2018.10.10 Wednesday

『ザ・ユーカリスト』という本を読んでみた(3)

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    今日も、引き続き、スヒレベークスさんの『ザ・ユーカリスト』からご紹介してみたいと思います。前々回は、この本の翻訳に足る背景をご説明し、前回は、この本の最初の部分で、中世中ごろまでのスコラ主義者の中にあった近代性と中世から続く聖餐理解について書いてきましたが、今日はいよいよ、本論にあたる部分をご紹介することになるのですが、その前に、この書物の背景を、少し説明しておいたほうがよいかもしれません。

     

     

    1960年代という時代と、本書の意義

    本書は、オリジナルが、1968年ですから、邦訳されるまで、約50年かかっているというのが、まぁ、なんとも日本的ですが、本文の重要なポイントをご紹介するまえに1968年という時代を考えて見たいと思います。1960年代は、巨大科学、科学万能主義が支配した時代の幕開けでした。まだ、ベトナム戦争は終結にいたっておらず、米軍は最新鋭戦闘機、最新鋭爆撃機で、ベトナムにバンバン新型爆弾やら、枯草剤のご先祖様の枯葉剤(オレンジ剤 ダイオキシンが主剤)を撒きまくり、ホーチミンおじい様が率いるベトナムの共産主義を殲滅せんばかりの勢いでした。

     

    ソ連(現ロシア)が、ボストーク号で、ソ連が人類を初に宇宙にぶち上げたのが1961年、それを受け当時のアメリカ大統領、JFケネディが宇宙開発計画として、アポロ計画をぶち上げたのが同じく1961年、IBMが本格的商用大型計算機システムSystem/360を売り出したのが1964年であったわけです。その意味で、東西冷戦の中、科学技術競争が始まり、ソ連(現ロシア)を中心とした旧共産圏諸国も、英米フランスを中心とした資本主義諸国も、科学技術の時代を謳歌した時代であり、1950年代末には、イギリス・アメリカで商用原子炉が操業を開始し始め、オイルショックもまだその姿を見せず、世界の未来はめちゃくちゃ明るい、と誰しもが脳天気に思っていた時代でした。

     

    オレンジ剤利用に関する映像資料

     

     

    アメリカの宇宙開発の黎明期を描く、ライトスタッフ

     

    「IBM System 360」の画像検索結果

    昔懐かしの愛機 IBM System/360

     

    商用原子炉の黎明期に関する映像資料

     

    こういう科学万能時代に、いかにも古臭く見えるカトリック教会の聖餐をどう意味づけし、近代科学時代における聖餐論を確立しようとするのか、近代における聖餐の教理をどのように護教すするのか、ということを必死になって取り組んだ本が本書であり、聖餐を近代科学がすべてで、何より重要であると思っている近代人に「いやいや、聖餐は実に意味があるのですよ。聖餐は、単に古臭い、教会の伝統によっているのではありません」ということを示そうした本であるといえるでしょう。そのような科学との対話、科学万能時代での護教ということが、ある面、求められた時代が1960年代でもあった、ということはまず触れておく必要があるでしょう。

     

    今のポストモダン時代になじみ、近代科学性のいい加減さ、不完全さと不十分さが、露呈した(いみじくも、オレンジ剤の散布は、いま、人類に多大なキックバックを要求していますし、想定外がかなり連続的なこととして起きた原子力発電所と、その技術も案外当てにならないことをポストフクシマ時代の私たちは知っています。その意味で、科学が万能ではありえないけれども、それなしにも生きられない時代にわれわれは生きているわけです。その意味でも、モダン時代とはかなりことなったポストモダンの時代に、私たちは生きているわけです。

     

     

    全キリスト教伝承の証言に立って(霊のキリスト論との関連で)存在論的相がユーカリストにはある。存在の変化がと断言する際、我々は同時に忘れてはならない。我々はここで同時にキリスト側の秘跡的象徴活動の存在論的相と、次にまさにこの象徴活動の深遠な客観的リアリティの相を取り扱うのだと。後者はその性質から、信者の応答に向けられている。先験的に、秘跡性の範囲外でユーカリストのリアリティを探すべきではない ーそうすることは信仰とユーカリストの立地点を離れることになる。これは、結局、我らの狙いはー 秘跡的終末(論)なのだ!(『ザ・ユーカリスト』 p.83)

     

    ここで、大事なことを述べているはずなんですが、それが、これまた複雑骨折したような日本語で、非常にわかりにくく訳されています。ここで、キーワードになるのが、相という言葉です。おそらく、元の英語は、AspectまたはPhaseだと思うのですが、多分Aspectではないだろうか、と思います。そこで、上の文章を日本語変換しなおして見ると、こんな感じになるでしょう。訳者の方には、せっかく訳されたものを元に、再変換することは大変失礼であることは十分存じ上げていますが。

     

     

    全キリスト教での伝承が主張し続けてきたことによると、(霊のキリスト論との関連で)存在論的なものの見方をユーカリストにすることができるとされています。聖餐において、キリストの存在についての変化がおきる、と断言しようとする場合、私たちには同時に忘れてはならないことがあります。我々は聖餐にあたって、キリスト側の秘跡についての象徴的な活動が行われているという存在論的なものの見方と同時に、まさにこの象徴による行為(聖餐に預かる行為)についての深遠さについて、客観的な現実的な側面のものの見方で取り扱う必要があるのです。客観的な側面でのものの見方ということについては、その性質から、信仰者がどのようにものをみるか、という対応に目を向けることとかかわっています。先験的に、秘跡ということの範囲の外側でユーカリストのリアリティを考察すべきではないのです。秘蹟であることを考えずにユーカリストの現実的側面を考えようとすることは、信仰とユーカリストの立地点を離れ離れにしてしまうことになります。聖餐について、結局、私たちがなぜ聖餐をするかといえば、秘跡において終末を表している(ないし、終末論そのものな)のです。

     

    終末(Telos)の象徴としての聖餐

    要するに、ここで、スヒレベークスさんがおっしゃりたかったことは、聖餐を考えるときに、そこに存在するかたをどう考えるかについては、聖餐そのものが象徴であるという側面と、それに預かる人がどのような意味を見出すのかということについての両側面から考えないといけないということと、結局聖餐は、終末の実現(神が人とともにいる世界)を象徴するものなので、その部分を忘れてはならない、という形に要約できるでしょう。ここでいう終末とはTelos(目的の到達点)という意味での終末です。その意味で、我々が目的としている到達点で実現しているはずのことをこの地において、象徴として表現しているのが、聖餐ということになるでしょう。

     

    福音派の一部に影響を受けた人々の中には、終末は世の裁きが起き、非常に恐ろしいことが起きる時代であるという側面だけを捉え、そのイメージを拡散してきた部分があります。映画でも、世の終わりが、このようなものではないかに関するパニック映画はたくさん作られています。

     

    The Waveというパニック映画

     

    メガトロドンが出てくる最近の映画

     

     

    「トロ丼 山盛り」の画像検索結果

    これは、メガトロ丼(https://rocketnews24.com/2016/03/07/719607/)

     

     

    シャークネードと言うB級映画作品 空を舞うサメと言う設定が・・・

     

     

    そういえば、高知では「カツヲのたたき」が空を舞っているのかもしれないらしい(1分11秒くらい)

     

    まぁ、アナ雪にしても、ある種の終末映画と言えなくはないほど、アメリカ型キリスト教の終末思想が、へんなところに顔をちょくちょく出しているのだけれども、実は、聖餐は、終末で起こる状態、神と人がともにある世界を、物体であるパンとぶどう酒を通して豊かに象徴しているということは、非常に大切なのではないか、と思うのです。

     

    聖餐を象徴のみとして捉えて処理としてしまうこともたしかに可能かもしれませんが、そこには、行為に伴うリアリティ(司祭がパンを裂き、キリストの弟子である信徒に最後の晩餐を模したものかもしれないけれども、聖餐の場に参加し、聖餐に与えるというリアリティ(角切りパンの回しスタイルでは、このリアリティは表現することや、味わうことは非常に難しいことが多い)があるわけですし、そして、パンとぶどう酒を自ら嚥下する(飲み下す)という現実において、神が我が身に来られたという現実と、復活を再現するわけですので、複数の意味を聖餐は象徴していると思うのです。この現実を真面目に理解せずに、象徴として解するのはどうなのか、と思います。

     

    以前、コプト正教会の日本での会堂の聖成式に押しかけたように取材で参加したことがあるのですが、その際の聖餐で、シドニー大司教(日本のコプト正教会はシドニー教区所属だそうで)が聖餐の入っていたトレイを高く上げることで、キリストがこの地を去り、天に挙げられたこと、そしてこれを食するものが天に属するものであることを象徴しておられるように感じました(いつも行っているチャペルでは、聖餐のパンを司祭が食べつくすことで表現している模様)が、あれを見るとき、なるほど、確かに聖餐は終末の象徴であるなぁ、と改めて思ったものでした。

     

     

    Hajime Kawamukaiさんの写真

    コプト正教会の会堂聖成式での聖餐式の最後に聖餐の入っていたトレーを高く上げるシドニー大司教ダニイル猊下

     

     近代科学、量子論と聖餐

     1900年代以降、量子論、相対性理論と、従来のニュートン物理学や古典的物理学の世界と異なる理解の登場とともに、ものとは一体なんであるのか、どう時空間のなかでとらえることができるのか、という観点から、聖餐までも理解し直そうとする視点が出てきたことに対して、この本では次のように書いてありました。

     

     

    二つの大戦の間に実態変化再解釈の必要性は明らかになっていた。近代物理学の因子は実体性についての新スコラ学的主義探求をその根底へと揺り動かしていた。このことがユーカリストの自然哲学から人間学的アプローチ変化を布告した。世紀初頭においてさえ、近代物理学はアリストテレス主義実体概念についての新スコラ学主義グループにおいて熱く議論を引き起こしていた。現象世界の背後に、また外にリアリティがあるという思想はカントの批評が、アンリ ベルグソンから引き出される「実体主義」に対する困難がボディブローのように効いて苦しむスコラ主義を貫いた時、多くを失った。メルロ ポンティよりはるか以前に最終的に、感覚によって貫かれるものは、我々の知覚作用から切り離されるリアリティの客観的特質とは見做されないということが確立されたとき、実体と付帯についてのアリストテレス主義教理は根本的に分解した。物理学における量子論は多くの新スコラ主義を、実体概念は物体のリアリティに適用されない、あるいは最大でも全宇宙は一つの偉大な実態としてみなされるということを現実化した。(同書 pp. 93-94)

     

    まぁ、この部分も普通にさらっと読んだだけでは、一体何のことですろう、といった表現になっていますが、この日本語の文章から、頭のなかで再変換(デコード・リアセンブル)したものを、書いてみたいと思います。

     

    二つの世界大戦の間に聖餐についての実態変化に関する再解釈の必要性は明らかになっていきました。近代物理学の変化という側面は、実体性についての新スコラ学的主義におけるその理解の深化についての理論的根底を揺り動かすものとなりました。この近代物理学の変化による聖餐理解の変化が、ユーカリスト自体の理解の方法について、自然哲学(科学的なアプローチ)から人間学的アプローチへの、アプローチの変化をが導かれました。20世紀初頭においてさえ、近代物理学の進展はアリストテレス主義的な実体概念についての新スコラ学主義グループにおける熱い議論を引き起こしました。現象世界の背後に、また現象世界以外にも現実的な世界があるという思想は、カントが行った批判哲学でさえも、アンリ・ベルグソンから導きたした「実体主義」に対する問題を生じたのでした。そして、その問題は、ボディブローのように効いて苦しむスコラ主義の問題を明らかにしたとき、新スコラ主義は、多くの理論としての重要性を失うことになりました。メルロ・ポンティよりはるか以前に、最終的に、感覚によって刺激されるものは、我々の知覚作用から切り離されるリアリティの客観的特質とは見做されないということが確立されることとなりました。この結果、実体とそこから導かれることについてのアリストテレス主義教理は根本的に見直しをせざるを得ない状態となりました。物理学における量子論の登場は、多くの新スコラ主義に対して、実体概念は物体のリアリティに適用され得ないことを明らかにしたのです。あるいは量子論の観点からは、最大でも全宇宙は一つの偉大な実態としてみなしうるということが明らかになったのでした。

     

    くらいの感じかもしれません。原文を読んでいないでなんとも言えませんが。多分、原文を見ないとなんとも言えませんが、スヒレベークスさんの議論を誤解している可能性があります。

     

    ところで、哲学と物理学は、20世紀中葉まで、いろいろと影響を与えあっているので、あんまり簡単に処理できないのですが、まぁ、哲学は哲学の世界での理解をのべますし、物理学は物理学としてのものの見え方を述べますが、とはいっても、実際の生活には、あまり影響もしないことは確かではあります。

     

    ある程度、上でお示ししたように書き直してみましたが、自分で読み直して見直しても、一体ここでは、何を言いたいのでしょう、といった感じです。とはいえ、もうちょっと読みといてみると、量子力学が出てきて、これまでのものの捉え方やスコラ哲学的な世界、あるいは素朴なスコラ哲学的な世界観が機能しないかもしれない世界をもたらしたので、従来のモノ概念というか、実体概念の概念世界に対して疑問が生じ、もし、量子論の議論から導かれるように、全世界あるいは全宇宙が統合的にひとつのものとして理解しないといけないのであれば、従来の聖餐理解のままでいいのかなぁ?という疑問点が提示されるなか、神学者に対してもそういう時代に、チコちゃん風の「ぼぉーっと、生きてんじゃねぇよ」という疑問が出され、聖餐に対する理解の再検討が始まった、ということのようです。

     

    『チコちゃんに叱られる!』 でのチコちゃんの決め台詞 

     

    まぁ、生きている世界を古典物理の世界で見てようが、量子力学の世界で捉えていよういようが、熱々の白ごはんは美味しいし、焼き立てのどら焼き(関西では、御座候とも言います)は美味しいという世界は変わりません。

     

    象徴と身体性と人間の主体性

    量子力学ができてからというもの、アリストテレス的な世界観には限界があるかも、という疑念が出されて、人が認識するとはどういうことか、という理解の問題が生まれてきました。そして、それは聖餐論にも影響を生み、そもそも人の認識とはどういったものか、人が聖餐にあずかるときの認識をどう考えるのか、という問題が生まれてきたわけです。そして、人が理解するということをどう考えたらいいのか、ということが問題になってくるわけです。そのあたりの部分をスヒレベークスさんが書いたものの本書の記述部分をご紹介したいと思います。

     

    近代の現象学は印の認識論をではなく、二元論的ではない人間観を基礎とした主張的行為についての人類学論を発展させて来た。この人類学的概念によれば、人間は第一に一つの閉じ込められた内部性、そしてのち、次にあたかも身体性を通して世に受肉するようなものではない。人間的身体は、分離し難く人間の主体性と結びついているものであり、人間のエゴは本質的に世界の事柄と結びついている。(同書 p.98)

     

    そこで、再度、翻訳者の方にはまことに申し訳ないのですが、原文を読まずに訳文だけから、こういうことをスヒレベークスさんはこういうことを言い他騙ったのではないかということを、逆アセンブルしてみたらこうなった、という文章を紹介したいと思います。もちろん正確ではないだろうし、それでも、十分わかりやすいとは言えないのだけれども、とは思っています。

     

     

    近代の現象学は象徴についての認識論についてではなく、二元論的ではない人間観を基礎とした人間の主張的行為についての人類学論的研究を発展させてきました。この人類学的な研究で利用される概念を用いれば、人間は第一に一つの閉じ込められた内部性を持っているということになりますし、第2に、身体性を通してのみ、あたかも世の中にある実体を認識するようなものではないのです。人間の身体は、人間の認識と人間の主体性とは分離し難いものであり、両者は強く結びついているものです。そして、人間の自我というものは本質的に世界の様々なものごとに結びついているといえるのです。

     

     

    まぁ、最近の現象学という学問の体系では、人間が対象や物事をどう理解するかについてその議論を行ってきたのだけれども、人間を考えてみると、人という存在は、ある閉じた世界であり、内部をもつものではあるものの、ある種の身体性をもって、触ったり、見たり、味わったりすることを通して、世の中にあるものを理解するだけでもなく、概念的な対象について、本来身体性や五感を介しては触れられないはずのものも理解できること、そして、人間の認識と人間が理解しようとする主体性というのは、がっちりと結合していて、そして、自我も世界と無縁に存在するものでもない、ということを言いたかったのではなかろうか、と思います。

     

    例えば、ミーちゃんはーちゃんは、プログラムとして文字や数字で書かれているコード(プログラムの命令集合体)を見て、その背景にあるそのプログラムの開発者の意図を考え、理解するという趣味の悪いことを、時々やる(頼まれるので、やらざるをえない)ことがあるのですが、まさに、このような場合、身体性とはちょっと離れたことをしているわけで、そういう概念理解ということは存在する、ということなわけです。

     

    それは、聖餐や祈り、説教といったキリスト教の世界での象徴や象徴的行為を信徒が考えるということとも結びついていているからこそ、このような理解が重要になっているように思います。確かに、聖餐は、7mm角のサイコロ状に切り分けられたパンを食べ、ウェルチのジュースやぶどう酒を飲む単なる行為であるのではなく、たとえ、サイコロ状に切り分けられた食パンであっても、あるいは、その大半が先週の業務報告のようなもので占められた牧師の説教であっても、それらの行為が象徴するものがある、ということはちょっと考えないといけない、ということなのだと思います。

     

    たとえ、教会で行われるさまざまな事柄やイベントがしょぼくれてみえる行為であっても、あるいは、恭しくありがたく見える行為であっても、そこに共通する象徴とは何か、ということを考えることが重要だ、ということをスヒレベークスさんは言いたかったのだろうと思います。ただ、高度な概念操作とそれが象徴するものを理解する、ということは、実はかなり難しいことなのです。

     

    頭が働くなくなったり、耳が遠くなったり、短期記憶機能に障害が発生する、ということは年齢が進むと起きやすいのですが、そうであっても、聖餐を口にする、という行為は、脳の短期記憶に機能障害が発生しても、疲れ切っていて、頭がはたらかなくても、耳が遠くなっても、味がわからなくなっても、食べることはでき、そして、そのごく普通に食べられているものを、食べる行為で、神が自らのうちに入られる、ということを象徴する行為に関与できる、ということの意味は多く、その行為に重要性があるのではないか、ということをおっしゃりたかったのではないかなぁ、と思います。

     

    次回へと続く

     

     

     

     

     

     

     

     

     

    評価:
    価格: ¥ 1,080
    ショップ: 楽天ブックス
    コメント:中身は重要ですが、日本語表現がわかりやすいとは言えません。でも、読むべき本だとは思います。

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