2018.09.07 Friday

クリスチャンn世代の若者からのお願い(5) 勝手なお祈りしないで・・・ その1

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    今回は、シリーズ第2弾、勝手にお祈りしないでシリーズをご紹介したいと思います。

     

    カレドニアさんの以前のコメントとコメントへの応答から

    以前にも、このブログの「いただいたコメントから、キリスト者2世問題をまたまた再考してみた」でも、ご紹介したことがありますが、クリスチャンのn世代(2世以降の、両親ないし、片親がキリスト者の人々)にとってみて、年長信者ないし、教会関係者の聞こえがよしの必殺祈り攻撃は、結構厳しいものがあります。このカレドニアさんのコメントにお答えした記事での「必殺、祈り攻撃」の部分を再度引用の形で、ご紹介してみたいと思います。

     

    (カレドニアさんのコメント)

    > (クリスチャンの友人と「私がどんなにダ
    > メな人間か」についての公開裁判&祈り会
    > が開かれる)

    (カレドニアさんのコメント)

     

    を受けて、祈り会での祈りの言葉が裁判の場における検事のような追及のことばになり、祈り会が公開裁判になるという現実は時々あるようです。その時に、ミーちゃんはーちゃんは次のように書きました。

     

    これも、超・わ・か・る!という感じです。反発するだけ野暮ですね。それこそ、反発しようものなら、公開裁判ではなく、それこそ魔女裁判の世界でしょう。それどころか、異端審問裁判ではないか、とおもいます。それこそ、聖書のことばで「聖書的に」(といいつつものちに詳述するSalvation Cultureで)裁かれる、といったような異端審問裁判ではないか、と思います。祈り会というよりは、祈りという名の呪いのことばをかけられているような感じになるのではないか、と思います。「祈り」といわれていても、責められ、非難されているとしたら、呪いの言葉に聞こえる場合もあるのではないか、と思います。

    今から40年ほど前、今では長髪とさえいえないほどの髪の毛の長さにしていた、大学生の信者さんがアメリカ人宣教師の方から、「兄弟、祈りましょう。」と言われて、暗に髪の毛を切るように仕向けられた、ということをお話ししてくださったあと、「あれ、なんだったんだろうねぇ」と30年ほど前にお話ししてくださいましたから。なるほど、「必殺、祈り攻撃」は結構伝統と格式を誇る手段なのかもしれません。

    しかし、中核派・革マル派・連合赤軍の「総括」(人民裁判(集団で責められる話し合い)にかけられて、自己批判を徹底的に言わされ、人民裁判の裁判官というか、自己批判する以外の参加者が納得するまで(これがまた判断基準が微妙)、自己批判すること=総括)のキリスト教版みたいですね。あさま山荘事件の前後にこの総括ということが実際に起きたようです。「必殺、祈り攻撃」は、この総括と構造的には似てますよねぇ。全く神の名を使った「総括」なのかもしれません。

     

    このようなことが時々見られることは、いろいろと多くのキリスト者の方のお話を聞いてみたり、また、牧師先生の修養会に参加させてもらってパラパラ漏れ聞こえてくる内容からは、日本のある教会群でのこういった傾向は、あまり変わっていないように思います。個人的には、この問題は、教会の第n世代の方にとって、小さからぬ問題ではないか、と思います。

     

     

    どのように祈るべきか

    まず、そもそも論としてのこの祈り問題は、まず、人に聞かせる、というよりは、人を操作するいのりであるところです。祈りについて、イエスがどのように言っているかをまず第1に確認してみたいと思います。

     

    【口語訳聖書】マタイによる福音書
     6:5 また祈る時には、偽善者たちのようにするな。彼らは人に見せようとして、会堂や大通りのつじに立って祈ることを好む。よく言っておくが、彼らはその報いを受けてしまっている。
     6:6 あなたは祈る時、自分のへやにはいり、戸を閉じて、隠れた所においでになるあなたの父に祈りなさい。すると、隠れた事を見ておられるあなたの父は、報いてくださるであろう。
     6:7 また、祈る場合、異邦人のように、くどくどと祈るな。彼らは言葉かずが多ければ、聞きいれられるものと思っている。
     6:8 だから、彼らのまねをするな。あなたがたの父なる神は、求めない先から、あなたがたに必要なものはご存じなのである。
     6:9 だから、あなたがたはこう祈りなさい、天にいますわれらの父よ、御名があがめられますように。
     6:10 御国がきますように。みこころが天に行われるとおり、地にも行われますように。
     6:11 わたしたちの日ごとの食物を、きょうもお与えください。
     6:12 わたしたちに負債のある者をゆるしましたように、わたしたちの負債をもおゆるしください。
     6:13 わたしたちを試みに会わせないで、悪しき者からお救いください。
     6:14 もしも、あなたがたが、人々のあやまちをゆるすならば、あなたがたの天の父も、あなたがたをゆるして下さるであろう。
     6:15 もし人をゆるさないならば、あなたがたの父も、あなたがたのあやまちをゆるして下さらないであろう。

     

    George HenryBoughton作 Woman Kneeling in Prayer

     

    https://art.thewalters.org/detail/12881/woman-kneeling-in-prayer-2/ より

     

     

     

    人に聞かせるために祈る人って…ひょっとして偽善者?

    このマタイの福音書で見ると、まず、人に見せようとして、人に聞かせようとして祈ることは、偽善者のなすことだ、とイエスご自身は言っているように思います。この部分の聖書翻訳がおかしいとおっしゃるなら、聖書協会さんに文句を言っていただきたいのですが、いくつか、日本語やそのほかの言語の他の翻訳を見ても、上で紹介した口語訳聖書の表現と同じような表現になっているように思います。

     

    さて、本来神に向けてのものであるべき、祈りの言葉を用いて人を説得し、人の行為を変えさせるように操作主義的に祈ることは、祈りと言っても、あまり健全とはいえないような祈りのようです。祈りが神とのコミュニケーションだとしたら、「特定の個人に向けた言葉を含め、祈りのことばを意図的に用いる」ということは、いったいどういう意味を持つのか、ということは考えなければなりません。それが本当に神に向けてのものなのかどうか、ということです。

     

    もちろん、「神に向けての叫びである」という側面が祈りにはあることは確かです。それは否定しません。確かに、旧約聖書の最初の祈りの表現は、創世記にありますが、その記事を見てみましょう。

     

    【口語訳聖書】創世記
    4:26 セツにもまた男の子が生れた。彼はその名をエノスと名づけた。この時、人々は主の名を呼び始めた。

     

    アダムの子供のアベルとカインの後に生まれたセツの子供の段階、つまり、アダムの孫の段階で、人々は、神に向けて、神の名を呼んで叫んでいる(祈っている)わけです。その意味で、神への叫びは祈りと言えますが、人への叫び、人をどうにかしてやろうとして神の名を呼ぶのは、十戒と呼ばれる10の教えの中でいわれている

     

    【口語訳聖書】出エジプト記
    20:7 あなたは、あなたの神、主の名を、みだりに唱えてはならない。主は、み名をみだりに唱えるものを、罰しないでは置かないであろう。

     

    ということと等しいことなのではないかなぁ、とは思います。

     

     

    おそらく、冒頭のマタイの福音書で「また祈る時には、偽善者たちのようにするな。彼らは人に見せようとして、会堂や大通りのつじに立って祈ることを好む。よく言っておくが、彼らはその報いを受けてしまっている」と書かれているのは、結局、この街道やお踊りの辻に立って人々に聞かせるために祈る人々には、出エジプト記にある「主は、み名をみだりに唱えるものを、罰しないでは置かないであろう」ということを、神ご自身である主が、報いとしての罰をお与えになっている、ということなのかもしれません。

     

    隠れたところにおられる神

    ここで、祈りについて、先に引用したマタイの福音書の記述によれば、イエスご自身は、「あなたは祈る時、自分のへやにはいり、戸を閉じて、隠れた所においでになるあなたの父に祈りなさい。すると、隠れた事を見ておられるあなたの父は、報いてくださるであろう」ということをおっしゃっているのが、非常に印象的です。この隠れたところにおられる、というのが、実は重要だと思うのです。この「隠れたところ」という表現は、直接、「私の思いはこうだ」とは人間に対して、明確にかつ具体的にご自身の思いを示されることがかなり少ない、ということともかかわっているように思います。もちろん、旧約聖書には、預言者に直接語る神の姿が記載されていますが、その預言者は、人々から石を投げられ、人々からさげすまれ、偽預言者扱いされ、理解もされず、呪いの言葉をかけられた存在、というのが、ほぼ実情ではないか、と思います。

     

    つまり、神の神秘とか、神ご自身のみ思いは、鼻で神に息吹を吹き込まれ、自ら息を始めたものでない、神の力により、鼻で息するものであることを許されているに過ぎない人間が「パッと見てわかるようなものではない」ということも示しているように思えます。たとえ、牧師や司祭、または長い経験を持つ信徒であっても、神のみ思いを図ることは難しいがゆえに、主の祈りにあるように、「御国がきますように。みこころが天に行われるとおり、地にも行われますように」と、人間は祈る必要があるし、そのようにイエスは主の祈りで教えているのではないでしょうか。

     

    そのような意味で、人に祈りの言葉を神の名をみだりに唱えることで、意図的に聴かせ、自分の意図に合致するように仕向けようとする祈り、というのはどういうことなのか、ということは、少し考えてみたほうが良いのかもしれないなぁ、と思います。神ならぬ人間に過ぎないものが、神の名を騙る、ということの空恐ろしさを個人的には思います。

     

     

    次回へと続く

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

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