2018.06.17 Sunday

クリスチャンn世代の若者からのお願い(4) 勝手に期待しないで・・・ その4

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    これまでのまとめ

    これまで、第1回 クリスチャンn世代の若者からのお願い(1) 勝手に期待しないで・・・ その1 では、

     

    日本の教会が、高齢化という意味では、時代の最先端を行っている可能性があること、その中で、適切な見直しをしないと、教会という建物と土地が不良債権化しかねないこと、

     

    第2回 クリスチャンn世代の若者からのお願い(2) 勝手に期待しないで・・・ その2  では、

     

    さらに、そのような環境の中で、ご高齢の信徒さんから若い信徒さんへの期待やご自身が若かりし頃の武勇伝が述べられて、もっと人を連れてこい、と武勇伝交じりで語られかねないこと、かつては、教会に通うことが一種の時代の最先端を行くかのようなライフスタイルであった可能性があること

     

    第3回 クリスチャンn世代の若者からのお願い(3) 勝手に期待しないで・・・ その3 では、

     

    ご高齢の信徒さんの皆さんが若かりし頃がどのような日本であり、その中で、どのような役割を教会が担ったのか、というあたり、音響機器メーカーのパイオニアの前身や教会と讃美歌、外国ということと教会

     

    というお話をしてきました。

     

    本日は、前回触れそびれました、ミッションスクールと呼ばれるキリスト教学校について、お話してみたいと思います。

     

    ミッション・スクールという存在

    第2回の連載では、日本におけるミッション・スクールがその舞台のかなりの部分を占めたNHKの朝ドラ『花子とアン』を触れながら、お話してきました。

     

    日本では、同志社、関西学院大学、青山学院大学といった大学ももちろんですが、女子高等教育機関として、ミッション・スクールは大きな役割を果たしてきました。なぜ、そのようになっているか、と言いますと、1800年代のアメリカのメインラインと呼ばれる主流派のキリスト教の世界では、実は女子高等教育が一種のブームであったようです。確かに、米国の名門女子大学は、この時期に開設されたものが多いです。それがそのまま、日本にも流れ込んでいた感じがします。特に、明治期、大正期ごろまでは田村直臣先輩がお書きになられた『日本の花嫁』事件に見られるように、女性の地位が異様に低く、女性の地位向上をめざして、高等教育機関が、宣教団体(ミッション)からの資金援助(当時の日本は貧乏だったので、海外からの資金は少額でもその効果は絶大)で建てられていきました。各地にある○○女学院という名前の大学は、そのころのものが多いことは確かです。

     

    カトリックのミッション・スクールに関しては、上智大学の川村 信三先生のご研究がございますが、カトリックにおいては、困窮者対策としての教育の系譜に連なる学校と、社会の指導層でなる人々への影響を考えての教育の系譜につながる教育機関とに別れるようでございます。

     

    ヨーロッパの大学の基礎としての神学部と日本の大学

    ミッション・スクールは、ある面、日本のキリスト教伝道の中で、大きな役割を果たしましたし、今も果たしているように思います。とはいえ、一般の学生さんを見ていると、もともとミッションスクールであったことをうかがい知るのはかなり難しい(大変失礼な話で申し訳ないのですが)にもかかわらず、ウェスレー先輩の銅像(誰かを知っている現役学生さんはかなり少ないらしい)青山学院大学の神学部は学生運動の大波の中で、1960年代に廃止となり(現在では東京神学大学に引き継がれている)、関東学院大学の神学部も、同じく1970年代に廃部になり、と神学部が相次いで閉鎖される憂き目にあっています。立教大学も文学研究科にあった組織神学専攻を2009年に募集停止しておられます。神学教育組織が組織として今なお残る我が国の大手ミッションスクールとしては、関西学院大学、同志社大学、西南学院大学くらいになってしまっています。

     

    青山学院大学前のウェスレー先輩像

     

    ヨーロッパの大学は、教会付属施設 → 修道院 → 神学部から出発している大学(最古の大学のスペインのボローニャ大学などが典型的)からすれば、神学を扱わない大学(ウニベルシタス Universityの語源))は、高等教育機関であっても、大学あるいはウニベルシタスとは言えないはずで、神学があって初めて大学というのがヨーロッパ的な伝統での大学の位置づけです。

     

    振り返って、我が国の国立大学では、神学研究をしておられる先生はおられるにせよ、神学部を有しない以上、どこで、どう頑張ってもウニベルシタス 大学とはならないけれども、大学と称されてきました。多くのミッション系大学が、自ら、普遍であり、ウニベルシタスであるための担保であるはずの神学を放棄している(これは、アメリカのハーバード、イェールなどの名門校でも同様の傾向)のは、実に残念だ、と思います。このあたりに関しては、最下部で紹介しております、ハゥワワースの『大学のあり方 諸学の知と神の知 』が大変参考になろうか、と思います。舌鋒というか筆鋒は鋭いですが…

     

    さて、余談は別にしまして、キリスト教を教育ということを手掛かりにして、日本で広めようとするための教育機関がミッションスクールしたわけていったわけですし、物理的に外洋船に乗って、太平洋やインド洋の波頭を超えていかねばならなかった外国へのアクセスの窓口でもありました。その意味で、日本人がアクセス可能な外国への窓口であり、キリスト教の入り口でもあったわけです。

     

    それが証拠に、以下の動画でご紹介いたしますペギー葉山女史の学生時代という歌声喫茶の定番曲(前回の記事でもNHKの取材時に歌っているので一部が収録されている)では、ミッションスクールが背景のメタファーとして用いられています。そして、冒頭部分に教会の鐘楼から慣らされている信徒を集める鐘の音(これが、ムスリム世界になるとアザーンにかわる)と思われる音が用いられています。

     

     

    ペギー葉山の『学生時代』

     

    以上これまでこの連載を含めて3回の連載で紹介してきましたように、今の教会におられる高齢信徒の皆様と今の若いクリスチャンn世代が置かれた環境は根本的に異なるのです。オフピークであれば5万円もあれば、アメリカに渡れ、テレビではCNNが流れ、スマートフォンやタブレットで、HuluとかNetflixでアメリカの動画が見られる時代になりました。

     

    しかし、今教会におられる皆さん方が多く集まられたお若い時代の身近な外国としては、教会やミッションスクール以外には、関東や中国地方西部ではラジオの米軍放送であるFEN放送を上げることができるかもしれません。これらもまた、外国文化への手近な 入口となっていました。また、日本のラジオ放送でのディスクジョッキーのかたちに影響することになりました。

     

    FENのタイトルコール めっちゃ懐かしい

     

    FENなどに影響を受けた小林克也さんのアメリカンポップス紹介番組

     

    身近な別世界へのアクセス手段が増えた社会の中で…

    その意味で、身近な別世界へのアクセスの口が多様化し、若者自体が、いろいろなイベントがあり、海外旅行に外貨持ち出し規制もなく、安価で行けるようになり、バックパッカーとして旅行ができるようになるわ、東京とか関東圏にいれば、海外のアーティストのコンサートなんかにも、かなり自由に参加できるようになる中で、もはや、以前の教会が持っていた外国(ありていに言えば、西ヨーロッパ文化圏と北米文化圏)へのアクセスのとっかかりとしての魅力は相対的に低下していると言わざるを得ませんし、さらに言うと、昔のマジメ君、ヨシコさんたちが理想としていた、形而上的な抽象的理解や、”真理”に関心を持つ人であることの価値が、多元化したポストモダン社会の中で減り、自分の手が届く範囲、スマートフォンを含めて、自分の周り10メートルくらいでアクセスできる範囲の内容のほうが重要になった社会の中で、建物としての教会、あるいは教会イベントの意義は相対的に下がっているように思うのです。

     

    そうなっているとすると、教会で新規来会者を誘うような、呼び寄せ型のイベントをしたとしても、来る人は限られ、それを契機にした伝道というのは、かなり厳しい、ということになります。それに、「お友達を動員してくれ」と言われても、また、そのことを高齢信徒の皆さんから、期待されたとしても、教会のn世代のクリスチャンたちは、ただただ困惑を覚えることしかできない、ということになります。なぜなら、誘ったところで、よほどの魅力(例えば、レディ・ガガのコンサートクラス)がなければ、さそったところで、アテネのギリシア人たちのように「また今度聞くことにしよう」と言われて終わりになる、というのがせいぜいではないでしょうか。

     

     

    The SimpsonsでSpringfieldというシンプソン家の人たちが住む町にレディーガガさまがコンサートした時のエピソードの一部

     

    身近な別世界へのアクセスを利用しては?

    さて、現代の若者は、1960年代の若者に比べ、別世界への入り口をたくさん、自分たちの手の中にあるスマートフォンの中に持っている、ということをお話してきました。

     

    とはいえ、1960年代に若者であった皆さんも、らくらくスマホとかで、すでに、意識しておられる、おられないにかかわらず、インターネットの世界を間接的にご利用になるのが当たり前の時代に現在なっています。

     

    らくらくスマホ https://www.amazon.co.jp/dp/B00B59W152から

     

    そうだとしたら、その身近な別世界へのアクセスの手段を教会の皆さんも利用されてみてはどうでしょうか。それが、ウェブサイトなのか、ツィッターなのか、Facebookなのか、Instagramなのか、他のSNSなのかは知りませんが、「あれは、カインの末らが作ったものだから」とか言って、触らぬ神に祟りなし、で対応するのではなく、逆に、聖四文字なるかた、神からの祝福にしたがって、スマートフォンは神の直接の被造物ではありませんが、被造物である人間が作り出したものを治める(管理する)必要があるのではないでしょうか。このあたりのことをお考えになられたい方には、

     

    【口語訳聖書】 創世記
    1:28 神は彼らを祝福して言われた、「生めよ、ふえよ、地に満ちよ、地を従わせよ。また海の魚と、空の鳥と、地に動くすべての生き物とを治めよ」。

     

    このあたりの、地にあって、被造世界をどう生きるかを考えられたい方には、最下部で紹介しています「シャーローム 神のプロジェクト」などがご参考になるかもしれません。

     

    とはいえ、どうすればいいのか、わからない、という教会もございましょう。自分でできない、できたら安心できる外注先があれば…、安心してください。あります。名古屋の業者さんですが、Bread and Fish(間違っても、英国のB級グルメ Fish and Chips ではない)という教会専門のウェブサイト構築会社があります。この会社は、技術的にも確かです。

     

    英国のB級グルメ Fish and Chips

     

    教会の「若者に活躍してほしい」は、ほとんど口だけ?

    ところで、ここでFacebookのお友達がシェアしておられた東洋経済新報社のブログ記事 地方は結局「若者」を排除して自ら衰退する 〜「若者に活躍してほしい」は、ほとんど口だけ〜 から、引用してみたいと思います。

    さらに、3つ目は「イノベーション人材」の喪失です。若者が特段の迷惑をかけていないことでさえも、自分たちに理解できないことは、頭ごなしで「ダメだ」「劣化している」と決めつけがちです。匿名性の低い地方においては、そのような圧力によって、新たな芽がつぶされてしまう危険性があります。

    たとえば、北九州市の成人式などはマスコミによって、「変な格好しているヤンキー」くらいに報道されたりして、つぶされそうになったことがあります。しかし、実際には地元でまじめに働く若者たちが何十万円もかけて衣装を作ったり、レンタル衣装を借りて、自分たちの文化として発信しているのです。そもそも、それだけのおカネを持っているということは、しっかりと働き、さらに計画的に預金を積み立てているからこそ、できることです。北九州市の知人によれば最近では「同じような衣装を着て写真を撮りたい」とわざわざ北九州市に来る人さえいるそうです。

    このごろはよく「イノベーション人材を地方へ!」などという話で盛り上がりますが、そもそもイノベーションとは、従来のサービスや構造が、新しいものに置き換わることを意味します。自分たちに理解できない若者文化などを攻撃し、排除してしまっては、イノベーションもへったくれもありません。自分が理解できないことを否定しないことが、地方でイノベーションを起こす第一歩なのです。

    もし、いま挙げたような「3つの人材」を排除していくと、結果として地方には上役の言いなりになる、「年齢こそ若いものの考え方は保守的で硬直的な人たち」が残っていきます。その結果、どうなるかは言うまでもありません。

    これ、教会が抱える問題と全く同じ構造じゃないでしょうかねぇ。

     

    教会も、「若者に活躍してほしい」とか、「君たちに期待しているよ」と言いつつ、年配者から見ると、これまでにない取り組みで、若者のむちゃくちゃにみえるかもしれない行動や方針変更という新しい芽をつぶしまくっているとしたら、若者は、腐ってしまいます。逆に腐ってしまわないとしたら、その若者は、よほどの人格者だと思います。

     

    ところで、教会は、教会にいる若者に「若者に活躍してほしい」とか、「君たちに期待しているよ」と言いつつ、高齢者の期待するやり方で活躍することを暗に期待していないでしょうか。若者を自分たちが引いたレールの上での自由のみを認めた形での活躍、あるいは、若者の自由を完全に奪ったうえでの活躍、のような形で。

     

    こうすることは、手足を太いマニラ麻のロープでがちがちに縛って、「ほら、自由に泳いでご覧」というようなものです。荒くれ物の多い、アメリカ海兵隊US Marine Corps(海軍の一部でありながら、実体的にはかなり独立した存在 )よりも、すごいとされるNavy Sealsのような皆さんでない限り、おぼれ死んでしまうんじゃないでしょうか。

     

    Navy Sealsの皆さん

     

    宗教改革を起こしたルターは、多分変な若者だったんでしょう。であるからこそ、宗教改革は生まれまたのではないでしょうか。ウェスレーブラザーズ(ジョンと、チャールズ)も、とっても変な若者だったと思います。その変な若者がいて、勢いでムーブメントを起こしたから、今のプロテスタント教会のかなりの部分があるのではないでしょうか。もし、私たちがプロテスタント(プロテスタティオ)だというなら、これらの飛び跳ねた若者の後継者のハズなわけです。

     

    こうして、キリスト教は、この2000年間変革し続けてきました。カトリックも変革し続けてきました。アッシジのフランシスコ(現教皇の名前の由来)は教会制度を変革しました。イエズス会を始めたイグナチオ・デ・ロヨラや、フランシスコ・ザビエル(小学生男子の人気者)も、イエズス会を始めた当時は若者でした。そして、フランシスコ・ザビエル(スペイン風に読むと、ハビエル)は日本に伝道し、ジパングという国に、聖書を伝えました。そして、カトリック教会制度の変革(まともにラテン語を読めない司祭が多かった時代に、きちんとラテン語を扱える司祭を増やすといった意味での改革)に貢献しました。様々な人々たちが、教会を変革し続けてきたのです。プロテスタント、カトリック問わず。

     

    イグナチオ・デ・ロヨラ

    小学生の歴史教科書のアイドル ザビエル君(ハビエル)

     

    いえ、あえて言いましょう。誤解を恐れずに。

     

    ナザレのイエスも、ユダヤ社会の、田舎もん(ガリラヤ、あるいはナザレ)扱いを受けた、変な”にーちゃん”だったんです。当時の祭司長、律法学者にとっては。違うでしょうか。イエスは、ある面、ガリラヤの鉄砲玉、あるいは、薄い紙で作った、急ごしらえの将棋の歩のような存在です(角でも、飛車でもなく…本当は王か玉なのに)。王であり、ダビデの末であり、ホザナと声を限りに人々が叫ぶべき方であったにもかかわらず、何も持たず、権力者の誰からもまともに相手にされなくとも、ひたすら、吹けば飛ぶような将棋の歩のコマのように、一歩一歩、自らの足でユダヤを歩き回り、ただ、ひたすら神の国が近づいた、と説いた、という意味では変な”にーちゃん”だったように思います。

     

     

    エチオピア正教のホサナ

     

    コプト正教会のホサナ(歌詞は英語だけど、音楽は完全にアラビア風)

     

    ブルガリア正教会のホサナ

     

    ハングルでの現代風ホサナ(なぜかスペイン語字幕)

     

    タガログ語でのホサナ(子供向け)

    もし、私たちが、イエスの弟子であるというのなら、将棋の駒でいう歩みたいなイエスの弟子でもあるのではないでしょうか。

     

    とすれば、現代の鉄砲玉のような若者を腐らせるのではなく、彼らのやることをぬるく見守る知恵と彼らのやることを受け入れる度量とキリスト者の愛を高齢信徒の皆さんには余るところなく示してほしいなぁ、と思いました。

     

    そうでなければ、地方の地域社会の未来がどんより暗いのと同じように、教会の未来もどんより暗いものに意図せずしているかもしれないなぁ、と思います。

     

    鉄砲玉のような若者の皆様へのお願い

    若い時は、急進的になったり、思い通りに教会や教界が変わらないことにイライラするかもしれません。しかし、忍耐が必要です。こないだ、同志社大学で講演したハゥワワースとジャン・ヴァニエによる共著の本『暴力の世界で柔和に生きる』(最下部でご紹介)という書籍の中でハゥワワース先輩が書いておられた部分にある記述がありました。それは、ハゥワワース先輩が参加しておられた教会での出来事です。

     

    それは、ハゥワワース先輩が依然参加しておられた教会が聖餐を毎週するまでの過程のことがちょっこし書いてありました。その教会では、毎週の聖餐実施となるまでに、9年かけたそうです。本来、もっとも大切な教会の中心であるべき聖餐をごく当たり前の姿に戻すのに、9年という歳月がかかる。

     

    これが教会の実情です。その意味で、忍耐と、愛における受容が大切だ、と思うのです。

     

    時間はかかるでしょう。でも、待ちましょう。慌てずに。焦らずに。

     

    期待する対象が違うかも

    個人的には、高齢信徒の皆さんが望みをかけ、期待しておられる対象が間違っているのではないか、と思います。我々が期待を置くべきものは、全きもののはず、ではないでしょうか。それを全きものではありえないはずの人間に、そして、全きものであるはずのない若者に、期待するのはどうなんでしょうか、とは思うのです。

     

    聖書の中にこのようにあります。

     

    【口語訳聖書】コリント 第二の手紙
    12:20 わたしは、こんな心配をしている。わたしが行ってみると、もしかしたら、あなたがたがわたしの願っているような者ではなく、わたしも、あなたがたの願っているような者でないことになりはすまいか。

     

     

    そして

     

    【口語訳聖書】 コリント 第1の手紙
     13:8 愛はいつまでも絶えることがない。しかし、預言はすたれ、異言はやみ、知識はすたれるであろう。
     13:9 なぜなら、わたしたちの知るところは一部分であり、預言するところも一部分にすぎない。
     13:10 全きものが来る時には、部分的なものはすたれる。

     

    いったんこのシリーズは一時休憩をします。次のシリーズは、「私の将来について、祈らないでほしい編」です。

     

     

     

     

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    コメント:翻訳に課題のある章がいくつか見られるが、ハゥワワースの主張はごもっとも。

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    ベルンハルト・オット
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    (2017-09-10)
    コメント:地にあって、被造世界をどう生きるかを考えられたい方には、大変おすすめの1冊です。

    評価:
    価格: ¥ 1,728
    ショップ: 楽天ブックス
    コメント:薄いけど、大変大事なことが書いてある本

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