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2016.06.06 Monday

2016年夏号のMinistryを読んだ(1)

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    今回からしばらくブログ記事は、最近読んだ雑誌特集をしてみたい。

    まず、最初に紹介したいのは、Ministryである。今回も、実に力作という感じがする。最初に、今号の特集記事であるリーダーシップに関して考えてみたい。

    教会のリーダーシップ論の背景
    日本社会の中でもサーヴァントリーダーシップとか、リーダーシップとか言われて久しい。まず、それは営利企業の中で経営をどう考えるのか、その中で企業の指導的役割(社長とか、代表役員とか、社外役員とかの役割は何か?どのようなものであるべきなのか)という議論が始まった。企業が組織体として、効率的に機能するためには、そしてその後効果的に機能するためには、企業の運営の代表権を持つものがどのような役割を果たすのか、というような議論が始まり、米国の経営学分野で議論が始まったのは、概ね1950年代であったと思われる。



    世俗の学の中でのリーダーシップ論
    今回のミニストリーでは経営学関係やシステム理論関連の雑誌ではないこともあり、十分に触れられてはいなかったが、この間に組織形態が企業体の中で問題になったのは、米国において1970年代から、日本においては1980年代からで、それまでの比較的安定的な組織の環境から、ベトナム戦争、多国籍企業の登場、企業内での多言語への対応、多文化的背景を持つ人々の存在、多元的価値観の併存など、社会環境の変化を受けて、多様に変化していく中で、どのようなリーダーシップが必要となるのか、ということが議論の中心的な課題となってくる中で、いわゆるMBAとも呼ばれる経営専門大学院や、将来の幹部候補生教育の中で企業という組織体における従来とは異なる環境への対応の必要が明らかになってきたからであろう。さらに、有人月面着陸などに代表されるNASAの宇宙開発を可能にしたアポロ計画などでも大きな貢献を果たした1950年代以降のOR(オペレーションズ・リサーチ)では、数量化できる側面、係数ができる側面に着目し、それについての数量化モデルを構築することで効率化が邁進され、計量的な側面での効率化も進められてきた後、企業体の中での数量化になじまないものをどのように扱うのかが問われ始め、宇宙開発計画の一環として生み出された一般化システム理論などが言われ始めたのが1970年代以降であり、組織体をシステムとして、あるいは要素と入力と出力の束としてどのように見るのかが問われたのが、米国では1970年代以降であり、わが国では1980年代以降であるように思われる。

    そもそも、組織において官僚制という発想が生まれたのは、第1次世界大戦前後の情報通信技術の存在を前提として、本部からの命令により、末端まで作戦計画としての情報が伝達され、それをもとに全部隊が調整をとりながら一気に動くタイプの大平原での会戦、ないし、大海での海戦に向く会戦型の戦闘行動には有利であったし、この発想は第2次世界大戦まで続いていった。しかし、第2次世界大戦中、この種の大平原での全部隊投入するような会戦型(典型的には、バルジ大作戦やクェートから撤退するイラク軍掃討戦など)の大会戦型の戦闘行動から、フィリピン戦、沖縄戦や伊藤島作戦の様なゲリラ型の戦闘が開始され、とりわけ、ベトナム戦争で、大舞台の陸海空統合本部を設置し、武器の大量投入を行うような旧来の作戦計画が、ゲリラ戦の前にほぼ無力であり、挙句の果てにベトナムから近代戦闘兵器を大量投入した米国が事実上敗北し、撤退しなければならない状況に直面し、従来型の組織構成、本部が計画・命令し、末端の部隊がそれに従うというようなリーダーシップの在り方が疑問視されるようになってきた。

    企業の組織論やシステム理論研究においては、サイバネティクスや組織サイバネティクスという概念が主張され、従来の中央集権的な組織論に変わる組織概念が主張されてきた。

    西側ではこのような問題が生まれたし、それと同時にロシアや中国を中心とする共産主義国では、中央集権型の組織構成を置き、共産党一党独裁、党エリートによる主導のもとで、理想的に動くと思われた共産主義国家のあちこちに破たんが生まれ、非常に大きな非効率が生まれることとなり、どのような指導の在り方、どのような組織運営の在り方が望ましいのか、ということの再検討が迫れるようになってきた。それが、リーダーシップ論であったといってもよいように思う。

    ここまでは余談

    さて、Ministry全体の今号のテーマは、世界と教会内の変化に教会がどう向かい合っていくのか?という問題意識と要約できるような気がする。

    特別座談会の内容から
    まず、特別座談会の内容から採りあげてみたい。 まず、越川さんが、今回の座談会のキッカケついて次のように言っている。
    教会の中で特に大切にしなければならないものとして、二つのリーダーシップの要素があると思います。一つはキリスト教会の基本姿勢でもある「サーバント・リーダーシップ」。牧師のリーダーシップというとき、まずイエス・キリストに倣う「仕える者」であることです。もう一つは「チーム・リーダーシップ」。リーダーシップを牧師だけが担うのではなく、人々と共有・分担するものととらえ、そうしたリーダーたちのチームを育成することの重要性です。(「特別座談会 教会のリーダーシップとは何か?」『Ministry Vol.29』p.6)
     ここに、従来型の産業社会、とりわけ国家とか、企業とか、非営利団体の運営が、従来の中央主導型組織の運営形態、中央集権的な組織の運営形態、すなわち、センターが指示し、末端がその指示通り動くという組織構造での運用形式では、社会の組織も機能しなくなったがために(恐らく、このような変化をしていった理由は社会に関する多くの人々とその価値感が、キリスト者を含め変化していったのではないかと思う。もう少しいえば、サービスされる対象としての関係者、ステークホールダーの持つ課題が多様化し、従来の大量生産大量消費型社会での行動では、効果的でない側面が出てきた結果)従来の組織運営からの変容を組織が存続するために変容させていったのではないか、と思う。また、それらの組織行動において、従来中央主権型組織で採用されてきた個別の具体的な実施可能な項目に分解した上で、その細分化され、行為レベルにまで落とされた目標を実施していくため、担当部局や担当者を対応付け、個別の要素や担当領域ごとに分割して対応する様な組織分割型の運用方式では、組織機能が硬直化し、効率的かつ効果的にそして柔軟な対応が十分果たせなくなりかねない状態が生まれたと考えている。

     それへの対応として、 「サーバント・リーダーシップ」や「チーム・リーダーシップ」 という概念が生まれ、それを組織面や情報論で支える概念として、ネットワーク組織論や企業社会の内部構造を変えている現実を表現するために、ビジネス・プロセス・リアンジニアリングが生まれたような気がする。ある面、企業社会は現実社会と遊離すると、企業経営が立ち行かなくなるので、これらの組織を効率的というよりは有効に、あるいは効果的に機能させることがより切実に求められるためか、これらのリーダーシップ論や組織構成の変更が行われたのではないか、と思う。

    教会のビジョンをどうするのか?
     教会のビジョンということに関して、非常に面白いことが書いてあった。
    牧師としてはその教会のビジョンを見せてほしい、でもその教会にはそのビジョンがない。逆に牧師がビジョンを見せると、それは違うと言われるだけ。(同誌 p.7)
    牧師は、教会員と教会にビジョンを求めるが、そこからは返ってこない。逆に牧師がビジョンの例を示すと、代案は出てこず、○罰で答えが返ってくるだけ、という実に不毛な光景が広がっている様だ。つまり、これは、どこにも行きたくないという境界の姿を示しているように思われる。今のままでいい、変わりたくない、変わる必要はない、教会は真理を持っているので、何故変わる必要があるのか、と主張する教会の声が聞こえる様だ。

    相手が変わっているのに、相手が変わっていないように思いこみ、従来の方法を押し通そうとする、その結果としての不幸が教会とその周辺の間に生まれているような気がする。かみ合ってなくて、社会の中で、空転している教会の姿を見ているような気がする。

     この部分を読みながら、現実と教会から見た現実の間の認知的不協和を起こしているのではないかと思われる。つまり、教会側から見る世界は固定的であり、1960年代か1970年代で止まっているように思う。しかし、現実の側は、2016年に到達し、2017年に向かっているような感じであるにもかかわらず、なのだ。

     高度経済成長期までを支配した世界観は、個が成立しない世界観であり、その世界観が支配的であった日本社会であったように思う。この時代は、均質な無名の個として個人が捉えられた社会から、非同質的な個人としての個へと動いているのである。ある面、個人特定的な関心にこたえる社会へと動いているのだ。1960年代、トヨタの車の代表選手であるカローラを考えよう。あの時代、カローラは、同一ブランド名の種類の中で、最大2種類ぐらいしかなかった。しかし、2016年代のカローラは、一応区分されているものだけで、数十種類、オプションもいれて分類すると、数万種類から10万種類にもなるという。それだけ、個人の希望に合わせて、カスタマイズという形をとりながら、非同質的な多品種を称揚生産する形で提供して、対応しようとしているのではないか、と思う。


    1966年型カローラ


    2016年北米仕様型カローラ

     そして、このような大量生産、大量消費時代には、集団主義が非常に適合的で、都合よかったのである。その意味で、この大量生産大量消費時代に適合したのが、リバイバル大会の影響を受けた大衆動員型伝道であり、そして、十分成功したとはいえないけれども、一定の成果をあげたのである。

     しかし、現代では、豊かさが一定程度社会にいきわたった社会では、社会の中の関心領域によって、社会の中の小さなグループが形成され、そして、自己組織化し、分衆化し始める社会がすでに生まれているのだ。しかし、どう見ても、現実の分衆化し、個別化されていっている社会の中で、その社会とその中にいる人々の中で、相変わらず大量生産、大量消費時代の方法論で対応している様な気がしてならない。

    教会内の社会モデルは教室モデル…それって
    結局、日本の教会は、対話型、水平型のモデルというよりは、伝達型、垂直型のモデルになっている様だ。今日公開した記事で、Susan Philipsさんが指摘していたが、少なくとも聖餐は水平型なのだけれども、どうも聖餐でも日本では垂直型が志向されるようである。ある面、日本社会の中にあるがゆえに、そのような構造が持ち込まれ、一種の属人支配というか、徳治政治的な構造が持ち込まれているのかもしれない。しかし、それに対して、次のようなコメントがなされていた。つまり、年長者が持つ徳、人徳によってなんとなく上からの恩恵としての社会調整が行われているということであり、日本においては近代的な子が確立していない以上、無理なのかもしれない。
    私たち日本人の中に、健全な意味での”牧師=リーダー”という認識が共有されれいないからだと思う。独裁的なリーダーシップを問る牧師もいれば、牧師は教師であってリーダーとしては関わらないという人もいる。なぜそうなるのか、それは共同体という意識が低いからじゃないかなぁ。英語では教会を”コミュニティ”と呼びます。日本の教会では、牧師と信徒は師弟関係であったり、…(同誌 p.7)
    このあたりの事に関して、ユルゲン・ハーバーマスという哲学者が、公共圏とその中での対話の議論として語っている。この分野でキリスト教で考えたことを我が国において公開されているのが、多分、後の講演会で出てきた稲垣さんという方である。また、教会の公共圏としての部分に関しては、アリスター・マクグラスも少し議論している本が出てくる。

    そのあたりの事を考えると、日本の教会は、英語におけるコミュニティとしての水平的な共同体ではなく、日本型と口政治として野村モデルの垂直性が重視された日本型コミュニティを形成して居るのかもしれない。ただ、アメリカの小学校の教室では、教室の中ですらこの水平型コミュニティが実践されている。

    在米時に娘が通っていた小学校の教室で、教師が意見があるといって手を上げた生徒に向かって"Yes Sir"と呼びかけるのを聞いた。その瞬間「え???」と思った。そして、授業が終了した後、国語科がご専門のその小学校教諭の方になんで、先ほど "Yes Sir" といったのか?Sirというのは、身分差を示す言葉ではないのか、と聞いたら、ニコニコ笑いながら、「あぁ、それは身分差や尊敬を表すというよりは、自分にとっての彼との間の心理的距離の遠さ、関係の薄さを反映したからなのだ」、どうもこの少年がいつもつまらんことを言いたがるので、個人として、人格としてその少年の発言にかかわっていられないので、Sirと呼んだのだ、ということをおっしゃっておられた。なるほどなぁ、と思ったのである。それほどまでに米国では組織や社会における水平性が透徹しているのだと思った。今なお階級社会である英国では、恐らく少し違うかもしれないが。

    多様なキリスト教の伝統とリーダーシップ
     教会の形成の歴史や教会の教理の背景が違うので、一概に、これをやればうまく行くと言ったような万能薬的な扱いはまずいと思うが、近代という時代には、いろいろなものの同質性が暗黙の仮定として当然のものとされたため、ある所でうまく行った事例が他のところにも、その方法論が生まれた文脈から切り離されて、膨大な失敗の事例が積み重ねられてきたし、他所での成功例をそのまま無批判に持ち込んで失敗し、荒稼ぎするコンサルタントたちもいなかったわけではないし、また、地方の議員さんとか首長さんとかには、他所の成功事例と思われているところをとりあえずは訪問する人々も少なくない。テレビとか新聞で報道されると、その報道されたところは、視察団がひっきりなしに訪れて、日常の通常業務ができなくなるという罰ゲームが起きるらしい。まぁ、世の中には、美術館しか視察にいってないどこぞの首長さんもいるらしいが、そういう方は、きっと視察公害の負担軽減にご貢献なのだと思うし、それは立派なことだと思う。
    やはり教派の違いや教会の伝統を踏まえずに教会のリーダーシップを語るのは危ういと思います。 (同誌 p.7)
    先にも触れたように、現代の分衆化した多様なグループが乱立している社会の中で、さらに、組織の同質性、個人の同質性が保証されていない環境で、さらに多様な教会における個別教会が形成されてきた文脈ガン無視(教会の場合は、 教派の違いや教会の伝統 )で一概に言えそうな、一般的な議論を持ち込まない方がいい。そんなことをするよりは、自分たちの特徴や特性、歴史的経緯、教会員の教会理解、教会の周辺地域の特性、現在の教会内にある人的資源と能力を総合的に勘案し、適切な対応を考える方が、よほど適切なリーダーシップではないか、と思う。

    変化を怖れる教会・・・What?
    教会は変化を嫌う、ならば、わかる。実際にそう言う変化を起こすような(波風を起こすような)異なった考え方、他者性を持った考え方とそれを持つ人は排除されるし、また、排除してきて、自分たちの理解を変えず、自分たちが昔からなじんたものを大事にしておられる教会もある。たとえ、外部から18世紀の服を着て、21世紀の東京を闊歩するようなものであっても。それはそれでいいとは思うが。ただ、帰られるものと変えられないものを峻別することは大事ではないか、と思う。昔と同じような人しか受け入れないという方針を堅持するのであるとすれば、その結果、誰をも向け入れられないという残念な結果も同時に受け入れないといけないとは思う。若者には来てほしいが、自分たちの規則に合わせないと来るな、というのであれば、教会は次第に空席が目立つようになるだろうし、それでも、その方針を堅持したいというのであれば、それはその教会の見識であり、それでやられたらよいと思う詩、それに共感する若者もおられることであろう。
    あぁ、そういえば、東京に行くと、18世紀風の服を着て、21世紀の東京を闊歩しておられるお嬢さん方に時々であうことがある。最近は、関西でもそういう方をお見かけするようなった。この方がたは、メイドさんと呼ばれていて、メイド喫茶でおはたらきの方らしい。


    なんか秋葉原には、メイドさんという職業のお姉さん方が冥土喫茶(メイド喫茶)にはいるらしい。
    ただ実際には、教会は変化を怖れやすいものです。ともすると、教会を維持するのが教会の目的になり、イエスキリストに従いながら前に進むことを置き去りにしながら教会を作ってしまう。(同誌 p.8)
    教会を維持することが教会の目的になるというのはわかるが、しかし、変化を怖れていて前に進むことを置き去りにしながら教会にこもることは、「怖れるな」と言い給いしイエスキリストに本当に従うことになっているのだろうか。教会を維持するのが教会の目的になったら、それはもう教会といっていいのかどうかかなり疑問だと思う。

    自分の正義を振り回し教会を傷つけかねない牧師
     正義を振り回すので、有名な方は、皆様ご存じ吉宗評判記「暴れん坊将軍」様である。この方は、海岸ペタを白馬を走らせながら、カラオケ歌うの大好きなお方である。しかし、教会の中で「オレは貧乏旗本の三男坊、め組に居候している田新之助だ」といってあっちこっちの婦人会だの青年会だのに出没したところで、牧師は顔が知られているので、お忍びなんかできるはずがない。そこで、正義の扇子を振り回すのはご本人の勝手であるが、あんまり変な振り回し方されたら、かなわない。


    ご存じ暴れん坊将軍
     
    みんなが憐れみの心を大切にしながら一つのチームを作る。牧師がリーダーとして失敗しても、失敗を認めず自分の正義を振り回して教会を傷つけるくらいなら、そこから立ち去り、新しいリーダーにゆだねる方がずっといいでしょう。 (同誌 p.8)
    しかし、ここで、「失敗を認めず自分の正義を振り回して教会を傷つけるくらいなら」というような表現があるくらいだから、失敗を認めず、ご自分の正義を振り回して教会を傷つけた牧師の方は過去におられたのではないか、と思う。

     牧師が、お近くの国の将軍様のようになったら、本当にかなわないと思う。教会は牧師のものでもなければ、信徒のものでもないのではないか、と思う。それを、人間に過ぎない牧師が独裁政権の様な行動パターンをとるとしたら、それはカルト化への第一歩なのかもしれない、と思う。そうなると、実に残念な結果が待っているのではないか、と思うなぁ。

    まだまだ、今回の号からのご紹介を引き続き行っていく予定である。







     
    評価:
    田中 明彦
    日本経済新聞社
    ---
    (2003-04)
    コメント:よいです。社会システムの変化をまとめています。

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