2018.09.03 Monday

アーギュメンツ #3 を読んでみた(7)

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    今日も手売りにこだわっている雑誌のアーギュメンツ3のWang論文の中から、読んで考えたことを述べてみたい、と思います。なかなかこの本は本当に、面白い論考が多いように思います。

     

    複数の近代性、時間の非均質性

    近代にいくつかのモードというか、スタイルが複数存在することは、一部の人々の間では、よくしられた事実であるようにも思います。とはいえ、近代は、一つの合理性を目指してきた社会のあり方である部分は、共通項として存在するとは言えようか、と思います。また、同質性と均質性を目指してきたと言えるでしょう。それは、標準化の思想が支配した時代でもあり、一様化を目指した社会でもありました。そして、人々が、ある程度同一であるという前提にたった時にはじめて成立する、一様化によるメリット、あるいは規模の経済(たくさん作れば、作るほど、コストが低くなり、人々の生活が安定しやすくなる傾向)を享受しようとした社会でもあったと言えるでしょう。そして、一般には、インターネットの世界では斉一性、斉一化が目指されていると思われていると思うのですが、世の中、そう単純ではないことを、Wang論文は次のように記述しています。
     

    複数の近代性が存在するということが多少なり立証されてきたのと同時に、ポスト・インターネットの条件となる複数の時間性は、生まれながらにして、はるかに不規則な仕方で積み重ねられたものであることがわかってきたのだ。即時アクセス可能性や同時性の幻想が、時間はウェブをまたいで様々な仕方で機能する −ラディカルなほどに様々な仕方で機能するー という根本的な現実を覆い隠している。(『アーギュメンツ #3』p.66)

     

    同質性、均質性、標準化、一様性を目指したのが近代であったという側面はあるとはいえ、同じ近代(Modernという語を使っている)とは言いながら、各国によって、近代の到達への歴史的経緯とその国民固有の思考のパターンが違うためだと思われるのですが、近代と言っても様々な近代の姿があるようです。

     

    例えば、音楽を例にとれば、近代では共通表現であるはずの同じ楽譜の演奏であったとしても、ある国民の固有のパターンが出ることがあります。以下の動画を順にご覧になると、腹をよじらせながら、おわかりいただけると思います。まさに、近代性の表れのような楽譜に従った演奏でも、その演奏になると、民族性を反映させ具合が、実に多様だなぁ、と以下の動画に現れる演奏を聴きながら思ってしました。

     

    同じ、God Save the Kingでも、これほど違う

     

    同じヨーロッパ系国歌でも演奏する国民性が違うと、面白い

     

    イスラエルとパレスティナの音楽性の違いが現れていて面白い(イスラエルの音楽関係者は、旧ロシア出身者が多いらしいから)

     

    サウディアラビアの王立オーケストラでもこのご様子のもよう

     

    ポスト・インターネット時代の情報と芸術

    さて、ここで、次のWangの印象的な一文について考えてみたいと思います。「ポスト・インターネットの条件となる複数の時間性は、生まれながらにして、はるかに不規則な仕方で積み重ねられたものであることがわかってきたのだ。」ということで、ここで、Wangは美術を素材に、ポスト・インターネットを考えていますが、ここでの指摘は、社会においても言えるように思います。インターネットは、たしかに電気的なスピードで情報伝達をしますが、受け取り手の側が発信者と必ずしも同時に受信しているとは限らず、身体的な睡眠などの生物学的な必要などによる制約、地球上表面を支配している天文学的な時間の制約(日没と日の出)、それによって制約される人間の行動などがあるため、必ずしも発信者と受診者の間に時差、タイムラグが無いことが保証はされないことは確かです。

     

    Facebookなどで、時々起きるのですが、何年も前に起きたことがニュースで回ってきたり(1周回って新しいどころか、何周も回って新しいことが多い)、数日前に起きたことに大騒ぎしている人が出たり、ということを時々経験することがあります。

     

    ところで、同じニュースが突然降って湧いたかのように新しいものとして登場するように、一度ネット上に流されたポルノグラフィーは、ネット時代になって繰り返し再現されることで、被写体や報道される対象となった方を繰り返しレイプするかのように傷つけるのです。忘れられる権利を言わなければならないほど。

     

    紙新聞は、古くなって捨てられてしまうし、テレビは、数日後には人はすっかり忘れてくれるので、自然に忘れられていくのですが、ネットは、ロングテイルでもあり、一つのサーバーで削除しても、ネット上の何処かの空間のサーバーには残っていくだけに、こういう現象が起きるようです。

     

    忘れられる権利についてのニュースクリップ

     

    そう思っていると、ある講演会の準備のためにPost Internetで検索した時に出てきた次の画像が印象的でした。こういうのを見ていると、Wangの言うように、Post Internet時代において、Web技術に支えられたコンテンツは、「ラディカルなほどに様々な仕方で機能する」のは確かだと思います。

     

    http://daftgallery.com/artists/hazine-kareemah/ から”666 images on Facebook" (2012)と題された作品

     

    この画像は、黙示録の666の文字を引用しながら、Facebookのアイコンをつけた青いブルカを666個あることを示すことで、ムスリムと新約聖書と現代のテクノロジーをクロスオーバーさせた、ものすごく皮肉を効かせた画像作品になっています。

     

    【口語訳聖書】ヨハネの黙示録

     13:11 わたしはまた、ほかの獣が地から上って来るのを見た。それには小羊のような角が二つあって、龍のように物を言った。
     13:12 そして、先の獣の持つすべての権力をその前で働かせた。また、地と地に住む人々に、致命的な傷がいやされた先の獣を拝ませた。
     13:13 また、大いなるしるしを行って、人々の前で火を天から地に降らせることさえした。
     13:14 さらに、先の獣の前で行うのを許されたしるしで、地に住む人々を惑わし、かつ、つるぎの傷を受けてもなお生きている先の獣の像を造ることを、地に住む人々に命じた。
     13:15 それから、その獣の像に息を吹き込んで、その獣の像が物を言うことさえできるようにし、また、その獣の像を拝まない者をみな殺させた。
     13:16 また、小さき者にも、大いなる者にも、富める者にも、貧しき者にも、自由人にも、奴隷にも、すべての人々に、その右の手あるいは額に刻印を押させ、
     13:17 この刻印のない者はみな、物を買うことも売ることもできないようにした。この刻印は、その獣の名、または、その名の数字のことである。
     13:18 ここに、知恵が必要である。思慮のある者は、獣の数字を解くがよい。その数字とは、人間をさすものである。そして、その数字は六百六十六である。

     

    個人的には、Facebookやそこの会長のザッカーバーグさんがどこぞの聖書原理主義者で陰謀論者の方のように、黙示録の666だとは思っていませんよ。wただ、なんとかと包丁は使いよう、であるという俚諺がいうように、なんとかとITは使いよう、だとは思っています。なお、Monsterという飲み物が、666だとも思ってませんが…w。確かに、似てますけど、ヘブライ文字のVavの字(ヘブライ文字では、Vavは6を表しますが)とMonsterのロゴで使われているひっかき傷は。

     

     

    なお、バベルとか、バビロンは、ベート(ヘブライ文字では、2を表す)の文字の方です。

    「Babel Hebrew」の画像検索結果
    バベルの塔を示す絵画とヘブライ文字

     

     

    言論的状況としてのポスト・インターネット時代

    ポスト・インターネット状況というのは、プレ・インターネット時代と何が違うか、というと、文化的には、コピーの容易さとその再利用の問題であるように思います。インターネットによってデータのトランスポータビリティ(移転性)が増加することで、コピー文化が一気に広がると同時に、コピーを利用した二次創作の可能性を急速に拡大しました。そのあたりについて、Wang論文では次のように述べています。

     

    ポスト・インターネットの状況は、相対性と差異化を加速させるだけである。それは、根本的に言語論的状況なのだー ただし言語という点においてだけではなく。なぜならその条件は、何が流通しているのか、そしていかにして特定の流通形式が意味を ー視覚的素材(特にインターネットの流行性によって際立った特徴づけがなされない素材)の有する意味を含めてー 伝えるのか、ということに関わるものであるからだ。(同書 p.67)

     

    ここで、Wangが論考するように、ネットワーク経由でデータ交換が可能になったことで、飛躍的にデータのトランスポータビリティが改善されました。そうなってくると、ネットワーク上でどんなデータが、あるいは、どんな情報が流通にしているかが問題になっているということである、とWangは指摘しています。

     

    聖書を含め、文字データの交換が、新聞とか雑誌とかの紙に乗せて流通されていた時代には、基本的に、それまでの羊皮紙への筆記生による手書きの転写モードから同一のものを大量に作るマスプロダクションに移行したこともあり、基本的に同一化を加速させることになりました。

     

    しかし、そのあとに生まれたメディア・ユース革命を起こしたネット技術は、相対性と差異化を加速させたのです。これが、実は、インターネット世界が反近代性という傾向を持つことの根源でもあるように思います。

     

    ネットの世界であるからゆえに、かなり偏った趣味(飛行機とか、アニメとか、プラモデルといった特殊な分野)でのグループができ、これらのグループとそれ以外の他の人々との差異化するような情報共有が可能になるのです。本来、雑誌が持っていた特殊な趣味のグループのこだわりをさらに先鋭化したグループの形成が可能になったといえると思います。そして、『新しい中世』で、田中さんがご指摘になったような人々のグループという、中世時代の、距離や空間で分断されたコミュニティとは違った、関心エリアの違いによる緩やかなコミュニティが形成される世界、『新しい中世』がネット社会で生まれることになったのです。

     

    ここでは、Wangは、言論的状況と表現していますが、個人的には、文字も画像や、動画も含めて考えらるべきかとは思いますので、記号論的現象という表現のほうがよかったかもしれない、とは思っております。ある面でいうと、記号や象徴が割と大きな意味を持った中世の世界が、ネットワークという情報技術で小さなコミュニティの形成において、象徴の意味がある面重要な意味を持つため、新しい形と様式をもった中世の社会が再現されているような気がいたします。

     

    ネット社会に参加することと模倣とミーム

    ネット社会では、その社会固有の言語、ネットスラングがあり、それを正確に話せることが、相互理解の前提になっていることが多いのは事実です。というのは、基本的に高速度で情報処理を進めるためには、このようなネットスラングというか、ネット方言が必要になるからです。その意味で、たとえ情報の受け取り手であっても、ネットスラングについての、最低限の共通理解の存在が必要になります。どこまでわかっているかは別として。

     

     

     それは、学会や法曹界などで話されていることがほとんど外部者にはわからないジャーゴンで満ち溢れているものの、しかしながら、内部者には相互理解可能であるのとよく似ています。まぁ、キリスト教の各教派教団用語も似たようなものだと思いますが、各教派で固有の言語は、ネットミームほど、普遍性を持たないために、多数の教派が入り乱れる調教は団体などでは、相互理解が成立したつもりで当人たちはいても、実際にはかなりの混乱がまま起きていることは、以前にもこの記事で書いた通りでございます。

     

    有意味な仕方で参加するためには、ひとは観客としてであっても、ネットミームを話さなければならないのだ。(中略)ミームが文化的・政治的・言語的により一層特殊的(スペシフィック)なものとなっていく時代には、流暢さは理解力を保証しないのである。このように特殊性が複雑に組み合わさることで、様々な種類の代表政治が生み出されるが、それらは極めてしばしばポストコロニアルの思想やアメリカの人種問題の力学 ーともに普遍的なものと広く誤解されているー に還元されててしまう。(同書 p.67)

     

     

    ところで、Wikipediaによれば、「インターネット・ミーム(Internet meme)とはインターネットを通じて人から人へと、通常は模倣として拡がっていく行動・コンセプト・メディアのことである」とされています。つまり、ある種の行動パターンというか規則性が、インターネット上で再現されているということで、それに合わせてきちんと自己の挙動をコントロールできるかどうか、ということが、書き手としての関与者はもちろん、読み手としての関与者も求められていることになるわけです。これを見ながら、なんだ、教会と同じではないか、と思いました。

     

    教会ミームってありますよね

    教会には、個別の教会ルールと言いますか、個別教会の行動パターンが明らかにあります。同じ教派、あるいは同じ教団の教会でも、教会ごとの固有文化があり、その意味で、固有教派・教団ミームに加え、個別教会ミームが存在するように思うのです。それは、あそこの席は、誰それさんのものであって、そこに勝手に座ってはいけないことになっているとか、聖書と聖歌の設置場所はかくあるべしとか、献金の入れ方、祈りの時の手の合わせ方や、祈りの時の声の出し方、聖書の開き方や、教会で許容されている服装、ヘアスタイルや、アーメンということばの抑揚の付け方や、祈りの手の角度といった所作といったごくごく些末な部分にいたるまで、教会ミームがあるように思います。

     

    ここで、Wangは「このように特殊性が複雑に組み合わさることで、様々な種類の代表政治が生み出されるが、それらは極めてしばしばポストコロニアルの思想やアメリカの人種問題の力学 ーともに普遍的なものと広く誤解されているー に還元されててしまう」と書いていますが、実は、教会ミームは、実にこのスペシフィシティの複雑に組み合わされたものになっていて、その解読には、かなりの実力と経験と知識が要されるように思います。しかし、教会ミームの性質が悪いのは、この教会ミームがネットミームがそうであるように、実は不変だと思われていることなのです。

     

    そして、自分の教会以外の教会ミームに出会うと、人は遺伝子レベルで反応してしまい、他の教会ミームを突然おかしいとか、あれは変だとか言って過剰な自己のミームないし遺伝子に対する防衛反応を示して、それが混乱のもとになることがあるのですが、これも、多くの場合、他のミームの挙動を知らないという側面と、ミームがそこまで普遍性を持っていない、という理解の欠落であることに由来するようにも思います。教会ミームの場合は、人数が少ないのもあるので問題はリアルな場では顕在化しにくいように思いますが、ネットの場合は、この個別ミームのわずかな違いが炎上騒ぎにすぐつながる火元になるようです。

     

    とはいえ、プロテスタント諸派は、残念なことですが分離に分離を繰り返してきましたので、それぞれ固有の実に多数のミームが生まれており、また、どのようにしてその個別教会固有のミームが形成されてきたのを知っている人が少ないために、ごくわずかなミームの違いが、個人の行動にずれを生み出し、そのわずかな違いに遺伝子レベルで反応する人が多いような印象があります。特に、福音派と呼ばれる集団で、このミーム間の争いによって、無益で過激な論争が起きるために、プロテスタント派の人々を、時々ネット界隈の人々は、戦闘民族と呼ぶことがあるようです。

     

    まぁ、しかし、こういうミームの防衛機能の発揮は、割と一時的なものかとは思いますが、このような無益で過激な論争が起きるのを避けるためには、ネットエチケットでの回避を図るよりは、個別の教会ミームと自己のミームの特性とその形成の背景を知っておく方が有益だと思います。

     

    そして、他の教会ミームを叩いて悦に入るよりは、それぞれのミームの由来をもうちょっときちんと遺伝子レベルで解析するという努力を教会関係者には、求めたいように思います。

     

     

    次回へと続く

     


     

     

     

     

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    コメント:内容的には、ふるさも感じるけれども、分析の方向は概ね妥当だと思います。

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