2018年6月のアクセス記録
皆様、いつものようにこれまでのご清覧感謝申し上げます。そして、さて、いつものようにこれまでの記録の要約と、若干抜け落ちた時期がございますが、これまでのアクセス記録のご紹介と参りましょう。
5月は、いろいろ緊急公開系の記事も多かったので、17,591アクセス、一日あたり567.5 アクセスでしたが、6月も、かなりアクセスいただきました。ご清覧頂いた方、ありがとうございます。
2014年第2四半期(4〜6月) 58171アクセス(639.2)
2014年第3四半期(7〜9月) 39349アクセス(479.9)
2014年第4四半期(10〜12月) 42559アクセス(462.6)
2015年第1四半期(1〜3月) 48073アクセス(534.1)
2015年第2四半期(4〜6月) 48073アクセス(631.7)
2015年第3四半期(7〜9月) 59999アクセス(651.0)
2015年第4四半期(10〜12月) 87926アクセス(955.7)
2016年第1四半期(1〜3月) 61902アクセス(687.8)
2016年第2四半期(4〜6月) 66709アクセス(733.1)
2016年第3四半期(7〜9月) 65916アクセス(716.5)
2016年第4四半期(10〜12月) 76394アクセス(830.4)
2017年第1四半期(1〜3月) 56858アクセス(631.8)
2017年第2四半期(4〜6月) 76117アクセス(836.5)
2017年第3四半期(7〜9月) 55225アクセス(600.3)
2018年4月 8,520アクセス(284.0)
2018年5月 17,591アクセス(567.5)
2018年6月 17,769アクセス(567.5)
6月の単品人気記事ベストファイブは以下の通りです。ご清覧ありがとうございました。
現代の日本の若いキリスト者が教会に行きたくなくなる5つの理由 アクセス数 635
クリスチャンn世代の若者からのお願い(4) 勝手に期待しないで・・・ その4 アクセス数 505
工藤信夫著「暴力と人間」を読んでみた(2) アクセス数 461
クリスチャンn世代の若者からのお願い(1) 勝手に期待しないで・・・ その1 アクセス数 380
クリスチャンn世代の若者からのお願い(3) 勝手に期待しないで・・・ その3 アクセス数 378
ということで、先月は、ロイヤルウェディングで話題になったCurry主教の説教解題した ヘンリー王子とメーガンたんの結婚式での説教を見ながら考えた が、アクセス集中でしたが、今回は、次世代のキリスト教関連が上位に集中という結果になりました。工藤信夫著「暴力と人間」を読んでみた(2) も、基本これからの日本のキリスト教をめぐる問題であるといえ、次の世代のキリスト教問題が、極めて深刻であるという結果を示しているように思います。
また、今月も御清覧いただけると、幸甚でございます。
工藤信夫著「暴力と人間」を読んでみた(3)
さて、京都ユダヤ学会だとか、正教会の講演会だとかのニュース性の高い記事が入れてしまいましたので、後回しになっていました工藤信夫さんの「『暴力と人間』を読んでみたシリーズ」を、また、再開したいと思います。
正統性をめぐる不毛な…
正統性をめぐる議論は、いろいろなところで起きているようです。私が頻繁に出没する街では、瓦せんべい屋さんが何件かあるのですが、亀井堂総本店(元町)、菊水総本店(神戸)、亀井堂総本家(さんちか)と数店舗あり、それぞれ、ご自身が正統であることを暗にお示しのご様子です。
亀井堂総本店の瓦せんべい
菊水総本店の瓦せんべい
亀井堂総本家の瓦せんべい
あるいは、記憶に新しい範囲では、京八つ橋をめぐる正統性の論争がございました。以下の動画をご参考ください。
八つ橋の正統性をめぐる論争
“宗教と言えばまず”正統性をめぐる”分裂・分派”がつきものであるし、キリスト者の集まりといえども、人が集まればイエスの弟子たちが「我々の中でだれが一番偉いのだろうか」という品定めに走ったように”優越を競う争い”が上座を占めてしまうのではないだろうか。つまり、和解、和合、平和のために持たれた集まりがいつしか離散、苦々しい分裂の集まりと化すのである。(工藤信夫著 『暴力と人間』p.27)
キリスト教は、東西分裂、大シスマ 以来、離合、分裂を繰り返してきました。胎児の細胞分裂はものすごいといわれておりますが、それ並みにすごいかもしれない、と思っております。特にプロテスタントは、どうなっているか、ほぼわからない程細分化しており、もはや全体像をつかむのは無理なのではないか、と思うほどでございます。先日、チャペルで説教の場面で、司祭が持ってきていました、以下の樹形図をご覧いただいたらお分かりいただけるかと思いますが、枝先のほうに行けば行くほど、ものすごい枝毛のように分割、細分化が進んでいるかのようでございます。
前にもこの漫画を紹介いたしましたが、イエス様にしてみたら、こんな感じかもしれません。
教会の分裂、並立を揶揄した漫画
この前、正教会の講演会で言及されておりましたホミィヤコフ Alexei Khomyakov (1804-1860) という人の教会の表現の趣旨は面白いと思います。
カトリック教会には、一致はあるけれども、ぎちぎちに縛られており、自由と多様性がないこと、逆に、プロテスタント教会は、多様性はあるけれども、一致を犠牲にしている、しかし、正教会には、多様性も一致もあるとはいうものの、実際の教会は、それをボロボロにしている
この前のKDK神学会は、カトリックの司祭の方をお招きしてカトリック教会の教会暦とリタジーの概念をめぐるお話でしたのですが、そこに来ておられた正教会の関係者の方が、正教会では、「うちの教会」というと、ハリストス正教会だけでなく、コプト正教会もシリア正教会も、ジョージア正教会も全部含めて、うちの教会という意識はあるけれども、プロテスタントの皆さんのお話を聞いていると、「うちの教会」というと、地域に建物として立っている一つの教会堂という建物の中で行われている教会だけみたいですねぇ、と言われたのが印象的であった。それほど、分裂し、反発しあい、必要以上に、けなし合い、違いを強調しあっているのがプロテスタント教会の姿ではないでしょうか。
あなたとは違うんですと言いながら。たがいに愛を示し合い、祈り合うのではなく。
福田元首相の官房長官時代の名言「あなたとは違うんです」トレーナー
こういう不毛なことを繰り返してきたプロテスタントの世界に疲れて、今は、アングリカン・コミュニオンの教会に移りつつあるののですが、そこでは、教会同士が互いに祈り合う(実際に礼拝の時間の度に祈り合っている)教会の姿って、いいなぁ、と思います。普段はあんまり関係もしていない教会のためにも、やはり祈っています。そして、すべてのキリスト教会のためにも…。
とはいえ、正教会でも聖公会でも、カトリックでも全く問題がないわけではありません。しかし、問題があってもなお、包摂の精神を持ち合わせているところが、いいなぁ、と思います。先日
伝統教派にあって、プロテスタントにないもの:祝祭と斎と本格的な司教制
プロテスタントにあって、伝統教派にないもの:ながーーい説教と単立教会大事だと思った初夏のゆふぐれ
何を捨て、何を忘れたか、よーく考えたい
新約聖書の本質は unity and diversity。教会とは、聖書の本質が映し出されたものと思います。
どうしてこうも自分たちの説教は長いのか・・・。
もしかしたら、その理由のひとつは
「隣人愛によって神の国のしるしをあわらすこと」
というシンプルな「神学」と「実践」の欠如かなぁと。
その置き換え行動としてみことばをこねくり回している。
なんとか日本人の実存に訴えかけるようとして。
それが過度に内省的になったり、感情に訴えたりになったり・・・。
統教派にあって、プロテスタントにないもの:「落ち着き」
プロテスタントにあって、伝統教派にないもの:「分派」
牧会事例研究会のレポートの引用から
さてさて、次は、牧会事例研究会のある若い牧師の方からのレポートの工藤先生の引用から、ご紹介してみようと思います。この会には、平信徒のくせに、ここ数年ほぼ出ておりますので、以下の引用を読んだとき、このレポートを書いた牧師先生の声まで聞こえそうで、電車の中で、吹き出しそうになってしまいました。おそらくこのレポートは、マイルド・ペンテコステ派(とミーちゃんはーちゃんが勝手に呼んでいる)のSっち先輩がお書きになったものだと思います。
そんなことは、どうでもよくて、工藤信夫さんが引用されたレポートの文章のさらにその一部を引用してみたいと思います。しかし、この手法は、工藤信夫さんと、ミーちゃんはーちゃんだけかと思ったら、ユダヤ思想のコーエンさんもどうも、他人の文章のコラ作品で哲学やっていた疑惑が、この間の京都ユダヤ思想学会で出ていたので、へぇぇ〜〜〜と思ってしまいました。
コーエンたん(20世紀初頭のドイツ・ユダヤ哲学の偉人、らしい)
では、引用部分に移ります。
良い結果に関して神に感謝することは間違いではないと思いますが、良い結果をもって自分の正義と神の正義を混同してしまうなら、それは「力」を礼賛する世的な価値観ではないかとも思うのです。
無意識のうちに、神の祝福を自分の力とし、自己の礼賛としてしまい、また無意識のうちにそれを追い求めてしまう。
そしていつの間にか、人から評価され称賛されるような見える結果だけを神の祝福の証明のように思いこみ、自己の力の証明としてしまう。
そのような感性が教会の中に忍び込んでおり、「キリストの受肉」という最も深遠なキリスト教の真理が「力」を崇拝することで、安易で無意味なものとなっているのです。(同書 p.36)
特に、このレポートの引用の中で気になったのが、「良い結果をもって自分の正義と神の正義を混同してしまう」や「人から評価され称賛されるような見える結果だけを神の祝福の証明のように思いこみ」という表現だと思います。これは、日本の教会の中では、結構あるのではないだろうか、と思いました。結果が悪いと、自分自身や悪いことが起きた人の「信仰が足らなかった」とか、「祈りが足らなかった」とか、結構こういう言葉が飛び交う傾向はないでしょうか。そして、結果として、悪い結果の中にあっても、Lord have mercy, Christ have mercy, Lord have mercyと、神とともにそれを受け止めるタイプの信仰を持ちえないプロテスタント系の教会は少数派となっている、のではないかと思います。Facebook上での言葉のいろいろな方のやり取りを見ておりますと。少数派だと嬉しいのですが…どうもそうとは思えないのがねぇ、ちょっと残念。
「人から評価され称賛されるような見える結果だけを神の祝福の証明のように思いこみ」ということに関しては、非常に印象深い経験が個人的にはあります。このタイプの主張をされる方は、他人が「人から評価され称賛されるような見える結果」を上げているときには、「それはその人がたまたま運がよかったからに過ぎない」といい、ご自身の「人から評価され称賛されるような見える結果」をことさらに過大に重要なものとしてお話されるように思います。そして、他人が「人から評価され称賛されるような見える結果」を、目前で上げそうになると、そそくさと話題を変えたり、その場からいなくなったり、という経験をこの数年の教会放浪の中で、少なからぬ教会で何度か体験しました。おかげで、こういう対応に対する耐性は出てきましたが…。なんと、お山の大将的なというのか、貧乏くさいというのか、貧相だなぁ、もっと本当の意味で、自信というのか、余裕をお持ちになればいいのに…とは思いましたが。
メサイアコンプレックスの空恐ろしさ
メサイア・コンプレックスに罹患している人の恐ろしさというのは、かなりのものがあると思います。このタイプのメサイア・コンプレックスに罹患しておられる方は、直接そうはおっしゃらないものの、「自分自身が正しい」、「善意からしているのだから、結果も当然よくなければいけない」とか、もうほとんどむちゃくちゃな世界ではないか、と思います。ご本人は、「自分自身が(絶対的に)正しい」 と思い込んでおられるので、お諫めすることや、反論をしようものなら、「口ごたえをしている」と怒られたり、ご注進する人が火の粉をかぶるどころか、火だるまになると言う、惨事を迎えかねないので、こういうメサイア・コンプレックスの罹患者の方に不用意に近づくのは、野暮にしかならないように思います。
まさに、こういうのは、「触らぬ神に祟りなし」ということで、物理的に、時間的に、精神的に厳然たる境界線を引き、一定以上の距離をとって安全確保をするのが、何よりなのではないか、と思います。たまたま、職場やら、教会やらで、身近にこういう人が三人いて、それも皆さん、声の大きい(物理学上の事実として声が大きい方もお二人おられましたが、実際には、心理的に声の大きい)存在の人が二人いた時期がございまして、おかげさまで抑うつ状態になってしまって、デパスを毎日、という時期が数年前に起きたことがございます。確かに、今思い返しても、ろくでもない体験でございました。
皆様も、「ご安全に」
このメサイア・コンプレックスに関連して、援助者をめぐる問題について、次のように工藤信夫さんは書いておられました。
トゥルニエが指摘するようにそれが善意からであっても、人間は自分が何かできると思い込むと、力関係は一変することに容易に気が付けなかった。
つまり人は自らが”援助者たらんとする”とき、そのりきみや介入が侵害、侵略的となって人の心を犯す危険を有するのである。
だから医療・教育・福祉そして牧会者が良かれと思ってことをなすとき、その援助が加害者となる危険性は十分存在する。(同書 p.42)
この部分では、「人は自らが”援助者たらんとする”とき、そのりきみや介入が侵害、侵略的となって人の心を犯す」ということは、もう少し認識されてもいいのかもしれません。このあたり、伝統教派では、ゴミだらけの部分があるとはいえ、2000年近い長い伝統があるので、このあたりのことへの対応は、司祭教育の現場や司祭への監督というか、霊的指導の中で取り扱うノウハをがかなりお持ちのように思います。
ところが、粗製乱造とは申し上げませんが、牧師の皆さんを促成教育しているようなプロテスタントの一部では、このあたりのことの認識が薄いため、現場に出てから、不用意に大問題を起こす牧師の方がおられるのを時々、見聞きします。プロテスタントでは主教制をとらないため、単立教会が多く、ある牧師が問題を起こしても、それを抑止するための方策は、ほとんどなく、完全にブレーキが利かないまま、大事故を起こし、大惨事につながるというケースも少なくないように思います。そして、その結果、その後片付けに多数の関係者が駆り出されるという悲惨な現状が待っているように思います。学校で他の先生の担任のクラスに同僚の先生が口出ししにくいように、教会で他の牧師の先生が牧会しておられる教会のことには、他の牧師先生はどうも口出ししにくいもののようです。こうなると、教会内での暴走が止まりにくいことになるのではないか、と思います。
このあたりについては、工藤信夫さんは、本書の後半でも書いておられますので、また、そのあたりをご紹介する際に、もう少し詳しく論考を深めたい、と思います。
次回へと続く
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