかはわからなかったが、ものすごく緊張しておられる御様子が伝わって生きた。緊張の結果、からだも声も震えておられるのだろうなぁ、と想像した。長い祈りであったが、よほどの緊張のためか、途中何度か詰まったりしながら、かなり長めの祈りを終えられた。

     祈りの内容は、短めの神への感謝、賛美から始まり、 教会でのイベントがうまくいったから感謝します、 教会でのイベントがあるから祝してほしい、 ○○さんの病気がよくなったから感謝します、 病院にいる▽○さんが手術があるから、うまく行く様にしてほしい、というような、いのりであった。それこそ、こんな個人情報をたれながしにしたら、まずいんじゃないだろうか?と思われるような内容を含む祈りがかなり長い時間続き、そして、「主イエスの御名によってこの祈りをおささげします。アーメン」で終った。およそ3分以上にわたるかなり長めの祈りをしておられた。

     そして、祈りを、アーメン、で締めくくられたとき、安心したように大きく安堵したと分かる息をしておられるのが感じられた。
     
     この光景に立ち合いながら、「あれ、自由祈祷というのは、ある面自由なようでいて、それほど自由ではないのかもしれない」という感想を持った。祈りの文言の中で、誰かのことを抜かしたりすると大変だから、とか妙な教会内の人間関係の力学が働いているのではないか、と思ったのだ。そして、重要なポイントや人物のことへの言及を抜かさないように紙に書いて間で祈っておられたのではないか、と思った。こういう、礼拝の最後にあるような代表祈祷だと、結構気が抜けなくて、おつらいのでしょうねぇ、というご同情を禁じざるを得なかった。

    テンプレートに乗った自由祈祷って・・・
     そして、この方の代表祈祷の祈りを聞きながら、フォーマットは自由祈祷のかたちをとってはいるものの、あるテンプレートがあるように感じたのだ。いくつかの他の福音派の教会でも祈祷は、ほぼ同じ形をとっている、ということに、最近気が付いた。テンプレートというか、フォーマットが基本同じなのである。まるで、マニュアル本に従っている様ではないか、と思ってしまったのだ。

     形としては、最初に神への賛美とか感謝があって、教会行事の成功への感謝あるいは祈願があって、あとは延々個人の病気とかお悩み事のリストというか、取りなしの祈りとも呼ばれる個人情報のリストもどきの言及が続き、最後にイエスの御名によって祈る、という語で締めくくられる。まぁ、教会行事の云々と個人の病気とかお悩み事の内容の部分が差し替えられるだけで、テンプレートだけは維持されている。そうなってくると、成文祈祷とテンプレートに乗った自由祈祷って、入る文言だけが違うだけで、結局、様式としてはほぼ同じなのではないか、と思う。
     
     このようなテンプレートに乗った自由祈祷の原型として主の祈りがある可能性についての痕跡はごくわずかに感じられるが、これらの自由祈祷文を仮に記録したものがあるとしたとき、それを複数集めたところで、これらの自由祈祷文の文章群から主の祈りを逆構成(逆アセンブル)しようとしても、それはおそらく失敗すると思う。

     確かに、冒頭の神への賛美は残っているが、神の御思いがなるという部分は完全に欠落している。日用の糧の部分がイベントの成功や病人のための祈りにかわり、罪の告白とその悔い改め、他者の罪の緩しもない、そして、最後の神の主権性を認めている部分が神への賛美へと変わっている形で残っている。確かに祈りにおける主の祈りの影響のごく弱い痕跡を見ることはできようが、どうも神の主権性を表明し、神とその支配への賛美をし、神の支配にゆだねるというよりは、こちらのお願い聞いてほしい、という祈りになっている様な気がする。


    「えぇ、えぇ、神様、この祈りは私のことに関しての祈りであって、あなたのことでないことはわかっております」と祈りながら独白している姿を描いた漫画

    お願いの祈り・・・
     自由祈祷派のキリスト教会との親和性が高いこともあるのだが、このタイプの教会では、祈りとはいっても、より具体的には、願いの祈り、あるいは神への請願(petition)の集合体になっている方々もおられるのではないか、と感じてしまうのである。もちろん、苦しむとき、悲しむとき、ミーちゃんはーちゃんだってこの種の「何とかしてくれ」という祈りをしないわけではない。もっというと、旧約時代人などは、もっと直接的に神に対する叫びをあげている。ダビデ君なんか典型だけど。何か呪いに近い祈りも詩篇の中にはある。

     感情が淡白にできている極東人としては、こういう暑苦しい中近東人的な祈りの文言は結構しんどい。まぁ、中近東人自体、大体日常的にマイペースらしいし、このくらいのお願をすること位は、かわいいものなのかもしれないが、淡白な生き方をしている極東人には、この種の激情というのか、暑苦しさはちょっときつい。また、中近東人を見習って、神に感情をぶつけるような激情型の祈りをしようとも思わない。その辺が、ミーちゃんはーちゃんが覚めているとか、冷淡であるという評価の一端につながりやすいのかもしれないが。

     まぁ、淡白な祈りを日常的にするというのは、プロセスチーズを日常的に食べている人みたいなもので、そういう人が、中近東人の様な激情型の祈りを試みてみるのは、いきなり、ロックフォールとかのブルーチーズを食べるようなものかもしれない。 たしかに、ブルーチーズはうまいかもしれないが、食べ手を選ぶチーズの様な気がする。

    ロックフォールチーズ

    祈りをどう学んでいくのか?
     教会で祈ることは大切だ、祈ることは神とのコミュニケーションだ、あるいは、聖書記事で祈りの記事が出たときに時折、それに関して祈りに関して言及がある程度で、漠然としたことは教わるが、体系的に祈りについて、教会で学ぶ機会がなかったことを触れた。

     こうなると、人は祈れといわれたら、とりあえず、他人の真似、手直におられる教会の人の真似、牧師の祈りの真似をすることになる。つまり、誰かの祈りを参照にして、その様式をコピー&ペーストして、多少その中身を自分たちの関係者や関係あることに入れ替えながら、その人なりの祈りのスタイルというのか、テンプレートがつくりあげられていくことになる。

     そして、先人からのコピペが続けられているうちに、言葉そのものが同じではないにせよ、一種の祈りのテンプレート化がされてしまうのかもしれない。そうすると用いる用語や祈りのことばのリズムというか抑揚に関しても、コピーが繰り返されるうちに定型化が発生したり、あるいは、コピーしているうちに劣化することが発生する場合もあるかもしれない。

     ミーちゃんはーちゃんの場合も、この種のとりあえず他人の祈りの真似をするかたちで若い時代には祈りの方法を確立していったし、 また、ミーちゃんはーちゃんのキリスト者グループの関係者の場合、圧倒的にこのタイプで確立されている感じがする。キャンプなんかで、同じグループのいくつかの教会から人が集まる所では、その教会ならではの祈りのスタイル(祈りの中の声のイントネーションとか、必ず使われる表現がある場所で現れるなど)の傾向などがみられて、面白いなぁ、と思ったこともある。

     他人のコピーでなんとなく祈るのは分かるが、祈るということはどのようなことか、どのように祈るのか、他の宗教の祈りとはどのように違うのか、人間が祈るということとは何か、といったようなことは、はたしてきちんと考えられているのだろうか、と思うことがある。なぜ、主の祈りや式文に書かれたような成文祈祷(全員で声を出して祈る祈りを書いたり、印刷したりしたものに従って祈る祈り方)でなく自由祈祷なのか、ということは果たしてきちんと理解が広く認識されているのだろうか、と思うことがある。

     より具体的には、自由祈祷が重視される教会では、なぜ、成分祈祷をしないのか、もしそれが、成文祈祷では、聖霊は働かないと考えるのか、なぜ自由祈祷だと聖霊のお働きがあると考えるのか、というあたりの学びはきちんとそれぞれの教会ではされているのであろう、とは思うが、それがどこまで信徒の皆さんに伝わっているのだろうか、と思うこともある。そして、信徒さんはなぜ、自分が祈るように祈るのがよいと思っているのか、ということについて、どこまで真面目にお考えなのだろうか、とも思う。

     まぁ、こういう面倒臭いことは考えなくても、という気もしなくもないが、もし、祈りがその人の信仰生活を形作り、その人の信仰生活に影響を与えるのであれば、これらのことは、まじめに考える意味もあるのではないか、と思う。

     しばらく、このことを考えてみたい。


     
    評価:
    Henri J. M. Nouwen
    Ave Maria Pr
    ¥ 500
    (2006-04)
    コメント:非常によろしいと思います。

    評価:
    来住 英俊
    女子パウロ会
    ¥ 810
    (2007-06)
    コメント:聖書の読みと祈りを変えた一冊

    コメント
    管理者の承認待ちコメントです。
    • -
    • 2016.05.22 Sunday 05:50
    こんにちは。
    私は洗礼受けたとき、まさに祈りのテンプレ文章をもらった記憶があります。
    ここに書かれているメソディスト教会婦人がしたのにそっくりで「あるある」と思ってしまった。
    テンプレがあるのに、「プロテスタントは、万人祭司だから個人と神のつながりが大事なんだ。自分の意思で祈るんだ。」みたいな話をされました。
    礼拝時の自由祈祷は、やっぱりテンプレを使って、空気読みながらするものになる(自由なのか?)
    「短すぎても、は?って思われそう。長すぎたら疲れさせるよね。。」とか。
    「代表で祈ってください。」と言われるのは気が重いでーす。
    • 片栗粉検 co ミーちゃんはーちゃん)
    • 2016.05.22 Sunday 22:30
    片栗粉戸

    コメントありがとうございました。

    迷惑メールが発生するかもしれませんので、私の方で、メールアドレスを抜いた形で、コメントを公開させていただきました。お許しをば。m(_ _)m

    え、祈りのテンプレの文書化されたものがあるのですねぇ…。風のうわさで聞いたことはあったのですが…。

    情報提供ありがとうございました。心から御礼申し上げます。

    しかし、「プロテスタントで万人祭司だから…自分の意思で祈る」というのもある種自己中心になりかねない側面があるかもしれません。このあたりは、実に微妙な部分ではないか、と思います。

    そうですよね、長すぎる、短すぎる、声が小さい、声がでかい、言葉がわかりやすい、言葉が分かりにくい、まぁねぇ、それって祈りの本質なんだろうか、と思います。

    そういう環境ですと、確かに代表祈祷は気が重たいですよね。

    片栗粉IV様の上に神の豊かな平安がございますように。

    Lord Have Mercy.
    Christ Have Mercy.
    • ミーちゃんはーちゃん AKA かわむかい
    • 2016.05.22 Sunday 22:40
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