『ザ・ユーカリスト』という本を読んでみた(5)
さて、前回の記事では、聖餐とキリスト、そして、信仰者との関係における意味論の観点から、聖餐におけるキリストの現臨がどう考えられるのか、について、そして、イエスが定めたもうた聖餐が現在のキリスト者にとってどのような意味を持つのか、ということをご紹介しました。今日はそこから一歩進んで、もう少し踏み込んだ聖餐が何を示すのか、聖餐をどう考えることができるのか、という部分などについて、本書の中からご紹介していきたい、と思います。
聖餐と過去と現在と終末論
第三回目の記事 『ザ・ユーカリスト』という本を読んでみた(3) という記事でも紹介しました通り、聖餐は過去の出来事であると同時に、終末の出来事を想起させる出来事であり、そして、過去と将来の終末を結ぶ現在における出来事でもあり、ということができます。そのあたりのことについての記述を本書から拾ってみたい、と思います。
全人が意味を与えることの基本ー ユーカリストでは「主の死は宣言される」(Iコリント11:26)。この文脈は、ユーカリストを誤って伝えることなく、いかなる存在論的、現象論的接近においても慨視することはできない。キリストはユーカリストにおいて、主として、居られるーすなわち我らのために死において自らを与え、神によって、我らに生をもたらした方として。
主との我らとの人格的関係は本質的に想起であり、十字架上での救いの歴史的できごとを心に呼び起こす。過去だったという限りではなく、その成就において永遠に持ちこたえるものとして。しかしながら、歴史とは永遠の背後に据えられず、歴史において完成され、究極的完全は歴史の終焉であり、歴史の背後に去っていくのではなく、この歴史そのものの上に終わりの価値を授ける。つまり、その完成に与るのである。これが甦ったキリストに対する我らの関係が、歴史的イエスの関係と同一である理由である。(『ザ・ユーカリスト』 p.124)
ここでは、聖餐がイエスの死と復活と再び来られることを宣言する儀式であるように思います。個人的に好きな聖餐式の式文に次のようなものがあります。細字は司祭が読み、太字部分は、参加者全員で読みます。アングリカンの教会に行って、最初にこの聖餐式の以下でお示しする式文を読んだとき、ある面、あぁ、これが聖餐だし、そして、教会とは、神がいる場所だ、ということをいやほど感じた日のことは忘れません。聖餐の場に神がおられ、神の霊が我々とともにおられ、私たちは神のみ思いを主に返し、神に感謝と賛美をささげることが聖餐式の意義なのだなぁ、ということを改めてこれらの式文のことばを自ら口にすることで、告白することで、あらためて思い知りました。
The Lord is here.
His Spirit is with us.
Lift up your hearts.
We lift them to the Lord.
Let us give thanks to the Lord our God.
It is right to give thanks and praise.
Holy, holy, holy Lord,
God of power and might,
heaven and earth are full of your glory.
Hosanna in the highest.
Blessed is he who comes in the name of the Lord.
Hosanna in the highest.
Great is the mystery of faith
Christ has died:
Christ is risen:
Christ will come again.
Praise to you, Lord Jesus:
Dying you destroyed our death,
rising you restored our life:
Lord Jesus, come in glory.
Amen.
さて、余談はさておき、翻訳書の中身のコンテンツについて考えてみたいと思います。とはいえ、上に引用した翻訳文の文章は、ある程度のその主張されたい意味は分かるものの、なんかすっと飲み込めるような文章ではないなぁ、と素朴に思いました。そこで、いつものように、逆アセンブルしてみたいと思います。つまり、上の文章を、ミーちゃんはーちゃんが読んだら、こうなった、という文章をご紹介してみたい、と思います。
全ての人に意味を与えることの基本にあるものー ユーカリストでは「主の死は宣言される」(Iコリント11:26)ということが行われているわけです。このキリストの死が宣言されるという文脈においては、ユーカリストは、イエスの死を誤って伝えるということはないはずです。そして、聖餐については、いかなる存在論的、現象論的なアプローチにおいても一般化して考えることはできないものだと考えられます。キリストは、ユーカリストにおいて、主として、その場に実際におられる、ということなのですー すなわち我らのために、ご自身の死において自らを我々にお与えになったのです。そして、神によって、我らにイエスの死によって我々に永遠のいのちをもたらした方として聖餐の場におられるのです。
聖餐とは、主と我らとの人格的関係が本質的に想起の関係のためのものであり、十字架上での救いという歴史的できごとを現在の人間の心に呼覚ますものでもあるのです。十字架の出来事が過去の出来事としての限りあるものとしてではなく、イエスによる神と人との関係の回復の成就が、永遠に存続しうるものとしてあることを示すためのものなのです。しかしながら、歴史とは永遠の背後に据えられるタイプのものではありません。イエスの十字架を介した神との関係は、歴史のある時点において完成されるものなのです。イエスがなした究極的完全な出来事は歴史の終焉において実現する事柄でもあり、イエスのなした出来事は、歴史の背後に去っていくものではないのです。かえって、イエスがなした出来事は、この世界の歴史そのものの上に終末における本来的な価値(意味)を与えるものなのである。つまり、聖餐では、この歴史の完成に与ることでもあるのである。これが復活したキリストに対する我らの関係が、歴史的時間における、イエスの時代に起きた弟子たちとの関係と同一であり、最後の晩餐でイエスと弟子との関係と同じ関係にある、という理由ということができます。(『ザ・ユーカリスト』 p.124)
先のアングリカンの式文でご紹介したように、聖餐は、イエスが死んだことを宣言します。そして、よみがえったことも宣言するのですが、とりもなおさず、まずもって、イエスが死なれたことを宣言しているわけです。しかし、その死の意味は、われわれに生命を与えるための死であった、ということを身体的な感覚を通して、すなわち、視覚を通して、味覚を通して、そして、喉元を通る感覚を通して味わう、という部分に意味があるのだろう、と思います。つまり、イエスの死と復活は現実であることを身体的な感覚を通して味わうということが可能なのだと、思うのです。であるからこそ、イエスの死と復活が、単なる概念に過ぎないリアルな現象である、そして、ここに今、我々は、現実の肉体における視覚、聴覚、触覚で味わえないイエスがわれらとともにいる、ということを覚えるために、聖餐があるのだ、ということなのだと思います。
身体的感覚と想起としての聖餐
特に、「主との我らとの人格的関係は本質的に想起」である、つまり、神の臨在に対する被造物である人間側の応答としての想起である、という概念は大事ではないか、と思います。そして、それは過去の出来事でもありつつも、現在の出来事でもあり、そして、究極的には、将来において完成される、我々の究極の完成、という形で層になっているのだろう、と思います。中澤啓介さん流に言えば、全被造物の完成の世界に向かって言っているということなのだろう、とおもいます。そして、人間の本来の姿、それは人類全般である、というよりは、個性を持った一人一人が本来創造されたかたちとなるという、事なのだと思います。聖餐論は、以下で紹介する本『神が造られた「最高の私」になる』という本の中にはありませんが、終末というのは、おそらく、安手のB級映画にあるような世界の崩壊でもなく、聖書の世界理解は人間が、本来の目的を回復し、神と人とがともに住む、という約束が実現する世界なのだと思います。
単に歴史的な出来事でもなく、その歴史を背景にしながら、歴史を紡ぎだしながら、その歴史の中に垣間見えるように関与する神との関係を現在において味わい、そして、それを表明し、現在において、将来の完成の姿の予行演習するのが、おそらく聖餐、Holy Communion、つまり、神を食べることで、神が自分自身の一部となっておられること、自分自身も神との共有関係を結ぶ、ということなのだろうと思います。
元々の翻訳文では「甦ったキリストに対する我らの関係が、歴史的イエスの関係と同一」となっていますが、これは、案外大事なのではないか、と思います。聖餐は、最後の晩餐の模倣でもあり、エマオの途上の宿屋での出来事の再現でもあり、また、弟子たちが失意の中で漁に出た後、何も取れずに帰ってきた時の再現でもあり、そして、それは、神と人がともに生きる将来の姿の予行演習みたいなものでアもあるという意味で、歴史を貫いて行われる神と人との関係の象徴的行為、ということになるのだろう。
パンとワインであることの意味
聖餐に用いられるのは、地中海小麦文化圏での通常の食事で使われるパンが用いられている。それは、普段の食事に使われるパンが弟子たちに与えられています。一番古いこのかたちは、メルキゼデクが、アブラハムが帰ってきた時にパンとワインを出した場面のことかもしれないなぁ、と思います。なお、地中海小麦文化圏世界では、いまだにパンに塩かけて、その上でオリーブオイルにつけて食べたりするのが、ふつうなのだそうです。それが、過ぎ越しの祭りで、イエスが最後の晩餐で自分を覚えるように弟子たちに渡したことも、象徴的ですが、それが今なお聖餐で使われていることも、ある意味、重要かもしれません。
日本では、小麦よりも水稲が主食であることもあり、西日本では、うどんやせんべいなどで小麦が使われることがないわけではないですが、素材の豊富さとしては、水稲(コメ)の方が生産量が多いこともあり、このパンというのは、最近でこそ、コンビニが席巻する中、日常的なものとはなり始めていますが、普通のもの、という印象はあまりなかったかもしれません。
今、その日本で普通になってきたパンが聖餐に使われるパンが使われていることについて触れましたが、地中海世界で、ワインが使われる意味についても少し紹介しておいた方がよいと思うので、本文のご紹介に行く前に少し紹介いたしたい、と思います。
地中海世界とワイン
日本やアメリカでは、水中に含まれるカルシウム分やミネラル分、鉱物成分が少ないので、生水を飲んでも人体にさほど影響はないのですが、とくにフランス、イタリア、ギリシアあたりですと、大理石がふんだんに取れることからも、普通の地面が石灰岩質ですので、その中を通ってくる水は結構カルシウム分を含んでいます。ヨーロッパでは、結構このカルシウム分が悪さをして、水道管が詰まる、あるいは、水道をひねっても赤茶けた水しか出てこない、ということが起きます。このために、今だと、ボトル入りのミネラルウォーターが用いられるのですが、ミネラル分を含まない飲み物となると、ぶどうジュース、ワイン、ないしビールということになるわけです。そういう状況があるために、西ヨーロッパでは、ワインやビールが普段の食卓に欠かせないもので、フランスなんかでは、アルコール度の低い、子供用のワインなども作られるほど、ワイン文化が普及しています。つまり、パンとワインは、嗜好品というよりは、人々の生活に欠かせない、生活必需品であったわけです。それが聖餐に用いられているということは、我々は、基本的にパンとワインを必要とするように、キリストを必要とする、ということをもあらわしているようには思うのです。
日本とワイン 舶来高級品
上のコンビニのCMにもあるように、パンは老人子供も喜んで食べる喜びを与えるものに日本でもなってきましたが、ワインは、その文化が決定的に欠如していること、また、サントリーさんが赤玉ポートワイン(本当は焼酎のように蒸留したものなので、ワインではないという説はありますが)を製造するまでは、庶民の口に入らない、普通のものではなく、また、輸入品しかなかったために、ハイカラな舶来高級品でした。それもキリスト教がちょっと、庶民的でない、というイメージを与える遠因ともなっているとは思います。だからと言って、せんべい(マンナやハイハインみたいなもの)とほうじ茶で、日本で聖餐ということも論理的にはあり得るあるようには思いますが、まぁ、ありがたいことに国内でもワインが製造されるようになっているわけですから、日本では、マンナとワインでの聖餐でもいいような気がします。
森永のマンナ https://www.morinaga.co.jp/biscuit/history/story/ex_manna.php より
亀田製菓さんのハイハイン
赤玉ポートワインを売り出した時の新聞広告とその時期のボトル
https://www.suntory.co.jp/wine/original/akadama/history/ より
聖餐の意味と食べることを意味づける人類
それらのことをご説明したうえで、スヒレベークスさんが聖餐でパンとぶどう酒が使われていることについて、どう書いているかの部分を見ていきましょう。
生産的かつ象徴的な人間は自然の過程によっていくつかの自然的要素を改良することができる ―例えば彼はこの方法で小麦が含まれたものを、次いで技術的手段によってパンを作ることができる。ワインは同様に自然的かつ技術的過程を経た最終生産物である。この意味において次にパンとワインは人間の耕作と技術の産物として、人間の益と使用のため目的に向けての人間活動の結果である。しかし人間によるこの目的付与はその先を行くことができる。パンとワインはすでに身体生命を養うのに有益であり、人間の生殖においてはさらに機能を持つ。それらは象徴的意味を持つ ―パンは生命の象徴、ワインは生命の喜びの象徴である。(中略)テーブルでの食を分かち合い、飲み食いするとき、既にそれらにおいて生物学的に有益であり、人間の技のより高いレヴェルへと止揚しうる。それらは兄弟の連帯、人格を通しての親しみ、友情を印づける協定、同意の喜ばしい結末ともなる。(同書 p.129)
まぁ、今回の部分は、読んで意味がまだ分かると思いますが、生殖は、おそらくReproduction再生産のことだと思いますし、協定は、Agreement、すなわち合意していること、だと思います。
ここで、スヒレベークスさんが言いたいことは、人間は、様々な自然にあるものを生かして、いろんなものを作り、小麦をそのまま食べるのではなく、粉にして、それを水や動物のミルクでこね、それを焼き、パンを作り出したり、ブドウを絞ってジュースにしたり、ワインにしたりという工夫をする存在で、それで人間の社会を豊かにしてきただけではなく、そのモノに象徴性を持たせ、意味を持たせることもできる存在であるということは大事であるのです。さらに、パンとワインは人間が生きていくために必要なものだし、人類が世代から世代へといのちをつないでいくため、人類がサバイブするためにも重要であるばかりではなく、それだけでなく、モノが何かを象徴する、とも理解する能力を持っているわけです。食べるということは、重要な意味があり、同じテーブルにつき、同じものを食べるということはいろんな意味があり、同じ場で飲み食いすることは、人と人との交流や友情の象徴、お互いに怒りを抱いてないということを象徴している、というようなことではないか、と思います。
人類と食品加工技術
まぁ、人類は、加工する、特に加熱加工するという技術を持つことで、食べ物の幅を広げてきました。例えば、スモーク技術や冷蔵・さらに、冷凍技術を持つことで、食材の長期保存を可能にし、加熱調理をすることで、より食味をよくする、体内での吸収率を向上させるということをしてきました。最近でこそ、すし文化が世界中に広がり、生の魚肉を外国人が、食するという文化を介するようになりましたが、魚類の過熱調理が普通であり、切断精度の低い刃物が通常調理に長らく使われてきた西洋では、鮮度の低い魚肉を、切れ味の悪い包丁などの切断調理器具で、加工するしかないために、魚肉の生食は長らく避けられてきたといえます。そして、つい30年から40年前まで、そのような文化を持つ日本文化は、あまり高度なものとして見られてきませんでした(その残滓は、指輪物語のゴラム(スミアゴル)メルの描き方にちょっと表れています)が、この30年から40年の間に、刺身やすしなどの魚肉の生食文化が、魚の鮮度の確認技術、包丁の切断制度の高さ、極端と言ってもいいほどの衛生概念に対するこだわりが日本文化に内蔵されているがゆえに可能になった調理であることがようやく認められてきたわけです。
魚を食べるゴラム
余談はさておき、今回は、この本の後半部分に移りたい、と思います。
イエスの最後の晩餐の再現、神の国での聖餐の地上での予行演習
同じテーブルで食事をすることの意味です。聖餐は、同じテーブル(同じ部屋、同じ場所)で、イエスと弟子たちがパンと杯を食べたことの象徴です。その意味で、同じ食卓に着く、ということを象徴しているはずです。とはいえ、大規模教会では、同じ聖餐卓を囲む、ということは困難になるので、その場で食べる、という感じになりますが、やはり、こじんまりとした教会で、一か所に集まり、聖餐をするということは、別のイメージを参加者に示すのではないか、と思います。今参加させてもらっているチャペルの聖餐式では、日本人もいる、中国人もいる、英国人もいる、フィリピン人もいる、ナイジェリア人もいる、という様々な人々がともに集まり、パンと杯を食するというまさに将来神の国で起きることの地上での予行演習ともなっている、ということを味わうことができるという意味で、非常に印象深い聖餐式をほぼ毎週2回、味わうことができています。実にありがたい限りではあります。
そして、聖餐は、正餐でもあるわけです。外交プロトコルや政治的な場面において、この正餐は重要な役割を果たします。何かというと、お互いに敵対関係にないことをこの正餐が象徴するからです。例えば、宮中晩さん会というようなことが皇室の宮中行事(政務)として日本でも行われていますが、あれは、海外の元首と豪華な食事をしているということよりは、二国間での相互交流があることを祝している行事なわけです。そこで、失態があると、下手をすると外交問題になりかねないわけです。今も、パパブッシュが、宮中晩さん会で、起こした失態は、語り草になっています。ほとんど忘れられていますが。
パパブッシュが宮中晩さん会で、「やっちまった」をした事件の瞬間の映像
シンポジウムとしての聖餐
あるいは、シンポジウムという言葉が、何人かの登壇者が出てくる講演会などに冠されることがありますが、あの言葉は、プラトンの著作饗宴の原タイトルである συμπόσιον に由来するとされていて、そもそも、哲学者たちや、話をしていろいろものを考える人々が一堂に会し、一緒にパンを食べ、ぶどう酒を飲み、好きなことがらについて延々議論するというイベント饗宴に、シンポジウムは由来しているわけです。つまり、聖餐とは、神と人とのシンポジウムという部分もあるわけです。それは、神と人との和解の象徴でもあり、神と人とが、連帯していること、家族であること、相互に交流していることの象徴でもあるわけです。そのことをあらわす聖餐の大事さ、ということは、もう少しプロテスタント諸派では、認識されてもいいのではないか、本当に礼拝のクライマックス、歴史のクライマックスを象徴するものであるという認識が、もう少し広がればいいなぁ、と思っています。
東北大学で行われた国際シンポジウム http://www.law.tohoku.ac.jp/gelapoc/jp/symposium/index.html より
次回へと続く
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評価:
ジョン・オートバーグ 地引網出版 ¥ 2,592 (2015-11-10) コメント:究極の創造の姿になること、終末と人間の関係について書かれた本 |
工藤信夫さんの『暴力と人間』の出版記念 対談会のご案内 再
工藤信夫さんの『暴力と人間』の出版を記念して、対談会を行います。
企画目的:
現在のアメリカ合衆国でのトランプ大統領の登場とその言動、朝鮮人民民主主義共和国金正恩総書記とトランプ大統領の対話、日本でのヘイト発言、ネット右翼の言動の台頭、些細なことに切れる老人たち、政治経済社会の構造変化現代人、現代社会とオウム真理教など、様々な課題が見られる社会について、工藤信夫著『暴力と人間』を手掛かりにしながら、著者の工藤信夫さんとその読者との対話を通して、現代社会理解とその中でのキリスト教の存在意義(レゾン・デートル)を考える会を開催したいと考えます。
企画内容:
著者の工藤信夫さんと対談者との対話を行います。
対話者であるブロガーの”ミーちゃんはーちゃん”が、まず先に、『暴力と人間』をどう読んだかを30分程度でお話しし、それについて工藤信夫さんが応答し、さらに対話者が応答した後、会場での参加者と工藤信夫さん、そして対談者を交えたの多方向的な対話をいたします。
企画概要:
日時 | 2018年10月22日(月曜日 午後2時〜4時まで(1時30分開場)) |
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開催場所 | 大阪市立総合生涯学習センター(大阪駅前第2ビル5F)
(大阪府大阪市北区梅田1丁目2−2−500 大阪駅前第2ビル) |
参加費 | 1,000円(税込) |
定員 | 15人(先着順) |
主催 |
お申込み先
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