工藤信夫著「暴力と人間」を読んでみた(2)
いよいよ、今日から「暴力と人間」の本論の第1章 ”『暴力と人間―強さを求める人間の心理』について”からご紹介をしてみたい、と思います。まず冒頭で、工藤信夫さんが過去の著作を書かれたときの背景とそのときに見えていなかったものについて触れておられる部分から引用して始めましょう。
教会の側の人間理解の欠け
これまでの多くの日本の教会は、宣教地としての教会の側面が強い教会であったといえようか、と思います。このため、信徒の増加がその宣教活動に関与させられるだけではなく、教会活動の主体が信徒の成熟に焦点を当てたものというよりは、どちらかといって、一人でも多く、信者さんを増やそうというタイプの伝道活動、あるいは、アメリカで流行していたあるいは、19世紀主流であった大衆動員型の伝道活動に倣った、伝道活動を中心とした教会活動に熱心に(もう少しいうと、必死で、あるいは、決死の覚悟で)、いろいろなタイプの活動に取り組んでこられた教会が多いのではないか、と思います。
その結果、日本の教会に何が残ったのでしょうか。暴論であることとは、十分存じ上げておりますが、日本の教会に残ったのは、教会のイベントに疲弊した信徒と、いつの間にかひっそりと、ぱったりと教会に姿を見せなくなった数多くの教会員の教会籍、あるいは、3年で教会を卒業する数多くの新来会者(その多くは、簿外会員)のうっすらとした記憶ではないでしょうか。その意味で、今、教会に残っている人は、教会内でサバイバルした、グリーンベレー(米陸軍特殊部隊)かネイビーシールズ(海軍特殊部隊)、あるいは、パラトルーパー(落下傘部隊隊員)のような精鋭部隊の隊員のようなガチ勢の信徒さんが多いのではないでしょうか。
グリーンベレーの皆さん
なぜ、こんなことが起きるのでしょうか。そのことに関して工藤さんは次のように書いておられます。
私がそこ(ミハ氏註:『牧会事例研究』以降の一連の著作)で行きついた結論の一つは、これまでのキリスト教は伝道や教義には熱心であっても、その宣教の対象とする人々の人間理解には何か決定的に欠けたものがあるのではないかという問題意識であり、もう一つはこれからこの書で私が明らかにしようとする宗教者の間にはたらく暴力、換言すれば、宣教伝道という名のもとになされる、信徒の教化、管理、監督、支配、私物化というテーマであった。もちろん30代の私は、そういう心理機制がそれほど重きをなすなどとは考えていなかった。(工藤信夫著『暴力と人間』 pp. 19-20)
まず、「これまでのキリスト教は伝道や教義には熱心であっても、その宣教の対象とする人々の人間理解には何か決定的に欠けたものがある」ということが指摘されています。これは、プロテスタント教会の少なからぬ部分に当てはまるのではないか、と思います。
確かに、多くのプロテスタント教会は、伝道や教義(個人的に言わせてもらえば先鋭化と護教(と呼ばれる護教義)にはきわめて熱心であることは、論を待たないことは確かです。
膨大な神学書(それも日本では売れないので、めちゃくちゃ高価)が数多く出版され、プロテスタントのグループごとに出版社が微妙に群雄割拠(いのちことば社系、キリスト新聞社、新教出版社、教団出版局、ドンボスコ社、女子パウロ会、サン・パウロ、今はなき聖公会出版、伝道出版社・・・)し、ネットメディアにしても、クリスチャニティ・トゥデイと混乱しそうな、クリスチャン・トゥデイ、テニス選手と間違いそうなクリスチャン・プレス、キリスト新聞Web版、クリスチャン新聞Web版、・・・と枚挙に暇がない・・・状態でございます。
日本のキリスト教のメディア状況
まぁ、メディアの乱立は、基本情報の多様性が確保されているという意味で、キリスト教関係でネットに転がっている質的向上につながる可能性があるので、基本的には歓迎だとは思っています。みんながちょっとずつ貢献しながら豊かにしていこうというのが、インターネットの世界ですから。HTTPプロトコル(Webのシステムの原型)の開発者のTim Berners Leeの以下の講演でも、彼は明確にそのことを主張しています。
Tim Berners LeeのTEDでの講演 日本語字幕を見たい方は、こちらのリンク https://www.ted.com/talks/tim_berners_lee_on_the_next_web?language=ja からどうぞ
しかしながら、日本のキリスト教ネットメディアの現状は、多少独自性(あるいは偏り、例えば、クリスチャン新聞ウェブ版にはカトリック教会関連の記事は出ないとか・・・)があることは認めないといけませんが、どこネットニュースメディアを見ても、日本の全国紙(朝日、毎日、読売、東京(中日)・・・)がそうであるのと同様に、ほとんど深みのない同じような浅い記事ばかりが並んでいる金太郎飴状態なのがつまらないなぁ、と思っています。
教義の先鋭化と護教精神…『戦闘民族』と呼ばれるキリスト教徒
教義の先鋭化、護教というよりは護教義というのは、かなりあるように思います。特に、あるプロテスタント系のキリスト教のグループの皆さんの聖書理解の体系に軽々しくそれはどんなもんなんでしょうねぇ、個人的には違う考えを持っているのですが、とかちょっこしでも申し上げようとすると、ものすごい剣幕で食ってかかられたり、伝統教派のことを取り上げてお話したりすると、それはキリスト教ではないものであるか如き言説(ひどい場合は悪魔の手先)のような勢いで苦情を申し立てられる、ということは、ときどき、経験するところではあるように思います。
このあたりが、あるタイプのプロテスタントの皆様に対して、ネット利用者の界隈で、やや揶揄的にキリスト教関係アカウントの皆様のことを「戦闘民族」と呼ぶあたりの背景となっているのではないかなぁ、と思います。実に先鋭化した護教的な言辞の苛烈なやり取り(いわゆる炎上現象)などが、キリスト教をめぐるネット言論の界隈では時々見られます。残念なことですが。
とはいえ、それは現代に始まったことではなく、ネットが始まるはるか以前の過去のキリスト教の歴史を振り返ってみますと、特にプロテスタント系統の教会群において、その戦闘民族が争いあった結果、下の図に示すように、キリスト教には多様な種類のキリスト教会のグループが並存するということになっているように思います。
http://natebostian.blogspot.com/2014/12/christianity-in-two-hours-or-less.html より
教会にとっての宣教の対象になったときに、「その宣教の対象とする人々の人間理解には何か決定的に欠けたものがある」というのはキリスト教会会員でない教会に飛び込みでいったときには、新しい来会者は、それを体験的に経験されることが多いのではないかなぁ、と思います。
実際、この数年間、正教会、カトリック教会、聖公会、日本基督教団、バプティスト(4種類)、改革派系(2系統)、ウェスレヤン・メソディスト(2系統)、日本イエス・キリスト教団、外資系ペンテコステ教会、キリストの教会、メノナイト・ブレズレン・・・・といろいろ教会めぐりをしてきましたが、「名前は何か、どこに住んでいるのか、どうしてこの教会に来たのか、どんな理由で来たのか、どこから来たのか」と結構な教会で、牧師先生や、信徒の皆さんから尋問というほどではないですが、事情聴取をうけました。
静かにちょっと礼拝に出たいと思っても、礼拝に出た後、このような事情聴取の嵐が待ち構えていることを考えると、信徒であっても、二の足を踏んでしまう部分はあるかもしれません。つまり、教会にとって「宣教の対象」となった瞬間に、結構上から目線で見られると申しますか、あたかも自分自身が人間でないかのように、人間性を形成しているものが剥ぎ取られ、伝道の対象化、伝道されるべきかわいそうな人扱い、宣教のオブジェクト化するといいますか、八百屋の店頭に並んだかぼちゃかジャガイモ状態になってしまう感覚を何回も持ちました。プログラマもしますので、基本的にプログラム作成業務におけるオブジェクト化は歓迎すべきことなのですが(そもそも、プログラムのソースコードは人間がつくりますが、人間ではないので)、人間のオブジェクト化っていうのは、本当にどうなんだろうといつも思います。
https://www.journaldev.com/12496/oops-concepts-java-example から
つまり、さまざまで複雑な属性を持った多様な側面を持つ「人間」であるはずの一人の人物が、結果的に伝道の「対象」になってしまっているのではないか、と思うのです。
工藤さんがこの本で扱おうとする「宗教者の間にはたらく暴力、換言すれば、宣教伝道という名のもとになされる、信徒の教化、管理、監督、支配、私物化というテーマ」の問題ですが、これは、カルト化した教会だけの問題ではありません。カルト化しているとまでいえないような教会でも、信仰のためにというよりは、ある教会のために、あるいはある牧師のために、その人の人生を食いつぶされてしまっているというような事例が時々あるのではないでしょうか。
もちろん、牧師先生も1年365日24時間体制とまではいかないかもしれませんが、お忙しいことは確かです。だからといって、信徒を手近な労働力として利用したりといった、収奪行為がおこなわれてもいいということにはならないように思うのです。
この辺の具体例については、このブログでご紹介しているI do not know who I am.というブログで「キマジメ君のクリスチャン生活」という一連の記事で、架空教会と架空の人物ではあるとは言いながら、30数年間キリスト教界界隈をふらふらしてきた私にとっては、「あるある」だなぁ事例がたくさん紹介されています。
このあたりの問題は、クリスチャンn世(nは2以上の自然数)はいろいろご幼少のみぎりから、こういう「宣教伝道という名のもとになされる、信徒の教化、管理、監督、支配、私物化というテーマ」の事例を身近に見聞きしておられることが多いので、「そういう心理機制がそれほど重きをなす」ということを日常的な教会生活での経験によって、十分経験しておられる方が多いように思います。その意味で、工藤先生は、「お幸せな信仰生活・教会生活を30歳代まではお過ごしになられたのだろうなぁ」という素朴な感想を持ちました。
表面化しにくい教会内暴力の問題
家庭内暴力ならぬ、教会内暴力(それは物理的暴力だけでなく、心理的な威圧・・・)あるいは、教会の暴力など、さまざまなかたちのものがあると思います。多くの教会でこのようなことはないと信じたいのですが、いろいろなキリスト教会をふらふらしていたり、ネットで、よくない教会に当たりたくないとGoogleで検索していたり、牧師先生方の集まりに顔を出していたりすると、結構な情報やサイトにであいます。マスコミやキリスト教メディアでは取り上げられるまでにいたらないものを合わせて考えると、信じたくないほどの教会が問題を内部に抱えているように思います。
この教会内暴力の問題について、工藤信夫さんは次のように書いておられます。
もしかしたら、この暴力の問題は人間の、そしてまた宗教者の根本的な問題ではないかと思い始めたのである。
ところが、現実の私たちは自分自身が信仰の破船にあうまでは、容易にこのテーマを直視しようなどとは思わない。そして、宗教は平和をもたらし、信仰者は鳩のように素直で善良な民であると思いやすいのである。
(同書 pp.23-24)
個人的に、カルト化した教会で悲惨な目に合われた方を何人か存じ上げているので、こういう信仰の破船にお会いになられた方は、教会をかろうじて離れることが、幸いにしてできた段階の状態としては、精神的にも、肉体的にも、霊的にもぼろぼろになっておられることが多いようですので、このような教会内暴力の問題を直視することすら困難な状態であることが多いのではないか、と思うのです。
そもそも、この問題は重たく、そして厳しい問題ですので、容易に取り組むことなどは、そもそも、信仰者レベルでは、無理な問題なのではないかと思うのです。そして、被害にあった方は、教会をかろうじて一時的に外れることができたとしても、元々居られた教会からは、「悪霊にとりつかれた」とか「悪魔の手先に下った」とかあしざまに言われることが多いようです。それだけでも、個人としては気分的に滅入ることの連続になります。
悪は教会内でも起きます…問題は、解決方法かも
平和を語る宗教者が、平和をもたらさず、害悪をもたらすなどとは、倫理を語るキリスト教の世界ではありえないものと思われてきましたが、この10年余りのキリスト教界隈の不幸な出来事などをみていると、案外普遍的な現象としておきているのではないか、とは思うのです。そんなことを考えていると、あるところでお知り合いになった、デーさんという方の次のようなツィートが目に留まりました。
あと私がカトリックになったのはカトリックが正しく無謬だからではなくむしろ逆。おそらく最も古く、大きい組織だから凄まじい破壊や間違いを世界史上最も犯してきてだからそのぶん、悪やおぞましさや国家や組織や共同体とか諸々への考察や洞察が深いと感じたから。
このツィートを読みながら、私は、首肯せざるを得ませんでした。今、諸般の事情から、伝統教派の中のチャペルに寄留させていただいておりますが、この伝統教派も過去にさまざまな不幸な事件に関与しました。しかし、歴史の中で、これらの不幸を乗り越えて来ており、現在もなおさまざまな問題を抱えながらも、なんとか乗り越えようとしているようです。そして、確かに、この伝統教派は、過去も乗り越えてきたから、これからも乗り越える知恵はあるかもしれないなぁ、とは思っております。このような今いる伝統教派には、ある種の余裕というのか、問題解決の知恵のシステムがあるようには思うのです。今、個人的に伝統教派に身を寄せている最大の理由は、この辺の問題対応に対する安心感というか問題対応のための仕組みと余裕を持っておられるという部分があるから、ということはあります。
さて、工藤さんの本には、ナウエンの次のような文章の引用がされていました。
今日のように政治的にも宗教的にも不透明感の大きい時代で、もっとも大きな誘惑の一つは、他の人々に力を行使する手段の一つとして信仰を利用することです。そして、神の名を借りて、人間の命令を押し付けることです。(中略)福音を宣べ伝えるためにこうした力が使われると、よき知らせはすぐに悪しきもの、場合によっては最悪の知らせに代わってしまいます。(ナウエン 『わが家への道』p.29からの引用)
このナウエンの指摘は、重たく響きます。カリフォルニア州の歴史を知れば知るほど、福音を伝えるという美名のもと、多くのインディオ(ネイティブ・アメリカン)の数多くの人々の犠牲のもと、サン・ディエゴからサン・フランシスコに至るカリフォルニア・ミッション・システムの教会群が構築されて行きました。西洋の文物や商業などが伝えられたという側面もありますが、結果として、カリフォルニア・ネイティブ・アメリカンの人口は激減することになります。カリフォルニア・ネイティブ・アメリカンにとってみれば、陸続と死に絶えていくことになった人々にとっては、キリスト教は福音ではなく、ナウエンの指摘のように『最悪の知らせ』であった可能性があります。
カリフォルニアミッションの出発点 ミッション・サン・ディエゴ・デ・アルカラ
また、満州に福音を、と言うことで、キリスト教開拓団が日本から派遣されましたが、実態としては、一からの開墾による開拓というよりは、現地の中国人の農地を取り上げたに近い部分もあったと聞いております。他の類例は限りがありません。
なお、この暴力の問題は、ハゥワワース先輩とジャン・ヴァニエ先輩との共著の本でも、論考されております。
メサイア・コンプレックスという陥穽
そして、工藤さんは、キリスト教や、マルクス主義の中にも、メサイア・コンプレックスが潜んでいることをご指摘です。さらに、質が悪いことに、このコンプレックスの背景には、自分だけが真理を知っているはずであり、したがって、自分のすることが正当化できるという思い込みに導かれているため、その自己正当化が、不幸を生み出すように思います。
“メシア・コンプレックス”という言葉は今日さして珍しい言葉ではないので、たいして説明の必要もないだろうが、人の分を超えて神の領域に入り込み、この世界を変革し、救い、また苦しんでいる人々を何とか解放しようとするところに入り込む無意識的な力、すなわちある種の暴力のことである。トゥルニエはマルクスの理想主義にもこの”メシア・コンプレックス” が入り込んでいるというが、個人でも集団でも”自分こそが真理を持っているのだ”と確信するや否やこの罠にはまってしまうのである。(同書 p.26)
確かに、思ってみれば、このメサイア・コンプレックスの結果、多くの悲劇が起こされてきました。中華人民共和国の紅小兵と文化大革命、クメールルージュ、日本の大日本帝国時代の八紘一宇や大東亜共栄圏思想、これらは、ある種のメサイア・コンプレックスの変奏曲だったように思います。すべてネガティブな効果しかなかったというつもりはありませんが、ポジティブな効果もあった半面、ネガティブな効果は存在したことは確かだと思います。
我が家には、エホバたん(エホバの証人)の皆さんがお届け物を毎週のようにしてくださいます。幸せに暮らすための講演会があるからとか、聖書のお話があるからとか、様々な方法で、お招きしてくださいます。あの方たちの情熱がどこから来るか、というと、案外、このメサイア・コンプレックス、つまり、”自分こそが真理を持っているのだ”という信念からではないか、と思います。あるいは、”自分たちだけが真理を持っており、他はすべて真理ではないのだ”ということになります。どこかの構造に似てないでしょうか。キリスト教のある部分の方たちが、このような考え方に陥っていないでしょうか。
集団メサイア・コンプレックス症候群に
罹患していたかもしれないオウム真理教
そして、結果的には、衆生の救済を目指してポアするという発想にいたっオウム真理教の投手の麻原彰晃さん率いる集団も、ある種このメサイア・コンプレックスに罹患しており、家族や友人たちの反対の声は、無知な衆生の声であり、われら真理を知る者にとっては愚かしく見える、として常識的な声は届かなかったのだと思います。
しかし、これは、オウム真理教だけの問題でしょうか。いえ、違うと思います。本来、真理とは、被造物にすぎない、人が触ることも許されなかった善悪の知識の実なのだと思うのです。しかし、エヴァが蛇から教唆されたとはいえ、エヴァが触り、アダムが触って、それも、取って食べてしまったのです。本来神しか扱うこともできない真理に、人間が手出ししてしまい、そして、軽々に扱うようになったのかもしれません。そして、この神しか扱うことができない領域に、牧師先生のみなならず、クリスチャンが全般に、自分は真理を持っている(本当は単にかすったぐらいの感じで出会っているに過ぎないはずなのですが…)ということで、他人の人生に手出しをし、時に他の方の人生を狂わせたりはしているといったようなことが、起きてはいないでしょうか。
次回へと続く。
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