<< 『現代文化とキリスト教』を読んだ(4) | main | 『現代文化とキリスト教』を読んだ(6) >>
2016.05.16 Monday

『現代文化とキリスト教』を読んだ(5)

0




    Pocket


     今回は、『現代文化とキリスト教』の中から、岡本論文「ポスト世俗化の宗教技法 テゼ共同体とその祈り」からご紹介してみたい。

    フランスの宗教事情
     テゼ共同体は、プロテスタント、カトリック、聖公会、正教会のどれかに依存することなくフランスの地方部であるフランスのブルゴーニュ地域圏 ソーヌ=エ=ロワール県のテゼ村で活動する一種の修道会である。しかし、このテゼ共同体が形成されているフランスの宗教状態に関して、次のように記述している。
     フランスといえば、かつては「カトリックの長女」とされたが、現在、毎週日曜の礼拝に通うのは10%未満と推定されている。その内訳もほとんどが高齢世代だ。2,30代に限れば、2〜3%と考えられている。クリスマスが宗教行事だと考えているのは1割強で、ほとんどの人にとっては家族と過ごす時間であり、プレゼントを買う機会だと認識されている。(『現代文化とキリスト教』pp.159-160)
     まぁ、これを見ると、キリスト教国と思われて得いるフランスでも、ほぼ日本よりほんの少しまし、という状態と思えてしまう。確かに、いのりフェスティバルに出展しているカトリック教会の皆様(たとえば、カトラジのみなさんとか)を見ていると、かなり若い熱心でアクティブな信徒さんはおられるものの、全体で見れば、日本のカトリック教会でも、若い信者さんは少ないし、高齢化が進んでいる。

     フランスと日本の血がいといえば、同論文から見る限りは、日本では、クリスマスは恋人と過ごす時間(したがって、クリスマス前の時期に、クリスマスまでに恋人を作るぞ宣言する若者も出てくる)と理解されているが、フランスでは、家族と過ごす時間であると理解されているくらいの違いしかないように思われる。


    カトラジの放送例

    日本の伝統宗教との関連
     さらに、日本の宗教事情との比較において、岡本論文では次のように述べる。
    こうした問題は、キリスト教だけが抱えているわけではない。日本に限ってみても、仏教や神道も、社会との距離が離れつつあることへの危機感を抱いている。その結果として、信者との結びつきが弱くなり、教団や組織の存続を危ぶむ声も出ている。宗教と社会とのかい離は、古典的な世俗化論が予言したように、着実に進んでいくように思われる。(同書 p.160)
     たしかに、日本における伝統宗教、とりわけ仏教においても、葬儀会社が主体となった葬儀の実施(いわゆる僧侶の疎外化)が増えることにより、都市部においては寺院と檀家の関係はドライなものになりつつある。そして、その危機感から、仏教者の一部には、地域との関係を取り戻そうとする動きもみられている。

     その取り組みは、フリースタイルな僧侶たちというフリーペーパーへの取り組みとか、縁あるお寺でお葬式を や、十夜祭といった、お寺で夜開催する念仏と芸術とコラボレーションするイベントや、世界最大級の寺社フェスと銘打った向源などのイベントで、社会における寺院の意味を再構成できないかという試みをしておられる仏教者の方もおられる。
     
    フリースタイルな僧侶たち 最新号
    http://www.freemonk.net/blog/archives/4520

     たしかに、神社や寺院が、近代あるいは脱近代に生きる現代人にとって、身近な存在か、といわれれば、それはそう身近な存在ではない。とりわけ、日経ビジネスの宗教崩壊という連載にもみられるように、地方部において、寺院の消滅は現実的なものになり始めているのは、日本の都市化が、地方部への分散集中というフェーズから、東京への一極集中という人口分布の国土の偏りの結果として地方での高齢化、人口減少が進む結果、住職が常駐しない寺院、修理されることもなく、放置される寺院も増加している様である。わが国でも、人口数万人以下の自治体での無牧教会の増加や巡回牧師や巡回伝道者によりかろうじて教会活動が維持される教会も案外多いのではないか、と思う。この状況を100年のスパンで考えれば、現代の日本のプロテスタント系のキリスト教会の教会院の聖書理解が、江戸期のキリシタンと同様に、様式は守られるものの、その礼拝の対象に対する理解がかなり抜け落ちるのではないか、ということを思うのである。

     恐らく、西洋型の”科学的”(それが間主観的批判に耐えるという意味ではなく)とされる意味での近代化しようとした日本社会における宗教に関する理解と評価の低下、ないし無理解の進展(非科学的である、呪術的である、あるいは全近代的であるといった理解の広がり)などもあり、宗教的なものが近代社会において占めるその領域は制限的なものとなっていった。

     その中で、生活上の季節的なイベントとしての、新年、彼岸、盂蘭盆会、クリスマスといったときと、出生、結婚、成人、死亡、といった人生上のイベントの時や、何らかの死者と残された人々を結ぶ、あるいは、その関係に一定の制約を与える形での儀式を実施する場として、その演出空間として宗教空間が利用されることがある。

    テゼ共同体の概観
     テゼ共同体の歴史を、岡本論文では次のように示している。
     ロジェがテゼ村に戻ったのは1944年のことだ。その後、数名がロジェと生活を共にするようになり、修道生活を送りながら、戦災孤児の支援などを行った。次第に子の生活に参加するものが増え、1949年、ロジェと彼に共鳴する修道士の7名が請願を立て、男子修道会としてのテゼ共同体が発足した。これ以降、テゼは次第に修道士を増やしてゆく。1969年には、始めてカトリック出身のベルギー人修道士が加わっている。こうしてプロテスタント初の超教派の修道院という独特の場が生まれたのである。
    (中略)
     1970年代からは、共同体としてより組織的に若者たちを迎え入れ始める。一週間を単位とする滞在プログラムの作成、修道士と若者の対話、共同体内での作業の割り当てなどが行われるようになった。テゼ自体は、現在に至るまで、若者に滞在を積極的に呼びかけているわけではない。「キリスト者の和解」をスローガンとしつつも、自らの立場を観想修道会と規定している。(同書 pp.162-163)
     ここで、重要なのは、このテゼという修道会が、第2次欧州大戦末期に形成されていること、また、第2次欧州大戦で傷ついた欧州世界におけるキリスト者の和解という側面が重要であるし、実際に、それらを欧州各地を「地上における信頼の巡礼」として訪問することで、欧州世界における信頼と和解を図ろうとしている側面がみられる。

     確かに、欧州での悲惨な体験として記憶される第1次欧州大戦では、欧州の王侯同志の領土を巡る戦争という側面があったし、近代化を巡る資源獲得のための戦争という側面があった。そして第2次世界大戦は、王侯同志の領土を巡る側面というよりは、国家制度や国民国家と国民性の優劣を武力、軍事力、軍事技術において実際に血を流しながら示そうとした側面もあり、その舞台となった欧州は、たっぷりと兵士たちの血を吸った。ちょうど米国では南北戦争が終結してもう150年以上を経ているが、いまだに南北戦争の恨みや後方乱流は続いている。それ以上の悲惨を経験した欧州で戦争による痛みからの回復を目指して、テゼ共同体が、国籍、文化、言語の枠を超えた共同体を形成しようとしている点を思えば、それだけ欧州人が経験した悲惨は、言語に絶するものであったと思われる。

    テゼの祈りと賛美の形式
     社会の指導的階級における欧州の共通言語としてのラテン語と近代化(というよりは宗教改革以降の世俗世界のウェイトの大きさが増す)の中でラテン世界の共通文化が壊滅的になった経験を経た欧州においては、宗教的に多様であり、何らかの共通性を生み出す必要があったのだろう。その中で、独自の礼拝形式が求められることになる。そのあたりについてはあまり詳しく触れることなく、岡本論文では、次のように整理する。
     テゼを考えるうえで、その独特の祈りの形式に触れないわけにはいかない。テゼは、共同生活を送る修道士の様々な国籍や教派を背景とする。また、ヨーロッパだけでなく、世界中の若い巡礼者を受け入れる。さらに、地上における信頼の巡礼では、世界中の都市に出かけていくことになる。そこで問題になるのが、どのような祈りであれば共有できるのかということだ。
      言語や教派の伝統によって、様々な祈りの形式がある。そのいずれか一つに統一すれば、それになれない人たちの礼拝はぎこちないものにならざるを得ない。さらに問題なのは、若い巡礼者たちだ。彼らの多くは、テゼには集まるが、普段は教会へ通わない。キリスト教やその例はいについて基本的な知識を持たない人たちなのである。テゼでは、多言語・多文化・他教派・多人数に加えて、伝統的信仰を持たない若者も含めて、祈りが共有されなくてはならないのである。(同書 p.164)
      なお、ラテン語世界はヨーロッパにおいても、そのラテン語による世界が共有されるのは、一部の指導的役割を果たす人々のみであり、一般人にとっては無縁の世界であった。更にフランス革命を中心とする革命の時代を経て民主化と呼ばれる自由、平等、博愛の精神が重視されるようになった19世紀的な社会の中で、多くの異なる背景を持つ人々が共に礼拝するということは実は案外難しいことなのではないかと思う。

     ここでは、祈りの共有と書かれているが、何度か参加させてもらった側の感想から言えば、基本的には沈黙の祈り、黙想及び音楽が伴った祈りでもある讃美歌を中心とした祈りであると感じた。より具体的には、岡本論文では、次のように書く。
    そして、テゼの祈りの最大の特徴は、多言語で作られた簡素なフレーズを繰り返すオリジナルの歌と沈黙である。多国籍・多文化・他教派の人々が集う祈りの場では、誰もが知っているわけではない通常の讃美歌は使えない。教派や言語の違いから、礼拝をただ眺めるだけの聴衆が出てしまうのだ。そこで、カノン形式の讃美歌では、比較的多くの人が参加できることに着想を得て、4〜8小節程度の短いフレーズを繰り返すテゼの歌がつくられるようになった。(同書 p.165)
     そして、このような賛美歌が、指導者が前に立って指揮するような形ではなく、なんとはなく賛美がはじめられ、それが数分間続き、そして、同じメロディが繰り返され、いつ終わると無く次第に終わっていく賛美の形式であり、最初テゼの集いに参加した時には、福音派的な賛美や、リバイバル讃美歌のスタイルにあまりになれ過ぎていたので、ある面、慣れるまで少し違和感を感じたが、そのような霊性に触れていくうちに、このような賛美のスタイルが与えるものが、一種レクティオ・ディヴィナの伝統に乗った祈りの伝統の中にあるのだ、と体感的にも理解することになった。

     個人的に、きよめ派風の自由祈祷しかなかったキリスト者集団の中で長らく過ごしたものとしては、成文祈祷風の繰り返しの賛美に触れることで、ある面、これまで、偶像的、あるいは、非理性的、あるいは、不合理性を持つものとして退けてきたが、しかし、繰り返すことの意味、リズムに従って生きる意味ということを改めて考えるきっかけになった。

    テゼの賛美 英語版


    テゼの賛美 日本語版

    テゼの讃美歌に対する牧師の見解
     テゼの集会を主催する牧師たちのインタビュー結果をまとめた部分で次のように岡本論文では2人のボクシのインタビューの要旨を紹介している。
     日本ではキリスト教信徒はなかなか増えないが、特に若い人にとっては従来の讃美歌が決してなじみやすいものではないとW牧師は語る。歌詞も文語で、キリスト教の家庭で育った人々には良いのかもしれないが、初めて教会に来る人々にとっては、時として「異質なもの」とうけとめられる。
    そういう中でテゼの単純な歌を皆で静かに歌うスタイルは、違った意味での魅力があり、「文語の讃美歌を歌うのとは違うスピリチュアリティ」であるという。その辺を歩いている若い人を通常の礼拝に連れてくることはなかなか難しいが、テゼの祈りであれば、「しばらくここにいてみよう 」 という気にされるはずだと感じている。(同書 pp.170-171)
     一応、賛美歌は西洋音楽、ないし西洋音楽的であるが、アメリカン・ポップスを聞き、ロックを聞いて育ち、 今のキャリーぱみゅぱみゅも聞くことがある最早若者ともいえない中年のオジサンにとっても、賛美歌は一種違和感のある讃美歌であるし、歌詞にしても、曲にしても、確かに歴史を通して検証されてきた良さはあるとはいうものの、その現代風のアレンジが許されないとすれば、以下にその曲や歌詞が非常によいものであっても、それが全くこのような音楽になじみのない人々には、岡本論文が指摘するように「異質なもの」と受け取られかねない。しかし、日本の一部の教会にあっては、年長者がなじんだアレンジ(年長者がなじんた讃美歌のリズムや節回しであっても、アレンジされたものである)以外のアレンジは許されず、それが、その教会の伝統になっているというようなことはないだろうか。次の4つの讃美歌を聞き比べてほしい。これらはアレンジが違うものの、内容もメロディも基本的には同じものである。










    Be thou my visionのバリエーション

    大正時代以来変わらない日本のプロテスタント教会?
     なお、岡本論文で衝撃的であったのは次の表現である。
    W牧師によれば、日本の教会の伝道と礼拝についての基本的な考え方は、大正時代以来、それほど変わっていない。要するに「ここには善い教え」があることが前提とされ、そのことを書いたチラシを配り、「学びたい人は来てください」という姿勢である。その結果、もともと宗教的に熱心な人々、つまり、ある種「神に選ばれた」という自覚を持った人々が集まることになるが、W牧師にはそれだけ神の選んだカテゴリーではないようにも思われるという。(同書 p.171)
     たしかに、日本基督教団の教会でも、福音派の教会でも、「「ここには善い教え」があることが前提とされ、そのことを書いたチラシを配り、「学びたい人は来てください」という姿勢 」あるいは「 ある種「神に選ばれた」という自覚を持った人々が集まる 」という傾向は変わらないと思う。

    基本的に

    チラシ配り → 
    特別集会(映画・公園・高踏的な方のコンサート) の実施 →
    教会への継続参加のおすすめ →
    ご入信とお受洗(あがり)

    という教会すごろく(いい方がかなり下世話で申し訳ない)として捉えらておられる教会員の方は案外多いのではないか。

     本当は、教会とは、小さくされた人々や小さくされている人々が、本当の人間性を取り戻す場所と時間と機会を提供し、そして、神のかたちとしての人間の姿を取り戻すプロセスに寄与する場所としての教会のはずなのだが、宣教地という性格が日本では強いのか、信徒になれば上りと思っている方は案外少なくない。

     これを書きながら思ったが 、特別集会では、間違ってもアニソン大会とか、シャウト系のロックとか、アイドル系のコンサートや着ぐるみ大会や、ゆるキャラフェス、ウルトラマンショーやプリキュアショーはNGで許されない。そういえば、数年前のいのフェスの炎上騒ぎが懐かしい…まぁ、あの時歌ったアイドルも、その後その動性をお伺いすることはない。あのアイドルグループもキリストを超えたと豪語した人物プロデュースにしては、一生懸命ではあったが、流石に場数が足らなかったか、かなりのしょぼさ感が否めず、キリストを超えられなかった感だけが残った印象が強かった。所詮、キリストを超えられるような人間は、人間が鼻で息するものである以上超えられないのであり、キリストを超えたと豪語することの無意味さを示しただけであったと当時から思っている。企画者側の意図としては、そのための企画であったのであろう。

     なお、この教会双六に関して言えば、他の当ブログの記事でも触れたが、ご入信・お受洗となれば、もう一人前扱いで、それまでの蝶よ花よと教会でモテモテだった人が、いきなり、「本日からはあなたは一人前の神の兵士、いろいろ奉仕してもらわなくっちゃ」とか言われてギャップに直面して、教会生活にけつまずくことになる人々もおられるようである。まぁ、こういう不幸な教会生活をする人々が一人でも減ればよいのに、と思う。

     ところで、教会で行われている主の祈りを祈る意味、使徒信条を唱える意味、ウェストミンスター信仰告白をきちんと学ぶ意味もある場合には、丁寧に示されないことがあったりするようだ。あるいは、ディスペンセイション主義的な聖書理解のみにかなり重点を置いて、繰り返し示されるものの、祈りとは何かや、その教会群が保有してきた聖書理解についてフランクに意見交換をする機会や、批判哲学の意味での哲学的批判、あるいは哲学的反省に基づいた対話をする機会もなく、「うちはこれですんで」、あるいは「この教会の基礎を作った○○宣教師がこういっておられたので・・・」とか、そのような理由でなかば強制され、キリスト教の多様性を知ることもなくキリスト者としての一生を終わることになる日本のキリスト者は案外多いのではないだろうか。実に残念なことだと思う。

     それでは、以下の記述にあるように、キリスト教の重要な概念で、最も基本的な理解の一つである「キリストにともに向かう」ということが欠けている教会も出てきても不思議でも何でもないのかもしれない。そして、神のかたちを取り戻す場所としての教会ではなく、お勉強するところとしての教会と化す教会群も出てくるだろう。お勉強になれば、突然競争が姿を現し、共同体性が失われ、崩壊するのが、日本の戦後教育が学校教育のみならず、現在の生涯教育にまでもたらした弊害の一つの様な気がする。
    W牧師によると、テゼの祈りの本質は「キリストに向かう」ことであるが、その部分がややもすると既存の礼拝には欠けていることがあるのではないかという。牧師は「信徒の生活をよい方に変えてやろう」と考え、信徒は「今日は度いういう教えをいただこう」と考える。そして、「聖書から学びましょう。今日はこの部分から」といって説教すると、信徒は礼拝に「学びに来る」ようになり、「生活を改善するために勉強をする」ための礼拝になる。その結果、「一緒にキリストに向かう」というスピリチュアリティが失われてしまう。(同書 p.172)
     以下のW牧師の今後のキリスト教が向かう方向性理解は非常に面白いし、鋭いと思う。
    W牧師は個人的には、今後二つの方向性があると考えている。一つは、テゼの様なスピリチュアリティであり、もう一つはロック・コンサートたぐいである。そうしたコンサートのMCなどでは「夢を忘れるなよ」といったことが言われており、それは単純すぎるように感じるときもあるが、しかし、それに励まされている若い人たちがいることは大事なことであるという。テゼが若い人を騒音から引き離す「静寂のスピリチュアリティ」であるとすれば、ロックは騒音を上回る音で若い人たちを安心させるもので、アメリカのメガチャーチのスピリチュアリティに通じるものがある。両者は動的/静的と対象的ではあるが、参加者が日常生活から一時はなれて主キリストに向かう点で共通しているとW牧師は考える。(同書 p.173)
     日本の将来の教会の向かうであろう方向は、テゼ的な「静寂のスピリチュアリティ」か外資系ペンテコステ派教会的な「ロック的スピリチュアリティ」ではないか、とご指摘である。ある面、静寂を重視するスピリチュアリティ(ミーちゃんはーちゃんは、確実にこちら)か、非日常の霊性と神経刺激を直結して、情熱的な賛美に向かうスピリチュアリティのどちらかではないか、という指摘は、ある面重要だとは思う。ただ、個人的に残念だなぁ、と思ったのは、両方が非日常としての主イエス・キリストへの向かい方をするのではないか、という指摘である。ある面、キリスト教に初めて触れる人にとっては、それは非日常空間である。しかし、本来キリスト者は、「キリストに倣いて」ではないが、キリストと共に歩むという日常空間の積み重ねの一環としての教会生活であると思うのだが、それが抜け落ちるというのであれば、それは、キリスト者としていかがなものか、と思うし、それこそ、文化人類学、あるいは民俗学に言うハレの日という非日常空間としてのキリスト教であれば、結局いわゆる『日本教』と大差ないことになる。その意味で、キリシタンはハレの日におけるキリスト教の儀式を行う、非日常のものとして儀式を行うことに意義を見出すことになっていったキリスト者の末裔という面があるのではないだろうか。

    祈りを学ぶ契機のない福音派・・・あるある
     ここで、 岡本論文では、福音派のN牧師という方の以下のご発言を取り上げておられる。この指摘は重要だと思うのだ。
    また、N牧師は神学校で、福音派の伝統にはない黙想や観想の授業を持っており、学生を年に一度か2度はイグナチオ教会でのテゼの集会に連れてゆく。福音派の熱情的な賛美や祈りしか知らない学生は、沈黙を中心にするテゼのスタイルに戸惑うが、福音派にはそもそも「祈りを学ぶ」という契機が少なく、「聖書を読む」ことだけが強調され過ぎると感じている。(同書 pp.174-175)
     とくに、「 福音派にはそもそも「祈りを学ぶ」という契機が少なく、「聖書を読む」ことだけが強調され過ぎる 」というのは案外福音派に共通した傾向ではないだろうか、と福音派の片隅にいた人間としては思う。まぁ、いまだに福音派あたりをふらふらしているが。

     福音派では成文祈祷を用いないグループが多い。特にきよめ派やペンテコステ派においては、成文祈祷を祈りにおいて聖霊の自由な働きを妨げるとして、嫌うというか退けるというか、重視しないところも少なくないようである。しかし、成文祈祷を共同体として実施する教派と邂逅し(正教会、カトリック教会、アングリカンコミュニオンあるいは聖公会)、そこでの成文祈祷を共同体として実施する場に身を置いてみるとき、実に祈祷書はよくできていると思う。そして、我が身が反省させられることが多い。確かに「良くも考えもしないで発言したことや行ったこと、不誠実な契約を結んだこと」などを神の前に告白するとき、自分自身の内にないものを的確に示され、他者への害悪が起こることを望むような呪いと思しき思いを祈りの中で感じることは格段に減った。それにより、礼拝の人と記が自分自身の罪深さというか、神の不在に気がつく時間となったのである。

     確かに、自由祈祷で育つ学生は、「 福音派の熱情的な賛美や祈りしか知らない学生 」となりかねないのはわかる。この1年余り、ハリストス正教会、カトリック教会、ルーテル教会、改革長老派、 改革派から、バプティスト派、メソディスト派、きよめ派、ペンテコステ派、外資系ペンテコステ派の教会をご訪問したが、いろいろ拝見すると、自由祈祷が実施されていると思しきところは概して、「 福音派の熱情的な賛美や祈り 」となっており、それがないところは、概して、人間側の思いが適度に抑制されていて、「あぁ、こういう霊性はなかったなぁ」と思う。それはテゼの集会に出ても思う。こういう福音派的状況だと、祈りを正面から学ぶのではなく、そこにいる信徒さんや牧師さんたちの祈りをまねるという一種の学びしかないことになるのではないか、要するに自由祈祷のパターンがコピーされ続け、劣化コピー状態になっている祈りがあるのではないか、と思う。劣化コピーになった瞬間、それは別の成文祈祷に近いものになっているかもしれない。

     しかし、成文祈祷は祈祷内容をよく考えながら祈る時に、この劣化コピーを防止する効果があるのだが、そのあたりの事は自由祈祷重視のところでは、呪文的な、呪術的だといって排除される傾向にあるのではないか、と思っている。本当は、成文祈祷と自由祈祷両方とも重要なはずなのだが。自由祈祷も成文祈祷も両方大事だと思うが、自由祈祷は福音派では、成文祈祷として主の祈り以外の祈りが聞かれることはないし、主の祈りにしても自分たちが何を祈っているのか、考えながら祈っておられる信徒さんはどれくらいおられるのだろうか。実は、現在、FB上で行われている「クリスチャンであるとは」読書会でも、ちょうどディスカッションしているところが「祈り」についてであり、こういう教育機会に触れられる神学聖やこういう取り組みというのは、案外限られるのではないか、とご指摘いただいた司牧の方もおられた。

    テゼの会への参加を隠さねばならないボクシ・・・
     さらに紹介されるN牧師の発言は、あぁ、福音派全体ってそうだろうなぁ、と思う半面、実に残念だなぁ、とも改めて思った。あまりにも他者との邂逅がなさすぎ、何とかのの中の何とかになっていそうな気がする。リアルなカエルはきらいだが、このカエルはキュートだと思っている。


    カーミットによるHumpty Dumptyのパロディ
    N牧師によれば、「自由主義神学に対する批判」を出自とする福音派においては、エキュメニズムへの懐疑が特にかつて強くあったという。現在では、「何かの対抗」としてではない、自身に固有のアイデンティティを再構築しようとする考えから、福音派の牧師も開かれつつあるが、特にある時期に教育を受けた世代は「エキュメニカル」という言葉も嫌いで、まれに「超教派」という言葉を使っても、それはあくまで「福音派内での超教派」、せいぜいが「プロテスタント内での超教派」であった。
    N牧師が福音派がどういう位置づけであるかを知らずに教会を選んで所属したため、実際にテゼの集会などでであった人々とはかけ離れた、カトリックに対する的外れといえるような批判がされることが苦痛であったという。しばらく前に地方から牧師夫妻が訪ねてきて、N牧師の教会のテゼの祈りに参加したことがあった。その夫婦が所属するのは、N牧師の教会より保守的な教会だったので、テゼの祈りに参加すること自体を隠さなければならないような状況だったが「せめて曲だけでも使いたい」ということで、歌だけ使用するのは難しいとも思ったが、テゼの楽譜を渡したこともあった。(同書 p.175)
     印象に残ったのは、福音派の中では、「エキュメニズムへの懐疑が特にかつて強くあった」、とりわけ「特にある時期に教育を受けた世代は「エキュメニカル」という言葉も嫌いで、まれに「超教派」という言葉を使っても、それはあくまで「福音派内での超教派」、せいぜいが「プロテスタント内での超教派」という記述である。確かに、いまだにエキュメニカルに動いていると、悪魔の手先扱い(というよりかは悪魔の手先であるカトリック教会と仲の良い悪霊につかれた人物扱い)してくださる、ありがたい信徒さんや牧師の方もおられる。そして、今も尚、特にある時期教育を受けた(恐らく70歳前後の牧師さんの一部に)「エキュメニカルは悪だ」と40年この方変わりない信念を持ってお語りの方もおられ、信徒でも、○○先生がこういっておられるというよう買ことをご教示くださったり、その方の動画をご紹介してその方のご高説をご教示くださる方々もおられる。実にありがたいことである。

     何より驚いたのは、「その夫婦が所属するのは、N牧師の教会より保守的な教会だったので、テゼの祈りに参加すること自体を隠さなければならないような状況」があるという教会ないし教会群が存在することである。確かに、牧師はパブリック・フィギュア(公的存在)であり、信徒に動揺が走っては、という配慮からだとは思うが、「そんな1度や2度テゼの集いに参加した程度で揺らぐ信仰なのか、揺らぐ聖書理解なのか、あなたの信仰はどこにあるのでしょうか」と聞きたくなりそうになるが、そういう場に接した時にはやめておく。まぁ、嫌味を言われたら、「ご参加されたことはございますか?」と位にとどめている。

     それと、ある面、「N牧師が福音派がどういう位置づけであるかを知らずに教会を選んで所属」という表現は少し驚いた。 というのは、よほどガチでキリスト教を勉強しているとか、西洋史(日本ではアメリカ史はまともに教えれられておらずヨーロッパ史についてもその一部をかじる程度)をほぼ網羅的に学んでいるとか、代々の牧師家庭でもない限り、日本の通常の人は、位置づけを知って教会を選んで信徒になるわけではない。信徒になってもその位置づけは定かならず、牧師教育の一環で、それも簡単にどのような位置づけかを学ぶ程度ではないだろうか。日本はクリステンドムを過去これまで一度として経験したことのない社会の一つである。その中で、位置づけを知った上で選択的に教会を選ぶなんて芸当ができる人がどの程度いるのだろうか、という意味で驚いたのである。日本では、出会った教会が自分の教会となるという不幸があるのである。
     
    同じ共同体でも・・・あるある
     ある面、どの教会も、人が集まっている、たとえ牧師と信徒ひとりの教会でも人が集まって、神を礼拝している点で、共同体的ではある。確かにイエスが、「私の名において、人が二人でも三人でも…」ということがあり、そうである以上共同体性を持つものではある。しかしながら、いくつかの教会群を訪問していると、確かにその共同体性の味わいは異なるものがある。そのあたり岡本論文では次のように書いている。
    N牧師は、テゼの祈りは共同体性が強いようにも思うと語る。テゼの祈りには、「自分の声と他人の声が溶け合うような瞬間」があり、そういった点で、祈りのかたちとしては一見、共同体的であったも、個人個人の聖霊の体験を重視するペンテコステ派とは異なるように感じている。(同書 p.176 )
     たしかに、テゼの静謐なユニゾンを中心とした一つ一つの音や言葉を丁寧に扱うような音楽性と、「音符って何?」というような只々神に向かって感情(たとえばそれが感謝や賛美であっても)をぶつけ、音程もリズムもなく音楽性とは無関係に、飛び、叫び、絶叫するような感じになりやすい外資系ペンテコステ教会では、同じ共同体性でもだいぶん違う。それは讃美歌を知る知らないに関係なく感じられることである。

    神官僧侶の代わりとしての牧師の祈祷・・・あるある
     いのりといわれて、以前ある研究会に参加しておられた所謂福音派の教会に信者としてではなく参加しておられるご高齢の女性からある時、「護摩焚いて祈るのも祈りですよねぇ」といわれて何と答えてよいか、困惑した経験がある。「それは、聖書のいう祈りとは、随分違うと思いますが・・・」とお応えした記憶がある。


    大阪の道頓堀にある相合橋(縁切り橋として有名)での護摩法要

     このあたりの祈りの日本における精神性について、岡本論文は次のように書く。
    日本人的な気質なのかもしれないが、福音派の中には「牧師抜きでは神との関係が持てない」という風に考える人もいて、牧師が何でもやってしまうという傾向が強い。信仰とはほとんど関係ないことも牧師に決めてほしいという人や、「自分の祈りでは聞かれないから、牧師に祈ってもらわなければだめだ」といった、祈りすらも「牧師を通して」行おうとする人も少なくないという。
    N牧師自身は、テゼの沈黙や黙想・観想の祈りにおいては、できるだけ何も考えないようにしないようにしている。(中略)普段は考えて祈っているが、テゼの黙想においては、「考えるのとは違う仕方での祈り」がひきだされるときがある。(同書 pp.176-177)
     似たような話は、お友達の福音派の牧師の方からも形を変えてお聞きすることがある。どうも信徒の中に、敬虔そう(このあたりの敬虔そうに見えるというのがポイント)に見える方が、牧師に祈ってもらった方が神様に聞かれる気がするとか、牧師に一緒に祈ってもらわないと気が済まない(これは実体験がある。突然あるキャンプで奉仕者をした時、祈ってくれ、どうしても祈ってくれ、といわれて、個人的には私の聖書理解とは、神学的には相いれないし、平信徒なので、と断るわけにもいかずに祈ったことはある)人々が一定程度おられることは確かだ。これでは、まるで守護聖人か呪術者か、あるいは、山伏か阿闍梨もどきではないかと思うこともある。人間の弱さ、はかなさの故とは言え。こういうのは対応に実に困ることがある。

     テゼの祈りもそうだが、レクティオ・ディビナをやり始めてからというもの言葉を紡ぎだす祈りというよりは沈黙の祈り、観想の祈り、そして、成文祈祷の良さを感じることが多い。一つ一つの聖書のことば、成文祈祷のことばに思いを巡らしつつ(この辺、マインドフルネスと似ているが、あくまで向き合うのは聖書のことばであり、その先にある他者性を持った父、子、聖霊の神ご自身である)祈ることにおいて、あれもこれも、もれなくではなく、神の御思いとは何か、を求めるような祈りに変わっていった経験をしている。

     こういう祈りをしはじめてから、外資系ペンテコステ派の教会だけではなく、皆が祈りの時間にてんでバラバラに祈りをはじめることにちょっとついていけなくなることがあって、今少し困っている。それはそれで、意味があることだと思うが、個人的には、悩ましい思いを持つことが増えてしまった。

     次回最終回へと続く。

     
    コメント
    コメントする








     
    Calendar
     123456
    78910111213
    14151617181920
    21222324252627
    28293031   
    << July 2019 >>
    ブクログ
    G
    Selected Entries
    Categories
    Archives
    Recent Comment
    Links
    Profile
    Search this site.
    Others
    Mobile
    qrcode
    Powered by
    30days Album
    無料ブログ作成サービス JUGEM