クリスチャンn世代の若者からのお願い(13) 運行しずらいレールを引かないで・・・ その1
今日からの記事は、Facebookで流れてきた、Ministryの松谷編集長のつぶやきから、書いてみようと思っていたことと重なるので、そのご発言を基に、ミーちゃんはーちゃんなりに少し考えてみたいと思います。ようやく落ち着いてきたところで、焼けぼっくいを煽って、再度炎上することになりかねないのですが、結構大事な話だと思うので、書いてみたいと思います。
出発点になった、松谷編集長のつぶやき
基本的にそのつぶやきは、松谷編集長がある場所でご講演でお話になったことの延長線上にあったようですが、以下のようなものでした。
「教会から聞こえる“SOS”」では、自身の #夫婦別姓 に至る経緯も紹介させていただきました。未だ少なくない教会では「未信者との結婚は不信仰。神を第一としていない」として断罪され、教会・教派全体の問題になってしまうようですが、初めから結婚相手をクリスチャンの中「だけ」から探すことを推奨するような不健全性についてはもっと自覚した方がいいと思います。
だいたい、お付き合いする相手を「洗礼を受けているか否か」で区別すること自体、とんでもなく失礼極まりないと思いませんか? クリスチャン以上に誠実で優しいノンクリ青年なんかいっぱいいるし、クリスチャンの中にだってクズはいっぱいいる。当たり前ですが。
だとしたら、そもそも最初から「結婚するならクリスチャン」にこだわる意味がどこまであるのか。キリスト教の発展的な広がりを考えたら狭い身内同士でくっつくより、他のコミュニティに素敵な相手を見つけて、「関係者」の枠をより広げていく方が宣教的な意味からしても格段に有益なはず。クリスチャンの「自由恋愛」をあの手この手で妨げておきながら、某団体の合同結婚式を批判する資格は微塵もない。
そして、見た目がどうとかじゃなく、内面や立ち居振る舞いも含めてクリスチャンが「魅力的な人」になれたら、自ずとキリスト教のイメージは良くなるはず。無論、その逆も然り。 (2018年10月1日)
多少、引っかかる、あるいは、突っかかる表現はありますが、しかし、大事なことをおっしゃっていると思うので、もう少し丁寧に考えてみたい、と思います。
発言しただけで、実際に教会全体の問題にしていただきましたw
実は、私が、あるインターネットラジオ番組(相模大野の中澤牧師(息子さんの方)が主催する音声放送番組)で、自分の子供たちが、「どうしても、キリスト教徒でない人と結婚したい」と言い出したら、教会での祝福は期待薄だけれども、何が何でも反対しない、ということをもう4年ほど前に対談の形でお話したことがあります。
そうしましたら、「こういうことを発言する人が自分たちの教会の礼拝(聖餐式)に参加すると、私たちの心にはどうも平安がなくなるので、しばらく礼拝(聖餐式)への参加をご辞退してほしい」というお願いを受けました。どうも、教会全体の問題になったようです。そして、教会総会で、信徒の総意として、「聖餐式への参加を辞退するよう勧告する」というありがたいご議決をお出しいただいたようです。まぁ、おそらく、これは口実で、本当はもっと別のところに理由があったようにも思いますが、一応、物事には建前が必要なので、建前としてこういうことについての熱心なご議論がなされたようです。多分。この時期、体調を崩して、ちょっとお休みしていたのでわかりませんけど。
おかげさまで、これまで責任者(説教者兼教会役員)をしていたために、4年前までは、他の教会に見学に行きたくても行けなかったのですが、「来るな」と言われたことをいいことに、教会巡り解禁状態となりました。さすがに、足の裏の塵を払うことまでは致しませんでしたが。
その翌週から、心はウキウキ、ヒーハー状態で、もう、近所のありとあらゆる教会を毎週のように行きまくりました。ハリストス正教会、カトリック教会、日本聖公会、バプテスト派の教会、単立教会、メソディスト系の教会、日本基督教団教会を何系統かと、教会めぐり(巡礼)をさせてもらうことができました。ありがたい限りでございました。その後、数ヶ月して、「戻ってきていい」というお手紙が来たのですが、まぁ、こういう「行方定めぬ教会めぐり、今日はメソディストか、バプ連か」(琵琶湖周航の歌のパクリ)をやるのが面白くなって、やめられなくなりました。
ブラックマヨネーズのヒーハーに乗っただけのカルビーのCM
琵琶湖周航の歌
そうこう教会巡りをしているうちに、2回目に参加させてもらった、聖公会の外人部落(もともとは海員向けの教会)に落ち着き、今は、そこで長期停舶中状態(正確に言うと、錨地長期投錨中)になっています。
つまり、松谷編集長の言う『「未信者との結婚は不信仰。神を第一としていない」として断罪され、教会・教派全体の問題になってしまう』という、実にありがたい経験をさせてもらいました。失ったものが何かあるか?あるかもしれませんが、それより、ミーちゃんハーちゃんとしては、得るところのほうが多かったように思います。まぁ、だれかれとなくある教会から、破門になることをおすすすめはできませんが。
洗礼を受けていればいいか?というと…
松谷編集長のコメントとして、こんなコメントが続きます。
だいたい、お付き合いする相手を「洗礼を受けているか否か」で区別すること自体、とんでもなく失礼極まりないと思いませんか? クリスチャン以上に誠実で優しいノンクリ青年なんかいっぱいいるし、…
これは、本当にそう思います。クリスチャン以上に、世間一般が想定する、誠実で真面目であるというクリスチャン像に近い方も相当数おられます。クリスチャンであると、かえって世の中の見え方がおかしくなるのかもしれません。ノンクリスチャンの世間は、アルコール中毒患者の皆さんや、ジャンキーと呼ばれる麻薬中毒患者の皆さんで満ち溢れているわけではありません。いやむしろ、ほんとうにクリスチャンらしい方々は、世の中に非常に数多く、星の数ほどとは言いませんがキラキラといらっしゃって、クリスチャンなのに、世間一般が想定する、クリスチャンらしくない方も、それなりにおられることは、身をもって体験してきたところでございます。
あるとき、今ミーちゃんはーちゃんが長期投病中の海員向け教会に、相当長期に渡って来ておられる方が、「クリスチャンのほうがよほど変な人が多い」とおっしゃったことがあって、まぁ、それもまたそうですよねぇ、ということを思ったことがございました。
真面目といえば、おふざけや道化は、一般に今の日本のプロテスタント系の教会では、かなりの確率で排斥されてはいます。多分、ミーちゃんはーちゃんが聖餐式からの一時追放(本来的には、これは、Ex Communionなので、破門措置に相当するはずなんですが)、自主的には永久脱出することにさせられた、そもそもの原因はそこだと思うですが…w。
ところが、正教会や聖公会、カトリックなどの伝統教派だと、聖人にも、コメディアンとか、道化とか、俳優の聖人とかもおられるので、まぁなんと聖人の世界は広いものなのだなぁ、と思います。
コメディアンの聖人ともされるローマのジェネシウス(殉教者)
https://orthodoxwiki.org/Genesius_of_Rome より
まぁ、これまでの三十数年の短いクリスチャン人生のなかで教会を見ておりますと、クリスチャン女性と結婚したいノンクリスチャンの男性の方は時々出てきて、まだまだうぶだった最初の頃は、「ある女性の方とお付き合いしたくて、クリスチャンになりたいんです」とご相談を受けて、「うわぁ、どうしよう」と思っていた頃もございます。そういう息せき切った方には、「まぁまぁ、落ち着かれて…」とお話し、まぁ、落ち着いていただいて、一応、キリスト教徒はどんなことかをまずはお話し、その上で、どうしてもクリスチャンになりたい、とおっしゃるなら、それでは、まぁ、受洗前教室というか、キリスト教の基本的な理解をお話しする機会にお話していった方も、数名おられます。最初の本当にうぶだった頃は、「そういうときはどうしようか」と、真剣に悩んだことも、過去にはございました。
あるいは、若者の方で、異性の方と会えるということで、教会に来られていたノンクリの女性もいて、なんだかなぁ、と思っていたら、「何が動機にあるにせよ、教会に来てくれるのはいいことだ」と宣教師の方が英語でおっしゃってくださったのを聞いて、そういう感性もありなのか、でも、ミーちゃんはーちゃんが同じことを日本語で言ったら多分だめだろうなぁ、と思いながら聞いておりました。
しかし、何なんでしょうねぇ、この落差。
教会に離婚はありえないか?そうでもないかも…
まぁ、クリスチャンの異性に惹かれて教会にこられた方で、ご結婚までに導かれた何人かの方を拝見しておりますし、アメリカに居りましたときのコミュニティチャーチでもそういう方を拝見しておりましたが、そういう方々のご結婚生活の継続が、うまくいく場合もあるし、うまくいかない場合もある、というのが、正直なところでございます。「〇〇さんと結婚したいので、クリスチャンにしてください」とお願いされて、「それ、本末転倒かも…えぇぇぇぇ…どっひゃ〜〜〜ん」と一旦はなったものの、その後、お二人とも信仰生活を深められ、結婚式もされ、今では幸せにお過ごしのご夫妻の何組の方も存じ上げていきますし、結婚を出発点に教会に来られ、受洗されたものの、結果として、結婚の継続に至らず、という事例もごく僅かではありますが、存じ上げております。まぁ、ショッキングでしたけどね。
そんな事を考えておりますと、なんか、こんなセミナーがあるらしいです。世俗の仕事の関係でいけませんけど。残念ながら。
こういうのは、画期的だと思います。個人的にはもっとやれ〜〜〜と思います。覆い隠して、そっと晒せて、闇から闇に葬るよりは。闇から闇に葬るのも、これまた、愛の形、というのは認識してはおりますが。本当に、こういうのは、大事だと思います。ちゃんと離婚者への配慮は当然のこと、どの様に傷ついた方々に対する牧会をしていくのかとか、本当に必要だと思います。日本は離婚率がまだ低いとはいえ、深刻な問題でもありますから。まぁ、イエス様だって、離婚規則には、ちゃんと触れてはおられますし。
口語訳聖書 マタイによる福音書 19章 4〜9節
イエスは答えて言われた、「あなたがたはまだ読んだことがないのか。『創造者は初めから人を男と女とに造られ、
そして言われた、それゆえに、人は父母を離れ、その妻と結ばれ、ふたりの者は一体となるべきである』。
彼らはもはや、ふたりではなく一体である。だから、神が合わせられたものを、人は離してはならない」。
彼らはイエスに言った、「それでは、なぜモーセは、妻を出す場合には離縁状を渡せ、と定めたのですか」。
イエスが言われた、「モーセはあなたがたの心が、かたくななので、妻を出すことを許したのだが、初めからそうではなかった。
そこでわたしはあなたがたに言う。不品行のゆえでなくて、自分の妻を出して他の女をめとる者は、姦淫を行うのである」。
まぁ、そんなん言うたら、だれが結婚なんかすんねん、みたいなことを、イエスの弟子たちは口々にいったようですが。
弟子たちは言った、「もし妻に対する夫の立場がそうだとすれば、結婚しない方がましです」。
結婚式はめんどくさい
結婚というのは、人生を揺るがす一大事でもあるので、軽々にできないことは確かなんですが、それだけに、信仰と同じで、なんか勢いがないとできないのも、これまた真実なんですね。ある種勢いで一気にどっとやってしまわないとできないところがあるので、結構、根性入れて覚悟決めて取り組まないとだめなことが多いのもまた事実なのです。そして、いろいろ親族やら、関係者やらの調整はだれもしてくれないので、自分たちでやらざるを得ず、さらに、みんな人の結婚で、結婚する二人がなにかしてくれることを期待して、ああだ、こうだ、こうしたほうが良い、こうすべきだとか、いらん事を結構たくさん言ってくれるわけです。そう言う方の善意の声を受け入れ、何らかの対応をとらないと、ブーイングの嵐が待っているという罰ゲームという…。結婚式は、幸せな二人への妬みの混じった罰ゲームなのではないか、と思いたくなるような側面もあるわけです。
本当に、主人公は、結婚する当人同士なんだから、好きにさせてあげればいいのに、と思うのですが、どうも、世間体とか、世間の常識とか、クリスチャンらしさ、とかまぁ、いろいろ言い出すので、「そこまで言うなら、淡々と行政手続きとして、二人で市役所で婚姻届出すだけで済ませるぞ…」とか、本当にキレ芸発揮になりそうになりながら、実に残念な経験をしないといけないことが多いのが、結婚式にまつわる悲喜こもごもがあるわけです。
ということで、一度、こういう経験をすると、二度と結婚式はやりたくないと正直思っています。とはいえ、現状の結婚生活は幸せなので、これはこのままできるかぎり継続したいと思っています。結婚式に関して、他人の司式は別に構いませんが、自分の結婚式の準備は、もう二度としたくない、というのは実感として思います。もう、人の思いに振り回されるのは、ご勘弁くだされ、と思うのですが、なかなかそうは、させてくれないですね。なかなか。日本だと。家のイベントにしたがる人、多すぎますから。
アブラハムとヤコブに学ぶ重婚と不倫はめんどくさい
あと、結婚というのは、二人の人格による二つの結婚の継続をを同時並行的に実施して、比較する(それを重婚と読んだり、不倫と読んだりする。そして、それは、伝統的にキリスト教会では認められていない)ということができないタイプのライフスタイルですし、多分、実際にそういうのをやるのは、けっこう大変らしいので(ヤコブとか、アブラハムがいい実例)、やらないに越したことがないわけです。多分、どんなに幸せそうなカップルでも、揉め事は皆無ではない(多分、ステゴザウルスのようにいろんなことに鈍い人ないし、短期記憶しか機能しない鳥頭の人同士だったら、揉め事はないかもしれない)ので、それを夫婦揃って一緒に乗り越えていくのが、結婚の継続、ということなのだろうと思います。
結婚式もめんどくさいですが、離婚も実際にはめちゃめんどくさいようです。一つには法的関係の解消でもあり、かなり実体としてめんどくさい(法律的にも、世間的にも)ようです。それに感情の問題、過去の思いの生産の問題もあり、引きずることがあるようです。その上、特にキリスト教関係者だと、非国民、ないし非キリスト教徒、人間でない扱いを受けることも少なくないようです。残念ながら。
新約聖書の福音書を読んでおりますと、イエスは、当時のユダヤ社会でまともな人間扱いされてなかった、取税人、遊女、羊飼い、重篤な皮膚病患者、精神病患者、悪霊に憑かれた人々と言った人々の傍に行き、神の国が来た、ということを述べ伝えたはずだとは思うのです。しかしながら、現代のイエスの弟子たち、いわゆるクリスチャンたちは、離婚して傷ついていて、ぼろぼろになっているかもしれない人々を教会から、イエスを取り巻いているはずのコミュニティから、自分の聖書理解を根拠に排除しようとするというのがねぇ、なんとも・・・。
まぁ、罪人なんで、しょうがないんだけどさ、とはおもいます。
そして教会の関係者の中には、いろいろな実体的な問題があっても、なんとか結婚の継続をさせようとする傾向があるように思います。その結果として、家族の関係者、教会の関係者を含めた周囲の反対、関係者の度重なる説得攻撃その他諸々の諸力により、不幸な結婚生活に耐えることを強いられている人々もいるのではないか、と思わなくはないのです。
DVでも離婚できないという・・・
特に、米国なんかだと、隣家と離れていて、世帯の独立性が高い分、日本と比較にならないくらいのめちゃ乱暴なDV夫が家庭内暴力を吹き荒らすので、クリスチャンホームのなかでDVの結果の死亡事案なんかも結構あるようです。こうなると、一体何なのだろうか、と思いたくなります。
例えば、レインメイカーという、詐欺まがいの医療保険の問題に向かう若手弁護士についての映画や、フォレスト・ガンプという映画では、本来バイブルベルトと呼ばれるキリスト教が文化的にも、実際の制度的に、非常に強く、大きな影響を持っている地域を舞台にした映画ですが、これらの映画の中でも、幼馴染の女の子の家庭のDVの問題や性的児童虐待とかが間接的に描かれていますが、このタイプの問題は深刻なようです。もちろん、ミニストリーのバックナンバーでも出ていますが、結構キリスト教徒の家庭、いわゆるクリスチャンホームでのDVという、どうしようもない事案というのは皆無というわけではないようです。
The Rainmakerの映画でDV夫が、殺すと言い続けているという被害者女性の発言のシーン
フォレスト・ガンプの幼馴染のDVの被害者が、神に祈るシーン
こういうDVや児童虐待に走る人々は、個人的におクズ様、おクズさんとお呼びしたいと思います。もう何なのだろうか、と思いますが、でも、それが人間の姿かもしれません。
炎上したクズ発言
ところで、松谷キリスト新聞社長の一連のツィート、すなわち一番上にあげたTweetの中で、何が炎上したかというと、次の一節です。
クリスチャンの中にだってクズはいっぱいいる。当たり前ですが。
この一節で、キリスト新聞の社長なのに、クズというのはおかしい、とか、それはまずいんじゃないか、という話題で、賛否両論、異論反論オブジェクションで、炎上したように思います。
先に上げた、ところで、クリスチャンには、本当にクズと呼ばれるべき方はいなくなるのか、というと、それはかなり怪しいと思います。先ほど映画で米国の例を紹介しましたが、それは特殊な創作上のことでしょうか。かなりよく見聞きするレベルで起きているからこそ、この種のシーンが映画に取り上げられるのではないでしょうか。
ミーちゃんハーちゃんは、クズでしかありませんが、むしろ、ミーちゃんハーちゃんはクズだからこそキリストが必要だったわけで、そうであるからこそ、神の憐れみを求め続ける存在であろう、としているわけです。イエスは次のように言っています。
マタイによる福音書 9章 10節-13節
それから、イエスが家で食事の席についておられた時のことである。多くの取税人や罪人たちがきて、イエスや弟子たちと共にその席に着いていた。
パリサイ人たちはこれを見て、弟子たちに言った、「なぜ、あなたがたの先生は、取税人や罪人などと食事を共にするのか」。
イエスはこれを聞いて言われた、「丈夫な人には医者はいらない。いるのは病人である。
『わたしが好むのは、あわれみであって、いけにえではない』とはどういう意味か、学んできなさい。わたしがきたのは、義人を招くためではなく、罪人を招くためである」。
まず、このイエスの発言の意味をキリスト者はきちんと思い巡らす必要があるかもしれません。キリストに対する信頼は、自分たちがクズで、頼りないからこそ、キリストを信頼をする必要があるのであって、というところをまず、よく考えたほうがいいのかもしれません。クリスチャンだから、立派な人間なのではなくて、立派でない人間だということを知っているからこそ、クリスチャンであるという順番について、もうちょっと考えたほうがいいのかもしれません。
おクズ様や、おクズさんたちに、クズですね、と言って、おクズ様や、おクズさんたちがお変わりあそばされるかというと、お変わりあそばされないので、おクズ様や、おクズさんなのであられるので、まぁ、おクズ様やおクズさんをお見かけしたときや、それらの皆さんに出会ったときには、またか、と思いつつ、イライラせず、スルーしたほうが、精神衛生上、よろしいか、と思います。どうせ、我ら鼻で息するもの、神の目から見た場合、団栗の背比べに過ぎません。あるどんぐりが、数ミリ他のどんぐりより大きいと言ったところで、人の目には、どんぐりに区別が付きません。その程度のことではないか、と思います。
クズは有害植物かもしれないけど使いみちも…
実際、日本原生種の植物のクズ Kudzuと言う植物(根はすりつぶして晒して、有効成分を抽出すると、風邪薬の葛根湯の主原料になるし、ウサギやヤギの餌になるし、日本の美味しい葛餅は、クズが原料のはずです)は、米国で鉄道とか、農地の斜面保護、崖地の保護のために日本から輸入したら、広がりすぎて、有害植物に認定される始末になっていますが。
まさに、DVを起こす人々は、本当に始末におえないという意味で、この植物のクズみたいな存在かもしれません。とはいえ、先にも述べたように、クズには、クズにしかできない葛根湯の原料になったり、美味しい葛餅の原料になったりする(実は、殆どは、クズから作るのではなく、馬鈴薯でんぷんから作られているのが大半のようです。クズから取る本葛粉は手間がかかりすぎてペイしないらしいのですが、本来は、このクズの根をすりつぶして乾燥させたデンプンから本葛餅は作ります)という特徴があるわけです。ある面では、始末に負えないところがあるかもしれませんが、それにしかできない役割があるわけです。ある面から見た場合、お荷物のような存在であっても、全く、無価値なそんざいであるかというと、かならずしもそうでもない、というのが、世の中面白いなぁ、と思います。
オランダ語のWikipediaのサイトから https://nl.wikipedia.org/wiki/Kudzu
クズ餅 https://www.kudzu.jp/SHOP/F0001.html から
葛根湯 https://lohaco.jp/product/9338524/ より
次回、結婚相手としてクリスチャンにこだわるという意味と、一般化して考えるワナ、あるいは問題について、少し考えてみたいと思います。
次回へと続く
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